第二百十五話 軍師の独断
毛利勢が西へ退いてから、しばらくの時が過ぎていた。
先ほどまで怒号と金属音に満ちていた戦場には、少しずつ別の声が増え始めている。負傷者を呼ぶ者、散らばった兵を集める者、倒れた仲間の名を呼ぶ者。勝鬨はすでに収まりつつあり、戦場には勝利の喜びよりも、戦いが終わった後にしか訪れない重い空気が広がっていた。
景継も馬を降りていた。
周囲では兵たちが慌ただしく動いている。毛利が退いたとはいえ、まだ完全に気を抜くことはできない。追撃に出た隊からの報告を待ち、負傷者を収容し、各隊の損害も確認しなければならなかった。
そんな中、景継の少し前には官兵衛が立っていた。
「それで、官兵衛殿」
景継が口を開く。
「いつ、信孝様と話をされたのですか?」
先ほどと同じ問いだった。
どうやら有耶無耶にはできないと悟ったらしく、官兵衛は小さく息を吐いた。
「毛利が宇喜多領へ深く入り始めた頃にございます」
景継の眉がわずかに動いた。
思っていたより早い。
今回の追撃が始まってからではない。まだ宇喜多領を守り切れるかどうかさえ定かではなかった時点で、官兵衛はその先を考えていたことになる。
「その頃から、信孝様の軍をこちらへ呼ぶつもりだったのですか?」
「いいえ」
官兵衛は首を振った。
「呼べるのであれば、という話をしておいただけにございます」
「呼べるのであれば?」
「はい。当時、信孝様の軍を播磨から動かすわけにはまいりませんでした」
景継もそこは分かっている。
毛利の狙いが宇喜多だけとは限らなかった。宇喜多領へ攻め込みながら、別働隊を播磨へ向ける可能性もあった以上、信孝の軍には後方を守る役目があった。
宇喜多を救うために播磨を空にし、そこを毛利に突かれたのでは意味がない。
「ですが、宇喜多領から毛利を追い出すことができれば状況は変わります」
官兵衛は地面へ視線を落とすと、足元の土へ指で簡単な線を引いた。
「毛利がこちらへ攻め込んでいる間は、播磨にも備えが必要です。しかし毛利の主力を宇喜多領から押し返し、我らが追う側になれば、少なくとも大軍が突然播磨へ雪崩れ込む危険は大きく減ります」
もう一本、線を引く。
「そこで私は信孝様に申し上げました。もし景継様が宇喜多領を守り切り、毛利を西へ追い返すところまで持っていったなら、その時は播磨で動かせる兵の大半を率いて来ていただきたい、と」
景継は黙って土の上の線を見ていた。
なるほど。
理屈は通っている。
それどころか、あの時点でそこまで考えていたのなら、官兵衛の読みは見事と言うほかなかった。
毛利が宇喜多へ攻め込んでくる。
それを押し返す。
さらに追撃へ転じる。
そこまで戦況が進んだ時に、初めて播磨に置いていた兵を動かせる。
官兵衛は今回の戦そのものではなく、その先に訪れる状況を予測して信孝に話を通していたのだ。
「ただ、一つ分かりません」
景継が顔を上げる。
官兵衛も景継を見た。
「なぜ私には話さなかったのですか?」
官兵衛はすぐには答えなかった。
戦場を風が抜けていく。
少し離れたところでは、負傷した兵が仲間の肩を借りながら歩いていた。その向こうを、宇喜多の兵たちが忙しく行き交っている。
やがて官兵衛が口を開いた。
「確実ではなかったからにございます」
「確実ではない?」
「信孝様に話をした時点では、そもそも我らが毛利を宇喜多領から追い出せるかどうかも分かりませんでした。信孝様にも、必ず出ていただけるという約束をいただいたわけではございません」
官兵衛は少し困ったような顔をした。
「使えるかどうかも分からぬ手をお伝えして、景継様の考えを余計に乱す必要はないと思いました」
景継はその言葉を聞いて、しばらく何も返さなかった。
怒っているわけではない。
むしろ、官兵衛らしいと思った。
使えるか分からない。
ならば、使えるようになるまで黙っておく。
そして条件が揃った瞬間に出す。
軍師として考えれば、理にかなっている。
だが。
「官兵衛殿」
「はい」
「次からは、話してください」
官兵衛が少し目を見開いた。
景継の声に怒気はなかった。
「使えるかどうか分からない手でも構いません。私の考えが乱れるかどうかは、私が判断します」
「……なるほど」
「それに」
景継は少しだけ間を置いた。
「官兵衛殿が何を考えているのか分からない方が、私は困ります」
官兵衛が黙った。
景継は続ける。
「今回の策が悪かったと言っているわけではありません。むしろ、助けられました。あの時に信孝様の軍が来てくださらなければ、毛利を崩すまでにもっと多くの兵を失っていたでしょう」
だからこそだった。
これほどの男が、自分の知らないところで別の手を動かしている。
それが味方として働いているうちは心強い。
だが、景継は官兵衛という男を完全に信用し切っているわけではない。
以前から変わらない。
互いに利用する。
必要だから近くに置き、能力があるから任せる。
だからこそ、その考えが見えなくなることだけは避けたかった。
「私も、官兵衛殿の考えをすべて縛るつもりはありません」
景継は官兵衛をまっすぐ見た。
「ただ、何か仕込むのであれば、一言だけでも教えてください。それで十分です」
しばらく沈黙したあと、官兵衛が頭を下げた。
「承知いたしました」
「本当ですか?」
景継が尋ねると、官兵衛が顔を上げた。
「信用がございませぬな」
「今回、黙っていた方に言われても困ります」
官兵衛が一瞬だけ言葉に詰まった。
やがて、その口元に苦笑が浮かぶ。
「これは一本取られました」
景継もほんの少しだけ表情を緩めた。
「次はお願いします」
「肝に銘じます」
その時だった。
「景継殿!」
聞き覚えのある声が飛んできた。
景継が振り返ると、数騎の兵を連れた信孝がこちらへ向かってくる。戦場へ到着してからすぐに軍を動かしたため、まともに言葉を交わすのはこれが初めてだった。
「信孝様」
景継が頭を下げる。
信孝は馬を降りると、官兵衛を一度見たあと景継へ向き直った。
「間に合ったようだな」
「はい。本当に助かりました」
景継は素直に礼を述べた。
「信孝様の軍が来てくださったおかげで、毛利を必要以上に追い詰めずに崩すことができました」
「俺は言われた通りに兵を連れてきただけだ」
信孝はそう言ったが、その表情には隠し切れない安堵があった。
「官兵衛から話を聞いた時は、本当にそんな時が来るのかと思ったがな」
景継が官兵衛を見る。
「やはり、かなり前から話していたのですね」
「……先ほど申し上げた通りにございます」
官兵衛が少しだけ目を逸らす。
信孝が二人を見比べた。
「何だ。景継殿は知らなかったのか?」
「先ほど知りました」
「官兵衛、お前……」
信孝まで呆れた顔を向ける。
官兵衛は咳払いを一つした。
「結果として、うまくいきましたので」
「そういう問題ではありません」
景継がすぐ返すと、信孝が声を上げて笑った。
「はははっ! 官兵衛、お前でも景継殿には叱られるのだな」
「叱られているわけではございません」
官兵衛が反論する。
景継は少し考えてから口を開いた。
「注意はしています」
「景継様まで……」
先ほどまで血と怒号に包まれていた戦場とは思えないやり取りだった。
だが景継は、こういう時間が戻ってきたことに、わずかな安堵を覚えていた。
戦が終わったのだ。
少なくとも今は。
誰かが次の敵へ向かって走る必要はない。
そこへ、さらに人影が集まってきた。
最初に姿を見せたのは秀家だった。
その後ろには弥兵衛がおり、少し遅れて正則、清正、利家、成政もそれぞれの供を連れてやってくる。
「景継殿」
秀家が近づくと、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
景継は少し驚いた。
「秀家殿?」
「景継殿たちが来てくださらなければ、宇喜多はどうなっていたか分かりません」
秀家の声には、戦場で兵を鼓舞していた時とは違う震えがあった。
「領地だけではありません。多くの家臣や民まで失っていたでしょう。私は……」
言葉が止まる。
景継は急かさなかった。
秀家はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた。
「この恩は忘れません」
景継はその言葉を受け止めてから、静かに首を振った。
「私一人の力ではありません」
そして周囲を見る。
「正則殿と利家殿が左を押してくださり、清正殿と成政殿が右を支えてくださった。弥兵衛も中央を守ってくれました。そして何より、秀家殿と宇喜多の皆さんが最後まで踏みとどまったからこそです」
「おい」
正則が不満そうに声を上げた。
「俺は押しただけじゃないぞ。かなり斬ったからな」
「そこを誇るな」
利家がすぐ横から言う。
「事実だろ!」
「貴様は少し黙っておれ」
「何でだよ!」
清正が二人を見ながら笑い、成政は呆れたように肩をすくめた。
弥兵衛もつられて笑っていた。
その光景を見ながら、景継は不思議な感覚を覚えていた。
少し前まで。
皆、命を懸けて戦っていた。
誰か一人でも判断を誤れば、この中の誰かがここにいなかったかもしれない。
そう考えると、胸の奥がわずかに重くなる。
だからこそ、今こうしてくだらない言い合いをしていることが、景継にはありがたかった。
「殿」
弥兵衛が近づいてくる。
「何ですか?」
「いや、その……」
珍しく歯切れが悪い。
景継が待っていると、弥兵衛は頭を掻いた。
「勝てて、よかったですね」
それだけだった。
景継は一瞬だけ目を瞬かせる。
もっと何か言うのかと思った。
だが、弥兵衛の顔を見れば、それ以上は必要ない気がした。
「はい」
景継は頷いた。
「本当に、よかったです」
弥兵衛が笑った。
景継も、今度はほんの少しだけ笑った。
戦には勝った。
毛利を宇喜多領から追い出し、追撃でもその軍を崩した。
だが、これで全てが終わったわけではない。
毛利という大勢力そのものが消えたわけでもなく、この勝利によって西国の均衡は大きく動くことになる。
そして何より。
景継自身の勢力も、もう以前と同じではいられない。
これほどの兵を動かし、織田の武将たちと肩を並べ、宇喜多を救い、毛利の大軍を退けた。
その事実を。
周囲が放っておくはずがなかった。
景継は西の空へ目を向けた。
毛利勢が退いていった先には、まだ多くの国がある。
今回の勝利が何を生むのか。
それは、まだ分からない。
ただ一つ。
これまでとは違う何かが動き始めていることだけは、景継にも感じられていた。




