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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第ニ百十三話 総力戦



戦場を覆う土煙の向こうで、毛利勢の旗が大きく揺れた。


崩れたのではない。


押されながらも、まだ踏みとどまっている。


景継は馬上からその動きを見つめていた。


ここまで来た。


宇喜多領へ攻め込んだ毛利勢を押し返し、退く敵を追って、さらに西へ。幾度も陣を崩し、退路を削り、兵を疲れさせてきた。


それでも毛利は毛利だった。


追われる側になってなお、簡単には崩れない。


「若様」


そばに控える兵が、緊張した声を漏らした。


「左が、また動きます」


景継は頷いた。


視線の先。


左翼では福島正則が前へ出ていた。


「押せぇっ!」


正則の怒号が響く。


福島勢が槍を揃えて敵陣へぶつかり、その左側から前田利家率いる柴田勢が続いた。


正則が力で押し込めば、利家がその脇を支える。


どちらか一方が突出する形にはなっていない。


二つの軍勢が互いの隙を埋めながら、毛利勢を少しずつ後退させていた。


「正則! 出過ぎるな!」


利家の声が飛ぶ。


「分かってる!」


そう返した正則は、どう見ても分かっている者の進み方ではなかった。


利家が顔をしかめる。


「まったく、あの男は……! 前田勢、正則の左を空けるな! 敵に回り込ませるぞ!」


「応っ!」


利家の兵が前へ出る。


正則が作った勢いを利家が戦線へ変える。


景継はそれを見届けると、すぐ右へ視線を移した。


こちらも激しい。


加藤清正の隊が敵の槍衾へ食らいつき、そのさらに右では佐々成政の軍勢が動いている。


「押し切ろうとするな!」


成政が叫んでいた。


「清正の隊が敵を引きつける! 我らは右を削れ!」


「承知!」


清正も応じる。


互いにやり方は違う。


だが、噛み合っていた。


清正が真正面から敵を引き受けることで、その側面へ成政が圧力をかけられる。敵が成政へ兵を向ければ、今度は清正が押す。


左も。


右も。


確実に毛利勢を削っている。


そして中央には宇喜多秀家がいた。


「退くな!」


若い声が戦場に響く。


「ここは我らの戦ぞ!」


宇喜多勢が踏みとどまる。


自分たちの領地を荒らした敵を、ここまで追ってきた。


疲労なら毛利勢だけではない。宇喜多の兵も、すでに何度戦ったか分からないほど疲れている。


それでも、秀家の声に兵は応えた。


「殿を一人にするな!」


「押せ!」


宇喜多勢が前へ出る。


その姿を見ていた景継の胸に、わずかな熱が生まれた。


最初に会った頃よりも、秀家は確実に変わった。


守られるだけの若者ではない。


自ら兵の前に立ち、自らの声で兵を動かしている。


――強くなられた。


口にはしなかった。


今、それを伝える時ではない。


だが景継は、ほんのわずかに目を細めた。


その中央のやや後方では、弥兵衛も動いていた。


「右へ二十! 前へ出過ぎるな!」


弥兵衛が兵を走らせる。


以前ならば、真っ先に槍を持って飛び込んでいただろう。


だが今は違う。


前へ出たい気持ちを抑え、崩れそうな場所へ兵を送り、秀家の隊との間に隙間ができれば即座に埋める。


景継は、その姿も見ていた。


弥兵衛もまた、変わった。


戦場で一番槍を取ることだけが働きではない。


何度も戦いを経験し、ようやくそれを身体で覚え始めている。


景継の周りで。


皆が変わっていく。


そのことに喜びを覚える自分がいることを、景継は否定しなかった。


だが。


「……まだだ」


景継の声が低くなる。


戦況は優勢。


それは間違いない。


左右から押し、中央でも秀家が踏ん張っている。


毛利勢は少しずつ後退している。


普通なら、ここで勝利を確信してもおかしくない。


しかし景継には、一つだけ気になることがあった。


「敵の退き方が整いすぎている」


近くの武将が景継を見る。


「整いすぎている……?」


「あれだけ押されながら、旗が乱れておらぬ」


景継は敵陣を指した。


「退いてはいる。だが、逃げてはいない」


兵が息を呑む。


その直後だった。


毛利勢の中央で、法螺貝が鳴った。


「来るぞ!」


景継が叫ぶ。


毛利勢の動きが変わった。


それまで少しずつ退いていた前列が突然左右へ開き、その後方から新たな兵が押し出される。


「敵、前進!」


「槍隊が来ます!」


温存していた兵か。


数は決して多くない。


だが、これまで戦っていた兵より足取りが重くない。


毛利も、このまま追い潰されるつもりはなかった。


「中央へ来る!」


秀家が声を上げた。


敵兵が宇喜多勢へ殺到する。


「受け止めよ!」


槍と槍が激突した。


宇喜多勢の前列が押される。


一歩。


二歩。


「殿!」


「退くな!」


秀家が刀を抜いた。


その顔に恐怖がないわけではない。


景継には分かった。


馬上で刀を握る手に力が入りすぎている。


だが、それでも秀家は逃げなかった。


「ここで我らが崩れれば、左右も崩れる! 耐えよ!」


宇喜多勢が踏ん張る。


「弥兵衛!」


景継が呼ぶ。


「はっ!」


「秀家殿の後ろを支えよ。ただし、前へ出過ぎるな」


一瞬。


弥兵衛の顔に、物足りなさそうな色が浮かんだ。


自分なら前へ出られる。


そう思ったのだろう。


しかし、すぐに消えた。


「承知!」


弥兵衛が馬首を返す。


「中央へ回る! 宇喜多勢を支えろ!」


兵が続いた。


景継は左を見る。


正則と利家も敵の動きに気づいている。


右の清正と成政も同じだった。


「伝令!」


「はっ!」


「左右はそのまま押せ。中央へ助けに入るな」


伝令が一瞬だけ戸惑った。


「しかし、宇喜多勢が――」


「だからこそだ」


景継は敵陣から目を離さない。


毛利は中央へ兵を出した。


ならば、その兵はどこから持ってきた。


「中央を押し返すため、敵は残していた兵を出した。今ここで左右まで中央へ寄せれば、敵の望み通りになる」


景継の目が鋭くなる。


「正則殿と利家殿には左を。清正殿と成政殿には右を押し切ってもらう」


「はっ!」


伝令が駆けた。


ほどなく。


左が動く。


「中央は景継がどうにかする!」


正則が槍を振り上げた。


「俺たちは俺たちの敵を潰すぞ!」


「言葉は乱暴だが、今はそれでよい!」


利家も続く。


「前田勢、押せ! 敵は中央へ兵を割いた! 今こそ崩す時ぞ!」


左翼の圧力が増す。


右でも清正が吠えた。


「聞いたな!」


「聞こえておる!」


成政が応じる。


「ならば、景継の期待に応えぬわけにはいくまい!」


「同感!」


二人の軍勢も前へ出た。


中央。


秀家は歯を食いしばっていた。


「まだか……!」


押されている。


弥兵衛が後ろを支えているため崩壊こそしていないが、敵の勢いは強い。


「秀家様!」


弥兵衛の声が飛んだ。


「もう少しです!」


「何がだ!」


「左右が!」


秀家が視線を走らせる。


左。


毛利勢の一部が崩れ始めている。


正則が食い込み、利家がその横を押さえていた。


右でも、清正と成政が敵を押し込んでいる。


毛利は中央を押すために兵を使った。


その代償が、今になって現れ始めた。


秀家の顔が変わった。


「……なるほど」


自分たちは勝たなくていい。


ここで。


ただ耐えればいい。


「宇喜多勢!」


秀家が叫んだ。


「押し返そうとするな!」


兵たちが振り向く。


「耐えよ! ここで敵を引きつける!」


秀家自身が理解した。


景継は遠くからそれを見ていた。


小さく息を吐く。


「それでよい」


やがて。


左で敵の旗が一つ倒れた。


歓声が上がる。


右でも毛利勢が後退を始める。


中央へ突入した兵たちが動揺した。


左右が押されている。


戻るべきか。


このまま中央を押すべきか。


その迷いが、ほんの一瞬だけ動きを止めた。


景継は待っていた。


「今だ」


采配を上げる。


「中央、押し返せ!」


法螺貝が鳴った。


「来たぞ!」


弥兵衛が叫ぶ。


「宇喜多勢と歩調を合わせろ!」


秀家も刀を振る。


「前へ!」


今度は宇喜多勢が押した。


弥兵衛の兵も続く。


左右では正則、利家、清正、成政がさらに圧力を強める。


戦場のすべてが。


一つの瞬間に動いた。


「おおおおおおおっ!」


鬨の声が重なる。


毛利勢が下がる。


中央も。


左も。


右も。


一歩。


また一歩。


そしてついに、毛利勢の一部が背を向けた。


「崩れた!」


味方から歓声が上がる。


だが景継は笑わなかった。


「まだ追うな!」


声を張る。


「隊列を崩すな! 敵が背を向けても勝手に追うな!」


勝ったと思った瞬間こそ危うい。


前世から、それを嫌というほど知っている。


逃げる敵を見れば、人は追いたくなる。


勝利が目の前にぶら下がれば、冷静さを失う。


その一瞬で、勝ち戦が崩れることもある。


景継は毛利勢の動きを凝視した。


確かに退いている。


先ほどまでとは違う。


これは戦術的な後退ではない。


崩れ始めている。


――あと一押し。


そう思った。


あと一つ。


新しい力があれば。


疲れ切ったこちらの兵ではなく、まだ足の残っている軍勢をここへ叩き込めれば。


毛利は立て直せない。


しかし。


そんな兵は残していない。


景継は唇を結んだ。


ここまで投入した。


正則。


清正。


秀家。


利家。


成政。


弥兵衛。


誰もが働いている。


これ以上、どこから兵を出す。


「……ここからは」


景継が呟く。


「我らで押し切るしかないか」


そのときだった。


後方が騒がしくなった。


景継が振り返る。


最初は何が起きたのか分からなかった。


伝令が一騎。


こちらへ向かって駆けてくる。


尋常ではない速さだった。


「若様!」


馬から転げ落ちるように降りる。


「後方より軍勢!」


周囲に緊張が走った。


景継の表情も変わる。


「どこの軍だ」


「それが――」


伝令自身が、信じられないという顔をしていた。


「織田の旗にございます!」


「織田?」


景継は眉を寄せた。


今ここに来る織田勢など――。


いや。


一つだけある。


だが。


「まさか……」


景継が振り返った。


少し離れた場所。


そこに黒田官兵衛がいた。


官兵衛は驚いていなかった。


戦場の向こうを見つめたまま、静かに息を吐いている。


その横顔を見た瞬間。


景継は悟った。


「……官兵衛殿」


官兵衛がこちらを見る。


「何をした」


責める口調ではなかった。


だが、景継の声には明らかな驚きがあった。


官兵衛は少しだけ頭を下げる。


「申し訳ございません」


「謝罪を聞いているのではない」


景継の目が細くなる。


「誰が来る」


官兵衛は答えようとした。


しかし。


その必要はなくなった。


遠くから法螺貝が響いた。


一つ。


二つ。


そして次々と重なる。


後方の丘を越えて、旗が現れた。


一旒ではない。


二旒でもない。


次から次へと。


織田の旗が地平を埋めていく。


疲れ切った戦場の兵たちが、何事かと振り返る。


正則も。


清正も。


利家も。


成政も。


秀家も。


弥兵衛も。


誰もが、その軍勢を見た。


景継も言葉を失った。


少数の援軍ではない。


明らかに違う。


この戦いのために用意された軍勢だった。


そして。


その中心に掲げられた旗を見て、景継の目が大きくなる。


「……信孝様」


織田信孝。


播磨を守るため、これまで戦場へ出してこなかった軍勢。


毛利が宇喜多領へ攻め込んでいる間、播磨まで脅かされる可能性を捨て切れなかった。


だから動かせなかった。


その軍が。


今。


ほとんどそのまま、ここへ来ている。


「官兵衛殿」


景継はもう一度呼んだ。


今度の声には、わずかに呆れが混じっていた。


「いつからだ」


官兵衛は景継を見た。


「以前より、信孝様にはお伝えしておりました」


「以前?」


「宇喜多領より毛利を退けることができれば、播磨を直接脅かされる懸念は薄くなります」


官兵衛の視線が、退き始めた毛利勢へ向く。


「ならば、その時点で播磨に大軍を残しておく理由も薄れる」


景継は黙って聞いていた。


「ゆえに、その時が来たならば――」


官兵衛が続ける。


「動かせる兵のほとんどを率いて、追撃へ加わっていただきたいと」


景継の胸の奥に、何とも言えない感情が湧いた。


驚き。


呆れ。


そして。


ほんの少しの悔しさ。


自分は今。


あと一手が欲しいと思った。


その一手を。


この男は、戦が始まる前から置いていた。


景継の口元が、わずかに動いた。


「……まったく」


官兵衛が眉を上げる。


「何か?」


「いや」


景継は首を振った。


そして再び戦場を見る。


信孝軍。


まだ戦っていない。


兵の足は残っている。


対する毛利勢は、すでに何度も戦い、今まさに崩れかけている。


ならば。


使い方は一つしかない。


景継の目から、先ほどまでの迷いが消えた。


「官兵衛殿」


「はっ」


「独断の話は後で聞く」


一瞬。


官兵衛が黙る。


そして、わずかに笑った。


「承知いたしました」


景継は采配を握り直した。


ここまで戦ってきた者たちがいる。


正則が押した。


利家が支えた。


清正が食らいついた。


成政が削った。


秀家が耐えた。


弥兵衛がその背を守った。


そのすべてがあったからこそ、毛利勢は今、崩れようとしている。


信孝軍だけで勝つのではない。


今まで積み上げたものへ。


最後の一撃を加えるのだ。


景継は馬を前へ進めた。


「伝令!」


「はっ!」


「信孝様へ伝えよ」


景継は退く毛利勢を見据える。


「到着次第、止まる必要はない」


伝令が顔を上げた。


景継の声が戦場の喧騒を貫いた。


「そのまま――毛利を追い潰していただく」


「はっ!」


伝令が駆け出す。


遠く。


信孝軍の陣頭で、何かが動いた。


そして。


大きな鬨の声が上がった。


これまで戦場に響いていたものとは違う。


疲れを知らぬ兵たちの声。


毛利勢の兵が振り返る。


その顔に。


初めて、はっきりと恐怖が浮かんだ。


景継はそれを見逃さなかった。


「……ここまでだ」


静かな声だった。


だが、その目には確信があった。


「毛利」


景継は采配を前へ向けた。


「この戦――ここで終わらせる」


新たな軍勢が、大地を揺らしながら駆け始めた。

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