第ニ百ニ話 条件
「ならば話そう」
宇喜多秀家の言葉を受け、官兵衛は静かに頭を下げた。
「はい」
前日とは違い、広間の中央には大きな絵図が広げられていた。
宇喜多領だけではない。
播磨から備前、備中。
さらに西へ続く毛利の勢力圏まで描かれている。
官兵衛はそれを見て、宇喜多側も昨夜ただ悩んでいたわけではないと察した。
生き残る。
そのために何を渡し、何を残すのか。
ようやく、その話をする覚悟ができたのだろう。
秀家が口を開く。
「まず、毛利との戦において林道家と軍事行動を共にすること。これは受ける」
「ありがとうございます」
「林道軍が我が領内を通ることも認めよう」
官兵衛は頷く。
「ただし、好き勝手に通られては困る」
「無論にございます」
「事前に通る道と兵数を知らせてもらう。村々から勝手に米や物を取ることも認めぬ」
「それで結構にございます。必要な物資は買い上げます」
秀家が少しだけ目を細めた。
もっと抵抗されると思っていたのかもしれない。
官兵衛にとっても、宇喜多領を荒らす理由はなかった。
これから味方として使う土地である。
「港についても同じだ」
「はい」
「林道軍が使うことは認める。ただし、宇喜多の船や商人の妨げにならぬようにしてもらいたい」
「承知いたしました」
ここまでは早かった。
問題は、その先だった。
秀家が少し間を置く。
「最後の条件だ」
官兵衛は黙って待った。
「我らが他家と大きな取り決めを結ぶ際、林道家と事前に話し合うというもの」
「はい」
「これは、そのままでは受けられぬ」
宇喜多の重臣たちが官兵衛を見る。
「理由を伺っても?」
「宇喜多は宇喜多だ」
秀家ははっきり答えた。
「林道家に助けを求めておいて、このようなことを言うのは勝手かもしれぬ。だが、我が家の行く先をすべて林道殿に決めてもらうつもりはない」
官兵衛はしばらく秀家を見た。
昨日よりいい顔をしている。
敗戦の重さは残っている。
それでも、一晩かけて自分の家をどう残すのか考えた顔だった。
「すべてを決めるつもりはございません」
「だが、話し合いを求めるのだろう」
「毛利については」
官兵衛が答えた。
秀家の眉が動く。
「毛利だけ?」
「今回、我らが兵を出す相手は毛利にございます」
官兵衛は絵図の毛利側へ手を置いた。
「我らが毛利と戦っている最中、あるいは戦いを終えた直後に、宇喜多家と毛利家だけで話をまとめられては困ります」
「それは……」
「ですが、宇喜多様が四国の大名と話をされようが、九州の大名と話をされようが、そのすべてに林道家の許しを求めよと申し上げるつもりはございません」
宇喜多側が少しざわついた。
秀家が尋ねる。
「では、毛利との外交については、林道家と事前に協議する。それでよいと?」
「まずは」
「まずは?」
「今回の戦が終わった後、改めて両家の関係を話し合いましょう」
秀家が官兵衛を見る。
「今、すべて決める必要はないと?」
「状況が変わりますので」
官兵衛は当然のように答えた。
「戦う前に決めたことが、戦った後にも最善とは限りませぬ」
秀家が黙る。
官兵衛は続けた。
「我らが負ければ、この話そのものが意味を失います」
宇喜多の重臣の一人が顔をしかめた。
「縁起でもない」
「戦に絶対はございません」
官兵衛は気にしなかった。
「逆に、毛利を大きく押し返すことができれば、今とは全く違う話ができます」
「例えば?」
秀家が尋ねる。
「それは勝ってから考えましょう」
「昨日は毛利領へ攻め込むと言っていたではないか」
「申しました」
「どこまで行くつもりだ」
官兵衛は少し笑った。
「それを今、宇喜多様へお話しする必要がございますか?」
秀家が言葉を止めた。
重臣の一人が不快そうな顔をする。
だが、秀家はやがて笑った。
「なるほど。何もかも話すつもりはないということか」
「私は林道家の家臣にございますので」
「正直な男だな」
「よく言われる、とは申しませぬ」
秀家が一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
張り詰めていた広間の空気が、わずかに緩む。
だが、まだ大切なことが残っていた。
秀家が表情を戻した。
「もう一つ、こちらから条件がある」
「伺いましょう」
「宇喜多家を残すこと」
官兵衛の目が秀家へ向く。
「昨日、そなたはそう言った」
「はい」
「口約束では困る」
「もっともにございます」
「毛利を退けた後、林道家がそのまま我らの領地を奪わぬことを約してほしい」
宇喜多の重臣たちが官兵衛を見つめた。
当然の要求だった。
林道軍を自国へ入れる。
毛利を追い払った後、その林道軍が敵へ変われば意味がない。
官兵衛は少し考えた。
「宇喜多家が今回の取り決めを守る限り、林道家は宇喜多家の存続を認める」
秀家が黙って聞く。
「また、今回の救援を理由として、現在宇喜多家が治めている土地を林道家へ差し出すことは求めない」
重臣たちの表情が変わった。
一人が思わず尋ねる。
「領地を求めぬと?」
「宇喜多家からは」
官兵衛が答えた。
短い一言だった。
だが、その意味を理解した者たちの視線が絵図の西へ動く。
秀家も同じだった。
「毛利から取るつもりか」
官兵衛は否定しない。
「それは戦の結果次第にございます」
「……なるほど」
秀家が絵図を見つめる。
自分たちから土地を奪うのではない。
代わりに、毛利から取る。
林道家にとって宇喜多救援は慈善ではない。
この男は最初からそう言っている。
だからこそ、秀家にはかえって信用できた。
「分かった」
秀家が頷いた。
「その条件なら受けよう」
宇喜多の重臣たちが顔を見合わせる。
全員が満足しているわけではない。
それでも反対の声は上がらなかった。
今の宇喜多に、より良い選択肢があるのか。
昨夜、すでに話し尽くしたのだろう。
「では、書状にいたしましょう」
官兵衛が言った。
「林道様にも確認していただきます」
「分かった」
「ただし」
官兵衛が続ける。
「一つ、お願いがございます」
「まだあるのか」
秀家の顔に少し警戒が戻った。
「領地でも銭でもございません」
「では?」
官兵衛は絵図を広げ直した。
「毛利が次に動いた時、宇喜多だけで決戦を挑まないでいただきたい」
秀家の表情が変わる。
「逃げろというのか」
「違います」
官兵衛は首を振った。
「守っていただきたい」
「同じではないか」
「全く違います」
官兵衛の指が宇喜多領内を動く。
「城を使う。道を使う。毛利を進ませる場所と、進ませぬ場所を決める。必要なら土地を一時的に譲ることも考える」
重臣の一人が声を上げる。
「毛利に領内を踏ませろと?」
「すでに踏まれております」
官兵衛が返す。
男が黙る。
「失った土地は取り返せます」
官兵衛は続けた。
「ですが、失った兵はすぐには戻りませぬ」
秀家が官兵衛を見る。
「林道軍が来るまで、兵を残せと」
「はい」
「どれほどかかる」
「戻り次第、すぐに動かします」
「間に合うのか」
「間に合わせます」
官兵衛の返事は早かった。
「ただし、宇喜多様がその前に兵を使い切ってしまえば、我らが来てもできることは減ります」
秀家の手が膝の上で握られる。
先の敗戦。
次こそは勝つ。
そう思っていた。
その気持ちを抑えて守りに徹することが、どれほど難しいか。
官兵衛にも分かっていた。
だからこそ、ここで言っておかなければならない。
「宇喜多様」
「何だ」
「次の戦で毛利を倒そうとなさらぬことです」
「……」
「次は、勝つための戦ではございません」
官兵衛の指が東へ動く。
播磨。
林道軍が来る方角だった。
「我らが来るまで、宇喜多家を残すための戦にございます」
秀家は長く黙った。
やがて息を吐く。
「分かった」
官兵衛が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「だが」
秀家が官兵衛を見る。
「来なければ恨むぞ」
「それは困りますな」
「ならば来い」
官兵衛は少し笑った。
「必ず」
数日後。
官兵衛は景継のもとへ戻った。
部屋には景継と弥兵衛が待っていた。
「お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
官兵衛が座ると、景継はすぐに尋ねた。
「どうでした?」
「まとまりました」
官兵衛が取り決めを書いた書状を差し出す。
景継は受け取り、目を通していった。
今回の対毛利戦における共同軍事行動。
林道軍の宇喜多領通行。
必要な港の利用。
毛利との外交については林道家と事前に協議する。
宇喜多家は存続。
今回の救援を理由に、現在の宇喜多領を林道家が要求することはない。
戦後の関係については、改めて協議する。
景継が書状から顔を上げた。
「かなり取りましたね」
「必要なものは」
「宇喜多はよく認めましたね」
官兵衛が少しだけ首を傾ける。
「選べる道が少なければ、人は何を残すべきか考えます」
景継は再び書状を見る。
領地を直接奪ってはいない。
臣従もさせていない。
それでも、この戦が終わった後、宇喜多が簡単に林道家から離れられるとは思えなかった。
「秀家殿は?」
「若い方にございます」
「それは知っています」
「ですが、思っていたより強うございました」
景継が官兵衛を見る。
「ほう」
「私の条件をすべてそのまま受けたわけではございません。譲るところは譲り、残したいところでは食い下がられました」
「気に入りました?」
「敵にしたいとは思いませぬな」
「それは結構」
景継は書状を置いた。
「ならば、約束は守りましょう」
「無論にございます」
「宇喜多家を残す」
「はい」
「その上で毛利と戦う」
「はい」
景継の視線が絵図へ移る。
「ここからですね」
官兵衛も絵図を見る。
「ここからにございます」
弥兵衛が二人を見る。
「では、兵を集めますか」
景継はすぐには答えなかった。
「官兵衛殿」
「はい」
「昨日までの話では、宇喜多を救うだけでは終わらないと言っていましたね」
「申しました」
「今も?」
「変わっておりませぬ」
官兵衛が絵図の西へ手を伸ばす。
「宇喜多を守るだけならば、毛利を備前から追い返せば終わりです」
「ですが?」
「それでは、また同じことが起きます」
官兵衛の指が毛利領へ入った。
「毛利に、次も宇喜多へ兵を出せる余力が残る」
「ならば」
「一度、力関係を変えます」
景継の目が細くなる。
「どこで?」
官兵衛は答える代わりに、宇喜多から持ち帰った戦況の書付を広げた。
毛利軍の位置。
宇喜多軍の退いた場所。
城。
道。
川。
そして、毛利が次に進むと考えられる方向。
「宇喜多には、次の戦で勝つなと伝えております」
弥兵衛が眉をひそめた。
「勝つな?」
「正確には、勝とうとするな、と」
官兵衛が答える。
「兵を残し、城を使い、毛利を受け止める」
景継が絵図を見る。
「毛利がさらに入ってくる」
「はい」
「勝っている毛利は、宇喜多が弱っている今に畳み掛けたい」
「そう考えるでしょう」
官兵衛の指が一か所で止まった。
「そこへ」
景継の指も同じ場所へ向かう。
「我らが入る」
二本の指が、絵図の上で重なった。
官兵衛が笑う。
「その通りにございます」
弥兵衛も絵図へ身を乗り出した。
「毛利を引き込んでから叩くのですか」
「引き込むと言っても、宇喜多を囮に捨てるわけではございません。毛利はすでに前へ出るつもりです。我らは、その動きを利用します」
景継はしばらく絵図を見つめた。
「毛利が慎重に来たら?」
「その時は別の形に変えます」
「進んでこなければ?」
「こちらから無理に決戦を求める必要はございません」
「思った場所へ来なければ?」
「来た場所で戦います」
景継が顔を上げた。
官兵衛も景継を見る。
「策に相手を合わせるつもりはございません」
官兵衛が言った。
「相手を見て、策を変えます」
景継の口元が少し緩んだ。
「それなら安心しました」
「林道様」
「何です?」
「私を何だと思っておられるので?」
「非常に欲張りな方だと思い始めています」
弥兵衛が吹き出しそうになり、顔を逸らした。
官兵衛は苦笑する。
「否定はいたしませぬ」
「でしょうね」
景継は立ち上がった。
先ほどまでの穏やかな空気が消える。
「弥兵衛」
「はっ」
「兵を集めます」
弥兵衛の顔つきも変わった。
「どれほどを?」
景継は官兵衛を見る。
ここから先は、交渉ではない。
本当に人を動かし、兵を動かし、毛利と戦う。
官兵衛も立ち上がった。
「まずは播磨と我らの兵を合わせます。柴田勢にも声をかけていただきたい」
「前田殿と佐々殿にも?」
「はい」
景継が頷く。
「清正殿と正則殿は?」
官兵衛は少し考えた。
「連れて参りましょう」
弥兵衛が笑った。
「喜びそうですな」
「戦が好きだから、という理由ではありませんよ」
景継が言う。
「分かっております」
「本当に?」
「……おそらく」
官兵衛が小さく笑った。
だが、すぐに絵図へ視線を戻す。
「林道様」
「はい」
「宇喜多を救います」
「ええ」
「そして毛利を破ります」
「はい」
官兵衛の指が、備前から西へ進んだ。
「その先まで行けるかどうかは」
景継が続ける。
「毛利次第ですね」
「はい」
景継は西国の絵図を見渡した。
一年前。
毛利と約定を結んだ時には、互いに兵を向けず、時間を使うことを選んだ。
その一年が終わった。
毛利は宇喜多へ動いた。
宇喜多は林道を頼った。
そして今。
林道家が西へ進む理由と道が、同時に生まれた。
官兵衛が言った通りだった。
好機。
ただし、好機は待っているだけでは形にならない。
「行きましょうか」
景継が言った。
弥兵衛が頭を下げる。
「はっ」
官兵衛も続いた。
「お任せあれ」
宇喜多を救うため。
そして、西国の力関係を変えるため。
林道家の軍勢が、動き始めた。




