第二百八話 毛利領
宇喜多領を越えた翌日、景継たちは毛利領へ入った。
国境を越えたからといって、山や川の姿が急に変わるわけではない。
それでも、秀家には見える景色が昨日までとは違って感じられた。
ここから先は、自分たちが奪われた土地ではない。
毛利の国である。
「本当に入ったな」
馬上で呟いた秀家に、景継が尋ねる。
「後悔しましたか?」
「まさか」
秀家はすぐに答えた。
「追われるより、追う方がいい」
その声を聞いた宇喜多兵たちにも笑みが浮かぶ。
少し前まで毛利に追われ、土地を捨てながら東へ退いていた者たちが、今は毛利領へ踏み込んでいる。
だが、その勢いだけで進ませてくれるほど毛利は甘くなかった。
最初に現れたのは、破壊された橋だった。
街道には木が倒され、近くの村からは兵糧になりそうな物が運び出されている。
さらに進めば、小城にも兵が残されていた。
一つ一つ攻めれば時間がかかる。
かといって無視すれば、後方を脅かされる。
「隆景殿でしょうな」
官兵衛が川の向こうを見ながら言った。
「進ませながら、少しずつ重くするつもりなのでしょう」
景継も頷いた。
「なら、全部には付き合わないことにしましょう」
橋の修復を待つ部隊と、別の渡河地点を探す部隊に分ける。
小城には監視の兵だけを残し、街道が塞がれていれば別の道を探した。
そして柴田勢にも役目を与えた。
「前田殿には、後ろをお願いします」
利家が地図を見る。
「取った場所と荷駄を繋げばいいんだな」
「はい。こちらが進むほど、後ろは長くなります」
「分かった」
成政が不満そうに口を挟む。
「俺も後ろか?」
景継は首を振った。
「佐々殿には前へ来ていただきます」
「ほう」
成政の顔が僅かに明るくなった。
「ただし、敵を見つけても勝手に追わないでください」
「……俺だけ念を押す必要があるか?」
隣で利家が笑った。
「あるだろう」
成政が睨む。
「うるさい」
景継は二人のやり取りを聞きながら、僅かに口元を緩めた。
勝家がいなくなっても、柴田の軍は動いている。
以前とまったく同じではない。
それでも、残った者たちは自分たちの場所を見つけようとしていた。
「では、行きましょう」
軍は再び西へ進んだ。
毛利領へ入ってからの進軍は、決して速くなかった。
だが止まりもしなかった。
最初の小城は、宇喜多勢が攻めると守備兵が短く抵抗して退いた。
次の拠点では、成政が率いる兵が宇喜多勢とともに側面へ回り、半日ほどで毛利兵を撤退させた。
「追うぞ!」
逃げる毛利兵を見た成政が声を上げる。
だが数歩進んだところで、自分から手を上げた。
「……いや、止まれ!」
兵たちが驚いて止まる。
近くにいた清正が成政を見る。
「追わないのか?」
「景継殿に、勝手に追うなと言われたからな」
「随分素直だな」
「お前に言われたくない」
二人が睨み合う。
少し離れたところで景継はその様子を見ていたが、口は挟まなかった。
北ノ庄で成政と向き合った時間は、無駄ではなかったらしい。
その間にも、弥兵衛は本隊の周囲を走り回っていた。
北側の道を調べ、毛利の小勢を見つければ位置だけを知らせて戻る。
三日目。
街道を進んでいた弥兵衛が突然馬を止めた。
「若様」
景継も止まる。
弥兵衛は左手の林を見ていた。
「何かおります」
「見えますか?」
「見えません。ただ、静かすぎます」
景継も耳を澄ませた。
風で木々が揺れている。
だが鳥の声がほとんどない。
物見を入れると、ほどなく兵が戻ってきた。
「毛利兵がおります!」
反対側にも兵を出す。
そちらにも毛利兵が潜んでいた。
街道へ誘い込み、左右から攻めるつもりだったらしい。
成政が林を睨む。
「今度こそ潰すか?」
「別の道はありますか?」
景継は秀家に尋ねた。
「ある。ただ、少し遠回りになる」
「そちらへ行きましょう」
成政が振り返る。
「また戦わんのか」
「毛利が待っている場所で戦う必要はありません」
景継が答えると、成政は林をもう一度見た。
待ち伏せていた毛利兵は、こちらが街道を外れようとしても動かない。
「……なるほどな」
成政はようやく景継の意図を理解した。
「ここであいつらを倒しても、西へ進めるわけじゃないか」
「はい。今は先へ進むことを優先します」
「分かった。なら行こう」
成政はそれ以上何も言わなかった。
軍は街道を外れる。
待ち伏せていた毛利兵も追ってこなかった。
そうした攻防を繰り返しながら、戦線は西へ動いていった。
五日目には、三つ目の拠点にもこちらの旗が上がった。
高台からその様子を見下ろし、秀家が呟く。
「毛利の土地を、本当に取っているんだな」
少し前まで、自分たちは滅ぼされるかもしれなかった。
今は逆に毛利領へ入り、拠点を奪っている。
喜びより先に、まだ現実味のなさがあった。
官兵衛が地図を開く。
「まだ始まったばかりにございます」
秀家が振り返った。
「どこまで行くつもりだ?」
官兵衛は西へ目を向ける。
「それを決めるのは、毛利にございます」
秀家が眉を寄せる。
官兵衛は地図へ視線を戻した。
「どこまで退き、どこで我らを止めに来るのか。それ次第でございます」
景継はその言葉を聞きながら、周囲を見た。
確かに、妙だった。
「静かですね」
「戦っているだろう」
「ええ」
景継は首を振った。
「元春殿がいません」
毛利領へ入って五日。
小さな抵抗は何度もあった。
それでも吉川元春の主力は、一度も正面に現れていない。
宇喜多領では自ら景継たちを止めに来た男が、こちらが毛利領へ入ってから姿を消している。
官兵衛の表情も引き締まった。
「どこかで待っておりますな」
「おそらく」
こちらは三つの拠点を取った。
その代わり、後方に残す兵も増え、補給路は伸びている。
毛利がただ押されているだけとは思えない。
景継は物見を増やした。
翌朝。
答えはすぐに届いた。
「申し上げます!」
先行していた物見が馬を飛ばして戻ってくる。
「前方に毛利勢! これまでとは数が違います!」
景継たちが集まった。
秀家が尋ねる。
「旗は?」
「吉川!」
物見が息を整える。
「小早川の旗も確認しております!」
空気が変わった。
景継はすぐに地図を開く。
敵が集結している場所を聞き、その周囲へ目を走らせた。
左右から山が迫り、その間を川と街道が通っている。
大軍が自由に広がれる場所ではない。
景継は地図を見たまま呟いた。
「ここでしたか」
秀家が覗き込む。
「何がだ?」
「毛利が我々を迎えたかった場所です」
備前から退いた。
国境を越えられても、まだ退いた。
その間に橋を落とし、道を塞ぎ、小さな拠点を使ってこちらの進軍を遅らせた。
景継たちは前へ進んだ。
だが同時に補給路が伸び、奪った拠点へ兵を残してきた。
反対に毛利は、自国の奥へ退くほど兵を集めやすくなる。
官兵衛も地図を見つめる。
「我らが進んだ時間を、向こうも使っていたということでしょうな」
秀家の顔から、それまでの高揚が消えた。
「最初からここまで退くつもりだったのか?」
「それは分かりません」
景継は首を振る。
「ですが、退きながら戦える場所を探していたのでしょう」
毛利は崩れていない。
退きながら、こちらを見ていた。
そして今、戦う場所を決めた。
「見に行きましょう」
「敵を?」
「戦場をです」
少数の供を連れ、高台へ向かった。
やがて遠くに無数の旗が見えてくる。
吉川。
小早川。
その奥には毛利の旗が連なり、兵の列は山裾にまで伸びていた。
「多いな……」
秀家が思わず呟く。
景継は敵の数より、その周囲を見ていた。
左右には山。
一方には川。
正面から進めば狭い場所で毛利勢とぶつかる。
こちらに多くの兵がいても、一度に前へ出せる数は限られる。
「数を揃えた意味を薄くされますな」
官兵衛が言った。
「ええ」
そこへ元春の軍が前へ出てきた。
突撃してくるわけではない。
毛利本隊の前に布陣し、そこで止まる。
まるで、ここから先へ行きたければ自分を越えてこいと告げているようだった。
秀家の表情が強張る。
先日とは違う。
あの時はこちらの土地で元春を迎えた。
今は毛利の国で、元春が待っている。
景継はしばらくその姿を見た後、踵を返した。
「戻りましょう」
「戦わないのか?」
「戦います」
景継は歩きながら答えた。
「ですが、毛利がここまで準備したのです。何も考えずに入るのは失礼でしょう」
秀家が一瞬きょとんとした後、僅かに笑った。
「怖くないのか?」
景継の足が少し止まった。
毛利の大軍を振り返る。
「怖いですよ」
秀家が景継を見る。
「だから調べるのです」
それだけ言うと、景継は再び歩き出した。
秀家は少し遅れてその後を追った。
冷静だから恐れないのではない。
恐れているから、何も見ずに兵を進めない。
そのことを秀家は初めて知った。
陣へ戻ると、景継は諸将を集めた。
清正、正則、弥兵衛。
利家と成政。
そして秀家と宇喜多の将たち。
地図を囲む顔は、いつの間にか増えていた。
景継は毛利の布陣を示す。
「明日、毛利本隊と戦います」
清正が僅かに笑う。
正則は槍へ手を置いた。
成政も黙って地図を見る。
景継は続けた。
「ただし、正面から力任せに押し切るつもりはありません」
毛利が選んだ戦場なら、毛利が望む戦い方がある。
まず、それを知る。
「弥兵衛。北側を調べてください」
「はっ」
「秀家殿は南を」
「ああ」
景継は利家を見る。
「前田殿には、後方と本隊を繋いでいただきたい」
「任せろ」
最後に成政へ視線を向ける。
成政が先に言った。
「俺は勝手に動くな、だろう?」
景継は少し笑った。
「明日は動いていただきますよ」
成政の目が変わった。
「そうこなくてはな」
夜が深くなるにつれ、両軍の陣に篝火が増えていった。
川の向こう。
山の麓。
街道の先。
無数の毛利の火が並んでいる。
毛利領へ入って六日。
三つの拠点を奪った。
それでも毛利は崩れていない。
むしろ、ここからが本当の戦いだった。
景継は暗闇の向こうに並ぶ火を見つめた。
その中には元春がいる。
隆景もいる。
こちらには秀家がいる。
利家と成政もいる。
清正、正則、弥兵衛。
そして官兵衛。
ここまで一つずつ増えてきた者たちが、今は同じ戦場に立っている。
翌朝。
毛利陣から法螺貝が鳴った。
少し遅れて、こちらからも音が返る。
景継は立ち上がった。
毛利の旗が動く。
林道、宇喜多、柴田の旗も動き始める。
毛利が選んだ戦場で。
ついに、両軍の本隊がぶつかろうとしていた。




