第二百十二話 毛利の反撃
毛利軍が正面から押し寄せた。
先頭は吉川元春。
昨日まで殿を務めていた時とは、勢いがまるで違う。退くために林道勢を止めるのではなく、ここから東へ押し返すための攻撃だった。
「受けろ!」
秀家の声が響く。
宇喜多勢が槍を揃えた直後、吉川勢が正面からぶつかった。
激しい衝撃に前列が揺れる。
一度受け止めても、元春は間を置かない。すぐに次の兵を押し込み、宇喜多勢に立て直す時間を与えなかった。
「下がるな! ここを抜かせるな!」
秀家自身も前線近くまで出て兵を支える。
それでも、宇喜多勢は少しずつ押された。
景継はその様子を見ながら、すぐには援軍を出さなかった。
見るべき場所は正面だけではない。
右では清正。
左では正則。
すでに両方で戦闘が始まっている。
「右、毛利勢さらに増えます!」
続いて左からも伝令が来る。
「左も押し込まれております!」
官兵衛が地図へ目を落とした。
「包みに来ております」
「ええ」
正面で元春が宇喜多勢を押さえ、その間に左右の毛利勢が大きく広がっている。
こちらが中央へ兵を足せば両翼が苦しくなる。
左右へ兵を回せば、元春が中央を破る。
昨日とは逆だった。
今日は毛利が、景継たちに兵を動かさせようとしている。
「中央、また下がりました!」
景継が前を見る。
宇喜多の旗が、僅かずつ後方へ動いている。
秀家は耐えている。
だが相手は元春だった。
昨日の敗北を受けても、その攻めには迷いがない。
官兵衛が正面を見た。
「宇喜多へ兵を入れますか」
「まだです」
「では、左右へ?」
景継は首を振った。
「そちらも待ちます」
官兵衛が黙って毛利陣を見た。
すぐに理由を察した。
元春は動いている。
左右の部隊も動いている。
だが、その後方。
小早川隆景の本隊には、まだ厚い兵が残っていた。
「我らが予備を動かすのを待っておりますか」
「おそらく」
どこか一つが危なくなる。
景継がそこへ兵を送る。
別の場所が薄くなる。
その瞬間、隆景が残している兵を投入する。
毛利は最初の攻撃だけで勝負を決めようとしているわけではなかった。
こちらが動いた後まで見ている。
だから景継も、まだ動けなかった。
一方、正面では元春の攻撃がさらに激しくなっていた。
「押せ!」
吉川勢が前へ出る。
宇喜多の前列が崩れかけた。
「殿! 一度お下がりください!」
家臣が秀家へ叫ぶ。
「まだだ!」
「ですが、このままでは!」
秀家は前方を睨んだ。
吉川勢が迫っている。
怖くないわけではない。
最初に毛利と戦った時も、自分はこうして押された。
あの時は、失った土地を取り戻そうと焦った。
押された分だけ押し返そうとし、兵を継ぎ足し、さらに苦しくなった。
その後、官兵衛から言われた。
土地ではなく、兵を残せ。
一度の戦ですべてを取り返そうとするな。
あの時は屈辱だった。
だが、兵を残したからこそ林道勢が到着するまで耐えられた。
そして今、自分たちは毛利領まで来ている。
秀家は大きく息を吸った。
「前列を下げる!」
家臣が振り返る。
「退くのですか!」
「崩される前に入れ替える! 後ろを前へ出せ!」
宇喜多勢が動いた。
前列を一気に逃がすのではない。
後ろの兵と交代させながら、少しずつ場所を譲る。
元春は当然追った。
だが宇喜多勢は崩れない。
数十歩下がっては止まり、また受ける。
以前のように、その場を守るためだけに兵を失わなくなっていた。
元春がその変化を見て、すぐに命じる。
「止まるな! 立て直す暇を与えるな!」
吉川勢がさらに押した。
右では清正が毛利勢と激しくぶつかっていた。
押し返しても、後ろから次の兵が来る。
「数で押してきやがる!」
清正が前へ出る。
目の前の一隊が下がった。
以前なら、そのまま追っていたかもしれない。
だが清正は足を止めた。
横を見る。
毛利の別の部隊が、さらに外側を進んでいる。
「追うな! 列を揃えろ!」
左の正則も同じものを見ていた。
正面の敵だけなら戦える。
だが毛利は勝ち負けを競うように一隊ずつぶつかっているのではない。
左右全体が、少しずつ前へ回り込んでいる。
そこへ後方を確認していた弥兵衛が戻ってきた。
「若様!」
景継が振り返る。
弥兵衛は馬を降りると、そのまま地図の後方を指した。
「このまま左右を出させると、ここまで来ます」
林道・宇喜多勢が進んできた道だった。
兵糧も、負傷者の移送もそこを通っている。
官兵衛の視線が止まる。
「包囲そのものが狙いではございませんな」
景継も同じ場所を見た。
全軍を取り囲む必要などない。
後方へ続く道を脅かすだけでいい。
補給路を切られる危険が生まれれば、林道・宇喜多勢は今の場所で戦い続けにくくなる。
正面では元春が押す。
左右から別働隊が回る。
その対応にこちらが兵を割けば、隆景の予備が動く。
景継は地図から顔を上げた。
「弥兵衛」
「はい」
「後ろへ戻ってください」
「どれほど連れていきます?」
景継は兵数を告げた。
弥兵衛は少し考えただけで頷いた。
「道を守ればよいのですね」
「はい。毛利を倒す必要はありません。後ろへ入れなければ十分です」
「承知しました」
それだけで話は終わった。
弥兵衛はすぐに兵を集め、後方へ向かった。
長く説明する必要はなかった。
景継が何を守ろうとしているのか。
弥兵衛には、それだけで伝わっていた。
続いて景継は清正と正則へ伝令を送った。
「両翼、これ以上前へ出る必要なし!」
命令が走る。
「外側の土地は譲って構わない! 中央から離れすぎるな!」
清正が伝令を見た。
「下がれってことか」
「必要ならば下がってよいとのこと!」
清正はすぐに兵をまとめた。
正則も同じだった。
毛利が外へ広がるのなら、こちらまで同じように広がる必要はない。
逆に中央へ寄る。
林道・宇喜多勢の陣形が、少しずつ縮まり始めた。
その変化は、隆景にも伝わった。
「敵両翼、下がります!」
隆景は前方を見た。
「追っておりますか」
「はい!」
「深く追わせないでください」
家臣が隆景を見る。
「このままなら後ろへ回れます」
「だからこそです」
隆景は景継の旗を見つめた。
左右を捨てるように中央へ兵を寄せている。
補給路を守るために縮んだのか。
それとも。
「兄上へ伝えてください。出すぎぬように」
伝令が走った。
その頃、宇喜多勢はさらに後ろへ下がっていた。
元春軍も追ってくる。
だが、先ほどまでの勢いが僅かに落ちた。
秀家がすぐに気づく。
「……止まった?」
元春のもとへ隆景からの伝令が届いていた。
追撃が慎重になる。
左右の毛利勢も、深く回り込む動きを止め始めた。
戦場に僅かな間が生まれた。
景継はそれを見逃さなかった。
「秀家殿へ」
伝令が走る。
「もう下がらなくて構いません」
命令を受けた秀家が前を見る。
吉川勢との距離は近い。
だが先ほどまでとは違う。
「宇喜多勢、止まれ!」
後退していた兵が足を止める。
「前列を整えろ!」
宇喜多勢が再び槍を揃える。
同時に、中央へ寄せていた清正と正則へも命令が飛んだ。
「前へ」
二隊が動く。
毛利は包囲を狙って左右へ兵を広げた。
対して景継は、その左右を追わずに自軍を中央へ縮めた。
結果として今、林道・宇喜多勢の兵力は中央へ集まりつつある。
毛利はまだ左右へ兵を出したまま。
景継が手を上げた。
「中央を押します」
宇喜多勢が反転した。
「行くぞ!」
秀家が前へ出る。
正面から吉川勢へぶつかった。
右から清正。
左から正則。
どちらも外へ広がるのではなく、元春のいる中央へ向かって圧力をかける。
元春がすぐに叫んだ。
「受けろ!」
吉川勢が踏みとどまる。
だが先ほどまでとは圧力が違った。
林道・宇喜多勢が狭い範囲へ兵を集めている。
「隆景へ伝えろ!」
元春が叫ぶ。
「左右の兵を戻せ!」
伝令が走る。
隆景も、すでに同じ判断をしていた。
「戻してください!」
左右へ出していた毛利勢へ命令が飛ぶ。
だが、一度広がった軍はすぐには戻らない。
林道勢と接触している部隊もある。
道の狭い場所では、後ろの隊が前の隊につかえる。
戦いながら軍を組み替えるには時間が必要だった。
その時間を、景継は使った。
「今です!」
宇喜多勢が押す。
清正が前へ出た。
「押し込め!」
正則も続く。
吉川勢の前列が下がる。
一歩。
さらに一歩。
元春自身が前へ出て兵を支えた。
「耐えろ!」
毛利兵も簡単には崩れない。
押されながらも槍を揃え、後ろから新しい兵が入る。
だが、少しずつ下がっている。
官兵衛がその動きを見ていた。
「隆景殿も、そろそろ動きます」
景継は小早川の旗を見た。
「でしょうね」
予想通りだった。
後方に残っていた小早川勢が動き始める。
元春軍の後ろへ。
同時に、左右へ広がっていた毛利勢も中央へ戻りつつある。
毛利は今、林道・宇喜多勢の反撃を止めるため、戦力を正面へ集め始めていた。
景継はその動きをじっと見た。
朝から毛利が作ってきた形が、変わろうとしている。
左右へ広げ、こちらの道を脅かす戦から。
互いの主力を一か所へ集める戦へ。
「官兵衛殿」
「はい」
「ここからですね」
官兵衛も正面を見た。
元春。
隆景。
戻ってくる毛利の両翼。
そして、中央へ集まった林道・宇喜多勢。
もはや小さな駆け引きだけで決まる段階ではなかった。
景継は刀を抜いた。
「全軍、前へ!」
法螺貝が鳴り響く。
秀家が兵を押し出す。
清正と正則が続く。
毛利側でも元春が声を上げ、隆景の援軍が前線へ到着した。
両軍の主力が、真正面からぶつかった。
毛利が押し返すのか。
林道・宇喜多勢が、もう一度西への道をこじ開けるのか。
追撃から始まった戦は、ここで最大の正面衝突を迎えた。




