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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第ニ百六話 吉川元春



毛利方から鳴り響いた法螺貝の音が、夕暮れの備前に広がった。


遠くに並んでいた旗が動き始める。先ほどまで景継たちの進軍を妨げていた小勢とは違い、隊列を整えて正面から迫る軍勢の中央には、吉川の旗があった。


宇喜多勢の間に緊張が走る。


吉川元春。


毛利家を支える重鎮であり、幾度もの戦場を生き抜いてきた武将。その名を知らない者は、ここにはほとんどいない。


何より宇喜多の兵たちは、すでに毛利に一度敗れている。


秀家は迫る軍勢を見つめたまま言った。


「景継殿。宇喜多を前に置いてくれ」


景継は若い当主を見る。


「理由を聞いても?」


「ここは備前だ」


秀家は毛利勢から目を離さなかった。


「一度負けたからといって、林道家が来た途端に後ろへ隠れるわけにはいかない。それでは、次も自分たちの国を守れん」


景継は周囲の宇喜多兵へ目を向けた。


土地を譲りながら退き、林道勢が来るまで耐えてきた兵たちである。助けが来た安堵はあっても、敗戦の記憶まで消えたわけではない。


ここで林道勢だけが戦って勝ったところで、宇喜多が立ち直ったことにはならない。


「分かりました。ただし、崩れる前には下げてください」


「ああ。兵を残すために退いたことは、もう忘れん」


秀家は自軍へ向かった。


「宇喜多勢、前へ!」


兵たちが動く。


林道勢はその後ろで戦列を整え、清正と正則も出撃に備えたが、景継はまだ動くなと命じた。


やがて両軍の距離が縮まった。


「来るぞ!」


直後、宇喜多勢と吉川勢が激突した。


槍がぶつかり、怒号が夕暮れの野に重なる。


最初に押したのは毛利だった。


力任せに崩しに来るのではない。宇喜多の反応を確かめながら、少しずつ圧力を強めてくる。


「踏ん張れ!」


秀家の声に応じ、宇喜多勢も押し返した。


毛利の前列が僅かに下がる。


「退いたぞ!」


勢いに乗った兵が追おうとした。


「追うな!」


秀家の声が飛んだ。


兵たちが踏みとどまる。


その直後、吉川勢の一部が宇喜多の右へ動いた。


「右を厚くしろ!」


秀家が兵を回す。


待っていたかのように、元春は正面を強く押した。


右へ兵を動かしたばかりの宇喜多勢が大きく揺れる。


「早い……!」


秀家の顔が強張った。


景継も元春の狙いを理解した。


相手を動かし、その瞬間に別の場所を突く。何度も戦場を生き抜いてきた経験が、そのまま軍の動きに現れている。


宇喜多の列が開きかけた。


「林道勢を入れてください」


景継の命令で待機していた兵が動き、崩れかけた場所へ入った。


毛利の前進が止まる。


「押し返せ!」


秀家もすぐに反応した。


宇喜多勢は林道勢に任せて下がるのではなく、その横に並んで前へ出た。


吉川勢が下がり始める。


清正が槍を握った。


「景継様、今なら行ける!」


正則も前へ出ようとしたが、景継は止めた。


「まだです」


退いている吉川勢の列は乱れていない。


逃げているのではなく、こちらが追ってくるのを待ちながら距離を取っている。


「追えば、元春殿の戦になります」


清正は不満そうに敵を睨んだが、命令には従った。


秀家も数歩前へ出たところで足を止める。


目の前には、退いていく毛利勢。


先の敗戦で失った土地。


追いたい気持ちはある。


それでも秀家は振り返らなかった。


「宇喜多勢、止まれ! 追うな!」


今度は景継に言われる前に、自分で決めた。


景継は何も言わず、その背中を見ていた。



◇



元春も馬上から戦場を振り返っていた。


「追ってこぬか」


宇喜多も林道も止まっている。


特に気になったのは、ほとんど動かなかった清正と正則だった。


こちらがもう一度出れば、景継はあの二人を使うだろう。


さらに東からは、二日遅れの柴田勢も近づいている。


元春は迷わなかった。


「戻るぞ」


「よろしいので?」


「今日は十分だ」


宇喜多は以前より持ち直している。


そして景継は、勝てそうに見えたからと簡単には前へ出てこない。


それが分かっただけでも収穫だった。


吉川勢は整然と西へ退いていった。



◇



景継が遠ざかる吉川の旗を見ていると、東から一騎の伝令が駆け込んできた。


「申し上げます! 後方にて毛利別働隊と接触!」


景継はすぐに振り返った。


「弥兵衛は」


「ご無事です! 街道側の兵と合流し、毛利勢を止めております!」


景継の肩から僅かに力が抜けた。


「そうですか」


それから敵の数と荷駄の状況を聞く。


毛利は想定よりやや多いものの、大きな損害はまだ出ていない。


「援軍を送るか?」


秀家が尋ねた。


「弥兵衛から何か?」


「『こちらはまだ持つ。前のことだけ考えてください』と」


景継は東を見た。


若い頃から一緒にいる。


弥兵衛が景継の考えることをすべて理解しているわけではない。難しい話をすれば、今でも面倒そうな顔をする。


それでも、何を守らなければならないかだけは見失わない。


だから任せられる。


「援軍は送りません」


「大丈夫なのか?」


「弥兵衛が持つと言っています」


景継の返事に迷いはなかった。


秀家は何も言わなかった。


景継が冷たいわけではないことは、先ほど真っ先に弥兵衛の無事を尋ねたことで分かっている。


心配していても任せる。


その関係が、秀家には少し羨ましく見えた。



◇



その頃、弥兵衛は街道を守っていた。


毛利の別働隊は荷駄へ近づいてはこちらを動かし、兵が来れば離れる。それを何度も繰り返している。


「また右へ回ります!」


「追わなくていい! 道を塞げ!」


「荷駄は?」


「全部守ろうとして兵を散らしたら、向こうの思うつぼだ!」


景継から言われたことは一つ。


後ろへ抜かせるな。


弥兵衛はそれだけを守っていた。


「前では若様が吉川元春と戦ってる!」


周囲の兵が振り返る。


「ここで俺たちが崩れたら、若様は後ろを振り返らなきゃならん」


弥兵衛が槍を構えた。


「前だけ見させてやれ!」


林道兵が声を上げる。


毛利勢が再び街道へ迫った。


その時だった。


後方から、無数の蹄と足音が響いてきた。


「弥兵衛殿! 東より軍勢!」


弥兵衛が振り返る。


夕暮れの街道に、いくつもの旗が現れた。


前田。


そして佐々。


二日遅れで進んでいた柴田勢だった。


「……来たか」


林道兵から歓声が上がる。


毛利側も新手に気づいた。


前に弥兵衛。


後ろから柴田勢。


ここに留まる意味はない。


毛利の別働隊はすぐに退却を始めた。


追おうとする兵を、弥兵衛が止める。


「追うな! 道を守ればそれでいい!」


やがて柴田勢の先頭から利家が馬を寄せてきた。


「弥兵衛殿、遅くなった」


「予定通りですよ。若様が先へ行っただけです」


利家は苦笑した。


その横へ成政も来る。


「景継殿は?」


「吉川元春と一戦交えています。そちらも、もう終わる頃でしょう」


成政は西へ馬首を向けかけたが、利家が止めた。


「成政。兵を見ろ」


二日遅れを取り戻すように進んできた柴田兵には、疲労が見える。


成政はしばらく黙り、やがて手綱を緩めた。


「……明日か」


「ああ」


弥兵衛は二人を見た。


勝家がいなくなってから初めて、柴田勢が景継の指揮下で大きな戦へ入る。


利家の表情にも、成政の表情にも、以前とは違う硬さがあった。


弥兵衛はそこには触れなかった。


「今日は休ませてください。明日、若様のところへ」


利家が頷いた。


「そうしよう」



◇



日が沈む頃、秀家は負傷者を見て回っていた。


死者も出た。


傷を負った者もいる。


それでも、敗走した時とは兵たちの顔が違った。


「殿」


腕を布で吊った兵が秀家を呼んだ。


秀家は足を止める。


「今日の戦……勝ったのでしょうか」


秀家は答えに詰まった。


元春は退いた。


だが打ち破ったわけではない。


「分からん」


正直に答えると、兵は疲れた顔で笑った。


「でも、今日は逃げませんでした」


秀家は言葉を失った。


兵は仲間に肩を借り、治療を受けに歩いていく。


秀家はその背中を見送った。


失った土地を取り返すことばかり考えていた。


だが宇喜多の兵たちが最初に取り戻したかったものは、別のものだったのかもしれない。



その頃、景継のもとにも後方から報告が届いていた。


「柴田勢、街道へ到着! 毛利別働隊は撤退しました!」


「弥兵衛は?」


「ご無事です。前田利家、佐々成政両名も無事。明朝こちらへ合流するとのこと!」


景継は東を見た。


二日遅れ。


予定通りだった。


それでも柴田の旗が追いついたと聞いた瞬間、胸の奥に別の男の姿が浮かんだ。


北ノ庄。


弱くなった声。


『途中で……くたばるなよ』


勝家はもういない。


本当なら、その軍勢の先頭にいてほしかった。


だが、勝家が残した者たちは生きている。


利家も。


成政も。


柴田の兵たちも。


そして今、自分のもとへ来ようとしている。


景継はしばらく東を見た後、静かに息を吐いた。


約束したのだ。


柴田家は、自分が守ると。


「ダメだ、今は戦の真っ最中、戦のことだけに集中しないといけない。」


感傷に浸るより、彼らが生き残れる戦をしなければならない。



官兵衛が地図を持ってきた。


秀家も戻ってくる。


「明日はどうする?」


景継は地図の一点を指した。


「ここへ進みます」


秀家が覗き込む。


「元春を追わないのか?」


「追いません」


今日、毛利は元春を正面へ出し、別働隊を後方へ回した。


景継を止めるために兵を動かしたのなら、その分だけ薄くなった場所がある。


「毛利が待っている場所で、何度も戦う必要はありません」


秀家は地図を見て、すぐに意図を理解した。


「なら、また道は俺たちが案内する」


景継が頷く。


「お願いします」


今度の秀家に迷いはなかった。


「任せろ」


今日、宇喜多は吉川元春を相手に崩れなかった。


弥兵衛は後ろを守り、二日遅れの柴田勢も追いついた。


明日からは、その柴田勢も加わる。


景継の指が地図の上を西へ進んだ。


備前を守るだけの戦は、もう終わりに近づいていた。


次は、こちらから毛利を動かす番だった。

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