第二百十七話 官兵衛の舌戦
毛利から返答が届いたのは、その日の夕刻だった。
林道家との会談には応じる。ただし、場所は両軍の間にある寺とし、双方が連れてくる兵は最小限に留めたいという。
返答を読み終えた官兵衛は、その条件を受け入れると同時に、こちらからも一つだけ要求を返した。
毛利家の今後を、この場で決められる方々にお集まりいただきたい。
話を聞いて持ち帰り、改めて評定を開かせるつもりはなかった。時間を与えれば、毛利は敗走した兵をまとめ、領内の諸将から報告を集め、昨日の敗戦を冷静に見直すようになる。
そうなる前に決める。
敗れた記憶も、信孝の新手が現れた時の動揺も、まだ鮮明に残っている今だからこそ意味がある。
翌朝、官兵衛が数人の供を連れて寺へ入ると、毛利側は要求通りの顔ぶれを揃えていた。
毛利輝元。
吉川元春。
小早川隆景。
そして安国寺恵瓊。
いずれも官兵衛にとって知らぬ相手ではない。特に恵瓊とは、これまでにも何度となく言葉を交わしてきた。
官兵衛が部屋へ入ると、恵瓊はその姿を見て、わずかに眉を寄せた。
「……やはり、官兵衛殿が来られましたか」
「私では、ご不満でしたか」
「不満というより、警戒しております。敗戦の翌日に官兵衛殿から話があると言われて、何も考えずに来られるほど私も呑気ではありませぬ」
恵瓊はそう答えながら、官兵衛の手元へ視線を落とした。
まだ書状は出していない。
それでも、すでに何を持ち出してくるのか探ろうとしている。
官兵衛は余計な言葉を返さず、一礼して席へ着いた。
一通りの挨拶が済んだところで、最初に口を開いたのは隆景だった。
「官兵衛殿。まず聞いておきたいことがあります」
「何でございましょう」
「なぜ我ら全員を、この場へ集めるよう求められたのです」
「今日、ここで話を決めるためにございます」
元春の表情が変わった。
「今日だと?」
「はい」
「そちらの話を聞いた後、持ち帰って評定することも認めぬというのか」
「できれば、そうしていただきたい」
官兵衛は四人の顔を見渡した。
「昨日のことを、皆様がまだ鮮明に覚えておられるうちに」
何を意味しているのか、説明する必要はなかった。
元春の目に怒気が浮かび、輝元も表情を険しくする。隆景だけはすぐには反応せず、官兵衛の意図を測るように黙っていた。
やがて恵瓊が口を開く。
「なるほど。時間を置けば、毛利が態勢を立て直すと」
「それもございます」
「それだけではないのでしょうな」
官兵衛は恵瓊を見る。
「昨日の敗北を冷静に考えられるようになれば、今日より条件を呑ませにくくなる。だから、その前に話をまとめてしまいたい。違いますか」
「否定はいたしません」
官兵衛が素直に認めると、元春が鼻を鳴らした。
「最初から足元を見るつもりか」
「好機を待っていただけでございます」
「それを足元を見ると言うのだ」
元春の声には明らかな苛立ちがあったが、官兵衛は反論しなかった。
今日ここで必要なのは、相手を言い負かすことではない。
毛利に条件を呑ませることだった。
輝元が口を開いた。
「それで、林道家は何を望んでおる」
ようやく本題に入った。
官兵衛は懐から一通の書状を取り出したものの、まだ渡さず、自分の前へ置いた。
「毛利家との同盟を望んでおります」
意外だったのか、元春が眉を寄せる。
輝元もすぐには答えず、隆景へ視線を向けた。
その中で、恵瓊だけが官兵衛の前に置かれた書状を見ていた。
「同盟ですか」
「はい」
「それだけならば、わざわざ我ら全員を急いで集める必要はありますまい」
官兵衛は小さく頷いた。
「もちろん、条件がございます」
「でしょうな」
恵瓊はそれ以上何も言わなかった。
官兵衛はまず、一つ目の条件を告げた。
「今後、林道家から出兵を求めた場合、毛利家には兵を出していただきます」
元春がすぐに反応する。
「我らを林道の兵として使うつもりか」
「家臣になっていただくわけではございません。同盟者として、必要な時には力を貸していただきたいということです」
「同盟ならば、双方が同じように助け合うものではないのか」
元春の問いに、官兵衛はまだ答えなかった。
「その話は後ほど。まずは最後まで条件をお聞きください」
元春は不満そうだったが、隆景が目で制したことで口を閉じた。
官兵衛は続ける。
「二つ目。今後、毛利家は林道家、宇喜多、播磨方面へ無断で兵を進めないこと。何らかの事情により、どうしてもこちら側へ軍を動かさなければならない場合には、事前に知らせていただきます」
「許可を求めろということですか」
隆景が確認する。
「いいえ。理由と兵数、向かう先を事前に知らせていただければ結構です」
隆景はしばらく考えてから、静かに頷いた。
今回のような侵攻を二度と許さないための条件であることは、誰の目にも明らかだった。
「そして三つ目」
官兵衛は傍らに置かれていた地図へ手を伸ばした。
その指が、中国地方からさらに西へ進む。
「林道家は今後、九州平定へ向けて動きます」
今度は四人全員が地図を見た。
「九州へ進むというのか」
輝元が尋ねる。
「そのつもりにございます」
「この戦が終わったばかりだぞ」
「だからこそ、今から準備を始めます」
官兵衛は地図の上から指を離さなかった。
「その際、毛利家にも力を貸していただきたい。兵を出していただくのはもちろん、兵糧、輸送、船、情報。その時々で必要となる軍事、内政両面の協力を求めます」
元春の表情がさらに険しくなる一方、隆景と恵瓊は別のところを見ていた。
九州。
林道家が次にそこへ向かうのであれば、毛利の位置は極めて重要になる。
だからこそ、官兵衛が毛利を滅ぼすのではなく、同盟という形で残そうとしている理由も見え始めていた。
「ただし」
官兵衛が続ける。
「働きに応じた恩賞はお約束いたします。九州平定が成った暁には、毛利家が果たした役割に応じて、相応のものをお返しいたします」
「領地も含まれるのですか」
隆景が尋ねた。
「功に見合うのであれば」
「口約束では困ります」
「それについては、書状に残しましょう」
隆景はそれ以上追及しなかった。
ここまで黙って聞いていた恵瓊が、そこで初めて体をわずかに前へ傾けた。
「では、こちらからも確認させていただきます」
「どうぞ」
「毛利は林道家の求めに応じて兵を出す。九州平定にも協力する。ならば逆に、毛利が他家から攻められ、林道家へ救援を求めた場合にはどうなります」
元春も輝元も官兵衛を見る。
官兵衛は少しも迷わなかった。
「救援の要請を受けたうえで、その時の状況を見て判断いたします」
元春が目を見開いた。
「待て。それでは話が違うではないか」
「何がでしょう」
「我らには兵を出す義務を負わせる。それなのに、そちらは我らを助けると約束せぬのか」
「その通りにございます」
元春の拳に力が入った。
「それのどこが同盟だ」
怒声こそ上げなかったが、声には先ほどまで以上の怒気が滲んでいた。
恵瓊も険しい表情をしている。
「官兵衛殿。それでは対等とは申せません。毛利だけが義務を負い、林道家は必要な時だけ我らを使うことになる」
「対等ではございません」
今度は、隆景まで官兵衛を見る。
官兵衛は静かに続けた。
「今回の戦が起きる前であれば、対等な条件について話すこともできたでしょう。しかし、昨日の戦をなかったことにはできません」
「勝者だから、より多くを求めると?」
隆景の問いに、官兵衛は頷いた。
「はい」
そこを取り繕うつもりはなかった。
「勝った側が何も得ず、敗れた側が何も失わないのであれば、昨日死んだ兵たちは何のために戦ったのでしょう」
その言葉に、部屋が静かになった。
官兵衛は少し間を置いてから続ける。
「もっとも、毛利家を滅ぼそうとは考えておりません。毛利ほどの力を持つ家を完全に潰すためには、こちらも相応の犠牲を払わねばならない。それよりも、今後はその力を我らとともに使っていただきたい」
「毛利はまだ戦える」
元春が低く言った。
「昨日一度敗れた程度で、我らが力を失ったと思うな」
「思っておりません」
官兵衛は元春から目を逸らさなかった。
「領国へ戻れば、兵を集め直すこともできましょう。城もある。毛利家そのものが揺らいだわけではございません」
「ならば――」
「だからこそ、昨日のうちにもっと削っておくべきだった、と考えることもできます」
元春の言葉が止まった。
部屋の空気が、目に見えないほど静かに変わっていく。
官兵衛は声を荒らげることなく尋ねた。
「昨日、退かれた時のことを覚えておられますか」
元春は答えない。
「左には正則殿と利家殿、右には清正殿と成政殿。中央には宇喜多勢がおり、さらに後方からは、ほとんど消耗していない信孝様の軍が到着しておりました」
毛利の四人が黙って聞いている。
「それでも、西への道だけは最後まで空いていた」
隆景の目が細くなった。
「……意図して空けていたのですか」
「景継様のご命令にございます」
今度は元春が官兵衛を睨んだ。
「我らを逃がしたと言いたいのか」
「少なくとも、西を塞ぐことはしませんでした」
「もし塞いでおれば、我らとて死に物狂いで戦ったぞ」
「ええ」
官兵衛はすぐに認めた。
「こちらにも、さらに多くの犠牲が出たでしょう」
景継が退路を残した本当の理由を、官兵衛は知っている。
勝敗がほぼ決した戦で、これ以上味方を死なせる必要はない。
一人でも多く、生きて帰す。
だから景継は、毛利が逃げられる道を残した。
しかし、それを今ここで毛利へ教える理由はなかった。
「こちらにも被害は出た。それでも信孝様の新手を西へ回し、退路まで塞いでいたならば、毛利の兵も無事では済まなかったでしょう」
官兵衛の声は、最後まで変わらなかった。
「昨日、我らはそこまでしなかった。ただ、それだけのことでございます」
恵瓊がじっと官兵衛を見る。
「……それを持ち出して、我らに条件を呑ませるつもりですか」
官兵衛はすぐには答えず、向かいに座る四人の顔を順に見た。
元春の怒りは消えていない。隆景は何かを考えるように黙り込み、輝元もまた、先ほどより険しい表情でこちらを見ている。
「昨日の勝敗を、今日の話から切り離すことはできませぬ」
「それは分かっております」
恵瓊の声には、もはや先ほどまでの苛立ちはなかった。
「ですが、官兵衛殿は先ほどから妙な言い方をされる。林道家は毛利を滅ぼそうとはしていない。景継殿は我らの退路まで残した。それでいて、出される条件は毛利にとって厳しいものばかりです」
官兵衛は黙って聞いていた。
恵瓊はその沈黙に構わず続ける。
「要するに、こういうことでしょう。もう一度戦わせるな。その代わり、今後は林道家に力を貸せ、と」
官兵衛がわずかに頷いた。
「概ね、その通りにございます」
恵瓊の目が細くなる。
「……やはり、そこですか」
長い付き合いがあるからこそ、それ以上の説明はいらなかった。
官兵衛が欲しいのは毛利の滅亡ではない。
毛利という大きな勢力を残したまま、その力の向きを変えることだった。
これまで東へ向けられていた毛利の力を、今度は林道家とともに西へ向ける。そのために昨日の敗戦を使い、毛利が立て直すより早く条件を呑ませようとしている。
恵瓊はしばらく官兵衛を見つめた後、ゆっくりと息を吐いた。
「ようやく、昨日のうちに使者を寄越した理由が見えました。休む暇さえ与えるつもりがなかったのですな」
官兵衛は答えなかった。
その沈黙こそが、恵瓊の言葉を肯定していた。
やがて輝元が口を開く。
「条件は、それだけか」
官兵衛は輝元を見た。
その一瞬の間だけで、恵瓊の表情が変わった。
「……まだあるのですな」
「はい」
官兵衛は自分の前に置いていた書状を持ち上げ、輝元の前へ差し出した。
「最後に、もう一つございます」
輝元が書状を受け取り、開く。
数行を読んだところで、その手が止まった。
「……備後?」
元春が顔を上げる。
「何?」
「備後を、林道家へ割譲せよとある」
次の瞬間、元春の手が畳を強く打った。
「ふざけるな!」
それまで抑えられていた怒りが、ついに弾けた。
「兵を出せ、東へ兵を動かすな、九州へ行く時には力を貸せ。そのうえ、我らの領地まで差し出せというのか!」
官兵衛は元春の怒声を正面から受けても、姿勢を変えなかった。
「備後は渡せぬ!」
「元春殿」
隆景が兄を制したものの、その隆景自身の顔にも険しさが浮かんでいた。
「官兵衛殿。これは受け入れ難い」
「理由を伺っても?」
「聞くまでもありますまい。備後は毛利にとって重要な地です。それを丸ごと渡せと言われて、簡単に頷けるはずがない」
「承知しております」
「ならば、なぜこの条件を出すのです」
今度は恵瓊が尋ねた。
官兵衛は地図へ手を伸ばした。
指先が備後に置かれ、そこからさらに西へ動いていく。
「先ほど申し上げた通り、我らは九州へ進みます。そのためには西へ兵を送り出すための足場が必要です。兵を集め、兵糧を蓄え、必要な時にはさらに西へ進める土地を持っておきたい」
「それは林道家の都合でしょう」
恵瓊の言葉に、官兵衛は頷いた。
「その通りにございます」
「毛利にとって備後を失う痛みは、それとは比べものになりませぬ」
「それも承知しております」
「承知したうえで寄越せと?」
「はい」
今度ばかりは、部屋にいる誰もすぐには言葉を返さなかった。
官兵衛は、ここで譲るつもりがない。
そのことだけは全員に伝わった。
やがて輝元が静かに尋ねた。
「理由は、勝ったからか」
「それだけではございません。今後のために備後が必要だからです」
官兵衛はそこで一度言葉を切り、輝元の目を正面から見た。
「そして必要なものを求められる機会を、昨日の勝利によって我らが得た。それだけのことでございます」
輝元は黙った。
元春は今にも席を立ちそうな顔をしている。
その隣で隆景は地図を見つめたまま、何かを考えていた。
恵瓊だけは官兵衛から目を離さない。
しばらくして、その恵瓊が口を開いた。
「官兵衛殿」
「はい」
「先ほどから、毛利にばかり譲れと仰っている」
「そうなります」
「ならば、こちらからも条件を出させていただきたい」
官兵衛の目が、ほんのわずかに変わった。
ここまで毛利は、提示された条件を拒む側だった。
だが今、恵瓊は初めて、何を得れば条件を受け入れられるのかという話へ踏み込んだ。
交渉が次の段階へ進んだのだ。
「お聞きいたしましょう」
官兵衛は姿勢を正した。
恵瓊はすぐには話さず、元春、隆景、そして輝元へ順に目を向けた。
毛利の中でも意見は同じではない。
備後など断じて渡せぬと考える者もいる。
昨日の敗北を考えれば、どこかで折り合いをつける必要があると理解している者もいる。
その全員を背負ったうえで、恵瓊は再び官兵衛へ向き直った。
「備後を渡せと言われるのであれば――」
その声から、先ほどまでの苛立ちは消えていた。
「毛利にも、それに見合うものを求めさせていただきます」
官兵衛は黙って続きを待った。
戦場では、景継が勝った。
その勝利によって、毛利をこの席へ座らせることができた。
だが、ここから先は別の戦になる。
昨日まで槍を握っていた手は、今は膝の上に置かれている。
怒声が上がっても血は流れない。
それでも、ここで交わされる一言が、昨日の戦場で動いた何千という兵より大きく国の形を変えることもある。
毛利が何を求めるのか。
そして、その中から何を与え、何を拒むのか。
官兵衛は恵瓊の次の言葉を待ちながら、すでにその先を考え始めていた。




