第二百十九話 軍師の報告
官兵衛が陣へ戻ってきたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
昨日まで戦場だった場所では、すでに戦後の処理が進められている。負傷者を後方へ送り、使える武具を集め、各隊では残った兵の数を確かめていた。戦の音こそ消えたものの、泥に残った無数の足跡や折れた槍、ところどころに染みついた血が、ここで大きな戦があったことをまだ強く残している。
景継も朝から各隊の報告を受け続けていたが、官兵衛が戻ったと聞くと、手元にあった書状を置いた。
ほどなくして官兵衛が入ってくる。
「お戻りになりましたか」
「ただいま戻りました」
「座ってください。聞きたいことが山ほどあります」
官兵衛は景継の向かいへ腰を下ろした。
顔には疲れが見える。それでも、交渉が決裂した者の表情ではなかった。
景継はまず、最も気になっていることから尋ねた。
「毛利からの返答は?」
「日が暮れるまで待ってほしいとのことにございます」
「今日中ですか」
「はい」
景継は少し驚いた。
毛利ほどの大きな家の今後を左右する話である。それを一日も置かずに決めようとしている。
だが、考えてみれば、それこそ官兵衛が敗戦直後の毛利に使者を送った理由だった。
時間を与えない。
昨日の敗北がまだ生々しく残っている間に、戦場で得た優位をそのまま交渉へ持ち込む。
「こちらの条件は、すべて伝えたのですね?」
「お伝えしました」
「出兵についても?」
「林道家から求めた場合、毛利家には兵を出していただく。ただし、実際の兵数については毛利側の事情も考慮し、必要であれば双方で話し合うことになりました」
景継が頷く。
「それならいいでしょう。出せない数を無理に求めても意味がありませんから」
「私もそう考えました」
「こちらへ軍を動かす場合は?」
「林道家、宇喜多、播磨方面へ兵を進める際には、事前に目的、兵数、向かう先を知らせていただきます」
「九州については?」
「兵だけではなく、兵糧、輸送、船、情報についても協力を求めました。その代わり、毛利の働きには相応の恩賞を出すと」
そこまで聞いて、景継は一度頷いた。
自分が考えていた条件と大きくは変わっていない。
「毛利から救援を求められた場合については?」
「こちらで判断すると伝えております」
「そこは、かなり反発されたでしょうね」
「元春殿は最後まで納得しておられませんでした。恵瓊殿も、対等な同盟ではないと指摘されました」
「当然でしょう」
景継はあっさりと言った。
官兵衛がわずかに顔を上げる。
「毛利から見れば、そうなります。自分たちは求められれば兵を出さなければならないのに、こちらは同じ義務を負わないのですから」
「では、変えますか?」
「いいえ」
景継は首を横に振った。
「毛利側の言い分を理解することと、こちらが譲ることは別です」
昨日の戦では、多くの者が傷つき、命を落とした。
その結果として勝ったのはこちらなのだ。
何もなかった時と同じ条件を提示するつもりはない。
「毛利がこちらとの関係を守り、九州でも力を貸してくれるのであれば、いずれ関係が変わることはあるかもしれません。ですが、それはこれから先の話です」
景継はそう言ってから、官兵衛の前に置かれた地図へ視線を落とした。
「それで――」
少し間を置く。
「まだありますね?」
官兵衛は否定しなかった。
「ございます」
「何を加えたのですか?」
「備後を林道家へ割譲していただきたいと申し上げました」
景継の視線が止まった。
「……備後を?」
「はい」
景継はしばらく何も言わなかった。
怒りより先に、官兵衛がなぜそこを求めたのかを考える。
備後。
現在の林道家の勢力から見れば、かなり西に位置する。
そして、そのさらに先には毛利の本拠となる地域が続き、その向こうには九州がある。
「九州へ進むためですか?」
景継が尋ねた。
官兵衛が頷く。
「それが最も大きな理由にございます」
官兵衛は地図を引き寄せ、備後を指した。
「毛利家が九州平定へ協力すると約束したとしても、我らが西へ進むたびに他家の領地を通る状態は好ましくありません。ここを林道家が持てば、兵を集め、兵糧を蓄え、西へ送り出すための足場にできます」
景継は官兵衛の指先から、さらに西へ目を移した。
確かに備後を得る意味は大きい。
「毛利への押さえにもなりますね」
「はい。約定だけでは、先のことまでは保証できません」
輝元が約束を守ったとしても、その先の代まで同じとは限らない。毛利内部の事情が変わる可能性もあれば、林道家との力関係が変わることもある。
書状に残された約束だけではなく、地理そのものによって毛利の東進を抑える。
官兵衛が備後を求めた理由が、景継にも見えてきた。
「理には適っています」
景継は率直に認めた。
「私も、備後を得ること自体には反対しません」
「ありがとうございます」
「ただ――」
景継が官兵衛を見る。
「交渉を任せたとはいえ、備後まで求めるのであれば、戻ってきた時ではなく、できれば先に聞いておきたかったです」
声を荒らげたわけではない。
官兵衛も弁解しなかった。
「申し訳ございません」
素直に頭を下げられたことで、景継もそれ以上責めなかった。
「官兵衛殿の判断を縛りたいわけではありません。交渉の最中に必要だと思った条件まで、いちいち私へ確認していては話が進まないでしょう」
「はい」
「ですから、今後も任せるところは任せます。ただ、大きなところだけは共有してください。私と官兵衛殿で、別々の先を見てしまう方が怖いですから」
官兵衛は少し間を置いてから、深く頷いた。
「承知いたしました」
景継も頷き返す。
以前なら、自分一人で考える方が楽だったかもしれない。
前世でもそうだった。
他人の考えを完全に信じるくらいなら、自分で考え、自分で備える。その方が間違いは少ない。
だが今は違う。
自分が見ていない場所を官兵衛が見ている。
今回の信孝軍もそうだった。
そして備後も、景継自身は毛利との交渉を考えた時点で、そこまで具体的には考えていなかった。
ならば、その目を塞いでしまうべきではない。
「毛利は、備後を渡しますか?」
景継の問いに、官兵衛はすぐには答えなかった。
地図の備後へ視線を落とし、指先でその境をゆっくりとなぞる。
「五分、といったところでしょうか」
「そこまで難しいですか」
「領地を失うというのは、理だけで決められることではございません。特に元春殿は、最後まで強く反対されるでしょう」
景継にも、それは理解できた。
地図の上で見れば、備後は一つの土地にすぎない。
だが、そこには城があり、村があり、民がいる。毛利にとっては長い年月をかけて手に入れ、守ってきた領地である。
昨日一度戦に敗れたからといって、簡単に差し出せるはずがない。
「では、その五分をこちらへ傾けるために、何を置いてきたのですか?」
官兵衛の視線が景継へ戻った。
「毛利家そのものを残すという保証にございます」
「備後より先を求めないという話ですね」
「はい。毛利が約定を守る限り、林道家はそれ以上西へ領地を求めない。また、宇喜多や信孝様を利用し、こちらの意向で毛利領を奪わせることもしないと伝えております」
景継は地図を見ながら、しばらく考えた。
「備後を守るか、備後を差し出して残りを守るか……」
「その選択まで持っていければ、交渉になります」
官兵衛の言葉に、景継はゆっくり頷いた。
毛利を追い詰めているように見えて、逃げ道そのものは残している。
昨日の戦と同じだった。
ただし今度、官兵衛が残した逃げ道は西へ続く道ではない。
毛利家そのものを存続させる道だった。
景継はそのことに気づき、官兵衛を見る。
「昨日、私が毛利の退路を残したことを使いましたね?」
官兵衛は隠さなかった。
「使わせていただきました」
「どう話したのですか?」
官兵衛は、交渉の中で話した内容をそのまま説明した。
左には正則と利家、右には清正と成政、中央には宇喜多勢がおり、さらに信孝の新手まで到着していた。それでも西への道だけは塞がなかった。
もしあそこで退路まで閉じていれば、毛利も死に物狂いで戦っただろう。
林道側にもさらに多くの死者が出た。
だが、毛利の兵がどれほど生きて帰れたかも分からない。
そこまで聞いたところで、景継が口を開いた。
「私が退路を残した理由は?」
「申し上げておりません」
「でしょうね」
景継は怒らなかった。
自分が退路を残したのは、これ以上味方を死なせたくなかったからだ。
毛利を助けるためではない。
だが、結果として毛利は西へ逃げることができた。
官兵衛は、その事実だけを使った。
「随分と都合よく使いましたね」
「嘘は申しておりません」
景継は少し考えた後、頷いた。
「ええ。嘘ではありません」
それによって次の戦を避けられるのであれば、景継に否定する理由もなかった。
「ただ、毛利を必要以上に追い詰めないでください」
「承知しております」
「備後は求める。出兵も求める。九州への協力も求める。それだけでも十分に重い条件です」
景継は地図から目を離した。
「毛利が約定を守り、こちらに力を貸すのであれば、その後まで敗者として扱う必要はありません」
「恩賞の件ですな」
「それもあります」
景継の声が少しだけ強くなる。
「九州で毛利が兵を出し、血を流して働いたのであれば、きちんと報いましょう。今回負けたからという理由で、これから先の働きまで安く扱うつもりはありません」
官兵衛は黙って景継を見た。
「今回の戦と、その後は別です」
景継は続ける。
「約束を守る者には、こちらも約束を守る。それができなければ、毛利も本当の意味ではこちらにつかないでしょう」
「心得ております」
官兵衛が答える。
「九州への出兵については、兵数や役割を事前に書状へ残し、実際に働きがあれば恩賞を出すことも明記することで話を進めました」
「それならいいです」
景継は少し安心したように息を吐いた。
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
外では兵たちの声が聞こえている。
昨日まで命を奪い合っていた者たちが、今日は倒れた柵を片づけ、荷をまとめ、次にどこへ向かうのかを待っている。
景継はふと、官兵衛に尋ねた。
「毛利と本当に一緒に戦えると思いますか?」
今度の問いに、官兵衛はすぐに答えなかった。
「すぐには難しいでしょう」
「やはり、そうですか」
「昨日まで敵だったのです。書状一枚で気持ちまで変わるわけではございません」
その答えを聞き、景継は小さく頷いた。
「ですが、人の気持ちが追いつくのを待ってから国を動かすこともできませぬ」
官兵衛は地図の九州へ目を向ける。
「先に利を作ります」
「利、ですか」
「毛利にとって、林道家と組んだ方が得だと思える状況を作る。九州で働けば恩賞が得られる。東から攻められる心配もなくなる。そうしたことが積み重なれば、やがて約定だから兵を出すのではなく、毛利自身のために兵を出すようになります」
景継はその言葉を聞きながら、地図の西を見た。
「最初から信じ合う必要はない、ということですね」
「私は、その方が長く続くと思っております」
景継はわずかに笑った。
その考え方は嫌いではなかった。
信頼だけで結ばれた関係は、信頼が崩れれば終わる。
だが、互いに利益があり、そのうえで少しずつ信頼が積み重なっていけば、簡単には壊れない。
自分と官兵衛の関係も、最初は似たようなものだったのかもしれない。
互いに利用する。
そのはずだった。
だが今では、官兵衛が黙って何かを仕込めば腹も立つし、無事に戻ってくれば安堵もする。
それを何と呼ぶべきか、景継にはまだ分からなかった。
「官兵衛殿」
「はい」
「今回の交渉、ありがとうございます」
官兵衛がわずかに目を見開いた。
「まだまとまっておりませんが」
「それでもです。私は戦の後始末から動けませんでした。その間に毛利との話をここまで進めていただいた。それには礼を言うべきでしょう」
景継はそこで少しだけ間を置いた。
「備後の件とは別に」
官兵衛はしばらく景継を見た後、静かに頭を下げた。
「ありがたく頂戴いたします」
それだけだった。
余計な軽口はなかった。
景継も、それ以上何も言わなかった。
少し前までなら、官兵衛の働きを当然のものとして受け取っていたかもしれない。
だが、そうした小さなことを言葉にする必要があると、最近は思うようになっていた。
その時だった。
陣の外から慌ただしい足音が近づいてくる。
「申し上げます!」
入ってきた兵が二人の前で膝をついた。
「毛利方より使者が参りました」
景継と官兵衛が同時に顔を上げる。
「もうですか?」
「はっ。官兵衛様に、再び寺へお越しいただきたいとのことにございます」
景継は外へ目を向けた。
日暮れまで待ってほしい。
輝元はそう言っていたはずだ。
だが、まだ陽は高い。
官兵衛も同じことを考えたのだろう。先ほどまで地図に置いていた手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
「何かしら、答えが出たのでしょう」
景継も立ち上がる。
「行ってきてください」
「承知いたしました」
官兵衛が一礼し、陣を出ようとする。
その背中へ、景継が声をかけた。
「官兵衛殿」
官兵衛が振り返る。
「備後を取れるかどうかだけで決めないでください」
「と、申されますと?」
「今日の交渉で欲しいのは、土地だけではありません」
景継は地図の毛利領へ目を落とした。
「昨日まで敵だった毛利が、これから我らとともに西へ進める。その形を作ることの方が大事です」
官兵衛は黙って聞いている。
「備後を得ても、そのために毛利が恨みだけを残し、隙を見て背後から刺してくるのであれば意味がありません」
景継は顔を上げた。
「こちらが勝者であることは変わりません。譲る必要のないところまで譲るつもりもありません。それでも、相手が約束を守れるだけの道は残してください」
官兵衛は景継の言葉をしばらく受け止めた後、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
その返事を聞いて、景継も頷く。
官兵衛は今度こそ陣を出ていった。
一人残った景継は、再び地図の前へ座る。
備後。
その向こうに広がる毛利領。
さらに西には、これから進もうとしている九州がある。
昨日まで、その間には敵がいた。
今日の交渉がまとまれば、その敵を消すだけではなく、同じ方向へ進む者に変えられるかもしれない。
戦場で敵を退けるだけなら、昨日で終わっている。
勝った後に何を得て、誰を残し、その力をどこへ向けるのか。
そこまで決めて初めて、一つの戦が終わる。
景継は地図の備後へ置いた指を、そのままゆっくりと西へ滑らせた。
官兵衛が次に戻ってくる時。
毛利が敵のままなのか。
それとも、林道家とともに九州を見据える存在へ変わっているのか。
その答えは、もう間もなく出る。




