第ニ百七話 追撃
翌朝、備前の空には薄い雲が広がっていた。
前日の戦場には踏み荒らされた土と折れた槍が残り、その向こうから吉川の旗は消えている。
物見によれば、元春は夜のうちにさらに西へ下がったという。
敗走ではない。
隊列を保ったまま退き、要所には兵を残している。昨日の一戦で崩れたわけではなく、こちらが追ってくることまで承知した撤退だった。
その報告を聞いていた景継の前へ、東から新たな軍勢が姿を現した。
前田。
佐々。
そして、その後ろに続く柴田の旗。
二日遅れで進んでいた柴田勢が、ようやく本隊へ追いついた。
「景継殿」
馬を降りた利家が頭を下げる。
「お待たせした」
「予定通りです。こちらが待たなかっただけですよ」
景継がそう返すと、隣の成政が鼻を鳴らした。
「着いてみれば、もう吉川と一戦やった後だと聞いたぞ」
「次は残してあります」
「ならいい」
短いやり取りだった。
だが景継は、二人の後ろに並ぶ柴田兵を見ていた。
北ノ庄で何度も見た旗だった。
かつてなら、その中央には勝家がいた。
今はいない。
それでも兵は残り、利家も成政もここまで来た。
勝家から託された柴田家が、こうして自分の軍と並んでいる。
景継は胸の奥に浮かんだものを押し込めるように、二人へ頭を下げた。
「ここから先も、力を貸してください」
利家が頷く。
「そのために来た」
成政も何も言わず、西を向いた。
そこへ弥兵衛も戻ってきた。
昨日まで後方を守っていた兵の大半を連れている。負傷者はいるものの、大きく数を減らしてはいない。
「若様」
「ご苦労でした」
「荷駄は少し捨てましたけどね」
弥兵衛は悪びれずに言った。
「全部守ろうとすると兵が散りそうだったので、諦めました」
「それで構いません」
「前田殿たちが来てくれたおかげで、最後は随分楽になりました」
利家が笑う。
「着いた時には、ほとんど終わっていたがな」
「来てくれたから終わったんですよ」
弥兵衛がそう返す。
景継は三人を見た。
昨日まで別々の場所にいた兵が、ようやく揃った。
宇喜多。
林道。
柴田。
ならば、ここで止まる理由はない。
「追いましょう」
景継の言葉に、軍が動き始めた。
先頭を進むのは宇喜多勢だった。
自分たちの土地を取り戻すための行軍であり、備前の道を最も知っているのも彼らである。
昼前には、毛利に奪われていた小さな砦が見えてきた。
「兵は?」
秀家が物見に尋ねる。
「おります。ただ、多くはございません」
秀家は砦を見上げたあと、景継へ向き直った。
「ここは宇喜多でやらせてくれ」
「お願いします」
返事を聞くと、秀家はすぐに兵を率いて前へ出た。
毛利側から矢が飛ぶ。
宇喜多兵も応射し、そのまま柵へ取りついた。
戦いは長く続かなかった。
守っていた毛利兵は、本格的に攻め込まれると西側から退いていく。
「追うな!」
秀家が止めた。
昨日と同じだった。
だが今度は、景継の顔を確認することさえしなかった。
逃げる敵ではなく、まず自分たちが取り戻した砦を見る。
毛利の旗が下ろされる。
代わりに宇喜多の旗が上がった。
兵たちから歓声が起こった。
秀家はしばらく、その旗を見上げていた。
「殿!」
宇喜多兵の一人が嬉しそうに駆け寄る。
「戻りましたな」
「ああ」
秀家は短く答えた。
その声が少し震えていた。
ここを捨てた日のことを覚えている。
毛利に追われ、兵を残すためとはいえ、自ら退却を命じた。
あの時は、本当に戻れるのか分からなかった。
景継が近づくと、秀家は旗を見たまま言った。
「兵を残せと言われた時は、分かっていたつもりだった」
景継は黙って聞く。
「だが、違ったな。今日ここへ戻ってきて、ようやく分かった」
秀家の視線が、砦の中へ入っていく宇喜多兵を追う。
「土地が残っていても、こいつらがいなければ取り返せなかった」
景継は小さく頷いた。
「ええ」
それ以上は言わなかった。
秀家自身が得たものなら、自分の言葉で説明し直す必要はない。
「行きましょう」
「ああ。まだ先がある」
宇喜多勢は再び西へ向かった。
毛利も黙って退いているわけではなかった。
街道には木が倒され、狭い場所には柵が置かれ、時には林の中からこちらを窺う兵の姿もあった。
三日目。
街道を進んでいた弥兵衛が、不意に馬を止めた。
「若様」
景継も止まる。
弥兵衛は左手の林を見ていた。
「何かいると思います」
「見えますか?」
「いえ。でも静かすぎます」
景継も耳を澄ませた。
風に揺れる葉の音は聞こえる。
だが鳥の声がほとんどない。
物見を出すと、ほどなく兵が戻ってきた。
「毛利兵がおります!」
反対側も調べさせる。
そちらにも兵が潜んでいた。
街道へ誘い込み、左右から攻めるつもりらしい。
成政が前へ出る。
「数が多くないなら、潰すか?」
景継は秀家を見た。
「別の道はありますか?」
「ある。少し遠回りになるが」
「そちらへ行きましょう」
成政が眉を寄せた。
「戦わんのか」
「戦うために西へ進んでいるのであって、毛利が用意した場所すべてで戦うためではありません」
成政は林を見た。
やがて肩をすくめる。
「それもそうか」
軍は街道を外れた。
待ち伏せていた毛利兵は追ってこない。
こちらが戦場を選ばなければ、向こうも無理には出てこない。
そうした駆け引きを挟みながらも、進軍そのものは止めなかった。
二日。
三日。
奪われていた集落や小さな拠点へ、次々と宇喜多の旗が戻っていった。
そして四日目。
物見が馬を飛ばして戻ってきた。
「毛利勢、さらに後退!」
報告された位置を聞き、秀家の家臣たちが顔を見合わせる。
先の敗戦で奪われた地域の大半から、毛利が兵を引き始めていた。
官兵衛が地図を見る。
「備前で宇喜多を追い続けることを諦めましたな」
毛利はまだ戦える。
元春も健在である。
だからこそ、宇喜多領の奥で無理に消耗せず、自分たちの領域まで下がって態勢を整える。
景継は西を見た。
隆景らしい判断だった。
「追いますか?」
官兵衛が尋ねる。
景継は頷いた。
「ここで止まる理由はありません」
軍はさらに前へ出た。
翌朝。
宇喜多が失っていた最後の大きな拠点からも、毛利の旗が消えた。
城壁へ宇喜多の旗が上がる。
その瞬間、城内のあちこちから歓声が響いた。
秀家は何も言わず、その旗を見ていた。
長かったわけではない。
それでも秀家には、毛利に敗れてから今日までがひどく長く感じられた。
土地を捨てた。
兵を退かせた。
林道家へ助けを求めた。
当主でありながら、自分一人では家を守れないことも認めた。
そして今。
失った場所に、再び自分の家の旗が立っている。
「景継殿」
「はい」
「宇喜多は、守れたのだな」
景継は少し間を置いてから頷いた。
「ええ」
秀家の肩から、ようやく力が抜けた。
「……礼を言う」
「まだ早いですよ」
秀家が顔を上げる。
景継は西を見ていた。
遠くへ退いていく毛利の旗。
「追うのか?」
「はい」
「宇喜多領から出ても?」
「そのつもりで来ました」
官兵衛も二人のそばへ来た。
「毛利は宇喜多を攻め切れなかっただけで、軍そのものはほとんど失っておりません。ここで戻れば、いずれ態勢を整え直します」
秀家の表情から、先ほどまでの安堵が少し消えた。
「だから今度はこちらが毛利へ入る」
「はい」
景継が答える。
「ただし、秀家殿」
「何だ」
「宇喜多家は、ここで止まっていただいても構いません」
秀家が景継を見る。
「救援の約束は果たしました。ここから先は、宇喜多家が自分で決めることです」
風に宇喜多の旗が鳴った。
秀家はその音を聞きながら、自分たちが取り戻した土地を見た。
ここに残れば、宇喜多は守れる。
傷ついた兵を休ませることもできる。
それは間違った判断ではない。
けれど、城壁の下には昨日まで毛利に追われていた兵たちがいる。
その兵たちが、今日は西を見ていた。
追われる側ではなく。
追う側として。
「……行く」
景継は黙って秀家を見る。
「毛利が立て直すのを待って、また備前で戦うのは御免だ」
秀家は景継の方へ向き直った。
「宇喜多も行く」
景継は頷いた。
「分かりました」
それだけだった。
だが秀家には、それがよかった。
助けられたから従うのではない。
景継に命じられたからでもない。
自分で決めた。
城を下りると、利家と成政も出立の支度を整えていた。
柴田勢の兵たちは、すでに西へ向かう列へ加わっている。
利家が景継に尋ねる。
「次は毛利領か」
「はい」
利家は一度だけ柴田の旗を振り返った。
「勝家様なら、何と言ったかな」
成政が答える。
「決まっている」
利家を見る。
「さっさと行け、だ」
利家は少し笑った。
景継も、その言葉に僅かに口元を緩めた。
「では、行きましょうか」
軍が動き始める。
先頭には、この辺りの道を知る宇喜多勢。
その後ろに林道勢。
さらに柴田勢が続いた。
やがて先頭の兵が、宇喜多領の境を越える。
秀家は一度だけ後ろを振り返った。
取り戻した備前がある。
少し前までなら、そこへ戻れただけで十分だった。
今は違う。
秀家は前を向いた。
その先には毛利の国がある。
宇喜多を救うための戦は、ここで終わった。
追われていた者たちが国境を越え、今度は毛利を追う。
景継も馬上から西を見据えた。
ここから先は、失ったものを取り戻す戦ではない。
毛利の国から、何を持ち帰るのか。
それを決める戦が始まった。




