第二百十六話 戦の続き
毛利勢を西へ退けた翌朝、宇喜多方の陣には久しぶりに穏やかな朝が訪れていた。
もっとも、戦が終わったからといって、すぐに普段の静けさが戻るわけではない。陣のあちこちでは負傷兵の手当てが続き、昨夜から戻ってきた各隊の兵たちが泥に汚れた具足を外している。炊き出しの湯気が立ち始めた一方で、戦死した者の名を確認する声も聞こえていた。
勝った。
その事実に疑いはない。
だが、戦場を離れたところでようやく実感するものもある。
景継は本陣へ届いた各隊の報告に目を通しながら、何度か手を止めていた。
昨日まで自分の命令を聞いていた者の名が、今日は戦死者として記されている。
その事実だけは、何度経験しても慣れるものではなかった。
「……こちらの負傷者は、宇喜多の方々と分けずに手当てしてください。薬が足りなければ、こちらの分を回して構いません」
「はっ」
兵が頭を下げて立ち去る。
その背を見送った景継は、再び手元の書状へ目を落とそうとした。
「景継様」
声をかけてきたのは官兵衛だった。
「官兵衛殿。どうしました?」
官兵衛は景継の前まで来ると、いつもと変わらぬ穏やかな表情で頭を下げた。
「毛利へ使者を出したく存じます」
景継の手が止まった。
「……もうですか?」
昨日、毛利を退けたばかりである。
こちらはまだ損害すら完全には把握できていない。毛利側に至っては、敗走した兵を集めるだけでも時間が必要なはずだった。
だが、官兵衛は迷わなかった。
「今だからこそにございます」
その言葉を聞いて、景継は手元の書状を置いた。
「理由を聞いても?」
「もちろんでございます」
官兵衛は景継の前へ座ると、傍らに置かれていた地図を広げた。
「毛利は敗れました。しかし、毛利家そのものが滅んだわけではございません。領国へ戻り、兵を集め、態勢を整える時間を与えれば、再び我らと向き合う余裕も生まれましょう」
地図の上を官兵衛の指が西へ進む。
「ですが、今は違います。宇喜多領への侵攻に失敗し、我らの追撃を受け、最後には新手の信孝様の軍まで目の前に現れた。兵は疲れ、将も今回の敗北がどれほどのものだったのかを理解しているはずです」
「……敗れた直後に話をする方がいいということですか」
「はい」
官兵衛は即答した。
「人は時が経てば、都合の悪いことを小さく考え始めます。あの時は運が悪かっただけだ、もう一度なら違う結果になったはずだ、と。しかし今なら、昨日味わった恐怖も、目の前で崩れた戦列も、まだ鮮明に残っております」
官兵衛の指が地図の上で止まった。
「この機を逃す理由がございません」
景継は官兵衛の顔を見つめた。
戦場でもそうだった。
官兵衛は好機を見つければ、その瞬間に次の手を考える。相手が立て直すまで待つようなことはしない。
どうやら、それは戦だけではないらしい。
「それで、毛利と何を話すつもりですか?」
景継が尋ねると、官兵衛の表情がわずかに変わった。
笑ったわけではない。
だが、その目を見た瞬間、景継には嫌な予感がした。
「今後について、少々」
「……少々、ですか」
「はい」
景継はしばらく官兵衛を見つめた。
「官兵衛殿」
「何でございましょう」
「また私に何も言わず、何か決めようとしていませんか?」
ほんの一瞬、官兵衛が黙った。
昨日の信孝軍の件がある。
景継の視線を受け、官兵衛は少し困ったように笑った。
「昨日、話すようにと申しつけられたばかりでございます。さすがに同じことはいたしませぬ」
「それなら、先に聞かせてください」
「承知いたしました」
官兵衛は地図を自分の方へ引き寄せた。
「まず、毛利との争いをここで終わらせます」
景継は頷いた。
それ自体に異論はない。
毛利をさらに西へ追い続ければ、今度はこちらが毛利の領域へ深く入ることになる。勝ったとはいえ、味方にも損害が出ている以上、際限なく戦を続ける理由はなかった。
「ただし」
官兵衛の声が少し低くなった。
「ただ終わらせるつもりはございません」
景継は黙って続きを待った。
「今回、攻めてきたのは毛利です。そして勝ったのは我らにございます。であれば、以前と同じ関係へ戻るだけでは、戦った意味がございません」
官兵衛はそう言うと、地図上の毛利領へ指を置いた。
「毛利とは同盟を結んでいただきます」
「同盟ですか」
「はい。ただし、対等なものではございません」
景継の眉がわずかに動いた。
官兵衛は気にする様子もなく続ける。
「今後、林道家から出兵を求めた場合、毛利には兵を出してもらいます」
最初から軽い条件ではなかった。
「さらに、毛利は今後、我らの側へ勝手に兵を進めない。何らかの事情によって、どうしてもこちらへ軍を動かす必要がある場合には、事前に知らせてもらいます」
景継は少し考えてから尋ねた。
「こちら側というのは、どこまでを考えていますか?」
「少なくとも、林道家と宇喜多、そして播磨方面にございます。細かな範囲については交渉の席で詰めればよろしいかと」
官兵衛はそこで一度言葉を切った。
「そして、もう一つ。九州です」
景継の目が地図の西へ向かう。
次に進むべき場所。
いずれ避けて通ることのできない地だった。
「九州平定へ向けて動く際、毛利には協力していただきます。兵を出すだけではございません。兵糧、輸送、情報、必要であれば船も含め、軍事と内政の双方から我らを支えてもらうつもりです」
「かなり求めますね」
「敗戦とは、そういうものでございましょう」
官兵衛は平然と答えた。
景継は少しだけ苦笑した。
「ただし、協力した分には報いましょう」
官兵衛が景継を見る。
「毛利が九州平定で働いてくれたのであれば、勝利した後、その働きに応じた恩賞は出します。何も与えずに働かせ続ければ、いずれ必ず不満が出ます」
「異存ございません」
官兵衛はすぐに頷いた。
「景継様なら、そう仰ると思っておりました」
「そこまで考えていたのなら、最初から入れていたのではありませんか?」
景継が尋ねると、官兵衛は答えずに薄く笑った。
どうやら図星らしい。
だが、その表情はすぐに消えた。
「そして――備後をいただきます」
景継の視線が止まった。
今までとは意味が違う。
出兵や進軍の制限は約束事だが、これは領地そのものを毛利から切り取る話になる。
「備後を、ですか」
「はい」
官兵衛の指が地図上の備後を示す。
「我らはこれから西へ進みます。九州を見据えるのであれば、今後のためにも西方へ足場を持っておく方がよろしいでしょう」
理屈は分かる。
だが毛利が簡単に認める条件ではない。
「毛利は拒むでしょうね」
「当然でしょうな」
官兵衛はあっさり認めた。
「怒るかもしれません」
「怒るでしょうな」
「交渉そのものを打ち切る可能性もあります」
「それは困ります」
言葉とは裏腹に、官兵衛の顔には困った様子など微塵もなかった。
景継は思わず息を吐いた。
「それでも要求するのですね」
「はい」
即答だった。
「取れる時に取らなければ、後から同じものを得るために、また兵の命を使うことになります」
その言葉に、景継は返事をしなかった。
昨日、自分が戦場で考えていたことと、不思議なほど繋がっていた。
一人でも多く、生きて帰したい。
そのために敵の退路を残した。
官兵衛は今、その勝利を使って、次の戦を減らそうとしている。
方法は景継よりも、ずっと容赦がない。
だが、目指している結果まで違うとは限らなかった。
「こちらから毛利を助ける場合については?」
景継が尋ねる。
官兵衛は少し考えてから答えた。
「毛利から救援を求められた場合、その都度こちらで判断する形がよろしいかと」
景継は官兵衛を見る。
「毛利には出兵を求めておいて、こちらは必ず助けるとは約束しないのですか?」
「はい」
また即答だった。
「……かなり一方的ですね」
「勝ったのはこちらですから」
官兵衛の声には迷いがなかった。
景継は地図へ視線を落とした。
毛利に出兵義務を負わせる。
こちらへの無断進軍を禁じる。
九州平定へ協力させる。
備後を割譲させる。
その一方で、毛利から救援を求められても、林道家が必ず兵を出すとは約束しない。
対等な同盟とは、とても呼べない。
「毛利が、それを同盟とは呼べないと言ってきたらどうします?」
景継の問いに、官兵衛はわずかに口元を緩めた。
「それは毛利の方々がお決めになることにございます」
「……と言いますと?」
「我らは同盟を提案します。受け入れるかどうかは毛利が決めればよろしい」
穏やかな声だった。
だが、景継はその先にある言葉を察した。
断る自由はある。
ただし、断った後に何が起こるかまでは保証しない。
官兵衛は、そう言っている。
「景継様」
官兵衛の指が、地図上をゆっくりと西へ動いた。
「昨日、毛利の兵が逃げていった道を覚えておられますか?」
「もちろんです」
「あの道は、偶然空いていたわけではございません」
景継の表情が変わった。
ようやく官兵衛が何をするつもりなのか分かった。
「……まさか」
「はい」
官兵衛は穏やかに頷いた。
「使わせていただきます」
「何をですか?」
分かっていながら、景継は聞いた。
「景継様が、毛利を逃がしたという事実を」
景継はしばらく言葉を失った。
「私が退路を残した理由は、官兵衛殿も知っていますよね?」
「もちろん存じております」
「こちらの被害を増やしたくなかったからです」
「はい」
「それを毛利には?」
「伝える必要がございますか?」
あまりにも平然と返され、景継は言葉に詰まった。
官兵衛は地図を畳み始める。
「嘘を申すつもりはございません。西への退路を残したのは景継様です。信孝様の軍を回せば、さらに毛利を追い詰めることができたのも事実。こちらが追撃を止めたのも事実にございます」
一つ一つは、すべて本当だった。
「ならば、その事実をどう受け取るかは、毛利の方々にお任せすればよろしいでしょう」
景継は目の前の男を見た。
官兵衛の表情は、いつもと変わらない。
穏やかで。
静かで。
それなのに、昨日の戦場で敵と向かい合っていた時より、今の方がよほど恐ろしく見える。
「……官兵衛殿」
「はい」
「最初から、ここまで考えていましたか?」
官兵衛は少しだけ考えるような素振りを見せた。
「昨日、毛利が西へ逃げ始めた辺りからでしょうか」
「戦が終わる前ではないですか」
「終わることは分かっておりましたので」
悪びれる様子もない。
景継は呆れたように息を吐いたが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
この男は、やはり使える。
そして同時に、決して目を離してはいけない。
改めてそう思った。
「分かりました」
景継が言う。
「交渉をお願いします」
「承知いたしました」
「ですが、官兵衛殿」
立ち上がろうとした官兵衛が止まる。
「毛利を必要以上に追い詰めるつもりはありません。こちらの目的は、毛利を滅ぼすことではありませんから」
「心得ております」
官兵衛は深く頭を下げた。
「戦わずして、我らの力になっていただく。それで十分にございます」
その言葉を残し、官兵衛は陣を出ていった。
景継はその背中をしばらく見送っていた。
戦は昨日、終わった。
少なくとも景継はそう思っていた。
だが官兵衛にとっては、違ったらしい。
槍を置いたからといって、戦が終わるわけではない。
兵が戦場で得た勝利を、領地へ変える。
約定へ変える。
そして次の戦で使える力へ変える。
そこまで終えて、初めて一つの戦が終わる。
景継は畳まれた地図へ目を落とした。
昨日、毛利へ残した一本の逃げ道。
味方を一人でも多く生かすために作ったその道が、今度は官兵衛の手によって、毛利を追い詰める道具へ変わろうとしていた。
その日のうちに、毛利の陣へ一騎の使者が向かった。
伝えられた言葉は短い。
林道家は、毛利家との今後について話し合う用意がある。
敗戦から、まだ一日。
毛利が立て直すよりも早く。
黒田官兵衛は、次の戦を始めた。




