第二百十話 崩れる壁
夜が明けるより早く、陣の中では兵が動き始めていた。
昨日とは配置が違う。
北へ回した弥兵衛も、南へ出した宇喜多勢も本隊へ戻っている。後方と奪った拠点を繋いでいた利家も、必要な兵を残して前線へ合流していた。
林道。
宇喜多。
柴田。
三つの旗が、朝靄の中に並んでいる。
一方、毛利陣にも変化があった。
昨日、左右から小勢を回されたことで、隆景は再び同じ動きを警戒している。正面だけではなく、両翼にも最初から兵を割いていた。
景継は高台から、その布陣を見つめた。
「変えてきましたな」
官兵衛が言う。
「ええ」
景継の視線が両翼から中央へ移る。
昨日より正面が薄い。
僅かな違いだった。
だが昨日一日を使って毛利の動きを見たからこそ、その違いが分かる。
景継は振り返った。
秀家。
清正。
正則。
弥兵衛。
そして利家と成政。
その後ろには、戦場へ向かう兵たちが並んでいた。
「昨日、我らは毛利の左右へ兵を出しました」
兵たちの声が静まっていく。
「毛利も、それを見ています。今日は同じことをさせまいと、最初から両翼へ兵を置いている」
景継が毛利陣を指す。
「ならば今日は、左右へ回りません」
清正の目が細くなる。
景継の手が中央へ向いた。
「正面から破ります」
兵たちの間にざわめきが走った。
昨日まで、毛利が選んだ戦場で力任せに戦うことを避けてきた景継が、今日は自らそこへ兵を入れようとしている。
「昨日は毛利を見るために戦いました。元春殿がどう動くのか。隆景殿がいつ兵を出すのか」
一度言葉を切る。
「もう十分です」
成政が前方の毛利勢を見た。
「ようやく正面からやれるということか」
「はい。ただし、一人で勝とうとはしないでください」
景継は成政だけでなく、清正と正則にも視線を向けた。
「今日必要なのは誰か一人の武功ではありません」
清正が小さく息を吐き、槍を握り直す。
正則も頷いた。
利家は何も言わず、柴田勢を振り返った。
勝家がいなくなってから初めて迎える、大軍同士の正面決戦だった。
兵たちの中にも、それを意識している者はいる。
利家は彼らへ声を張った。
「柴田の名を背負っているからと、勝家様の戦い方を真似る必要はない!」
何人かが顔を上げる。
「俺たちは俺たちの戦をする! 今日ここで生きている者で勝つぞ!」
「おおっ!」
柴田勢から声が上がった。
成政が利家を見る。
何も言わない。
ただ、その顔には先ほどまでとは違う力があった。
景継はそれを見届けてから、兵たちへ向き直る。
「宇喜多は一度敗れ、それでもここまで戻ってきた。柴田の方々も、大切なものを失ってなおここにいる」
景継自身、一瞬だけ勝家の顔が浮かんだ。
「林道も同じです。失った者がいる。それでも、生きている我々は進まなければならない」
兵たちを見渡す。
「今日、この戦を我らの勝利で終わらせます」
右手を上げた。
「勝利を――我らの手に!」
声が爆発した。
林道の旗。
宇喜多の旗。
柴田の旗。
法螺貝が鳴り響く。
毛利が選んだ戦場へ、三軍が進み始めた。
最初にぶつかったのは宇喜多勢だった。
「行くぞ!」
秀家の号令で兵が前進する。
毛利側では元春が迎え撃った。
槍と槍がぶつかる。
昨日と同じ相手。
だが宇喜多勢の動きは違った。
押せる時だけ押し、苦しくなれば後ろの兵と入れ替える。秀家も前だけを見ず、戦列全体へ声を飛ばしていた。
元春はその変化に気づいた。
「簡単には崩れぬか」
それでも隙は見逃さない。
宇喜多の中央が僅かに開いた瞬間、吉川勢が前へ出た。
「そこだ!」
宇喜多勢が押される。
一歩。
二歩。
秀家が歯を食いしばる。
「列を切らすな!」
景継はまだ動かない。
官兵衛が隣で戦場を見る。
元春がさらに兵を入れた。
宇喜多を押し切れると判断したのだろう。
景継の手が上がった。
「清正殿。お願いします」
右から清正勢が出る。
「待っていた!」
吉川勢の側面寄りへ激しくぶつかった。
元春はすぐに兵を回す。
だが昨日ほど自由には動かせない。
両翼を警戒するため、最初から兵を割いているからだ。
「正則殿」
今度は左。
正則勢が前へ出る。
中央に宇喜多。
左右から林道。
三方向から正面の吉川勢を圧迫する。
それでも元春軍は崩れない。
兵を入れ替え、押された場所を埋め、戦列を保ち続ける。
「まだ足りないか」
秀家が息を切らしながら前を見る。
そこへ、さらに別の旗が動いた。
柴田勢。
利家と成政だった。
「行くぞ!」
成政が兵を率いて前へ出る。
だが独走はしない。
隣を進む利家の隊と歩調を合わせ、清正と宇喜多勢の間へ入った。
その動きを見た景継は、僅かに息を吐いた。
北ノ庄で勝家を失った時、柴田家がこの先どうなるのか分からなかった。
今、その兵たちは景継の命令で前へ進んでいる。
そして成政も、もう一人で敵陣へ飛び込もうとはしていない。
「押せ!」
利家の声が響く。
柴田勢が吉川勢へぶつかった。
圧力が一段増した。
元春が前線から叫ぶ。
「下がるな! 列を保て!」
吉川勢はなおも耐える。
強い。
景継は改めて思った。
これだけの兵を正面から受け、それでも崩れない。
だからこそ、さらに押す。
「弥兵衛」
「はい」
「左へ。正則殿の後ろへ入ってください」
弥兵衛はすぐに動いた。
正則勢の後方へ回る。
毛利からも、その動きは見える。
元春の意識が僅かに左へ向いた。
正則勢が押す。
毛利が支える。
次の瞬間、正則が兵を下げた。
元春が叫ぶ。
「追うな!」
毛利兵が踏みとどまる。
昨日も見た動きだった。
だが、そのためではない。
正則が開けた場所を、弥兵衛の兵が駆け抜けた。
「行け!」
毛利左側へ食い込む。
兵が弥兵衛へ向きを変える。
そこへ正則勢が反転した。
「戻るぞ!」
二つの部隊が続けてぶつかり、毛利の戦列が乱れた。
景継が声を上げる。
「今です!」
清正が前へ出る。
秀家も宇喜多勢を押し上げる。
そして成政が、初めて利家より前へ出た。
「ここだ!」
利家も止めなかった。
今度は独走ではない。
毛利の列が乱れた瞬間を見ている。
成政勢が開きかけた場所へ突っ込んだ。
吉川勢の前列が大きく揺れた。
後方にいた隆景のもとへ、報告が相次いだ。
「吉川勢が押されております!」
「柴田勢も正面へ!」
隆景は戦場全体を見た。
昨日と違い、景継は左右へ大きく兵を回していない。
正面へ集中している。
こちらが両翼を警戒したことを、そのまま利用された。
「左右の兵を戻しますか!」
隆景はすぐには答えない。
昨日、林道勢は実際に北へ回った。
宇喜多も南へ動いた。
今日も同じ手を残している可能性はある。
だが迷っている間にも、兄の軍は押されていく。
「兄上へ予備を!」
小早川勢が動き始めた。
官兵衛がその旗を見つける。
「隆景殿が出しました」
「ええ」
景継も見ていた。
昨日なら、ここで戦を切り上げていた。
今日は違う。
「全軍、止めないでください!」
清正。
正則。
秀家。
弥兵衛。
利家。
成政。
すべてが正面へ圧力をかける。
毛利が両翼へ置いた兵が戻り切る前に、中央を崩す。
吉川勢が少しずつ下がり始めた。
それでも元春は前線から離れない。
「崩れるな!」
自ら兵を立て直し続ける。
だが右が押され、中央も下がる。
左には弥兵衛と正則が食い込んでいる。
そして柴田勢が、その開いた傷をさらに広げていた。
元春が周囲を見る。
まだ戦える。
だからこそ、決断した。
「下がるぞ!」
家臣が驚く。
「まだ持ちます!」
「持っているうちに下がる!」
元春が怒鳴った。
「崩れてからでは遅い!」
吉川勢が順に退き始める。
一斉に背を向けない。
前列を残し、後ろから下げる。
最後まで元春自身が前にいた。
「毛利が退くぞ!」
秀家が景継を見る。
今度は尋ねなかった。
景継も迷わない。
「追撃してください!」
宇喜多勢が前へ出る。
清正と正則も続く。
柴田勢も追った。
ただし成政が突出しかけると、利家が横から声を飛ばした。
「成政! 前だけ見るな!」
成政が振り返る。
一瞬だけ迷い、速度を落とした。
「分かっている!」
その声には苛立ちより、必死さがあった。
勝家のいない戦場で。
自分たちだけで、柴田を残さなければならない。
そのことを、成政も分かり始めていた。
元春が退いた先では、隆景が小早川勢を前へ出していた。
兄の軍を下げるための新しい壁である。
清正が足を止めた。
「新手だ!」
景継は毛利の動きを見る。
小早川勢はまだ新しい。
こちらはすでに長く戦っている。
だが隆景も、ここで決戦を続けたいわけではない。
元春軍を退かせる時間を稼ぐために出てきた。
ならば。
「兵を入れ替えてください」
疲れた部隊を下げ、余力のある兵を前へ出す。
水を回す。
負傷者を運ぶ。
短い時間で戦列を整え直す。
隆景はその様子を見ていた。
景継が止まらない。
元春を退かせても、すぐ次を出してくる。
隆景は後方を確認した。
兄の軍は退却を始めている。
ここで小早川勢まで深く戦えば、毛利全体が消耗する。
「……退きます」
家臣が驚く。
「ここを捨てるので?」
「兄上の軍を下げる時間は稼ぎました」
隆景は静かに命じた。
「これ以上は必要ありません」
毛利陣に撤退の合図が出る。
小早川勢も戦列を保ったまま下がり始めた。
「毛利本隊が退きます!」
報告を聞き、秀家が息を吐いた。
顔は泥と汗にまみれている。
清正も正則も、成政も同じだった。
誰か一人が勝った戦ではない。
宇喜多が元春を受け止めた。
清正と正則が押した。
弥兵衛が隙を作った。
利家が柴田勢を支え、成政がそこへ食い込んだ。
その積み重ねで、ようやく吉川元春を退かせた。
景継は遠ざかる毛利の旗を見た。
「追います」
法螺貝が鳴る。
林道。
宇喜多。
柴田。
三つの軍勢が、毛利の陣地を越えていった。
数日前まで追われていた秀家が、今は毛利の背中を追っている。
勝家を失った柴田勢も、新しい戦場を前へ進んでいる。
そして景継自身も、そのすべてを率いてさらに西へ向かう。
官兵衛が地図を開いた。
毛利が選んだ壁を、一つ越えた。
だが元春も隆景も健在である。
この勝利だけで毛利が折れることはない。
「明日も追います」
景継が言った。
勝ったから休むのではない。
勝った今だからこそ、進めるところまで進む。
夕暮れの中、毛利の旗は西へ退いていく。
その背中を追う三つの旗も、止まらなかった。




