第二百九話 毛利の壁
夜明けとともに、毛利勢が動いた。
最初に前へ出てきたのは吉川元春の軍だった。
街道を中心に厚い戦列を作り、その左右にも兵を広げている。さらに後方には、小早川隆景の軍勢が控えていた。
毛利は、ここで退くつもりがない。
景継は高台から敵陣を見渡した。
昨夜、弥兵衛と宇喜多勢に周辺を調べさせたが、簡単に回り込める道は見つかっていない。
北は山が険しく、大軍を通せない。
南には川と湿地が広がる。
少数なら抜けられる場所はあるが、主力を動かせば途中で見つかるだろう。
「やはり、正面になりますな」
官兵衛が地図から顔を上げた。
「ええ。まずは」
景継は元春の軍を見る。
毛利が選んだ戦場である。
不利なのは分かっている。
だからこそ、どれほど不利なのかを知らなければならない。
「宇喜多勢を正面へ」
秀家が景継を見る。
「また俺たちからか」
「嫌ですか?」
「いや」
秀家はすぐに元春へ視線を戻した。
「今度は何をすればいい?」
「押してください。ただし、崩そうとしなくて構いません」
秀家は少し考え、頷いた。
「分かった」
その返事には、もう以前のような焦りがなかった。
間もなく宇喜多勢が前進した。
元春軍も動く。
両軍の距離が縮まり、槍がぶつかった。
「押せ!」
宇喜多勢が前へ出る。
だが、元春軍は下がらない。
前列が疲れれば後列と入れ替わり、一部が押されれば隣から兵が出る。壁そのものが形を変えながら、宇喜多勢を受け止めているようだった。
秀家も無理には押さなかった。
前列が乱れ始めれば下げ、新しい兵を入れる。
昨日までの戦いで得たものを、すぐに使っていた。
それでも時間が経つにつれ、兵たちの息は荒くなっていく。
一人の宇喜多兵が槍を杖代わりにして下がってきた。
「くそっ……」
隣の兵が肩を貸す。
「まだ崩れてない!」
「分かってる!」
悔しそうに答えながら、それでも後ろへ下がった。
備前では毛利を退かせた。
毛利領にも入った。
その勢いがあれば、このまま押せるのではないか。
兵たちの中にあったそんな期待が、元春の戦列にぶつかって少しずつ削られていく。
景継はそれを見ていた。
「清正殿を右へ」
加藤清正の部隊が動いた。
宇喜多勢の右から圧力を加える。
元春はすぐに兵を回した。
「正則殿は左へ」
福島正則も前へ出る。
さらに景継は成政へ視線を向けた。
「佐々殿」
「待っていた」
「清正殿の後ろへ。前が止まった時に支えてください」
成政は一瞬、正面を見た。
自分が先ではない。
それでも反論せず、兵を動かした。
「分かった。今日はお前の戦だ」
景継はその背中を見送った。
清正勢が強く押し込んだ。
毛利兵が数歩下がる。
「行けるぞ!」
清正がさらに前へ出ようとした。
その時、後方から合図が飛んだ。
止まれ。
清正が足を止める。
「またか……!」
目の前では毛利兵が下がっている。
だが直後、その後ろから新しい一隊が姿を現した。
清正の表情から苛立ちが消える。
「待ってやがったか」
もし勢いのまま追っていれば、新手をまともに受けていた。
さらに毛利の押し返しが始まった。
「佐々殿!」
成政勢が前へ出る。
疲れた清正勢の横へ入り、押し返してきた毛利兵を受け止めた。
槍がぶつかる。
成政自身も前へ出た。
「ここから先へ出すな!」
柴田兵が踏みとどまる。
勝家が率いていた頃とは違う戦場。
違う総大将。
それでも、槍を握る兵まで別人になったわけではない。
清正が息を整えながら成政を見る。
「助かった」
成政は前を向いたまま答えた。
「礼は勝ってからにしろ」
その声に先ほどまでの不満はなかった。
戦いは続いた。
宇喜多が押す。
清正、正則、成政が圧力を加える。
それでも元春軍は崩れない。
そして後方の隆景は、ほとんど兵を動かしていなかった。
景継はしばらく戦場を見た後、手を上げた。
「一度下げます」
官兵衛が景継を見る。
「もうよろしいので?」
「これ以上は、こちらの兵が疲れるだけです」
退却の合図が送られた。
宇喜多勢が順に下がる。
清正たちも続いた。
元春は追ってこなかった。
押し返した勢いに任せず、元の位置で戦列を整える。
最初の攻防は、どちらも大きく崩れないまま終わった。
◇
昼前。
景継たちは地図を囲んだ。
秀家が水を飲み、乱れた息を整えている。
「固いな」
「ええ」
景継も素直に認めた。
戦場を遠くから眺めていた時より、実際に兵をぶつけたことで元春の厄介さがよく分かった。
そこへ弥兵衛が北側の地形を指す。
「ここなら少人数は通れます。千では多すぎるでしょう」
秀家も南を示した。
「こっちも同じだ。川沿いに道はあるが、大勢は無理だ」
景継は二つの道を見比べた。
大軍は通れない。
だが、通す必要もない。
「弥兵衛。北へ行ってください」
「何人です?」
景継は少数を指定した。
弥兵衛が首を傾げる。
「それで何を?」
「毛利に見つかってください」
「見つかるんですか」
「はい。ただし捕まらないでください」
弥兵衛は地図と景継を交互に見た。
やがて意図に気づく。
「後ろへ回るように見せる」
「それだけで十分です」
秀家も理解した。
「なら南は宇喜多から出そう」
北に林道。
南に宇喜多。
実際に毛利本隊の背後を突く必要はない。
無視できない場所に兵影を見せればいい。
「正面は?」
「もう一度押します」
景継は元春のいる場所を指した。
◇
午後。
再び宇喜多勢が前進した。
午前と同じ場所で槍がぶつかる。
元春軍は変わらず固い。
だがしばらくすると、毛利陣へ別の報告が入り始めた。
北に林道勢。
南には宇喜多勢。
どちらも小勢だった。
元春は北の報告を聞いても正面から目を離さない。
「少数なら放っておけ」
だが隆景のもとには南からも報告が届いた。
左右の小勢は、こちらが近づけば退き、離れればまた西へ進んでくる。
攻めるつもりはない。
それだけに、どこまで進むつもりなのか分からない。
「監視をつけてください」
隆景は必要最小限の兵を左右へ回した。
正面を弱くするほどではない。
それでも朝から動かなかった兵が、初めて二つに分かれた。
景継はその動きを見ていた。
「正則殿を下げてください」
左側の圧力が弱まる。
元春軍の一部が前へ出た。
「清正殿」
今度は右。
清正勢が一気に押す。
その後ろから成政勢も続いた。
「今度は止まるな!」
清正が叫ぶ。
毛利の戦列が揺れる。
元春はすぐに兵を入れ替えた。
「右を支えろ!」
新しい兵が清正と成政の前へ入る。
そこへ中央の宇喜多勢も圧力を強めた。
秀家が前線で叫ぶ。
「昨日までとは違うぞ! ここまで来たんだ、押し返せ!」
宇喜多兵が応じる。
毛利の前列が僅かに下がった。
元春は自ら前へ出て立て直す。
それでも午前より余裕がない。
「正則殿」
下げていた正則勢が反転した。
「待ってたぞ!」
今度は左から押す。
毛利の戦列が大きく揺れた。
その時。
隆景の予備が、ついに動いた。
新たな毛利勢が元春の右を支えるため前へ出てくる。
官兵衛が目を細めた。
「出ましたな」
景継も見ていた。
朝からほとんど動かなかった隆景の兵が、正面へ投入された。
ここでさらに押せば、戦いはもっと大きくなる。
清正も。
正則も。
成政も。
まだ前へ出られる。
だが景継は手を上げた。
退却の合図が鳴った。
前線の兵たちが驚く。
それでも命令に従い、順に距離を取った。
戻ってきた秀家が景継へ詰め寄る。
「押していたぞ」
額から汗が流れている。
「ええ」
「もう少しだったんじゃないのか?」
景継はすぐには答えなかった。
前線から戻ってくる宇喜多兵を見る。
朝より疲れている。
清正の兵も、成政の兵も同じだった。
「もう少し、が一番怖いのです」
秀家が黙る。
景継は毛利陣へ視線を戻した。
「元春殿を退かせる前に、こちらが使い切るかもしれません」
勝てそうに見える時ほど、前へ出したくなる。
それを我慢できなければ、元春には勝てない。
「ですが」
景継は続けた。
「今日で、かなり見えました」
隆景がいつ兵を動かすのか。
元春がどこへ兵を足すのか。
こちらが左右へ動いた時、毛利が何を守ろうとするのか。
完全に読めたわけではない。
だが、明日戦うための材料は揃った。
◇
夜。
毛利陣でも軍議が開かれていた。
元春の鎧には泥がこびりついている。
「途中で引きおったな」
隆景は地図を見た。
「こちらの予備が動いたのを見たのでしょう」
「明日も左右へ出してくるか?」
「同じことはしないでしょう」
元春が隆景を見る。
「なら、何をする」
隆景はすぐには答えなかった。
今日一日、景継はこちらを見ていた。
だが同じように、こちらも景継を見ている。
「少なくとも、今日より楽にはなりませぬ」
元春はそれを聞くと、戦場の方へ目を向けた。
「それでいい」
明日も、受けて立つ。
同じ頃。
景継の陣にも諸将が集まっていた。
弥兵衛。
秀家。
清正と正則。
利家。
成政。
官兵衛。
一日の戦を終えた顔には、誰にも疲れが残っている。
景継は彼らを見渡した。
「明日は、今日より厳しい戦になります」
誰も口を挟まない。
「毛利も今日の我々を見ています。同じ手がそのまま通じるとは思わないでください」
清正が腕を組む。
正則からも笑みは消えていた。
成政は黙って聞いている。
秀家が尋ねた。
「それでも正面から行くのか?」
「はい」
景継は地図の中央。
吉川元春の位置へ指を置いた。
「明日は左右へ回りません」
弥兵衛が景継を見る。
「では、今日見せた道は?」
「見せたからこそ使います」
「兵を出さずに?」
「ええ」
毛利は今日、左右に兵影を見た。
明日も来る可能性を無視することはできない。
景継は顔を上げた。
「今日、毛利には左右を見てもらいました」
そして元春のいる正面を指す。
「明日は、ここだけを見ます」
秀家が息を呑む。
景継の声には、昼間までの探る響きはなかった。
「元春殿を退かせます」
明日は、試すための戦ではない。
西へ進むための戦になる。
夜の向こうには、毛利の篝火が並んでいた。
その壁を越えなければ、五分の一も三分の一もない。
景継は地図から手を離した。
「明日、決めましょう」




