第ニ百五話 宇喜多の道
呼び出された宇喜多秀家が広間へ戻ってきた時、景継たちはまだ地図を囲んでいた。
夜もかなり更けている。それでも城内では兵が絶えず行き交い、厩からは馬の嘶きや具足の擦れる音が聞こえていた。
林道勢が備前へ入った。
その事実だけで、昨日まで毛利に押され続けていた城の空気が変わっている。
「何かあったのか」
秀家が地図の前まで来ると、景継は毛利勢の位置を指した。
「退き始めました」
「毛利が?」
秀家の顔に一瞬だけ喜色が浮かんだが、景継は続けた。
「はい。ただし、こちらが喜べる退き方ではありません」
官兵衛が説明を引き継いだ。
毛利は兵を下げながら周辺の兵糧を運び出し、橋の一部を落とし、街道にも手を加えているという。
秀家の表情から先ほどの明るさが消えた。
「追わせないつもりか」
「正確には、追うのを遅らせるのでしょう」
官兵衛の指が西へ動いた。
「我らが来た以上、毛利も宇喜多だけを相手にしていた時と同じ場所で戦う理由がございません。下がりながらこちらの足を止め、その間に次の戦場を整えるつもりかと」
秀家は黙って地図を見つめた。
自分たちが退いていた時とは違う。
毛利は追われているのではない。
次に勝つために、自ら退いている。
その違いが分かるからこそ、秀家の顔は険しかった。
やがて彼の指が街道を外れた。
「なら、ここを通ればいい」
弥兵衛が身を乗り出す。
「道があるのですか?」
「ある。村同士を結ぶ道だ。狭いところが多いから、大軍や荷駄をまとめて通すには向かないが、兵なら進める」
秀家はさらに別の場所を指した。
「こっちにも一本ある。少し遠回りだが、毛利が落とした橋より西へ出られる」
官兵衛が地図へ顔を近づけた。
主要な街道だけを見ていては分からない道だった。
「毛利も道そのものは知っているだろう」
秀家は言った。
「だが、どこがぬかるむか、雨が降ればどこが通れなくなるか、何人までなら一度に抜けられるか。そこまで俺たちより知っているわけじゃない」
その声には、これまでとは違う力があった。
土地を捨て、兵を残す。
林道家が来るまで耐える。
官兵衛の助言を受け入れ、秀家はそうしてきた。
正しいと分かっていても、自分の国で退き続けることが悔しくないはずはない。
城を捨てるたび、村を譲るたび、家臣たちの前で「まだ戦うな」と命じなければならなかった。
だが今、その土地を知っていることが武器になる。
景継は秀家を見た。
「では、明日は秀家殿に先導をお願いします」
「俺が?」
「ここは備前ですから」
景継は地図を秀家の方へ向けた。
「毛利と戦うからといって、林道家だけで戦う必要はありません。宇喜多家が持っているものは、使わせていただきます」
秀家はしばらく景継を見ていた。
助けを求めたのは宇喜多だった。
林道家が来れば、自分たちはその後ろについて戦うことになる。どこかで、そんな覚悟もしていた。
だが景継は最初から宇喜多を脇へ置こうとはしなかった。
「……分かった」
秀家が地図へ目を戻す。
「道は俺たちが案内する」
「お願いします」
その一言で方針が決まった。
荷駄と一部の兵は街道側に残し、落とされた橋の修復を続ける。一方、動きやすい兵は宇喜多勢が先導し、別の道から西へ進ませる。
そして、さらに東からは別の軍勢が近づいていた。
前田利家、佐々成政らが率いる柴田勢。
林道勢より二日ほど遅れて備前へ入る予定の後続軍だった。
秀家が尋ねる。
「柴田勢を待たなくていいのか?」
景継は地図の東側へ目を向けた。
「待てば、それだけ毛利にも時間を与えます」
柴田勢が遅れているのは予定通りだった。
大軍すべてを同じ速度で動かせば、かえって進軍は遅くなる。そのため景継は先行できる兵を率いて備前へ入り、柴田勢には後続として街道を進ませていた。
「前田殿と佐々殿には、そのままこちらへ向かっていただきます。街道側に残す兵や荷駄とも合流できますから」
官兵衛が頷いた。
「我らは先へ出る。後ろから柴田勢が追いつく。毛利にとっても、すべてを相手にする前に動きたいところでしょうな」
秀家が西を見た。
「なら、なおさら急ぐか」
「はい」
景継の指が、秀家の示した道をなぞった。
「毛利が作ってくださった時間を、そのまま毛利へ返す必要はありません」
ただし、軍を分ける以上は別の危険も生まれる。
景継は地図の東西を見比べた。
「毛利も、こちらが何かするとは考えているでしょう」
秀家が尋ねる。
「この道も読まれていると思うか?」
「分かりません」
景継は素直に答えた。
「ですから、読まれていても困らない進み方をしましょう」
明日からは、宇喜多を追うだけの戦ではない。
林道と毛利が互いの手を探りながら、西へ戦場を移していくことになる。
◇
翌朝。
街道では林道兵が落とされた橋の修復を始めていた。
荷駄も残っている。
そのさらに東からは、利家と成政が率いる柴田勢が街道を進んでいる。予定通りなら二日ほどで追いつく。
景継は柴田勢を待たなかった。
毛利が橋を落として稼ごうとした時間を、そのまま与えるつもりはない。
街道には兵と荷駄を残す。
橋も直す。
柴田勢も後ろから来る。
遠くから毛利の物見が確認すれば、林道勢が街道で足止めされ、後続の到着を待っているようにも見えただろう。
その頃、景継たちはすでに街道を外れていた。
先頭を宇喜多勢が進み、その後ろを林道勢が続く。
道は想像以上に狭かった。
場所によっては二列で進むことさえ難しく、馬を降りて歩かなければならない場所まである。
弥兵衛は手綱を引きながら、何度か足元を確かめていた。
「荷駄を置いてきた理由が、よく分かりました」
近くを歩いていた秀家が振り返る。
「だから言っただろう。ここを荷駄まで連れて通ろうとしたら、日が暮れる」
弥兵衛は周囲の林へ目を向けた。
道と言われなければ、ただの山間にも見える場所がある。
「宇喜多勢がいなければ、兵を連れて入ろうとは思いませんな」
秀家の口元が僅かに緩んだ。
「俺たちにとっては、これも道なんだ」
景継は二人の会話を聞きながら歩いていた。
地図に一本の線を引くだけでは分からない。
どこがぬかるむのか。
どこなら兵が抜けられるのか。
どこから街道へ戻れるのか。
昨日まで宇喜多が守り切れなかった土地が、今日は林道勢を前へ運んでいる。
土地を知るということは、城を持つことだけではない。
そこに暮らしてきた者の記憶そのものが、軍を動かす力になる。
やがて秀家が兵を止めた。
道が二つに分かれている。
「右なら街道へ戻る。左へ行けば少し時間はかかるが、さらに西へ出られる」
官兵衛が周囲を見回した。
「伏兵には困らぬ場所ですな」
「ああ。だから先に調べさせる」
秀家は迷わず宇喜多兵を出した。
林の中と道の先を確認させ、しばらくして安全を知らせる兵が戻ってくる。
「左へ行く」
秀家が決めた。
景継はその判断に口を挟まなかった。
ここでは、自分より秀家を信じた方がいい。
やがて視界が開けた。
田畑の向こうに街道が見える。
毛利が橋を落とした場所よりも西側だった。
宇喜多兵たちから、抑えきれない声が漏れた。
昨日まで毛利の背中を遠くから見ることしかできなかった者たちが、今はその先へ回り込んでいる。
秀家も前を見たまま言った。
「ここからなら、先へ出られる」
景継が頷く。
「助かりました」
「礼はまだ早い」
秀家の目は西を向いたままだった。
「毛利を退かせてからにしてくれ」
その直後、遠くで馬が一騎動いた。
こちらの旗を確認すると、すぐに西へ走り去っていく。
毛利の物見だった。
弥兵衛が景継を見る。
「追わせますか?」
「必要ありません」
ここまで来れば、別の道を使ったことを隠し続ける意味はない。
むしろ重要なのは、この後だった。
毛利がどう動くのか。
「先へ出ましょう」
景継たちは再び西へ進んだ。
◇
林道勢が予想より早く前へ出たとの報告は、小早川隆景のもとへ届いた。
地図を見ていた隆景の横から、吉川元春が覗き込む。
「宇喜多に案内させたか」
「そのようです」
「橋を落とした意味が薄れたな」
隆景はすぐには答えず、地図の東側へ目を向けた。
「いえ。すべてを連れてきたわけではありますまい」
元春も地図を見る。
大軍が通るには狭い道。
ならば荷駄や一部の兵は街道側に残っている。
さらに林道勢の後ろからは、別の軍も近づいているとの報告が入っていた。
「柴田か」
「はい」
隆景の指が東へ動く。
「ならば、合流させる前に一度触れておきたいところです」
「景継を叩くのか?」
「いいえ」
隆景の指先は、景継たちよりも後ろに置かれた。
「後ろへ兵を出します」
元春は弟の意図を察した。
景継が全軍で戻れば、前が空く。
戻らなければ、荷駄と後続へ圧力をかけられる。
そして柴田勢が到着する前なら、まだ動かしやすい。
「面倒なことをする」
元春が鼻を鳴らした。
「正面から行けば早いぞ」
「それは、もう少し後でお願いいたします」
元春は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
毛利の一隊が密かに東へ向かった。
◇
昼を過ぎた頃。
宇喜多勢は、以前放棄した拠点の一つを取り戻していた。
毛利はすでに兵を退いており、大きな戦闘はない。
久しぶりに戻った土地を見て、宇喜多兵たちの表情が明るくなる。
「殿、取り戻しました!」
報告を受けた秀家も笑った。
ほんの僅かな土地だった。
それでも、自分から捨てるしかなかった場所へ再び宇喜多の旗が立っている。
秀家はしばらくその旗を見ていた。
景継は何も言わなかった。
この喜びは、林道家のものではない。
退き続けた宇喜多の兵たちが、ようやく手にしたものだった。
やがて景継は西へ視線を移した。
静かすぎる。
こちらが予定より早く前へ出たことは、すでに毛利にも伝わっている。
それでも正面には、ほとんど動きがない。
官兵衛も同じことを気にしていた。
「正面以外を動かしましたかな」
その時、東から馬が駆けてきた。
林道の兵だった。
「申し上げます!」
馬を降りるなり声を上げる。
「毛利勢が街道側へ現れました!」
秀家の表情が変わった。
「数は?」
「大軍ではございません! ですが、荷駄と残した兵へ向かっております!」
官兵衛が地図を開いた。
秀家が景継を見る。
「戻るか?」
景継はすぐには答えず、地図の東側へ目を落とした。
こちらは軍を分けた。
毛利はそこを狙った。
全軍で戻れば、せっかく前へ出た意味がなくなる。
かといって放置すれば、補給を脅かされる。
柴田勢が近づいているとはいえ、まだ合流してはいない。
その時、弥兵衛が地図の東側へ指を置いた。
「若様。私が戻ります」
景継は弥兵衛の顔を見る。
長い付き合いだった。
若い頃から何度も同じ戦場に立ち、景継が口にしない部分まで拾って動いてきた男である。
だから景継は、細かな説明を重ねなかった。
「お願いします」
「兵は?」
景継は必要な数だけを伝えた。
秀家がその数を聞いて眉を寄せる。
「少なくないか?」
「相手も大軍ではありません」
「もし報告より多ければ?」
景継は弥兵衛へ視線を向けた。
「その時は退いてください。荷駄をすべて守る必要もありません」
弥兵衛が一度だけ頷く。
「後ろへ抜かせなければいい」
「はい」
それだけで二人の話は終わった。
どこに兵を置くか。
どこまで戦うか。
どの荷を諦めるか。
そこまで景継が決める必要はない。
弥兵衛なら、勝つ必要のない戦で兵を使い潰さない。
「では、行ってまいります」
「お願いします」
弥兵衛は兵を集め、東へ戻っていった。
秀家はその背中をしばらく見送った。
「……あれだけで分かるのだな」
「長いですから」
景継の答えに、秀家は小さく息を吐いた。
自分にも、いつかああして背中を預けられる者がどれだけ残るのだろう。
毛利に敗れた時、失いかけたものは土地だけではなかった。
兵も。
家臣も。
宇喜多という家そのものも。
だからこそ、今度は残さなければならない。
秀家は西へ向き直った。
「なら、俺たちは前だな」
「ええ」
毛利がこちらを後ろへ向かせようとしているのなら、全軍では向かない。
さらに毛利が別働隊を東へ出したということは、向こうも兵を割いたということになる。
「行きましょう」
林道・宇喜多勢が再び西へ動き始めた。
◇
その動きは、毛利にもすぐ伝わった。
「林道勢、戻りませぬ!」
報告を受けた隆景が顔を上げる。
「一部の兵のみ東へ向かい、景継と宇喜多勢はなお西進しております!」
隣にいた元春が立ち上がった。
「なら、次は俺だな」
今度は隆景も止めなかった。
「お願いいたします」
元春が兜を取る。
「どこで止める」
隆景が地図の一点を示した。
「ここで」
「宇喜多の土地だぞ」
「ですから、深くは追いませぬ。柴田勢も近づいております」
隆景は景継の進路を見つめた。
「合流する前に、景継がどのような戦をするのか見ておきたい」
元春は地図から顔を上げる。
「俺を使って景継を見るか」
「景継もまた、兄上を見るでしょう」
元春は口元を僅かに上げた。
「なら、お互い様だ」
兜を手にしたまま部屋を出ていく。
間もなく、毛利の陣から吉川勢が動き始めた。
◇
夕刻。
西へ進んでいた景継たちのもとへ、前方の物見が戻ってきた。
「毛利勢!」
秀家が馬を止める。
「数は?」
「多い! 正面からこちらへ向かっております!」
景継が尋ねた。
「旗は?」
物見が息を整えながら答える。
「吉川!」
周囲の空気が変わった。
宇喜多の家臣たちにも、その名の意味は分かっている。
吉川元春。
毛利の中でも、正面から軍を率いて戦うことに長けた武将。
官兵衛が西を見る。
遠くに毛利の旗が現れ始めていた。
秀家が景継へ向き直る。
「後ろには別働隊。前には吉川か」
景継は一度だけ東を見た。
弥兵衛がいる。
そのさらに先からは、利家と成政が率いる柴田勢が近づいている。
すべてが揃うまで待つこともできた。
だが、そうしていれば毛利にも同じだけの時間を与えていた。
今、自分が見るべきなのは目の前の敵だった。
「後ろは弥兵衛に任せました」
景継が西へ向き直る。
「ですから、今は前を見ます」
秀家はその横顔を見た後、自分も毛利勢へ目を向けた。
「なら、場所は俺が選ぶ」
「お願いします」
「この先に少し守りやすい場所がある。片側に川があって、反対側は田が多い。吉川が正面から来るなら、今いる場所より戦いやすい」
秀家はすぐに宇喜多勢へ命令を出した。
兵が動く。
林道勢も続いた。
清正と正則には、勝手に前へ出ないよう改めて伝令を走らせる。
しばらくすると、遠くから法螺貝の音が響いた。
低く、長い音だった。
秀家が馬上から毛利勢を見る。
「景継殿」
「はい」
「宇喜多も前に出す」
助けられる側だから後ろにいる。
そんな戦をするつもりは、もうなかった。
景継は秀家を見る。
「もちろんです」
秀家が頷いた。
ここは宇喜多の国である。
道を知っているのも宇喜多。
奪われた土地を取り戻したいのも宇喜多。
そして何より、今日ここまで林道勢を連れてきたのも宇喜多だった。
宇喜多勢が戦列を整える。
その後ろで林道勢も槍を並べた。
正面には吉川元春。
後方には毛利の別働隊。
さらに東からは、まだこの戦場へ届いていない柴田勢。
すべての兵が揃っているわけではない。
だからこそ、今いる者たちで耐えなければならない。
やがて吉川勢の動きが止まった。
互いの旗が、夕暮れの備前で向かい合う。
景継は毛利の陣を見つめた。
元春がどれほどの将なのか。
今日、それを知ることになる。
そして秀家にとっては、ただ林道家に救われるための戦ではない。
失ったものを、自分たちの手で取り戻し始める戦だった。
毛利の前列が動く。
宇喜多勢が槍を構えた。
林道勢も続いた。
法螺貝が、もう一度鳴り響く。
宇喜多を救うため備前へ入った林道家と、退き続けることを耐えてきた宇喜多家。
その二つの軍が初めて並び、毛利の主力を迎え撃つ。
正面に立つのは、吉川元春だった。




