第二百十八話 官兵衛の舌戦②
「備後を渡せと言われるのであれば、毛利にも、それに見合うものを求めさせていただきます」
恵瓊の言葉を聞いても、官兵衛はすぐには答えなかった。
ここまでとは違う。
毛利は提示された条件を拒むだけではなく、受け入れるとすれば何を得なければならないのか、その話を始めようとしている。
備後を渡すと決めたわけではない。それでも、交渉の入口には立った。
官兵衛はそれを理解したうえで、静かに恵瓊を見た。
「お聞きいたしましょう」
恵瓊は一度、輝元へ目を向けた。
輝元が小さく頷く。
「まず一つ。備後を林道家へ渡した後、毛利が今回の取り決めを守る限り、それ以上の領地を求めないと約束していただきたい」
官兵衛の表情は変わらなかった。
予想していた要求だった。
むしろ備後を差し出す可能性を考えるのであれば、毛利が真っ先に求めるべき条件でもある。
「それは、毛利領へ兵を進めないという意味でしょうか」
「それも含みます」
恵瓊は答えた。
「備後を渡した。次は安芸、その次は周防。そのように少しずつ削られては、毛利にとって同盟を結ぶ意味がない。毛利が約定を破らぬ限り、林道家は毛利の残る領地を侵さない。その保証をいただきたい」
官兵衛が返答するより先に、隆景が口を開いた。
「加えて、宇喜多や信孝様の軍を使って毛利を攻めることもない、としていただきたい。林道家が直接兵を出さなければ約定違反ではない、では困ります」
官兵衛は隆景を見る。
そこまで塞いでくるか。
さすがに抜け目がない。
「承知いたしました」
元春が怪訝そうに官兵衛を見た。
あまりにも返答が早かったからだろう。
「……認めるのか」
「毛利家が今回の取り決めを守っておられる限り、林道家からさらに領地を奪う理由はございません」
官兵衛は続ける。
「また、林道家の意向によって他家を動かし、毛利領を奪わせるようなこともいたしません」
「書状に残していただけますな」
恵瓊がすぐに確認した。
「もちろんです」
ここは譲って構わない。
景継が欲しているのは毛利そのものではなく、西へ進むための安定だった。
毛利をいつまでも敵に回していては、九州へ向かうたびに背後を気にしなければならない。備後を得て、さらに毛利との争いを止められるのであれば、その方がはるかに価値がある。
だが、恵瓊の要求はそれだけではなかった。
「次に、出兵についてです」
官兵衛が視線を戻す。
「先ほど官兵衛殿は、林道家が求めれば毛利は兵を出す、と仰った」
「はい」
「そのままでは呑めませぬ」
元春も頷いた。
「当然だ。林道が求めるたびに一万、二万と兵を出しておれば、毛利の国が持たぬ」
「では、どのような条件をお望みでしょう」
「毛利の兵力と領内の状況を考慮し、出せる範囲で協力する。それでなければ困ります」
恵瓊の要求に、官兵衛は少し考えた。
ここで「林道家が求めた兵数を必ず出せ」と押し切れば、条件としては強くなる。
しかし、実際に毛利が出せない兵数を要求したところで意味がない。約定を守れなかったという口実を作るだけになる。
欲しいのは文言上の勝利ではない。
必要な時に、本当に毛利の兵が動くことだった。
「毛利家の事情を考慮することは認めましょう」
官兵衛が答える。
恵瓊はまだ頷かなかった。
「ただし」
続いた言葉に、元春の眉が動く。
「出せるかどうかを毛利家だけで決められては困ります。毎回『今は難しい』と言われてしまえば、約定そのものが意味を失いますので」
「では、どうすると?」
隆景が尋ねた。
「林道家から出兵を求めた場合、まず必要な兵数と目的をお伝えします。そのうえで毛利家の事情により難しいのであれば、双方で兵数を話し合う。それでいかがでしょう」
恵瓊と隆景が目を合わせた。
完全に毛利の自由にはならない。
だが、林道家から一方的に兵数を決められるよりはいい。
「……それならば、話にはなりましょう」
恵瓊が答えた。
「ただし、毛利の存続に関わるほどの兵を要求されても応じられませぬ」
「そこまで無理をさせるつもりはございません」
官兵衛はそう答えたが、元春はまだ納得していない様子だった。
「そもそもだ」
元春が官兵衛を見る。
「我らがそちらの求めに応じる義務を負うのであれば、林道も同じ義務を負うべきだ。この点だけは、どう考えてもおかしい」
先ほどから元春が最も引っ掛かっている部分だった。
毛利は求められれば兵を出す。
林道家は毛利から求められても、その都度判断する。
同盟という言葉を使いながら、明らかに釣り合っていない。
「この条件を互いに同じものとする。それくらいは認めてもよいのではないか」
官兵衛は首を横に振った。
「それはできません」
「なぜだ」
「同じ理由を何度申し上げても仕方がありませんので、今度は別の言い方をいたしましょう」
官兵衛は元春だけでなく、輝元にも聞かせるように話した。
「今回の同盟は、互いに何も失っていない状態から結ぶものではございません。毛利家が宇喜多領へ兵を進め、我らと戦い、そして敗れた。その後に結ぶものです」
元春の顔が険しくなる。
「毛利家にも得るものはございます。東から林道家に攻められる心配がなくなり、宇喜多や播磨方面との争いも避けられる。九州で働けば恩賞を得る機会もある」
「だから救援は約束しないと?」
「はい」
官兵衛はここだけは譲らなかった。
「毛利家が救援を求められた時には、事情を伺います。そのうえで、林道家にとっても助けるべきだと判断すれば兵を出しましょう。しかし、どのような戦であっても必ず助けるとは約束できません」
「それでは我らだけが――」
「元春」
それまで黙っていた輝元が止めた。
元春が振り返る。
輝元は苦い表情をしていた。
「言いたいことは分かる。だが、同じ話を繰り返しても進まぬ」
「しかし――」
「まだ条件はあるはずだ。まず聞こう」
元春は不満を残したまま、口を閉じた。
官兵衛はそのやり取りを見ながら、輝元への認識を少し改めていた。
敗戦直後に領地を差し出せと言われている。
怒らぬはずがない。
それでも当主として、怒りだけで席を立つことはしなかった。
恵瓊が再び話を引き取った。
「九州についても確認しておきたい」
「どうぞ」
「毛利が兵を出し、船を出し、兵糧まで負担した結果、九州平定が成ったとします。その時に『よく働いた』という言葉だけでは困ります」
「先ほど申し上げた通り、働きに応じて恩賞を出します」
「その基準を、林道家だけで決めるのですか」
官兵衛が少し黙った。
恵瓊はそこを逃さなかった。
「毛利に多くの血を流させておいて、最後に林道家が『働きは小さかった』と判断すれば、我らには何も残らない。それでは兵を出す者を納得させられませぬ」
もっともな話だった。
だが、功績を事前に数値で決めることもできない。
戦がどう動くのかなど、始まる前には誰にも分からないからだ。
「では、こうしましょう」
官兵衛は答えた。
「出兵するごとに、毛利家が何を担うのかを事前に書面へ残します。兵数、船、兵糧、輸送。そのうえで戦が終わった後、その働きに応じた恩賞について話し合う」
「最終的な決定は?」
「景継様がなされます」
恵瓊の眉がわずかに動く。
「そこは譲らぬと」
「はい」
「ならばせめて、働きがあったにもかかわらず恩賞を与えない、ということだけはないよう明記していただきたい」
官兵衛は少し考えてから頷いた。
「それはお約束いたします」
これで三つ。
毛利が条件を削り、林道家も一部を認めた。
だが最も大きな問題は、まだ畳の上に置かれたままだった。
備後。
元春は何度も地図へ視線を落としている。
隆景も同じだった。
やがて恵瓊が、その名を再び口にした。
「では、備後についてです」
空気が再び重くなる。
「ここまでの話がすべてまとまったとしても、備後をそのまま差し出すことだけは、毛利にとってあまりに大きい」
官兵衛は黙って聞いた。
「そこで一つ、こちらから提案いたします」
恵瓊は地図の備後を指した。
「備後そのものではなく、九州へ進むために必要な城と道をお貸しする。それではいかがです」
官兵衛はすぐに首を横へ振った。
「それでは足りません」
「即答ですか」
「そこについては、私に判断を任されておりますので」
恵瓊の視線が鋭くなる。
「景継殿から、備後だけは必ず取れと?」
「いいえ」
その答えには、今度は毛利側が意外そうな顔をした。
「景継様からは、毛利家との今後の関係について交渉を任されております。備後を求めると決めたのは私にございます」
「……官兵衛殿の考えだと?」
「はい」
元春が呆れたように官兵衛を見る。
「貴様一人の考えで、我らの国を一つ寄越せと言っているのか」
「必要だと判断いたしましたので」
官兵衛は平然と答えた。
だが恵瓊は、元春とは違うところに引っ掛かった。
「では、景継殿に持ち帰れば、備後を求めない可能性もあるということですな」
その瞬間、官兵衛は恵瓊を見た。
やはり、そこを拾う。
「そう考えられるのであれば、景継様へ直接お尋ねになっても構いません」
「ほう」
「ただし、その場合は今日の話はいったん白紙に戻します」
恵瓊の表情から、わずかな余裕が消えた。
官兵衛は続ける。
「私がここでお出ししている条件は、毛利家をこれ以上追い詰めず、今後はともに西へ向かうことを前提としたものです。私に交渉を任せられないということであれば、景継様にはそのように報告いたします」
脅しではない。
官兵衛が勝手に景継の名を使って条件を押しつけているわけでもなかった。
景継は交渉を任せた。
だからこそ、官兵衛は自分の責任で条件を出している。
恵瓊はしばらく官兵衛を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かりました。その話は取り下げましょう」
官兵衛は何も言わなかった。
そこで隆景が口を開いた。
「ならば、こちらから最後に確認したい」
「はい」
「備後を渡す」
元春が兄を見る。
だが隆景は構わず続けた。
「毛利は林道家から求められた時には兵を出し、東への軍事行動は事前に知らせる。九州平定にも協力する」
一つずつ確認するように並べていく。
「そのすべてを毛利が守ったならば――」
隆景の指が備後から西へ動いた。
安芸。
周防。
長門。
その先に残る毛利の国。
「林道家は、これ以上毛利の領地を求めない。それだけではなく、毛利家そのものを潰そうともせず、我らが今の領国を治め続けることを認める。そう考えてよろしいか」
官兵衛は、すぐには答えなかった。
今日初めて、少し長く考えた。
ここでの一言は重い。
備後を得る代わりに、毛利の残る領国を保証する。
それは林道家自身の手を縛ることにもなる。
しかし、九州へ進むのであれば、背後の毛利が安定していることには大きな意味がある。
何より景継は、最初から毛利を滅ぼすことを望んでいない。
官兵衛は決めた。
「毛利家が約定を守る限り」
四人の視線が集まる。
「林道家は、備後より先の毛利領を求めません。毛利家の存続も認めましょう」
元春が官兵衛を睨む。
「言葉だけではないな」
「書状に残します」
「宇喜多や信孝を使うことも?」
「先ほど申し上げた通り、林道家の意向によって他家に毛利領を奪わせることもいたしません」
隆景は目を閉じた。
しばらく考えた後、輝元を見る。
恵瓊もまた、輝元へ視線を向けた。
最後に決めるのは当主だった。
輝元はすぐには答えなかった。
畳の上に置かれた地図を見つめ、その中にある備後へ目を落とす。
領地を失う。
決して軽い決断ではない。
昨日の戦に負けたからといって、簡単に差し出せるものでもない。
だが、この話を蹴ればどうなる。
林道家との戦は終わらない。
宇喜多との争いも残り、播磨方面にも兵を割かなければならない。昨日の戦で傷ついた軍を立て直しながら、東から再び攻め込まれる可能性を考え続けることになる。
一方で、備後を失えば痛みは大きいものの、東の戦は終わる。
そして九州へ目を向ける道が生まれる。
輝元は長く黙った末、ようやく顔を上げた。
「……官兵衛殿」
「はい」
「一つだけ聞かせてもらいたい」
「何でございましょう」
「これは、景継殿が毛利を屈服させるための同盟なのか」
官兵衛は少しだけ考えた。
そして答える。
「違います」
「では、何だ」
「毛利家と、もう戦わなくて済むようにするための同盟にございます」
元春が眉を寄せた。
官兵衛は続けた。
「景継様が欲しておられるのは、毛利の首ではございません。これから先へ進むため、背後で同じ戦を何度も繰り返さなくてよい形を作ることです」
そこまで言ってから、官兵衛は地図の九州へ視線を落とした。
「我らは西へ進みます。その時、毛利家が敵として立ちはだかるのか、ともに進むのか。それを今日決めたいのです」
輝元は再び黙った。
やがて、その視線が元春へ向く。
元春は苦い顔をしたまま何も言わない。
隆景は静かに頷いた。
最後に恵瓊を見る。
恵瓊はしばらく考えた後、輝元へ向かって口を開いた。
「備後を失う痛みは、決して小さくありませぬ」
誰も遮らない。
「ですが、昨日の敗戦までなかったことにはできません。ここで東の争いを終わらせられるのであれば、毛利が立て直す時間を得ることもできます」
元春が恵瓊を見る。
「恵瓊」
「備後を守るために、さらに多くを失うことになれば意味がございません」
その言葉に、元春は何も返さなかった。
納得したわけではない。
それでも反論できる材料も、今は少なかった。
輝元は目を閉じた。
そして、しばらくしてから口を開く。
「……今日、この場で決めろと言ったな」
「はい」
「ならば、もう少しだけ時間をくれ」
官兵衛は輝元を見る。
「どれほどでしょう」
「日が暮れるまでには答える」
官兵衛は少し考えた後、頷いた。
「承知いたしました」
今日中。
それならば十分だった。
官兵衛は立ち上がると、毛利の四人へ一礼した。
部屋を出る直前、恵瓊から声がかかった。
「官兵衛殿」
官兵衛が振り返る。
「もし我らが断れば、どうされるおつもりです」
官兵衛は恵瓊を見た。
ここで脅す必要はない。
昨日の戦場を、この場にいる全員が覚えている。
「景継様のもとへ戻り、毛利家とは話がまとまらなかったとお伝えします」
「……それだけですか」
「その後をお決めになるのは、私ではございません」
官兵衛はそれ以上何も言わなかった。
寺を出ると、朝から漂っていた雲の隙間から陽が差し始めていた。
背後の部屋では、これから毛利の四人だけによる話し合いが始まる。
備後を守るか。
毛利を守るか。
その二つを、同じものとして選べなくした。
そこまで持っていけたのであれば、今は十分だった。
官兵衛は供の者を連れ、景継の待つ陣へ戻っていった。




