第ニ百十三話 総力戦
戦場を覆う土煙の向こうで、毛利勢の旗が大きく揺れた。
崩れたのではない。
押されながらも、まだ踏みとどまっている。
景継は馬上からその動きを見つめていた。
ここまで来た。
宇喜多領へ攻め込んだ毛利勢を押し返し、退く敵を追って、さらに西へ。幾度も陣を崩し、退路を削り、兵を疲れさせてきた。
それでも毛利は毛利だった。
追われる側になってなお、簡単には崩れない。
「若様」
そばに控える兵が、緊張した声を漏らした。
「左が、また動きます」
景継は頷いた。
視線の先。
左翼では福島正則が前へ出ていた。
「押せぇっ!」
正則の怒号が響く。
福島勢が槍を揃えて敵陣へぶつかり、その左側から前田利家率いる柴田勢が続いた。
正則が力で押し込めば、利家がその脇を支える。
どちらか一方が突出する形にはなっていない。
二つの軍勢が互いの隙を埋めながら、毛利勢を少しずつ後退させていた。
「正則! 出過ぎるな!」
利家の声が飛ぶ。
「分かってる!」
そう返した正則は、どう見ても分かっている者の進み方ではなかった。
利家が顔をしかめる。
「まったく、あの男は……! 前田勢、正則の左を空けるな! 敵に回り込ませるぞ!」
「応っ!」
利家の兵が前へ出る。
正則が作った勢いを利家が戦線へ変える。
景継はそれを見届けると、すぐ右へ視線を移した。
こちらも激しい。
加藤清正の隊が敵の槍衾へ食らいつき、そのさらに右では佐々成政の軍勢が動いている。
「押し切ろうとするな!」
成政が叫んでいた。
「清正の隊が敵を引きつける! 我らは右を削れ!」
「承知!」
清正も応じる。
互いにやり方は違う。
だが、噛み合っていた。
清正が真正面から敵を引き受けることで、その側面へ成政が圧力をかけられる。敵が成政へ兵を向ければ、今度は清正が押す。
左も。
右も。
確実に毛利勢を削っている。
そして中央には宇喜多秀家がいた。
「退くな!」
若い声が戦場に響く。
「ここは我らの戦ぞ!」
宇喜多勢が踏みとどまる。
自分たちの領地を荒らした敵を、ここまで追ってきた。
疲労なら毛利勢だけではない。宇喜多の兵も、すでに何度戦ったか分からないほど疲れている。
それでも、秀家の声に兵は応えた。
「殿を一人にするな!」
「押せ!」
宇喜多勢が前へ出る。
その姿を見ていた景継の胸に、わずかな熱が生まれた。
最初に会った頃よりも、秀家は確実に変わった。
守られるだけの若者ではない。
自ら兵の前に立ち、自らの声で兵を動かしている。
――強くなられた。
口にはしなかった。
今、それを伝える時ではない。
だが景継は、ほんのわずかに目を細めた。
その中央のやや後方では、弥兵衛も動いていた。
「右へ二十! 前へ出過ぎるな!」
弥兵衛が兵を走らせる。
以前ならば、真っ先に槍を持って飛び込んでいただろう。
だが今は違う。
前へ出たい気持ちを抑え、崩れそうな場所へ兵を送り、秀家の隊との間に隙間ができれば即座に埋める。
景継は、その姿も見ていた。
弥兵衛もまた、変わった。
戦場で一番槍を取ることだけが働きではない。
何度も戦いを経験し、ようやくそれを身体で覚え始めている。
景継の周りで。
皆が変わっていく。
そのことに喜びを覚える自分がいることを、景継は否定しなかった。
だが。
「……まだだ」
景継の声が低くなる。
戦況は優勢。
それは間違いない。
左右から押し、中央でも秀家が踏ん張っている。
毛利勢は少しずつ後退している。
普通なら、ここで勝利を確信してもおかしくない。
しかし景継には、一つだけ気になることがあった。
「敵の退き方が整いすぎている」
近くの武将が景継を見る。
「整いすぎている……?」
「あれだけ押されながら、旗が乱れておらぬ」
景継は敵陣を指した。
「退いてはいる。だが、逃げてはいない」
兵が息を呑む。
その直後だった。
毛利勢の中央で、法螺貝が鳴った。
「来るぞ!」
景継が叫ぶ。
毛利勢の動きが変わった。
それまで少しずつ退いていた前列が突然左右へ開き、その後方から新たな兵が押し出される。
「敵、前進!」
「槍隊が来ます!」
温存していた兵か。
数は決して多くない。
だが、これまで戦っていた兵より足取りが重くない。
毛利も、このまま追い潰されるつもりはなかった。
「中央へ来る!」
秀家が声を上げた。
敵兵が宇喜多勢へ殺到する。
「受け止めよ!」
槍と槍が激突した。
宇喜多勢の前列が押される。
一歩。
二歩。
「殿!」
「退くな!」
秀家が刀を抜いた。
その顔に恐怖がないわけではない。
景継には分かった。
馬上で刀を握る手に力が入りすぎている。
だが、それでも秀家は逃げなかった。
「ここで我らが崩れれば、左右も崩れる! 耐えよ!」
宇喜多勢が踏ん張る。
「弥兵衛!」
景継が呼ぶ。
「はっ!」
「秀家殿の後ろを支えよ。ただし、前へ出過ぎるな」
一瞬。
弥兵衛の顔に、物足りなさそうな色が浮かんだ。
自分なら前へ出られる。
そう思ったのだろう。
しかし、すぐに消えた。
「承知!」
弥兵衛が馬首を返す。
「中央へ回る! 宇喜多勢を支えろ!」
兵が続いた。
景継は左を見る。
正則と利家も敵の動きに気づいている。
右の清正と成政も同じだった。
「伝令!」
「はっ!」
「左右はそのまま押せ。中央へ助けに入るな」
伝令が一瞬だけ戸惑った。
「しかし、宇喜多勢が――」
「だからこそだ」
景継は敵陣から目を離さない。
毛利は中央へ兵を出した。
ならば、その兵はどこから持ってきた。
「中央を押し返すため、敵は残していた兵を出した。今ここで左右まで中央へ寄せれば、敵の望み通りになる」
景継の目が鋭くなる。
「正則殿と利家殿には左を。清正殿と成政殿には右を押し切ってもらう」
「はっ!」
伝令が駆けた。
ほどなく。
左が動く。
「中央は景継がどうにかする!」
正則が槍を振り上げた。
「俺たちは俺たちの敵を潰すぞ!」
「言葉は乱暴だが、今はそれでよい!」
利家も続く。
「前田勢、押せ! 敵は中央へ兵を割いた! 今こそ崩す時ぞ!」
左翼の圧力が増す。
右でも清正が吠えた。
「聞いたな!」
「聞こえておる!」
成政が応じる。
「ならば、景継の期待に応えぬわけにはいくまい!」
「同感!」
二人の軍勢も前へ出た。
中央。
秀家は歯を食いしばっていた。
「まだか……!」
押されている。
弥兵衛が後ろを支えているため崩壊こそしていないが、敵の勢いは強い。
「秀家様!」
弥兵衛の声が飛んだ。
「もう少しです!」
「何がだ!」
「左右が!」
秀家が視線を走らせる。
左。
毛利勢の一部が崩れ始めている。
正則が食い込み、利家がその横を押さえていた。
右でも、清正と成政が敵を押し込んでいる。
毛利は中央を押すために兵を使った。
その代償が、今になって現れ始めた。
秀家の顔が変わった。
「……なるほど」
自分たちは勝たなくていい。
ここで。
ただ耐えればいい。
「宇喜多勢!」
秀家が叫んだ。
「押し返そうとするな!」
兵たちが振り向く。
「耐えよ! ここで敵を引きつける!」
秀家自身が理解した。
景継は遠くからそれを見ていた。
小さく息を吐く。
「それでよい」
やがて。
左で敵の旗が一つ倒れた。
歓声が上がる。
右でも毛利勢が後退を始める。
中央へ突入した兵たちが動揺した。
左右が押されている。
戻るべきか。
このまま中央を押すべきか。
その迷いが、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
景継は待っていた。
「今だ」
采配を上げる。
「中央、押し返せ!」
法螺貝が鳴った。
「来たぞ!」
弥兵衛が叫ぶ。
「宇喜多勢と歩調を合わせろ!」
秀家も刀を振る。
「前へ!」
今度は宇喜多勢が押した。
弥兵衛の兵も続く。
左右では正則、利家、清正、成政がさらに圧力を強める。
戦場のすべてが。
一つの瞬間に動いた。
「おおおおおおおっ!」
鬨の声が重なる。
毛利勢が下がる。
中央も。
左も。
右も。
一歩。
また一歩。
そしてついに、毛利勢の一部が背を向けた。
「崩れた!」
味方から歓声が上がる。
だが景継は笑わなかった。
「まだ追うな!」
声を張る。
「隊列を崩すな! 敵が背を向けても勝手に追うな!」
勝ったと思った瞬間こそ危うい。
前世から、それを嫌というほど知っている。
逃げる敵を見れば、人は追いたくなる。
勝利が目の前にぶら下がれば、冷静さを失う。
その一瞬で、勝ち戦が崩れることもある。
景継は毛利勢の動きを凝視した。
確かに退いている。
先ほどまでとは違う。
これは戦術的な後退ではない。
崩れ始めている。
――あと一押し。
そう思った。
あと一つ。
新しい力があれば。
疲れ切ったこちらの兵ではなく、まだ足の残っている軍勢をここへ叩き込めれば。
毛利は立て直せない。
しかし。
そんな兵は残していない。
景継は唇を結んだ。
ここまで投入した。
正則。
清正。
秀家。
利家。
成政。
弥兵衛。
誰もが働いている。
これ以上、どこから兵を出す。
「……ここからは」
景継が呟く。
「我らで押し切るしかないか」
そのときだった。
後方が騒がしくなった。
景継が振り返る。
最初は何が起きたのか分からなかった。
伝令が一騎。
こちらへ向かって駆けてくる。
尋常ではない速さだった。
「若様!」
馬から転げ落ちるように降りる。
「後方より軍勢!」
周囲に緊張が走った。
景継の表情も変わる。
「どこの軍だ」
「それが――」
伝令自身が、信じられないという顔をしていた。
「織田の旗にございます!」
「織田?」
景継は眉を寄せた。
今ここに来る織田勢など――。
いや。
一つだけある。
だが。
「まさか……」
景継が振り返った。
少し離れた場所。
そこに黒田官兵衛がいた。
官兵衛は驚いていなかった。
戦場の向こうを見つめたまま、静かに息を吐いている。
その横顔を見た瞬間。
景継は悟った。
「……官兵衛殿」
官兵衛がこちらを見る。
「何をした」
責める口調ではなかった。
だが、景継の声には明らかな驚きがあった。
官兵衛は少しだけ頭を下げる。
「申し訳ございません」
「謝罪を聞いているのではない」
景継の目が細くなる。
「誰が来る」
官兵衛は答えようとした。
しかし。
その必要はなくなった。
遠くから法螺貝が響いた。
一つ。
二つ。
そして次々と重なる。
後方の丘を越えて、旗が現れた。
一旒ではない。
二旒でもない。
次から次へと。
織田の旗が地平を埋めていく。
疲れ切った戦場の兵たちが、何事かと振り返る。
正則も。
清正も。
利家も。
成政も。
秀家も。
弥兵衛も。
誰もが、その軍勢を見た。
景継も言葉を失った。
少数の援軍ではない。
明らかに違う。
この戦いのために用意された軍勢だった。
そして。
その中心に掲げられた旗を見て、景継の目が大きくなる。
「……信孝様」
織田信孝。
播磨を守るため、これまで戦場へ出してこなかった軍勢。
毛利が宇喜多領へ攻め込んでいる間、播磨まで脅かされる可能性を捨て切れなかった。
だから動かせなかった。
その軍が。
今。
ほとんどそのまま、ここへ来ている。
「官兵衛殿」
景継はもう一度呼んだ。
今度の声には、わずかに呆れが混じっていた。
「いつからだ」
官兵衛は景継を見た。
「以前より、信孝様にはお伝えしておりました」
「以前?」
「宇喜多領より毛利を退けることができれば、播磨を直接脅かされる懸念は薄くなります」
官兵衛の視線が、退き始めた毛利勢へ向く。
「ならば、その時点で播磨に大軍を残しておく理由も薄れる」
景継は黙って聞いていた。
「ゆえに、その時が来たならば――」
官兵衛が続ける。
「動かせる兵のほとんどを率いて、追撃へ加わっていただきたいと」
景継の胸の奥に、何とも言えない感情が湧いた。
驚き。
呆れ。
そして。
ほんの少しの悔しさ。
自分は今。
あと一手が欲しいと思った。
その一手を。
この男は、戦が始まる前から置いていた。
景継の口元が、わずかに動いた。
「……まったく」
官兵衛が眉を上げる。
「何か?」
「いや」
景継は首を振った。
そして再び戦場を見る。
信孝軍。
まだ戦っていない。
兵の足は残っている。
対する毛利勢は、すでに何度も戦い、今まさに崩れかけている。
ならば。
使い方は一つしかない。
景継の目から、先ほどまでの迷いが消えた。
「官兵衛殿」
「はっ」
「独断の話は後で聞く」
一瞬。
官兵衛が黙る。
そして、わずかに笑った。
「承知いたしました」
景継は采配を握り直した。
ここまで戦ってきた者たちがいる。
正則が押した。
利家が支えた。
清正が食らいついた。
成政が削った。
秀家が耐えた。
弥兵衛がその背を守った。
そのすべてがあったからこそ、毛利勢は今、崩れようとしている。
信孝軍だけで勝つのではない。
今まで積み上げたものへ。
最後の一撃を加えるのだ。
景継は馬を前へ進めた。
「伝令!」
「はっ!」
「信孝様へ伝えよ」
景継は退く毛利勢を見据える。
「到着次第、止まる必要はない」
伝令が顔を上げた。
景継の声が戦場の喧騒を貫いた。
「そのまま――毛利を追い潰していただく」
「はっ!」
伝令が駆け出す。
遠く。
信孝軍の陣頭で、何かが動いた。
そして。
大きな鬨の声が上がった。
これまで戦場に響いていたものとは違う。
疲れを知らぬ兵たちの声。
毛利勢の兵が振り返る。
その顔に。
初めて、はっきりと恐怖が浮かんだ。
景継はそれを見逃さなかった。
「……ここまでだ」
静かな声だった。
だが、その目には確信があった。
「毛利」
景継は采配を前へ向けた。
「この戦――ここで終わらせる」
新たな軍勢が、大地を揺らしながら駆け始めた。




