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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第ニ百七話 追撃



翌朝、備前の空には薄い雲が広がっていた。


前日の戦場には踏み荒らされた土と折れた槍が残り、その向こうから吉川の旗は消えている。


物見によれば、元春は夜のうちにさらに西へ下がったという。


敗走ではない。


隊列を保ったまま退き、要所には兵を残している。昨日の一戦で崩れたわけではなく、こちらが追ってくることまで承知した撤退だった。


その報告を聞いていた景継の前へ、東から新たな軍勢が姿を現した。


前田。


佐々。


そして、その後ろに続く柴田の旗。


二日遅れで進んでいた柴田勢が、ようやく本隊へ追いついた。


「景継殿」


馬を降りた利家が頭を下げる。


「お待たせした」


「予定通りです。こちらが待たなかっただけですよ」


景継がそう返すと、隣の成政が鼻を鳴らした。


「着いてみれば、もう吉川と一戦やった後だと聞いたぞ」


「次は残してあります」


「ならいい」


短いやり取りだった。


だが景継は、二人の後ろに並ぶ柴田兵を見ていた。


北ノ庄で何度も見た旗だった。


かつてなら、その中央には勝家がいた。


今はいない。


それでも兵は残り、利家も成政もここまで来た。


勝家から託された柴田家が、こうして自分の軍と並んでいる。


景継は胸の奥に浮かんだものを押し込めるように、二人へ頭を下げた。


「ここから先も、力を貸してください」


利家が頷く。


「そのために来た」


成政も何も言わず、西を向いた。


そこへ弥兵衛も戻ってきた。


昨日まで後方を守っていた兵の大半を連れている。負傷者はいるものの、大きく数を減らしてはいない。


「若様」


「ご苦労でした」


「荷駄は少し捨てましたけどね」


弥兵衛は悪びれずに言った。


「全部守ろうとすると兵が散りそうだったので、諦めました」


「それで構いません」


「前田殿たちが来てくれたおかげで、最後は随分楽になりました」


利家が笑う。


「着いた時には、ほとんど終わっていたがな」


「来てくれたから終わったんですよ」


弥兵衛がそう返す。


景継は三人を見た。


昨日まで別々の場所にいた兵が、ようやく揃った。


宇喜多。


林道。


柴田。


ならば、ここで止まる理由はない。


「追いましょう」


景継の言葉に、軍が動き始めた。



先頭を進むのは宇喜多勢だった。


自分たちの土地を取り戻すための行軍であり、備前の道を最も知っているのも彼らである。


昼前には、毛利に奪われていた小さな砦が見えてきた。


「兵は?」


秀家が物見に尋ねる。


「おります。ただ、多くはございません」


秀家は砦を見上げたあと、景継へ向き直った。


「ここは宇喜多でやらせてくれ」


「お願いします」


返事を聞くと、秀家はすぐに兵を率いて前へ出た。


毛利側から矢が飛ぶ。


宇喜多兵も応射し、そのまま柵へ取りついた。


戦いは長く続かなかった。


守っていた毛利兵は、本格的に攻め込まれると西側から退いていく。


「追うな!」


秀家が止めた。


昨日と同じだった。


だが今度は、景継の顔を確認することさえしなかった。


逃げる敵ではなく、まず自分たちが取り戻した砦を見る。


毛利の旗が下ろされる。


代わりに宇喜多の旗が上がった。


兵たちから歓声が起こった。


秀家はしばらく、その旗を見上げていた。


「殿!」


宇喜多兵の一人が嬉しそうに駆け寄る。


「戻りましたな」


「ああ」


秀家は短く答えた。


その声が少し震えていた。


ここを捨てた日のことを覚えている。


毛利に追われ、兵を残すためとはいえ、自ら退却を命じた。


あの時は、本当に戻れるのか分からなかった。


景継が近づくと、秀家は旗を見たまま言った。


「兵を残せと言われた時は、分かっていたつもりだった」


景継は黙って聞く。


「だが、違ったな。今日ここへ戻ってきて、ようやく分かった」


秀家の視線が、砦の中へ入っていく宇喜多兵を追う。


「土地が残っていても、こいつらがいなければ取り返せなかった」


景継は小さく頷いた。


「ええ」


それ以上は言わなかった。


秀家自身が得たものなら、自分の言葉で説明し直す必要はない。


「行きましょう」


「ああ。まだ先がある」


宇喜多勢は再び西へ向かった。



毛利も黙って退いているわけではなかった。


街道には木が倒され、狭い場所には柵が置かれ、時には林の中からこちらを窺う兵の姿もあった。


三日目。


街道を進んでいた弥兵衛が、不意に馬を止めた。


「若様」


景継も止まる。


弥兵衛は左手の林を見ていた。


「何かいると思います」


「見えますか?」


「いえ。でも静かすぎます」


景継も耳を澄ませた。


風に揺れる葉の音は聞こえる。


だが鳥の声がほとんどない。


物見を出すと、ほどなく兵が戻ってきた。


「毛利兵がおります!」


反対側も調べさせる。


そちらにも兵が潜んでいた。


街道へ誘い込み、左右から攻めるつもりらしい。


成政が前へ出る。


「数が多くないなら、潰すか?」


景継は秀家を見た。


「別の道はありますか?」


「ある。少し遠回りになるが」


「そちらへ行きましょう」


成政が眉を寄せた。


「戦わんのか」


「戦うために西へ進んでいるのであって、毛利が用意した場所すべてで戦うためではありません」


成政は林を見た。


やがて肩をすくめる。


「それもそうか」


軍は街道を外れた。


待ち伏せていた毛利兵は追ってこない。


こちらが戦場を選ばなければ、向こうも無理には出てこない。


そうした駆け引きを挟みながらも、進軍そのものは止めなかった。


二日。


三日。


奪われていた集落や小さな拠点へ、次々と宇喜多の旗が戻っていった。


そして四日目。


物見が馬を飛ばして戻ってきた。


「毛利勢、さらに後退!」


報告された位置を聞き、秀家の家臣たちが顔を見合わせる。


先の敗戦で奪われた地域の大半から、毛利が兵を引き始めていた。


官兵衛が地図を見る。


「備前で宇喜多を追い続けることを諦めましたな」


毛利はまだ戦える。


元春も健在である。


だからこそ、宇喜多領の奥で無理に消耗せず、自分たちの領域まで下がって態勢を整える。


景継は西を見た。


隆景らしい判断だった。


「追いますか?」


官兵衛が尋ねる。


景継は頷いた。


「ここで止まる理由はありません」


軍はさらに前へ出た。



翌朝。


宇喜多が失っていた最後の大きな拠点からも、毛利の旗が消えた。


城壁へ宇喜多の旗が上がる。


その瞬間、城内のあちこちから歓声が響いた。


秀家は何も言わず、その旗を見ていた。


長かったわけではない。


それでも秀家には、毛利に敗れてから今日までがひどく長く感じられた。


土地を捨てた。


兵を退かせた。


林道家へ助けを求めた。


当主でありながら、自分一人では家を守れないことも認めた。


そして今。


失った場所に、再び自分の家の旗が立っている。


「景継殿」


「はい」


「宇喜多は、守れたのだな」


景継は少し間を置いてから頷いた。


「ええ」


秀家の肩から、ようやく力が抜けた。


「……礼を言う」


「まだ早いですよ」


秀家が顔を上げる。


景継は西を見ていた。


遠くへ退いていく毛利の旗。


「追うのか?」


「はい」


「宇喜多領から出ても?」


「そのつもりで来ました」


官兵衛も二人のそばへ来た。


「毛利は宇喜多を攻め切れなかっただけで、軍そのものはほとんど失っておりません。ここで戻れば、いずれ態勢を整え直します」


秀家の表情から、先ほどまでの安堵が少し消えた。


「だから今度はこちらが毛利へ入る」


「はい」


景継が答える。


「ただし、秀家殿」


「何だ」


「宇喜多家は、ここで止まっていただいても構いません」


秀家が景継を見る。


「救援の約束は果たしました。ここから先は、宇喜多家が自分で決めることです」


風に宇喜多の旗が鳴った。


秀家はその音を聞きながら、自分たちが取り戻した土地を見た。


ここに残れば、宇喜多は守れる。


傷ついた兵を休ませることもできる。


それは間違った判断ではない。


けれど、城壁の下には昨日まで毛利に追われていた兵たちがいる。


その兵たちが、今日は西を見ていた。


追われる側ではなく。


追う側として。


「……行く」


景継は黙って秀家を見る。


「毛利が立て直すのを待って、また備前で戦うのは御免だ」


秀家は景継の方へ向き直った。


「宇喜多も行く」


景継は頷いた。


「分かりました」


それだけだった。


だが秀家には、それがよかった。


助けられたから従うのではない。


景継に命じられたからでもない。


自分で決めた。



城を下りると、利家と成政も出立の支度を整えていた。


柴田勢の兵たちは、すでに西へ向かう列へ加わっている。


利家が景継に尋ねる。


「次は毛利領か」


「はい」


利家は一度だけ柴田の旗を振り返った。


「勝家様なら、何と言ったかな」


成政が答える。


「決まっている」


利家を見る。


「さっさと行け、だ」


利家は少し笑った。


景継も、その言葉に僅かに口元を緩めた。


「では、行きましょうか」


軍が動き始める。


先頭には、この辺りの道を知る宇喜多勢。


その後ろに林道勢。


さらに柴田勢が続いた。


やがて先頭の兵が、宇喜多領の境を越える。


秀家は一度だけ後ろを振り返った。


取り戻した備前がある。


少し前までなら、そこへ戻れただけで十分だった。


今は違う。


秀家は前を向いた。


その先には毛利の国がある。


宇喜多を救うための戦は、ここで終わった。


追われていた者たちが国境を越え、今度は毛利を追う。


景継も馬上から西を見据えた。


ここから先は、失ったものを取り戻す戦ではない。


毛利の国から、何を持ち帰るのか。


それを決める戦が始まった。



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