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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第二百九話 毛利の壁



夜明けとともに、毛利勢が動いた。


最初に前へ出てきたのは吉川元春の軍だった。


街道を中心に厚い戦列を作り、その左右にも兵を広げている。さらに後方には、小早川隆景の軍勢が控えていた。


毛利は、ここで退くつもりがない。


景継は高台から敵陣を見渡した。


昨夜、弥兵衛と宇喜多勢に周辺を調べさせたが、簡単に回り込める道は見つかっていない。


北は山が険しく、大軍を通せない。


南には川と湿地が広がる。


少数なら抜けられる場所はあるが、主力を動かせば途中で見つかるだろう。


「やはり、正面になりますな」


官兵衛が地図から顔を上げた。


「ええ。まずは」


景継は元春の軍を見る。


毛利が選んだ戦場である。


不利なのは分かっている。


だからこそ、どれほど不利なのかを知らなければならない。


「宇喜多勢を正面へ」


秀家が景継を見る。


「また俺たちからか」


「嫌ですか?」


「いや」


秀家はすぐに元春へ視線を戻した。


「今度は何をすればいい?」


「押してください。ただし、崩そうとしなくて構いません」


秀家は少し考え、頷いた。


「分かった」


その返事には、もう以前のような焦りがなかった。



間もなく宇喜多勢が前進した。


元春軍も動く。


両軍の距離が縮まり、槍がぶつかった。


「押せ!」


宇喜多勢が前へ出る。


だが、元春軍は下がらない。


前列が疲れれば後列と入れ替わり、一部が押されれば隣から兵が出る。壁そのものが形を変えながら、宇喜多勢を受け止めているようだった。


秀家も無理には押さなかった。


前列が乱れ始めれば下げ、新しい兵を入れる。


昨日までの戦いで得たものを、すぐに使っていた。


それでも時間が経つにつれ、兵たちの息は荒くなっていく。


一人の宇喜多兵が槍を杖代わりにして下がってきた。


「くそっ……」


隣の兵が肩を貸す。


「まだ崩れてない!」


「分かってる!」


悔しそうに答えながら、それでも後ろへ下がった。


備前では毛利を退かせた。


毛利領にも入った。


その勢いがあれば、このまま押せるのではないか。


兵たちの中にあったそんな期待が、元春の戦列にぶつかって少しずつ削られていく。


景継はそれを見ていた。


「清正殿を右へ」


加藤清正の部隊が動いた。


宇喜多勢の右から圧力を加える。


元春はすぐに兵を回した。


「正則殿は左へ」


福島正則も前へ出る。


さらに景継は成政へ視線を向けた。


「佐々殿」


「待っていた」


「清正殿の後ろへ。前が止まった時に支えてください」


成政は一瞬、正面を見た。


自分が先ではない。


それでも反論せず、兵を動かした。


「分かった。今日はお前の戦だ」


景継はその背中を見送った。



清正勢が強く押し込んだ。


毛利兵が数歩下がる。


「行けるぞ!」


清正がさらに前へ出ようとした。


その時、後方から合図が飛んだ。


止まれ。


清正が足を止める。


「またか……!」


目の前では毛利兵が下がっている。


だが直後、その後ろから新しい一隊が姿を現した。


清正の表情から苛立ちが消える。


「待ってやがったか」


もし勢いのまま追っていれば、新手をまともに受けていた。


さらに毛利の押し返しが始まった。


「佐々殿!」


成政勢が前へ出る。


疲れた清正勢の横へ入り、押し返してきた毛利兵を受け止めた。


槍がぶつかる。


成政自身も前へ出た。


「ここから先へ出すな!」


柴田兵が踏みとどまる。


勝家が率いていた頃とは違う戦場。


違う総大将。


それでも、槍を握る兵まで別人になったわけではない。


清正が息を整えながら成政を見る。


「助かった」


成政は前を向いたまま答えた。


「礼は勝ってからにしろ」


その声に先ほどまでの不満はなかった。



戦いは続いた。


宇喜多が押す。


清正、正則、成政が圧力を加える。


それでも元春軍は崩れない。


そして後方の隆景は、ほとんど兵を動かしていなかった。


景継はしばらく戦場を見た後、手を上げた。


「一度下げます」


官兵衛が景継を見る。


「もうよろしいので?」


「これ以上は、こちらの兵が疲れるだけです」


退却の合図が送られた。


宇喜多勢が順に下がる。


清正たちも続いた。


元春は追ってこなかった。


押し返した勢いに任せず、元の位置で戦列を整える。


最初の攻防は、どちらも大きく崩れないまま終わった。



◇



昼前。


景継たちは地図を囲んだ。


秀家が水を飲み、乱れた息を整えている。


「固いな」


「ええ」


景継も素直に認めた。


戦場を遠くから眺めていた時より、実際に兵をぶつけたことで元春の厄介さがよく分かった。


そこへ弥兵衛が北側の地形を指す。


「ここなら少人数は通れます。千では多すぎるでしょう」


秀家も南を示した。


「こっちも同じだ。川沿いに道はあるが、大勢は無理だ」


景継は二つの道を見比べた。


大軍は通れない。


だが、通す必要もない。


「弥兵衛。北へ行ってください」


「何人です?」


景継は少数を指定した。


弥兵衛が首を傾げる。


「それで何を?」


「毛利に見つかってください」


「見つかるんですか」


「はい。ただし捕まらないでください」


弥兵衛は地図と景継を交互に見た。


やがて意図に気づく。


「後ろへ回るように見せる」


「それだけで十分です」


秀家も理解した。


「なら南は宇喜多から出そう」


北に林道。


南に宇喜多。


実際に毛利本隊の背後を突く必要はない。


無視できない場所に兵影を見せればいい。


「正面は?」


「もう一度押します」


景継は元春のいる場所を指した。



◇



午後。


再び宇喜多勢が前進した。


午前と同じ場所で槍がぶつかる。


元春軍は変わらず固い。


だがしばらくすると、毛利陣へ別の報告が入り始めた。


北に林道勢。


南には宇喜多勢。


どちらも小勢だった。


元春は北の報告を聞いても正面から目を離さない。


「少数なら放っておけ」


だが隆景のもとには南からも報告が届いた。


左右の小勢は、こちらが近づけば退き、離れればまた西へ進んでくる。


攻めるつもりはない。


それだけに、どこまで進むつもりなのか分からない。


「監視をつけてください」


隆景は必要最小限の兵を左右へ回した。


正面を弱くするほどではない。


それでも朝から動かなかった兵が、初めて二つに分かれた。



景継はその動きを見ていた。


「正則殿を下げてください」


左側の圧力が弱まる。


元春軍の一部が前へ出た。


「清正殿」


今度は右。


清正勢が一気に押す。


その後ろから成政勢も続いた。


「今度は止まるな!」


清正が叫ぶ。


毛利の戦列が揺れる。


元春はすぐに兵を入れ替えた。


「右を支えろ!」


新しい兵が清正と成政の前へ入る。


そこへ中央の宇喜多勢も圧力を強めた。


秀家が前線で叫ぶ。


「昨日までとは違うぞ! ここまで来たんだ、押し返せ!」


宇喜多兵が応じる。


毛利の前列が僅かに下がった。


元春は自ら前へ出て立て直す。


それでも午前より余裕がない。


「正則殿」


下げていた正則勢が反転した。


「待ってたぞ!」


今度は左から押す。


毛利の戦列が大きく揺れた。


その時。


隆景の予備が、ついに動いた。


新たな毛利勢が元春の右を支えるため前へ出てくる。


官兵衛が目を細めた。


「出ましたな」


景継も見ていた。


朝からほとんど動かなかった隆景の兵が、正面へ投入された。


ここでさらに押せば、戦いはもっと大きくなる。


清正も。


正則も。


成政も。


まだ前へ出られる。


だが景継は手を上げた。


退却の合図が鳴った。


前線の兵たちが驚く。


それでも命令に従い、順に距離を取った。



戻ってきた秀家が景継へ詰め寄る。


「押していたぞ」


額から汗が流れている。


「ええ」


「もう少しだったんじゃないのか?」


景継はすぐには答えなかった。


前線から戻ってくる宇喜多兵を見る。


朝より疲れている。


清正の兵も、成政の兵も同じだった。


「もう少し、が一番怖いのです」


秀家が黙る。


景継は毛利陣へ視線を戻した。


「元春殿を退かせる前に、こちらが使い切るかもしれません」


勝てそうに見える時ほど、前へ出したくなる。


それを我慢できなければ、元春には勝てない。


「ですが」


景継は続けた。


「今日で、かなり見えました」


隆景がいつ兵を動かすのか。


元春がどこへ兵を足すのか。


こちらが左右へ動いた時、毛利が何を守ろうとするのか。


完全に読めたわけではない。


だが、明日戦うための材料は揃った。



◇



夜。


毛利陣でも軍議が開かれていた。


元春の鎧には泥がこびりついている。


「途中で引きおったな」


隆景は地図を見た。


「こちらの予備が動いたのを見たのでしょう」


「明日も左右へ出してくるか?」


「同じことはしないでしょう」


元春が隆景を見る。


「なら、何をする」


隆景はすぐには答えなかった。


今日一日、景継はこちらを見ていた。


だが同じように、こちらも景継を見ている。


「少なくとも、今日より楽にはなりませぬ」


元春はそれを聞くと、戦場の方へ目を向けた。


「それでいい」


明日も、受けて立つ。



同じ頃。


景継の陣にも諸将が集まっていた。


弥兵衛。


秀家。


清正と正則。


利家。


成政。


官兵衛。


一日の戦を終えた顔には、誰にも疲れが残っている。


景継は彼らを見渡した。


「明日は、今日より厳しい戦になります」


誰も口を挟まない。


「毛利も今日の我々を見ています。同じ手がそのまま通じるとは思わないでください」


清正が腕を組む。


正則からも笑みは消えていた。


成政は黙って聞いている。


秀家が尋ねた。


「それでも正面から行くのか?」


「はい」


景継は地図の中央。


吉川元春の位置へ指を置いた。


「明日は左右へ回りません」


弥兵衛が景継を見る。


「では、今日見せた道は?」


「見せたからこそ使います」


「兵を出さずに?」


「ええ」


毛利は今日、左右に兵影を見た。


明日も来る可能性を無視することはできない。


景継は顔を上げた。


「今日、毛利には左右を見てもらいました」


そして元春のいる正面を指す。


「明日は、ここだけを見ます」


秀家が息を呑む。


景継の声には、昼間までの探る響きはなかった。


「元春殿を退かせます」


明日は、試すための戦ではない。


西へ進むための戦になる。


夜の向こうには、毛利の篝火が並んでいた。


その壁を越えなければ、五分の一も三分の一もない。


景継は地図から手を離した。


「明日、決めましょう」



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