第二百二十話 毛利の決断
官兵衛が寺を出た後も、四人はしばらく誰も口を開かなかった。
畳の上には、中国地方を描いた地図が広げられたままになっている。
その中央よりやや西。
備後。
先ほどまで官兵衛の指が置かれていた土地を、元春は険しい表情で見つめていた。
やがて、その拳が膝の上で固く握られる。
「俺は反対だ」
最初に沈黙を破ったのは、やはり元春だった。
「備後は渡せぬ」
輝元も隆景も、すぐには答えない。
恵瓊だけが元春を見た。
「理由を聞いても?」
「聞く必要があるのか」
元春の声には、先ほど官兵衛と向き合っていた時以上の苛立ちが滲んでいた。
「昨日一度敗れた。それだけで国を一つ差し出せという話を認めれば、毛利はこれから何かあるたびに領地を削られる。兵を出せと言われれば兵を出し、東へ軍を動かすにも知らせろ。そのうえ備後まで取られて、何が同盟だ」
誰も元春の言葉を否定しなかった。
言っていることは間違っていない。
今回の条件は、明らかに林道家へ有利なものだった。
「それに」
元春の手が地図の上へ伸びる。
「備後を林道に渡せば、奴らはここまで来る」
指先が備後を強く叩いた。
「次に戦になれば、林道の軍は最初から毛利のすぐ近くにいることになる。官兵衛は九州への足場だと言ったが、それだけではあるまい」
「毛利への押さえでもあるでしょうな」
恵瓊が答える。
元春が睨むように振り返った。
「分かっているなら、なおさら渡せぬだろう」
「分かっているからこそ、考えております」
恵瓊は視線を地図へ戻した。
「官兵衛殿は、それを隠そうともしておりません」
「だから何だ」
「こちらが気づかないと思って条件を出しているのではない、ということです」
元春の眉間に深い皺が寄る。
恵瓊は構わず続けた。
「九州へ進む足場が欲しい。毛利が再び東へ兵を出すことへの備えも欲しい。その両方でしょう。そのうえで、毛利が約定を守る限り、備後より先へは手を出さぬと書状に残すと言っている」
「信じられるか」
「信じるかどうかではありませぬ」
そこで口を挟んだのは隆景だった。
元春が弟を見る。
隆景は地図の備後ではなく、そのさらに東を見ていた。
宇喜多。
播磨。
そして林道家が勢力を伸ばしてきた地域。
「約定を破れば、今度は林道側が悪くなる。それが重要なのです」
「そんなもの、力のある方が破れば終わりだ」
「ならば、どのような約定を結んでも同じでしょう」
元春が黙る。
隆景は兄を責めるような口調ではなかった。
むしろ、自分自身にも言い聞かせるように話していた。
「兄上。私とて備後を渡したくはありません」
「ならば――」
「ですが、渡さないと決めるのであれば、その後を考えなければならない」
隆景の指が東へ動く。
「林道家との戦を続けるのですか?」
部屋が静かになった。
「昨日の戦で兵は減りました。傷ついた者も多い。宇喜多を落とすこともできず、逆に領外まで押し戻された。そのうえ林道側には、まだ信孝様のほとんど消耗していない軍がある」
「こちらにも兵は残っている」
「ええ。ですから、戦えます」
隆景はあっさり認めた。
「戦えますが、勝てるかどうかは別です」
元春の顔が険しくなる。
「隆景」
「兄上が弱いと言っているのではありません」
隆景は兄の目を見た。
「昨日も、あと少し状況が違えば結果は変わったかもしれない。しかし、次も景継殿が同じように退路を残すとは限りませぬ」
その言葉で、元春も黙った。
昨日、西への道だけは残された。
もし、あの道まで信孝の新手で塞がれていたら。
毛利勢は死に物狂いで戦っただろう。
林道側にも大きな損害を与えたはずだ。
だが、その代わりに何人が生きて帰れたのか。
それを正確に答えられる者はいなかった。
輝元が重い息を吐いた。
「官兵衛は、それを分かっていて話したのだろうな」
「間違いないでしょう」
恵瓊が答える。
「我らが昨日のことを忘れぬうちに、あの話をしたかったのでしょう」
「気に入らんな」
元春が吐き捨てる。
恵瓊は何も返さなかった。
官兵衛を気に入るかどうかは、この際どうでもいい。
重要なのは、官兵衛が突きつけてきた条件を受けた時と拒んだ時、どちらが毛利にとってより多くを残せるのかだった。
しばらくして、輝元が恵瓊へ尋ねた。
「お前はどう見る」
「厳しい条件です」
恵瓊は即答した。
「毛利にとって屈辱的でもあります。備後まで渡すとなれば、家中から強い反発も出るでしょう」
「ならば断るべきか」
「それも簡単には申せません」
恵瓊は地図の西へ視線を動かした。
「林道家は九州へ進むと言いました」
「それがどうした」
元春が尋ねる。
「我らにとっても、悪い話ばかりではないということです」
元春が眉を寄せる。
恵瓊は九州を指した。
「東で林道家との争いを終わらせることができれば、こちらも東へ大軍を置き続ける必要がなくなります。そして九州で林道家に協力し、働きに応じて恩賞を得られるのであれば――」
「失ったものを西で取り返せというのか」
「可能性の話です」
「林道のために戦ってか」
「毛利のために、です」
恵瓊の声が少しだけ強くなった。
「ここを間違えてはいけませぬ。林道家に頭を下げるために九州へ行くのではない。林道家が西へ進むというのであれば、それを毛利の利益にも使うのです」
元春は何も答えなかった。
その横で隆景が小さく頷く。
「私も、そこは同じ考えだ」
「隆景まで」
「兄上。昨日まで敵だったからといって、明日も敵でいなければならない理由はない」
隆景は地図を見ながら続けた。
「毛利は東へ伸びようとして敗れた。ならば、別の道を探すべきです」
「それが九州か」
「少なくとも、林道家ともう一度正面から戦うよりは選択肢が多い」
元春は苦い表情を浮かべた。
納得したわけではない。
それでも、先ほどのように即座に否定することもしなかった。
輝元はそのやり取りを聞きながら、ずっと備後を見ていた。
「……一つ、分からぬ」
三人が輝元を見る。
「なぜ景継殿は、そこまで毛利を残そうとする」
誰もすぐには答えなかった。
輝元は続ける。
「官兵衛の言う通りなら、昨日さらに攻めることもできた。今日も、こちらが条件を拒めば再び戦になるかもしれぬ。それでも最初から毛利を滅ぼす条件ではなく、兵を貸せ、九州で協力せよと言っている」
「利用するためでしょう」
元春が答えた。
「それだけでしょうか」
恵瓊の言葉に、元春が顔を向ける。
「何が言いたい」
「景継殿は昨日、毛利の退路を残しました」
「官兵衛の話を信じるのか」
「退路が空いていたこと自体は、我らも見ています」
それは否定できない。
恵瓊は少し考えてから続けた。
「もちろん、官兵衛殿が今日の交渉に都合よく話している部分はあるでしょう。ですが、景継殿が毛利を徹底して潰すことを選ばなかったのも事実です」
隆景が恵瓊を見る。
「何か考えがあると?」
「分かりませぬ。ただ――」
恵瓊はそこで言葉を止めた。
「少なくとも、毛利を滅ぼすことそのものが目的ではないのでしょう」
輝元は再び黙り込んだ。
景継を信用する必要はない。
官兵衛も信用する必要はない。
だが、相手が何を欲しているのかは考えなければならない。
林道家が欲しいのは備後。
毛利の軍事力。
そして、九州へ進むための協力。
逆に言えば、それを差し出せば毛利そのものは残る。
「……隆景」
「はい」
「この条件を受ければ、毛利は弱くなるか」
難しい問いだった。
隆景はすぐには答えなかった。
「一時的には」
やがて、そう答える。
「備後を失うのです。弱くならないとは申せません」
「その先は?」
「我ら次第でしょう」
隆景は兄と恵瓊を見た後、最後に輝元へ目を向けた。
「東の争いがなくなった時間を使って毛利を立て直す。九州で働き、失った以上のものを得る。林道家と組むことで他家との関係を変える。そのすべてに失敗すれば、ただ備後を失っただけになります」
「成功すれば?」
「昨日の敗戦を、毛利が向きを変えた日にできます」
その言葉の後、長い沈黙が続いた。
外では風が木々を揺らしている。
元春は何度も地図を見た。
備後。
どうしても渡したくない。
その思いは変わらなかった。
だが、毛利を守ることと備後を守ることが、今は同じではなくなっている。
それこそが官兵衛の作った状況だった。
「……条件がある」
元春が低く言った。
輝元が顔を上げる。
「受けるのですか」
恵瓊が尋ねる。
「まだそうは言っておらん」
元春は恵瓊を睨んだ。
「だが、もし備後を渡すのであれば、曖昧なままにはさせぬ」
隆景の表情が少し変わる。
「何を求めますか」
「備後の扱いだ」
元春の指が地図を叩いた。
「林道家へ渡す土地、城、兵、民。その引き渡しをどうするのか。明日からすべて林道のものだと言われても困る。毛利の兵を退かせ、城を引き渡すには時間がいる」
恵瓊が頷く。
「確かに、そこは詰める必要がありますな」
「それに、備後にいる者たちまで好きに扱わせるつもりはない。毛利に残りたい者まで無理に林道へ仕えさせることは認めぬ」
隆景も同意した。
「城の引き渡し時期、兵の撤収、家臣の扱い。領地を渡すのであれば、そこまで書状に残すべきでしょう」
元春はまだ怒っている。
だが、その言葉はもう「渡さない」ではなかった。
どう渡すのか。
その話へ変わっている。
輝元はそれを聞いていた。
やがて、ゆっくりと目を閉じる。
父祖から受け継いだ毛利の領国。
その一部を、自分の代で失う。
決断が軽いはずはなかった。
「……呼んでくれ」
恵瓊が輝元を見る。
「官兵衛殿を、ですか」
「そうだ」
元春が顔を上げた。
「輝元」
「叔父上」
輝元は元春をまっすぐに見た。
「備後を失うことが悔しくないわけではありません」
声は静かだった。
「ですが、ここで意地を通して、さらに多くを失えば、私は毛利の当主として何を守ったことになるのでしょう」
元春の口がわずかに動いた。
だが、言葉は出なかった。
「条件は受けます」
輝元は言った。
「ただし、言われるままにはしない。残せるものは残す。約束させられることは、すべて約束させる」
恵瓊が深く頷く。
「それでよろしいかと」
隆景も続いた。
元春だけはしばらく黙っていた。
やがて大きく息を吐き、地図から手を離す。
「……備後をくれてやるつもりは、今でもない」
輝元は黙って叔父を見る。
「だが、毛利を守るために必要だというなら、俺一人の意地でひっくり返すことはせん」
それが元春にできる、最大限の譲歩だった。
輝元が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼など言うな」
元春は顔を背けた。
「ただし、官兵衛には最後まで言うぞ。少しでもこちらに不利なところが残っておれば、何度でも突き返す」
その言葉に、恵瓊の口元がほんの少し緩んだ。
「それは私も同じにございます」
こうして、予定より早く使者が走った。
そして――。
再び寺へ戻った官兵衛は、先ほどと同じ部屋へ通された。
だが、空気は先ほどとは違う。
輝元の前には地図と、一枚の紙が置かれている。
元春の表情は依然として険しい。
隆景は静かに官兵衛を見つめ、恵瓊は手元に何かを書き留めていた。
官兵衛は四人を見て、一礼する。
「お待たせいたしました」
「いや」
輝元が答えた。
「こちらが予定より早く呼び戻したのだ」
官兵衛が席へ着く。
すぐには誰も話さなかった。
官兵衛も急かさない。
やがて輝元が、自分の前に置かれた紙へ手を置いた。
「官兵衛殿」
「はい」
「先ほどの条件について、毛利として答えを出した」
官兵衛の表情は変わらなかった。
「お聞かせください」
輝元は一度、元春たちを見た。
そして官兵衛へ向き直る。
「林道家との同盟を受ける」
その言葉が部屋へ落ちた。
官兵衛は何も言わず、続きを待った。
「出兵についても、東への軍事行動についても、九州への協力についても、先ほど詰めた条件で構わぬ」
輝元の手が、地図の備後へ移る。
ほんの一瞬、その指が止まった。
「備後も――渡す」
それでも、官兵衛は喜びを見せなかった。
ここで終わりではないことを分かっていたからだ。
案の定、元春がすぐに口を開く。
「ただしだ」
官兵衛が元春を見る。
「備後を渡す方法はこちらとも話し合ってもらう。いつまでに兵を退かせるのか、どの城をどう引き渡すのか、そこにいる者たちをどうするのか。勝ったから明日にでもすべて寄越せなどという話は認めん」
「もっともにございます」
官兵衛は即座に答えた。
元春がわずかに眉を寄せる。
「……随分とあっさり認めるな」
「領地を受け取ることと、そこで暮らす者を混乱させることは別の話にございます。急ぎすぎて備後そのものが乱れては、我らにとっても意味がありません」
今度は隆景が尋ねる。
「毛利へ残ることを望む家臣については?」
「無理に林道家へ仕えさせることはいたしません」
「反対に、備後へ残ることを望む者は?」
「林道家へ仕える意思があるのであれば、これまで毛利に仕えていたという理由だけで退けることもしません。ただし、誰をどのように召し抱えるかについては、こちらで判断いたします」
隆景が頷く。
現実に領地を受け渡すのであれば、その程度の裁量は新しい領主に必要だ。
恵瓊が筆を置いた。
「もう一つ」
「何でございましょう」
「今回の約定を毛利が守る限り、林道家は備後より西の毛利領を求めない。また、林道家の意向で宇喜多家や信孝様を動かし、毛利領を奪わせることもしない」
「はい」
「そして毛利家そのものの存続を認める」
官兵衛が頷く。
「その三点は、曖昧な言い回しではなく書状へ明記していただきたい」
「景継様にも、そのようにお伝えいたします」
「官兵衛殿の名だけでは足りませぬ」
恵瓊の目が官兵衛を捉える。
「林道景継殿の名でいただきたい」
官兵衛は少しだけ考えた。
「承知いたしました」
その答えを聞いて、恵瓊がようやく筆を置いた。
これで大枠は決まった。
毛利は林道家の求めに応じて兵を出す。
東へ兵を動かす際には事前に知らせる。
九州平定には軍事、兵站の両面で協力し、その働きには恩賞が与えられる。
毛利が救援を求めた場合、林道家はその都度、応じるかどうかを判断する。
そして備後は林道家へ渡る。
代わりに、毛利が約定を守る限り、林道家はそれ以上の領土を求めず、毛利家の存続を認める。
対等ではない。
毛利にとって痛みの大きな同盟だった。
だが同時に、昨日まで殺し合っていた両家が、これ以上東で争わないための道でもあった。
官兵衛は輝元を見る。
「では、この内容で景継様へお持ち帰りしてもよろしいでしょうか」
輝元は頷いた。
「構わぬ」
そこで官兵衛は初めて深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
元春の表情が険しくなる。
「礼を言われると、余計に腹が立つな」
官兵衛は何も返さなかった。
ただ静かに頭を上げる。
その態度を見て、元春もそれ以上は言わなかった。
恵瓊が官兵衛を見る。
「これで満足ですか」
官兵衛は少し考えた。
「まだにございます」
恵瓊の眉が動く。
「まだ何か求めるおつもりで?」
「いいえ」
官兵衛は首を横に振った。
「約定というものは、結んだだけでは意味がございませんので」
その言葉に、隆景がわずかに頷いた。
官兵衛は続ける。
「今日ここで決めたことを、林道家と毛利家の双方が守り続けて初めて、この話には意味が生まれます」
輝元はしばらく官兵衛を見た後、静かに答えた。
「ならば、そちらも守ってもらう」
「もちろんにございます」
もう怒声は上がらなかった。
昨日まで戦場で向かい合っていた者たちが、今は同じ書状に何を書くのかを話している。
戦は終わった。
だが、それだけでは何も変わらない。
昨日の敵を今日の敵のまま残すのか。
それとも、別の関係へ変えるのか。
その最後の一手が、ようやく形になろうとしていた。
官兵衛は寺を出ると、林道家の陣がある東へ目を向けた。
景継に持ち帰る答えは決まった。
毛利は備後を失う。
林道家は新たな西の足場を得る。
そして何より。
九州へ向かう時、これまで敵だった毛利の力を、その背後に残すのではなく、ともに西へ向けることができる。
昨日の勝利が、ようやく戦場の外でも形になった。
官兵衛は供の者たちとともに、景継の待つ陣へ戻り始めた。




