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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第二百十四話 最後の一手



地を揺らすような足音とともに、丘の向こうから織田の旗が次々と姿を現した。


一つや二つではない。幾重にも連なる旗の下を、槍を携えた兵たちが隊列を組んで進んでくる。宇喜多領での戦いから毛利への追撃まで、幾度となく敵とぶつかってきた景継たちとは違い、その足取りにはまだ力が残っていた。


播磨を守るため、これまで動かすことのできなかった織田信孝の軍勢。


官兵衛が密かに用意していた、最後の一手だった。


「おおおおおおおっ!」


信孝軍から上がった鬨の声が戦場まで届くと、毛利勢の中にざわめきが広がった。


「新手だ!」


「織田勢が来たぞ!」


「まだ、あれほどの兵を残していたのか……!」


戦い続けてきた毛利の兵からすれば、たまったものではないだろう。ようやく敵の勢いを受け止め、どうにか退こうとしていたところへ、ほとんど消耗していない軍勢が現れたのだ。


それまで前方だけを見ていた兵たちが、何度も後ろを振り返り始める。


景継は、その小さな変化を見逃さなかった。


左では、正則が利家に側面を支えられながら毛利勢へ食らいつき、右では清正と成政が互いの隙を補うように戦線を押している。中央では秀家率いる宇喜多勢が踏みとどまり、その後方では弥兵衛が崩れかけた箇所へ兵を送り続けていた。


誰もが、もう十分すぎるほど戦っている。


その一方で、今到着した信孝軍には力が残っている。


この差をどう使うか。


景継が戦場を見渡していると、近くにいた武将が興奮を隠し切れない様子で馬を寄せてきた。


「殿、今ならば信孝様の軍を西へ回せます」


景継が視線だけを向けると、その武将は毛利勢の後方を指した。


「敵の退路を断つのです。あれほどの新手があれば、毛利をここで包み込めます。この機を逃す手はございませぬ」


周囲にいた者たちも、もっともだという顔をした。


毛利勢はすでに押されている。そこへ新手の信孝軍が現れたのだから、後ろへ回して逃げ道を断てば、敵を一網打尽にできるように見える。


だが、景継は静かに首を振った。


「いえ、退路は塞がぬようにしてください」


武将は思わず景継を見返した。


「……塞がぬのでございますか?」


「はい。むしろ、逃げ道は残しておきます」


「しかし、殿。ここで逃がしてしまえば、せっかく追い詰めた毛利を――」


「追い詰めているからこそです」


景継は毛利勢を見据えたまま、落ち着いた口調で続けた。


「人は逃げ道があるうちは、生きるためにそこへ向かおうとします。ですが、逃げられぬと悟れば話は違います。生き残るためには、目の前の敵を倒すしかなくなる」


死ぬしかないと思った兵と、逃げれば助かると思っている兵では、戦い方がまるで違う。


普段なら恐怖に負けて退く者でさえ、背後に死しかないと分かれば槍を握る。家族の顔を思い出す者もいるだろう。故郷へ帰りたいと願う者もいるだろう。そうした兵たちが生き残るために死に物狂いで向かってくれば、勝敗が傾いている今になって、こちらまで余計な血を流すことになる。


そこへ官兵衛が馬を進めてきた。


「以前にも、似たようなことをなさいましたな」


景継は官兵衛へ顔を向けた。


「覚えていましたか」


「もちろんでございます。敵を囲み切らず、あえて退く道を残しておく。景継様は昔から、敵を追い詰める際によく使われる」


官兵衛の口元には、わずかな笑みがあった。


景継自身、それは分かっていた。


これまでにも何度か使っている。目新しい策ではないし、今さら誰かを驚かせるようなものでもない。


それでも景継に、やり方を変えるつもりはなかった。


「同じ手でも構いません」


官兵衛が黙って次の言葉を待つ。


「戦は、奇策を披露するためにするものではありません。その時に最も効果のある手を使えばいい。何度使った策であろうと、それで敵を崩せるのであれば、わざわざ別の手を選ぶ必要はありません」


景継は再び戦場へ目を向けた。


「それに、このやり方が一番よく効きます」


その言葉には、前世から幾度も戦場を見てきた者としての確信があった。


だが、理由はそれだけではない。


景継の視線が、左から右へゆっくりと動いていく。


正則の鎧は泥と返り血に汚れ、利家の軍にも負傷者が増えている。右で戦う清正と成政も同じであり、中央の秀家は若い身で何度も危地に立ちながら、それでも兵の前から退かなかった。


弥兵衛もいる。


あの男も、ここまで何度戦ったことか。


景継は采配を握る手に、知らず力を込めていた。


勝敗は、すでにこちらへ傾いている。


ならば、敵を皆殺しにするためだけに、これ以上味方の命を賭ける必要はなかった。毛利を宇喜多領から退け、その軍を追い返すという目的を果たせるのであれば、それでいい。


できることなら、一人でも多く連れて帰りたい。


以前なら、それをただ「損害を抑えるため」と考えていたかもしれない。しかし今は、その言葉だけでは片づけられない自分がいることを、景継も分かっていた。


「伝令をお願いします」


「はっ!」


一騎が進み出る。


「信孝様へ。敵の退路そのものには入らず、南西から毛利の後方へ圧力をかけていただきたい、とお伝えください。ただし、西へ抜ける道だけは必ず残しておいてください」


「はっ!」


伝令が駆け出していく。


官兵衛はその背を見送りながら、しばらく何も言わなかった。


やがて信孝軍の動きが変わり始めた。


毛利勢の背後を完全に塞ぐようには進まず、南西へ大きく広がりながら後方へ圧力をかけていく。毛利から見れば、横腹を突かれかねない危険な動きだったが、西だけには明確な空間が残されていた。


その意味に、毛利の兵たちもすぐ気づいた。


「西が空いている!」


「まだ退けるぞ!」


誰かが叫ぶと、周囲の兵たちが一斉にそちらを見た。


景継はその様子を眺めながら、すぐには命令を出さなかった。


逃げ道を見つけただけでは、人はまだ逃げない。武士としての意地もあれば、命令を破る恐怖もある。何より、戦列が保たれているうちは、隣の者が踏みとどまる姿に引かれて自分も踏みとどまる。


だからこそ、もう一つ必要だった。


ここに残るより、逃げた方がいい。


そう思わせるだけの圧力が。


「左へ伝令を。正則殿と利家殿には、敵を西へ寄せるように押していただきます。ただし、敵の先へ回り込まぬように、と」


命を受けた伝令が駆けていく。


ほどなくして、左翼でも動きが始まった。


「逃がすのか?」


景継の命を聞いた正則は、いかにも不満そうな顔をした。


「ここまで追ってきたんだ。どうせなら全部ぶっ潰した方が早いだろ」


「だから貴様は、すぐそういう話になるのだ」


隣にいた利家が呆れたように言うと、正則はむっとして振り返った。


「じゃあ利家殿は、わざわざ敵を逃がす意味が分かるってのか?」


「少なくとも、景継殿が勝ち戦で意味もなく敵を逃がす男ではないことくらいは分かる」


利家はそう返すと、すぐに兵たちへ向き直った。


「前田勢、敵の外側を押さえよ! 正則の隊が押し込んだ敵を西へ寄せる!」


「応っ!」


正則はまだ何か言いたそうだったが、やがて大きく鼻を鳴らした。


「分かったよ。福島勢、押せ! ただし敵より先には出るな!」


福島勢が正面から圧力をかけ、その左側を前田勢が支えることで、毛利の兵たちは少しずつ西へ押し込まれていった。


同じ命令は右にも届いた。


清正が伝令の話を聞いている横で、成政はすぐに景継の意図を察したらしい。


「なるほど。袋の鼠にはせぬということか」


「追い詰めれば噛みついてくる、というわけですな」


清正が毛利勢へ視線を戻すと、成政も頷いた。


「ならば、逃げたい者には逃げてもらえばよい。我らはその背を押してやるだけだ」


二人の軍勢も動き始めた。清正が正面から敵を圧迫し、成政が外へ膨らもうとする兵を押し戻すことで、右側にいた毛利勢も次第に西へ寄せられていく。


中央にいた秀家は、しばらくして敵の様子がおかしいことに気づいた。


つい先ほどまで、毛利兵たちは自分たちだけを見ていた。それが今は、槍を構えながら何度も後ろを振り返っている。


「……逃げ道を見ているのか」


秀家が呟いたところへ、弥兵衛が馬を寄せてきた。


「秀家様、殿からの命です。中央も前へ出ますが、敵を囲まず、西へ押し出せとのこと!」


「やはり、そうか」


秀家は敵の後方へ目を向けた。


西だけが空いている。


その先に味方はいない。


景継が意図して残したのだと理解すると、秀家は小さく息を吐いた。


この戦では、何度も景継の戦い方を見てきた。


力で勝っているからといって、ただ押すわけではない。敵が何を恐れ、どこへ行きたいのかを見て、その気持ちまで戦場の一部として使う。


「弥兵衛」


「はい!」


「我らも押すぞ。ただし、逃げる者を追い越してはならぬ」


「承知!」


秀家が刀を掲げると、宇喜多勢が前進を始め、その後ろから弥兵衛の兵も歩調を合わせた。


左から正則と利家、右から清正と成政が押し込み、中央では秀家と弥兵衛が戦線を前へ進める。そして後方寄りには、まだ十分な力を残した信孝軍が迫っている。


毛利勢は複数の方向から圧力を受けながらも、西へだけは退くことができた。


景継は、その形が出来上がっていくのをじっと待った。


急ぐ必要はない。


敵はすでに逃げ道を知っている。あとは、踏みとどまろうとする心を折ればいい。


毛利勢の中では、後ろを振り返る者が明らかに増えていた。武将たちが声を張り上げて戦列を保とうとしているものの、兵の意識は目の前の敵よりも、西へ伸びる道へ向き始めている。


頃合いだった。


景継はゆっくりと采配を掲げた。


「全軍へ伝えてください。これより総掛かりとします」


周囲にいた伝令たちの顔が引き締まる。


「ただし、西は空けたままです。逃げる者を追い越してまで討つ必要はありません。敵をあの道へ押し出してください」


「はっ!」


何騎もの伝令が一斉に駆け出した。


ほどなくして、戦場の各所から法螺貝が響き始める。


その音を聞いた正則が待っていたとばかりに槍を掲げると、隣では利家も前田勢へ前進を命じた。右では清正と成政が同時に兵を押し出し、中央では秀家が刀を前へ振り下ろす。


「宇喜多勢、ここが最後だ! 押し返せ!」


宇喜多の兵たちが声を上げる。


弥兵衛もその後方で、前へ出ようとする兵をまとめながら声を張った。


「左右との間を空けるな! 逃げる敵は追わなくていい、前だけを押せ!」


そして南西では、信孝が自ら軍を率いて動き始めた。


これまで播磨に残り、戦う機会を待ち続けていた兵たちが一斉に前進すると、その勢いは連戦を重ねた毛利勢とは明らかに違っていた。


左から、右から、中央から、そして後方寄りから一斉に圧力を受け、毛利勢の戦列が大きく軋む。


それでも、最初は誰も逃げなかった。


逃げれば敗北だと分かっている。隣の兵がまだ槍を構えているのに、自分だけ背を向けることもできない。


だが、一人の兵が西を見た。


そこには道がある。


敵はいない。


前からは宇喜多勢が迫り、左右からも敵が押してくるうえ、後ろには新手の織田勢まで現れている。


ここで死ぬ必要があるのか。


そんな迷いが顔に浮かんだ次の瞬間、その兵はついに戦列を離れた。


「おい、どこへ行く!」


呼び止める声にも振り返らず、西へ走る。


それを見た隣の兵が一瞬だけ迷い、やがて同じ方向へ駆け出した。さらに後ろにいた者たちも続き、最初はほんの数人だった流れが、たちまち数十人へ膨らんでいく。


「退くな! 陣を崩すな!」


毛利の武将が必死に叫ぶ。


だが、前方の兵が背を向けて走ってくる姿を見れば、後方の者には事情など分からない。


「前が崩れたぞ!」


「退却だ!」


誰も、そんな命令は出していなかった。


それでも「退却」という言葉だけが、恐怖とともに戦列の奥へ伝わっていく。


百人が走れば、もはや一人の武将の声では止められない。踏みとどまっていた者まで周囲に取り残されることを恐れ、次々と西へ向かい始める。


やがて、毛利勢の旗の一つが大きく傾いた。


それを境に、戦列そのものが崩れた。


「毛利が退くぞ!」


味方から歓声が上がった。


正則が逃げる兵を追おうと馬を進めかけたが、すぐ横から利家の声が飛んだ。


「正則! 景継殿の命を忘れたか!」


「分かってる!」


正則は悔しそうに敵の背中を睨んだものの、それ以上は追わなかった。


右でも清正が兵をまとめ、成政はすでに乱れた隊列を整え始めている。中央の秀家も追撃を命じず、西へ流れていく毛利勢をその場から見送った。


弥兵衛だけは、反射的に数歩前へ出たところで足を止めた。


「……危ねえ」


昔の自分なら、そのまま追っていた。


そう気づいたのか、苦笑しながら槍を下ろす。


景継は遠くからその様子を見届けると、改めて全軍へ深追いを禁じる命を出した。


追えば、まだ討てる。


毛利にさらに大きな損害を与えることもできるだろう。


だが、それをするために味方まで危険へ晒す必要はない。


西へ続く道を、毛利の兵たちが雪崩を打つように逃げていく。その背中が遠ざかるにつれて、戦場に響く音も少しずつ変わっていった。


槍と槍がぶつかる音よりも、味方の歓声の方が大きくなっていく。


「勝ったぞ!」


どこかで一人が叫んだ。


「毛利を退けた!」


今度は別の場所から声が上がり、それが次々と広がっていく。


中央にいた秀家は、刀を下ろしたまましばらく動けなかった。


自分たちの領地へ押し寄せてきた毛利の軍勢は、あまりにも大きく見えた。このまま宇喜多が呑み込まれるのではないかと思ったことも、一度や二度ではない。


その敵が今、自分たちに背を向けている。


「……終わったのか」


掠れた声が漏れた。


近くにいた家臣が、すぐには答えなかった。その者もまた、目の前の光景を信じようとしているようだった。


やがて家臣が深く頭を下げる。


「はい。殿……我らの勝ちにございます」


秀家は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。


代わりに、大きく息を吐いた。


その顔に浮かんだのは、勝者としての誇らしげな笑みではない。ただ、自分の領地を守り切れた者だけが見せる、張りつめたものがようやくほどけたような表情だった。


少し離れた場所から、その姿を見ていた弥兵衛は、やがて景継を探した。


景継は馬上にいた。


周囲が勝利に沸く中でも大声を上げることはなく、戦場の各所へ視線を巡らせている。


正則の旗がある。その近くには利家の旗も見える。右には清正と成政がおり、中央には秀家、そして弥兵衛の隊もまだまとまっている。少し離れた場所では、最後に戦場へ加わった信孝の軍勢が追撃を止めていた。


皆、いる。


それを一つずつ確かめていくうちに、景継は自分でも気づかないほどゆっくりと息を吐いていた。


采配を握っていた指から力が抜ける。


「……よかった」


声は、戦場の歓声に消えるほど小さかった。


そばにいた兵が聞き取れずに顔を向けたが、景継は何でもないというように首を振った。


昔から何度も使ってきた戦い方だった。


敵に逃げ道を残し、そこへ追い立てる。これが一番よく効くという考えは、今でも変わらない。


ただ、同じ策を選ぶ理由の中に、昔の自分にはなかったものが一つ増えていることを、景継はもう否定しなかった。


勝つだけではなく、できる限り皆を生きて帰したい。


戦場を見渡しながら、その思いを胸の内で噛みしめていると、横から馬蹄の音が近づいてきた。


「景継様」


官兵衛だった。


景継が顔を向けると、官兵衛は逃げていく毛利勢を一度見やってから、静かに頭を下げた。


「終わりましたな」


「はい」


景継も西へ目を向けた。


すでに毛利勢の大半は遠ざかりつつあり、戦場には織田と宇喜多の旗が残っている。


「ようやく、終わりましたね」


その声には、戦の最中には見せなかった安堵がわずかに滲んでいた。


しばらく二人とも何も言わず、遠ざかっていく毛利勢を眺めていた。


官兵衛が信孝軍を用意していなければ、ここまで鮮やかに毛利を崩すことはできなかっただろう。疲れ切った味方だけで押し続ければ、勝てたとしても犠牲はさらに増えていたはずだ。


景継はそれを認めたうえで、官兵衛へ向き直った。


「官兵衛殿」


「はっ」


「信孝様の軍がなければ、これほど綺麗には終わらなかったでしょう。ありがとうございます」


官兵衛は少し意外そうな顔をしたあと、深く頭を下げた。


「もったいなきお言葉にございます」


「ですが」


頭を上げた官兵衛の表情が、わずかに止まった。


景継はそんな官兵衛をしばらく見つめてから、穏やかな声で続けた。


「私に黙って信孝様と話をつけていた件は、それとは別です」


官兵衛の目が、ほんのわずかに泳いだ。


それを見た景継の口元が少しだけ緩む。


「いつ、信孝様とその話をされたのですか?」


「……そこまで、お聞きになりますか」


「当然です。そこは聞かせてもらいます」


責め立てるような声ではなかった。


それでも、逃がすつもりがないことだけは十分に伝わったらしい。


官兵衛はしばらく景継の顔を見ていたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。


周囲では、まだ勝鬨が響いている。


その声を聞きながら、景継の顔にも戦の最中にはなかった穏やかな色が、わずかに戻っていた。



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