第二百十一話 追撃の果て
毛利が選んだ戦場を破った翌朝、景継はすぐに追撃を再開した。
夜が明けきる前から兵を動かす。
負傷の重い者は後方へ送り、疲労の濃い部隊は休ませる。代わりに、まだ余力のある部隊を前へ出した。
ここで毛利に時間を与えれば、元春と隆景は必ず立て直す。
「急ぎます。ただし、潰れるまで走らせないでください」
景継の命令を受け、諸将がそれぞれの持ち場へ散った。
先頭では宇喜多勢と清正、正則が交代しながら毛利を追う。
成政も前へ出た。
一方、利家には進軍する本隊と後方を繋ぐ役目を任せた。
取った拠点が増えれば、それだけ補給路は長くなる。追撃に夢中になって後ろを切られれば、今までの勝利が一度に重荷へ変わる。
利家は地図を畳んだ。
「前は任せる。後ろは繋いでおく」
「お願いします」
「だが、必要になったら呼べ」
景継が顔を上げる。
利家は西を見た。
「俺たちも戦うために来た」
「ええ。その時はお願いします」
利家は頷き、兵を率いて後方へ向かった。
毛利の殿を務めたのは、やはり元春だった。
狭い道では小勢を残し、小城には守備兵を置く。
それでも景継は、一つ一つを潰そうとはしなかった。
城には最低限の抑えを残す。
退く毛利兵を必要以上に追わない。
元春が一刻を稼ごうとするなら、その一刻を半刻にする。
そうして軍を前へ送り続けた。
二日。
三日。
五日。
何度も小さな戦が起きた。
清正が押し、正則が交代する。
成政が毛利の殿へ食らいつけば、宇喜多勢がその間に別の道を進む。
後方では利家が兵糧を送り、奪った拠点と本隊の間を繋いだ。
弥兵衛はその間を何度も往復した。
誰か一人が毛利を押しているわけではない。
一つの軍が止まれば、別の軍が前へ出る。
それでも兵の顔には、日に日に疲労が濃くなっていった。
勝っている。
だからこそ、止まれない。
その苦しさを抱えたまま、戦線は西へ動き続けた。
五日目の夕方。
新たに奪った城の上へ、宇喜多の旗が上がった。
「また一つだ!」
兵たちから歓声が起こる。
秀家も城壁へ上がり、西を見た。
数日前まで、自分たちは毛利に追われていた。
今では毛利領の城を奪い、その先へ進もうとしている。
嬉しくないはずがない。
だが城内へ運び込まれる負傷者を見ると、浮かびかけた笑みが消えた。
「……勝つのも楽じゃないな」
後ろから来た景継が答える。
「楽な勝ち方を知っていれば、私も教えていただきたいです」
秀家が振り返る。
景継の顔にも疲れがあった。
眠れていないのだろう。
それでも地図を持つ手は止まらない。
「どこまで追う?」
秀家が尋ねた。
今度は官兵衛が地図を広げた。
「毛利が止まるまでにございます」
「それでは全部取ることになるぞ」
「そこまで退いてくだされば、ありがたい話ですが」
官兵衛の指が現在地に置かれる。
開戦前に聞いた数字が、秀家の頭へ浮かんだ。
五分の一。
上手くいけば三分の一。
あの時は、あまりに大きな話に聞こえた。
だが今、その五分の一へ手が届き始めている。
景継は浮かれることなく地図を見ていた。
「まだ毛利軍は崩れていません」
土地は取った。
戦にも勝った。
だが元春も隆景も健在で、毛利の主力を壊滅させたわけではない。
「いずれ止まります」
景継の指が西へ進む。
「土地を捨ててでも兵を残すことと、国そのものが揺らぐまで退くことは違います」
官兵衛が頷いた。
「次に止まった場所が、本当の勝負でしょうな」
その予想は、間もなく現実になった。
◇
数日後。
毛利の撤退が止まった。
物見から報告を受けた景継たちは、すぐに諸将を集めた。
利家も後方から呼び戻している。
「もう一度お願いします」
景継に促され、物見が答える。
「毛利勢は昨日からほとんど位置を変えておりません。周辺からも続々と兵が集まっております」
「旗は?」
利家が尋ねた。
「吉川、小早川。それに毛利本家の旗も多数!」
成政が腕を組む。
「ようやく逃げるのをやめたか」
「逃げていたわけではありません」
景継が言った。
成政が視線を向ける。
「兵を残すために退いていたのでしょう。だから、これだけ早く集め直せた」
成政は地図へ目を落とした。
「……なら、ここで全部出してくるか」
「おそらく」
秀家の表情も引き締まる。
毛利は今まで、兵を残すためなら土地を捨ててきた。
しかし、それにも限界がある。
城を奪われ続ければ、毛利に従う者たちも考え始める。
この先も毛利についていくのか。
それとも別の道を探すのか。
戦場で兵が残っていても、国そのものが揺らげば意味がない。
官兵衛が地図の一点へ指を置いた。
「ここで止めるつもりでしょう」
秀家が尋ねる。
「ここを破れば?」
「五分の一が、かなり現実的になります」
秀家は官兵衛の顔を見た。
「本当に取るつもりだったんだな」
「そのために、ここまで参りましたので」
景継は地図を見ながらも、別のことを考えていた。
こちらも無傷ではない。
連日の追撃で疲れている。
奪った城には兵を残した。
補給路も伸びた。
そして利家を呼び戻した以上、後方の守りも以前より薄くなる。
毛利が待っていたのは、そこかもしれない。
「利家殿」
「何だ」
「後ろには、どれほど残しました?」
利家が答える。
景継はその数を聞いてから頷いた。
十分とは言えない。
だが前の戦力を減らしすぎるわけにもいかない。
「弥兵衛」
「はっ」
「明日から、後ろも気にしてください」
弥兵衛はすぐに意図を察した。
「毛利が正面だけから来るとは限らない?」
「ええ」
景継が地図を閉じる。
「今度は向こうが、こちらを追い返す番です」
◇
毛利側でも、輝元、元春、隆景が同じ戦場を見ていた。
「ここまで取られたか」
輝元の声は重かった。
隆景は否定しない。
橋を落とした。
道を塞いだ。
小城を使った。
元春も何度も殿を務めた。
それでも景継は、こちらが用意した戦いすべてには付き合わなかった。
必要なら戦う。
必要がなければ進む。
林道だけではない。
宇喜多が立ち直り、柴田勢まで加わったことで、部隊を交代させながら追ってくるようになった。
元春が地図を睨む。
「もう退かんのだな」
「はい」
隆景が答えた。
「これ以上退けば、失うのは城だけではございません」
毛利が押され続けている。
そう見られること自体が危険だった。
勝てる側につく。
生き残れる側につく。
それを考える者が出始めれば、毛利の大軍は戦う前から内側より弱くなる。
「ここで止めます」
元春が兄弟の顔を見た。
「なら今度は、出し惜しみするな」
「そのつもりです」
吉川。
小早川。
毛利本家。
今まで残してきた兵を集める。
輝元が隆景を見る。
「勝てるか」
隆景はすぐには答えなかった。
「景継は強うございます」
元春が険しい顔をする。
隆景は兄が口を開く前に続けた。
「だからこそ、ここまで引き入れました」
元春の目が変わった。
隆景の指が、東から長く伸びた進軍路をなぞる。
「林道は勝ちました。勝ったからこそ西へ進み、城に兵を残し、兵糧を遠くから運んでいる」
その指が、今度は毛利側へ戻る。
「我らは退いた。ですが、退いたからこそ兵を残せた」
元春が立ち上がった。
「なら話は早い」
隆景も頷く。
「今度はこちらが押し返します」
◇
翌朝。
高台へ上がった景継は、毛利軍の全容を見た。
吉川。
小早川。
毛利本家。
昨日までとは明らかに違う数の旗が、一つの戦場へ集まっている。
左右にも兵が広がり、後方には厚い予備が見えた。
「……多いな」
秀家の声から、昨日までの勢いが消えていた。
利家も敵陣を見ている。
「これを残していたか」
「残していたというより、残った兵を集めたのでしょう」
景継は答えた。
成政が前へ出る。
「どちらでも同じだ。来るなら受ける」
その声には力があった。
だが景継は、成政だけを見てはいなかった。
柴田兵の中にも緊張が走っている。
勝家を失ってから初めて迎える大きな戦。
しかも、今度は景継の指揮の下で戦う。
景継は利家へ目を向けた。
利家もこちらを見た。
言葉はなかった。
それで十分だった。
弥兵衛が景継の横へ来る。
「若様。正面だけじゃなさそうです」
毛利の一部が、すでに左右へ動いていた。
守るつもりではない。
こちらを包み、押し返すつもりだ。
その時、毛利陣から法螺貝が鳴った。
一つ。
続いて左右から音が重なる。
元春の軍が動いた。
同時に両翼も前へ出る。
「来ます!」
兵たちの顔から、追撃戦の空気が消えた。
今までとは逆だった。
こちらが追い、毛利が退く戦は終わった。
景継は高台を下りながら命令を飛ばす。
「宇喜多勢は中央! 清正殿を右、正則殿を左へ!」
旗が次々と動く。
「前田殿!」
「おう!」
「柴田勢を中央後方へ! 崩れた場所があれば支えてください!」
利家が即座に兵を動かす。
「成政殿は右へ! 清正殿と合わせてください!」
「待っていた!」
成政が駆けていく。
景継は最後に弥兵衛を呼んだ。
「後ろをお願いします」
「左右だけとは限らない、ですな」
「はい」
弥兵衛はそれだけ聞いて走った。
官兵衛が景継の横へ並ぶ。
「追撃は、ここまでのようですな」
目の前では元春の軍が速度を上げている。
左右からも毛利勢が迫る。
景継は刀へ手をかけた。
「なら、もう一度退かせましょう」
毛利軍の鬨の声が響いた。
林道、宇喜多、柴田。
三つの軍勢がそれを迎える。
次の瞬間。
両軍の正面が激突した。




