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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第ニ百三話 西へ



林道家の動きは早かった。


宇喜多との交渉を終えた官兵衛が戻った翌日には、近江、山城、摂津へ使者が走り、各地に兵糧と馬、武具の準備が命じられた。


さらに柴田家にも出陣の要請が届き、越前からは前田利家、佐々成政らが兵を動かす。


播磨では織田信孝が街道と城の確認を始め、淡路でも港へ物資が集められていた。


一年。


毛利との約定によって得た時間の中で整えてきたものが、ようやく実際の戦へ使われようとしていた。


出陣を二日後に控えた朝、景継は弥兵衛、官兵衛とともに地図を囲んでいた。


「宇喜多から、新しい知らせは?」


景継が尋ねると、官兵衛が一枚の書状を差し出した。


「毛利が動いております。先の勝ちに乗じて、さらに兵を進めているとのこと。ただし、宇喜多も退いてばかりではございません」


「官兵衛殿の言うことを聞いているのですか」


「今のところは」


官兵衛がわずかに笑う。


宇喜多秀家へ伝えたのは、次の戦で勝とうとするな、ということだった。


兵を残す。


城を使う。


道を使う。


必要ならば土地を明け渡す。


毛利を倒すためではなく、林道勢が到着するまで宇喜多家を残すための戦をする。


若い秀家にとって、決して受け入れやすい話ではなかったはずだ。


それでも今のところ、宇喜多勢は大きな決戦を避けていた。


「毛利は?」


景継が尋ねる。


「当然、気づき始めているでしょうな」


官兵衛は地図の上へ指を置いた。


「宇喜多の退き方が変わっております。先の敗戦直後ならば、焦って兵を集め、失ったものを取り戻そうとしても不思議ではない。それが今は、城と道を使いながら兵を温存している」


「誰かが後ろにいると考える」


「私が毛利ならば、そう考えます」


弥兵衛が腕を組んだ。


「なら、こちらが行くことも読まれているか」


「おそらく」


景継は地図を見た。


毛利は弱くない。


一年前、初めて直接向き合った時から、それは分かっている。


当主の毛利輝元だけを見ればよい家ではない。


吉川元春がいる。


小早川隆景がいる。


安国寺恵瓊もいる。


それぞれが別の役割を担いながら、一つの家を支えている。


「こちらが来ると分かっていて、それでも宇喜多を追う」


景継が言った。


官兵衛が頷く。


「毛利にも理由がございます。ここで宇喜多を残せば、その後ろに林道家が立つ」


「逆に言えば、今ならまだ宇喜多だけを相手にできる」


「はい。林道勢が備前へ入る前に、できるだけ削っておきたいでしょう」


弥兵衛が地図を覗き込む。


「間に合うのか?」


官兵衛ではなく、景継が答えた。


「間に合わせます」


「簡単に言われますな」


「間に合わなければ、何のために一年かけて道を整えたのです」


弥兵衛は少し黙ったあと、笑った。


「そういうことでしたか」


播磨へ兵を送る。


淡路へ物資を集める。


道を直し、休息できる場所を決め、荷駄が滞らないようにする。


その一つ一つは、戦ではなかった。


だが戦が始まった時、それらが兵の速さを変える。


景継は官兵衛を見る。


「先に播磨へ入ります」


「よろしいかと」


「信孝様には、播磨を守っていただきます。私たちが西へ出たところで、後ろが騒がしくなっては困りますから」


「では、そのように」


「弥兵衛」


「はっ」


「先に出る兵をお願いします。速さを優先しますが、無理はさせないでください」


「承知いたしました」


「清正殿と正則殿にも伝えてください。今回は先を争わないように、と」


弥兵衛の口元が少し緩んだ。


「……聞きますかな」


「聞かせてください」


「私が?」


「弥兵衛以外に誰がいるのです」


「官兵衛殿でもよろしいのでは」


官兵衛がすぐに首を振った。


「私は嫌でございます」


「即答ですか」


「適材適所にございます」


弥兵衛が嫌そうな顔をした。


景継は小さく笑ったが、すぐ地図へ目を戻した。


「柴田勢は?」


「数日遅れて合流する予定です」


「無理に急がせなくていいでしょう。越前から来るのです。疲れた兵を連れてきても仕方ありません」


景継はそこで一度言葉を切った。


「まず、播磨まで行きましょう」


西へ。


毛利との一年が終わった。


次に何が起こるのか。


それはもう、地図を眺めているだけでは分からない。


◇


播磨へ入った景継を、信孝が迎えた。


以前に比べ、城内には慌ただしさがあった。


だが混乱ではない。


兵が持ち場へ向かい、荷が運ばれ、役人が書状を抱えて行き交っている。


「来たか」


信孝は景継を見るなり言った。


「はい」


「宇喜多へ行くのだな」


「そのつもりです」


「なら播磨は俺に任せろ」


景継は少しだけ目を細めた。


以前なら、先に説明を求めていたかもしれない。


「お願いします」


「ああ」


信孝は地図を広げた。


「毛利が宇喜多だけを見るとは限らん。お前が備前へ入れば、別の兵をこちらへ向けることもある」


「私もそれを考えていました」


「なら話は早い。播磨の兵は全部連れていくな。こちらにも残せ」


「そのつもりです」


信孝は鼻を鳴らした。


「お前に守ってもらってばかりでは、俺がここにいる意味がないからな」


景継は何も返さなかった。


ただ、以前の信孝ならこう言っただろうかと思った。


播磨を得た直後。


自分の立場を確かめることに精一杯だった男が、今は景継が西へ進む間、自分が背後を守ると言っている。


「何だ」


「いえ」


「言いたいことがあるなら言え」


「頼もしくなられたと思いまして」


「……余計なことを言うな」


「褒めたのですが」


「分かっている」


信孝は少しだけ顔を逸らした。


景継はそれ以上言わなかった。


「では、行ってきます」


「ああ」


景継が部屋を出ようとすると、後ろから声が飛んだ。


「景継」


振り返る。


信孝は地図を見たままだった。


「宇喜多を助けるだけでは終わらんのだろう」


景継は一瞬、黙った。


「どうでしょう」


「俺を馬鹿にするな。官兵衛まで連れてきて、助けて帰るだけのはずがない」


景継の横にいた官兵衛が笑みを浮かべる。


「信孝様も随分と我らのことがお分かりになってきたようで」


「お前が一番怪しいのだ」


「これは手厳しい」


景継は二人を見てから答えた。


「まずは宇喜多家を残します」


「その後は?」


「毛利次第です」


信孝がようやく顔を上げた。


「そうか」


それだけだった。


何をするなとも、どこまで行けとも言わない。


「播磨は任せろ」


もう一度、同じ言葉が返ってきた。


「はい」


景継は今度こそ部屋を出た。


◇


備前。


宇喜多秀家は、届いた報告を黙って読んでいた。


毛利勢がまた進んだ。


一つの小さな拠点を放棄した。


家臣の中には反対する者もいた。


先の敗北に続いて、また土地を明け渡すのか。


戦わずして退くのか。


宇喜多の名が廃る。


そんな声が出ていることを、秀家も知っていた。


「殿」


家臣の一人が言った。


「ここで一度、打って出るべきではございませぬか」


秀家は書状から目を上げた。


「勝てるのか」


「必ずとは申せませぬ。しかし、こちらにもまだ兵はおります」


「そうだな」


「ならば」


「勝った後は?」


家臣が黙った。


秀家は机の上へ書状を置いた。


官兵衛から言われた言葉が残っている。


次の戦で毛利を倒そうとするな。


失った土地は取り戻せる。


失った兵は、すぐには戻らない。


あの男の言うことをすべて信用したわけではない。


林道家は宇喜多を助ける。


だが、それは善意ではない。


宇喜多を残した方が林道家にとって得だから残すのだ。


分かっている。


それでも今は、その利害に乗るしかない。


「退く」


秀家が言った。


「殿」


「ただし、何もせずに退くのではない。使えるものは持っていけ。兵糧も残すな。毛利が入ってすぐ使える状態にはするな」


「しかし」


「兵は残せ」


秀家の声が強くなった。


「土地ではなく、兵を残すのだ」


家臣たちが黙る。


「林道が来るまで耐える」


「本当に参りましょうか」


その問いに、秀家はすぐ答えられなかった。


自分も同じことを何度も考えた。


条件は呑んだ。


書状も交わした。


それでも、林道景継の姿をまだ見ていない。


「来る」


秀家は言った。


自分へ言い聞かせたのかもしれない。


「来なければ、その時は俺が間違えたということだ」


若い当主は立ち上がった。


「それまでは、兵を残す」


宇喜多勢は、再び退いた。


毛利はまた土地を得た。


だが、思っていたほど宇喜多兵は減らなかった。


◇


その報告は、毛利方にも届いていた。


小早川隆景は書状を読み終えると、しばらく何も言わなかった。


向かいには毛利輝元と吉川元春がいる。


「妙だな」


元春が先に口を開いた。


「はい」


隆景が答えた。


「宇喜多の退き方が変わりました」


「先の敗戦で臆したのではないか」


輝元が尋ねる。


「それならば、もっと崩れております」


隆景は書状を置いた。


「捨てる場所を選んでいる。兵を残し、こちらに使わせたくないものを持ち出し、次に守る場所まで考えて退いております」


元春の目が細くなる。


「誰かが入れ知恵したか」


「その可能性は高いでしょう」


誰なのか。


三人とも、口にする必要はなかった。


一年前。


毛利と林道は互いに時間を買った。


その時間は終わった。


「林道か」


輝元が言った。


「まだ確証はございません」


隆景はそう答えたが、否定もしなかった。


元春が地図を見る。


「来るなら来ればいい。宇喜多とまとめて叩く」


「兄上」


「何だ」


「景継が、我らの望む場所で戦ってくれるとは限りませぬ」


「分かっている」


元春は不機嫌そうに答えた。


隆景は再び報告へ目を落とした。


林道景継。


そして、その傍らにいる黒田官兵衛。


かつて中国路で羽柴秀吉を支えた男が、今度は林道家の側からこちらを見る。


「宇喜多への圧力は続けます」


隆景が言った。


「ただし、追い過ぎてはなりません」


「止めるのか?」


「いいえ」


隆景は首を振った。


「進みます。ただ、後ろを空にしない」


輝元が表情を引き締める。


「林道に備えるのか」


「林道だけではございません」


隆景の指が、地図の上をゆっくり動いた。


播磨。


備前。


そして、そのさらに先。


「景継が宇喜多を助けに来るだけならば、まだよいのです」


「どういう意味だ」


元春が聞いた。


隆景の指が止まった。


「助けた後も、帰らぬつもりならば」


部屋が静かになった。


元春が低く笑う。


「なら、ここからが本当の戦か」


「おそらく」


隆景は答えた。


その日のうちに、毛利方でも新たな命令が出た。


宇喜多への追撃を続ける。


ただし全軍を前へ出さない。


街道を押さえ、兵糧を集め、後方の城にも兵を残す。


林道勢が来る。


そう考えた上で、毛利も戦の形を変え始めた。


そして二日後。


備前へ向かう街道を、林道家の旗が進んでいた。


先頭近くを進んでいた弥兵衛が馬を寄せる。


「若様」


「何です?」


「先から知らせです」


景継が振り向いた。


「宇喜多勢は、まだ持ちこたえております」


景継の表情がわずかに緩んだ。


「間に合いましたか」


「はい。それともう一つ」


弥兵衛は一度、西へ目を向けた。


「毛利の動きが変わったそうです。前へ出す兵を抑え、後方を固め始めていると」


景継の隣で、官兵衛が目を細めた。


「気づかれましたな」


「そのようですね」


「どうなされます?」


景継は前を見る。


宇喜多は残った。


林道は間に合った。


そして毛利も、こちらを見ている。


ならばここから先は、誰か一人の思惑だけでは動かない。


「予定通り、宇喜多と合流します」


景継は静かに言った。


「その後は、毛利の出方を見ましょう」


弥兵衛が頷き、馬を前へ向ける。


官兵衛だけが、しばらく西を見ていた。


一年をかけて準備した戦が、ようやく始まる。


林道勢はそのまま、備前へ入った。



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