第ニ百六話 吉川元春
毛利方から鳴り響いた法螺貝の音が、夕暮れの備前に広がった。
遠くに並んでいた旗が動き始める。先ほどまで景継たちの進軍を妨げていた小勢とは違い、隊列を整えて正面から迫る軍勢の中央には、吉川の旗があった。
宇喜多勢の間に緊張が走る。
吉川元春。
毛利家を支える重鎮であり、幾度もの戦場を生き抜いてきた武将。その名を知らない者は、ここにはほとんどいない。
何より宇喜多の兵たちは、すでに毛利に一度敗れている。
秀家は迫る軍勢を見つめたまま言った。
「景継殿。宇喜多を前に置いてくれ」
景継は若い当主を見る。
「理由を聞いても?」
「ここは備前だ」
秀家は毛利勢から目を離さなかった。
「一度負けたからといって、林道家が来た途端に後ろへ隠れるわけにはいかない。それでは、次も自分たちの国を守れん」
景継は周囲の宇喜多兵へ目を向けた。
土地を譲りながら退き、林道勢が来るまで耐えてきた兵たちである。助けが来た安堵はあっても、敗戦の記憶まで消えたわけではない。
ここで林道勢だけが戦って勝ったところで、宇喜多が立ち直ったことにはならない。
「分かりました。ただし、崩れる前には下げてください」
「ああ。兵を残すために退いたことは、もう忘れん」
秀家は自軍へ向かった。
「宇喜多勢、前へ!」
兵たちが動く。
林道勢はその後ろで戦列を整え、清正と正則も出撃に備えたが、景継はまだ動くなと命じた。
やがて両軍の距離が縮まった。
「来るぞ!」
直後、宇喜多勢と吉川勢が激突した。
槍がぶつかり、怒号が夕暮れの野に重なる。
最初に押したのは毛利だった。
力任せに崩しに来るのではない。宇喜多の反応を確かめながら、少しずつ圧力を強めてくる。
「踏ん張れ!」
秀家の声に応じ、宇喜多勢も押し返した。
毛利の前列が僅かに下がる。
「退いたぞ!」
勢いに乗った兵が追おうとした。
「追うな!」
秀家の声が飛んだ。
兵たちが踏みとどまる。
その直後、吉川勢の一部が宇喜多の右へ動いた。
「右を厚くしろ!」
秀家が兵を回す。
待っていたかのように、元春は正面を強く押した。
右へ兵を動かしたばかりの宇喜多勢が大きく揺れる。
「早い……!」
秀家の顔が強張った。
景継も元春の狙いを理解した。
相手を動かし、その瞬間に別の場所を突く。何度も戦場を生き抜いてきた経験が、そのまま軍の動きに現れている。
宇喜多の列が開きかけた。
「林道勢を入れてください」
景継の命令で待機していた兵が動き、崩れかけた場所へ入った。
毛利の前進が止まる。
「押し返せ!」
秀家もすぐに反応した。
宇喜多勢は林道勢に任せて下がるのではなく、その横に並んで前へ出た。
吉川勢が下がり始める。
清正が槍を握った。
「景継様、今なら行ける!」
正則も前へ出ようとしたが、景継は止めた。
「まだです」
退いている吉川勢の列は乱れていない。
逃げているのではなく、こちらが追ってくるのを待ちながら距離を取っている。
「追えば、元春殿の戦になります」
清正は不満そうに敵を睨んだが、命令には従った。
秀家も数歩前へ出たところで足を止める。
目の前には、退いていく毛利勢。
先の敗戦で失った土地。
追いたい気持ちはある。
それでも秀家は振り返らなかった。
「宇喜多勢、止まれ! 追うな!」
今度は景継に言われる前に、自分で決めた。
景継は何も言わず、その背中を見ていた。
◇
元春も馬上から戦場を振り返っていた。
「追ってこぬか」
宇喜多も林道も止まっている。
特に気になったのは、ほとんど動かなかった清正と正則だった。
こちらがもう一度出れば、景継はあの二人を使うだろう。
さらに東からは、二日遅れの柴田勢も近づいている。
元春は迷わなかった。
「戻るぞ」
「よろしいので?」
「今日は十分だ」
宇喜多は以前より持ち直している。
そして景継は、勝てそうに見えたからと簡単には前へ出てこない。
それが分かっただけでも収穫だった。
吉川勢は整然と西へ退いていった。
◇
景継が遠ざかる吉川の旗を見ていると、東から一騎の伝令が駆け込んできた。
「申し上げます! 後方にて毛利別働隊と接触!」
景継はすぐに振り返った。
「弥兵衛は」
「ご無事です! 街道側の兵と合流し、毛利勢を止めております!」
景継の肩から僅かに力が抜けた。
「そうですか」
それから敵の数と荷駄の状況を聞く。
毛利は想定よりやや多いものの、大きな損害はまだ出ていない。
「援軍を送るか?」
秀家が尋ねた。
「弥兵衛から何か?」
「『こちらはまだ持つ。前のことだけ考えてください』と」
景継は東を見た。
若い頃から一緒にいる。
弥兵衛が景継の考えることをすべて理解しているわけではない。難しい話をすれば、今でも面倒そうな顔をする。
それでも、何を守らなければならないかだけは見失わない。
だから任せられる。
「援軍は送りません」
「大丈夫なのか?」
「弥兵衛が持つと言っています」
景継の返事に迷いはなかった。
秀家は何も言わなかった。
景継が冷たいわけではないことは、先ほど真っ先に弥兵衛の無事を尋ねたことで分かっている。
心配していても任せる。
その関係が、秀家には少し羨ましく見えた。
◇
その頃、弥兵衛は街道を守っていた。
毛利の別働隊は荷駄へ近づいてはこちらを動かし、兵が来れば離れる。それを何度も繰り返している。
「また右へ回ります!」
「追わなくていい! 道を塞げ!」
「荷駄は?」
「全部守ろうとして兵を散らしたら、向こうの思うつぼだ!」
景継から言われたことは一つ。
後ろへ抜かせるな。
弥兵衛はそれだけを守っていた。
「前では若様が吉川元春と戦ってる!」
周囲の兵が振り返る。
「ここで俺たちが崩れたら、若様は後ろを振り返らなきゃならん」
弥兵衛が槍を構えた。
「前だけ見させてやれ!」
林道兵が声を上げる。
毛利勢が再び街道へ迫った。
その時だった。
後方から、無数の蹄と足音が響いてきた。
「弥兵衛殿! 東より軍勢!」
弥兵衛が振り返る。
夕暮れの街道に、いくつもの旗が現れた。
前田。
そして佐々。
二日遅れで進んでいた柴田勢だった。
「……来たか」
林道兵から歓声が上がる。
毛利側も新手に気づいた。
前に弥兵衛。
後ろから柴田勢。
ここに留まる意味はない。
毛利の別働隊はすぐに退却を始めた。
追おうとする兵を、弥兵衛が止める。
「追うな! 道を守ればそれでいい!」
やがて柴田勢の先頭から利家が馬を寄せてきた。
「弥兵衛殿、遅くなった」
「予定通りですよ。若様が先へ行っただけです」
利家は苦笑した。
その横へ成政も来る。
「景継殿は?」
「吉川元春と一戦交えています。そちらも、もう終わる頃でしょう」
成政は西へ馬首を向けかけたが、利家が止めた。
「成政。兵を見ろ」
二日遅れを取り戻すように進んできた柴田兵には、疲労が見える。
成政はしばらく黙り、やがて手綱を緩めた。
「……明日か」
「ああ」
弥兵衛は二人を見た。
勝家がいなくなってから初めて、柴田勢が景継の指揮下で大きな戦へ入る。
利家の表情にも、成政の表情にも、以前とは違う硬さがあった。
弥兵衛はそこには触れなかった。
「今日は休ませてください。明日、若様のところへ」
利家が頷いた。
「そうしよう」
◇
日が沈む頃、秀家は負傷者を見て回っていた。
死者も出た。
傷を負った者もいる。
それでも、敗走した時とは兵たちの顔が違った。
「殿」
腕を布で吊った兵が秀家を呼んだ。
秀家は足を止める。
「今日の戦……勝ったのでしょうか」
秀家は答えに詰まった。
元春は退いた。
だが打ち破ったわけではない。
「分からん」
正直に答えると、兵は疲れた顔で笑った。
「でも、今日は逃げませんでした」
秀家は言葉を失った。
兵は仲間に肩を借り、治療を受けに歩いていく。
秀家はその背中を見送った。
失った土地を取り返すことばかり考えていた。
だが宇喜多の兵たちが最初に取り戻したかったものは、別のものだったのかもしれない。
その頃、景継のもとにも後方から報告が届いていた。
「柴田勢、街道へ到着! 毛利別働隊は撤退しました!」
「弥兵衛は?」
「ご無事です。前田利家、佐々成政両名も無事。明朝こちらへ合流するとのこと!」
景継は東を見た。
二日遅れ。
予定通りだった。
それでも柴田の旗が追いついたと聞いた瞬間、胸の奥に別の男の姿が浮かんだ。
北ノ庄。
弱くなった声。
『途中で……くたばるなよ』
勝家はもういない。
本当なら、その軍勢の先頭にいてほしかった。
だが、勝家が残した者たちは生きている。
利家も。
成政も。
柴田の兵たちも。
そして今、自分のもとへ来ようとしている。
景継はしばらく東を見た後、静かに息を吐いた。
約束したのだ。
柴田家は、自分が守ると。
「ダメだ、今は戦の真っ最中、戦のことだけに集中しないといけない。」
感傷に浸るより、彼らが生き残れる戦をしなければならない。
官兵衛が地図を持ってきた。
秀家も戻ってくる。
「明日はどうする?」
景継は地図の一点を指した。
「ここへ進みます」
秀家が覗き込む。
「元春を追わないのか?」
「追いません」
今日、毛利は元春を正面へ出し、別働隊を後方へ回した。
景継を止めるために兵を動かしたのなら、その分だけ薄くなった場所がある。
「毛利が待っている場所で、何度も戦う必要はありません」
秀家は地図を見て、すぐに意図を理解した。
「なら、また道は俺たちが案内する」
景継が頷く。
「お願いします」
今度の秀家に迷いはなかった。
「任せろ」
今日、宇喜多は吉川元春を相手に崩れなかった。
弥兵衛は後ろを守り、二日遅れの柴田勢も追いついた。
明日からは、その柴田勢も加わる。
景継の指が地図の上を西へ進んだ。
備前を守るだけの戦は、もう終わりに近づいていた。
次は、こちらから毛利を動かす番だった。




