第ニ百一話 宇喜多の使者
宇喜多家からの使者は、すぐに通された。
景継の隣には官兵衛が座り、弥兵衛は少し離れた位置に控えている。
部屋へ入ってきた男の顔には、長旅の疲れがはっきりと浮かんでいた。
それでも背筋を伸ばし、景継の前まで進むと深く頭を下げる。
「宇喜多家より参りました」
「遠いところ、ご苦労でした」
「恐れ入ります」
景継は男へ座るよう促した。
男はもう一度頭を下げてから腰を下ろす。
「それで、此度は?」
分かっている。
だが、景継から先に口にすることではない。
使者は一度息を整えた。
「毛利との戦について、お願いがあって参りました」
「聞きましょう」
「先日、我ら宇喜多勢は毛利勢と戦い、敗れました」
使者は隠さなかった。
「すでにお耳へ入っておりましょうが、我が方にも少なくない損害が出ております。現在は兵を退き、守りを固めておりますが、毛利は兵を退いておりませぬ」
「次があると?」
「はい」
男の声が少し低くなった。
「そう遠くないうちに、再び攻め寄せるものと見ております」
景継は隣の官兵衛を見なかった。
昨日までの軍議で聞いた通りだった。
「宇喜多殿は、どうされるおつもりです?」
「無論、戦います」
答えは早い。
「備前は我らの国。我らが守らねばなりませぬ」
「なるほど」
景継はそれだけ答えた。
使者が続ける。
「しかし、毛利は強大。ゆえに我が殿より、林道様へお願い申し上げたいことがございます」
そこで男は深く頭を下げた。
「何卒、宇喜多へお力をお貸しいただきたい」
部屋が静かになった。
景継はすぐには答えない。
昨日、官兵衛が言った言葉を思い出していた。
宇喜多は来る。
そして、本当に来た。
「兵を出してほしい、ということですか」
「はい」
「毛利と戦えと?」
「……お願い申し上げます」
景継は少し考えるように黙った。
そして官兵衛を見る。
「官兵衛殿」
「はい」
「どう思います?」
「今のお話だけでは、何とも」
使者が顔を上げた。
官兵衛の声は穏やかだった。
「宇喜多家がどの程度の損害を受けたのか。毛利がどこまで兵を進めているのか。それが分からなければ、林道家が兵を出すべきか判断できませぬ」
「それは……」
「兵を貸すということは、人が死ぬということにございます」
官兵衛は淡々と続けた。
「我らも、軽々しく決めることはできませぬ」
使者はしばらく黙った後、頷いた。
「ごもっともにございます」
「宇喜多様は、我らとの直接の話し合いを望んでおられますか」
「はい。林道様が応じてくださるのであれば」
官兵衛が景継を見る。
景継は頷いた。
「分かりました」
使者の顔がわずかに明るくなる。
だが、景継はまだ何も約束していない。
「官兵衛殿に行っていただきます」
使者の視線が官兵衛へ向いた。
「私が?」
官兵衛が尋ねる。
「昨日、お任せしたでしょう」
景継が答える。
官兵衛は小さく笑った。
「確かに」
そして使者へ向き直る。
「私が宇喜多様のもとへ参りましょう。その上で、改めてお話を伺います」
「ありがとうございます」
使者が深く頭を下げた。
「ただし」
官兵衛の声に、使者が顔を上げる。
「私が参ることと、林道家が援軍を出すことは別にございます」
使者の表情が固まった。
「まず、お話を聞かせていただきます」
「……承知いたしました」
男は再び頭を下げた。
使者が退出した後も、三人はそのまま部屋に残った。
最初に口を開いたのは弥兵衛だった。
「本当に来ましたな」
景継も同じことを思っていた。
「ええ」
二人の視線が官兵衛へ向く。
官兵衛は平然としていた。
「来る可能性が高いと申し上げただけでございます」
「その高い可能性が、翌日に来たのですが」
景継が言う。
「早い方が我らにも都合がよろしいでしょう」
「官兵衛殿」
「はい」
「少しくらい得意になってもいいのですよ」
「では、宇喜多との話をまとめてからにいたします」
景継は思わず笑った。
「分かりました。期待しています」
官兵衛は一礼する。
「それでは、行って参ります」
数日後。
官兵衛は少数の供を連れ、宇喜多方の城へ入った。
戦の痕跡は、道中から見えていた。
行き交う兵。
運び込まれる米。
傷を負ったまま働く者。
街道沿いには、毛利の次の侵攻に備えて人が動いている。
官兵衛はそれらを眺めながら城へ向かった。
宇喜多がまだ戦えるというのは嘘ではない。
兵はいる。
城もある。
戦意も失ってはいない。
だからこそ、厄介だった。
まだ戦える者は、自分が滅びるとは考えにくい。
官兵衛がこれから行うのは、宇喜多を怯えさせることではない。
今、自分たちがどこに立っているのか。
それを理解させることだった。
案内された広間には、宇喜多方の者たちが待っていた。
中央に座る若い当主。
宇喜多秀家。
まだ若い。
だが、その表情には先の敗戦の重さが残っていた。
周囲には重臣たちが並んでいる。
官兵衛は進み出ると、静かに頭を下げた。
「林道家家臣、黒田官兵衛にございます」
「よく来てくれた」
秀家が答える。
「遠路、ご苦労だった」
「お気遣い、痛み入ります」
挨拶を終えると、官兵衛は用意された場所へ座った。
秀家が早速、本題へ入る。
「すでに使者から聞いていると思う」
「はい」
「我らは毛利と戦い、敗れた」
秀家は隠さなかった。
「だが、まだ戦える」
周囲の重臣たちも官兵衛を見ている。
「次は負けぬ」
その言葉に、何人かが頷いた。
官兵衛は何も言わなかった。
秀家が続ける。
「それでも毛利の兵は多い。林道殿に力を借りることができれば、戦は大きく変わる」
「それで援軍を?」
「そうだ」
「どれほどをお望みです?」
秀家が少し考える。
「出せるだけ、と言いたい」
重臣の一人が口を挟んだ。
「少なくとも一万。できれば、それ以上をお願いしたい」
官兵衛はその男を見る。
「一万」
「無理な数ではありますまい」
「数の問題ではございません」
「では、何が問題だ」
官兵衛は答えず、秀家を見る。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「林道家が兵を出さなければ、宇喜多家はどうされます?」
秀家の眉が動いた。
「戦う」
「毛利と?」
「当然だ」
「そして勝つ?」
「勝たねばならぬ」
官兵衛は小さく頷いた。
「では、勝てるとお考えなのですな」
秀家が黙る。
重臣の一人が言った。
「勝つために、林道へ援軍を求めている」
「それでは答えになっておりませぬ」
官兵衛の声は変わらない。
「私は、林道家が兵を出さなかった場合を聞いております」
「黒田殿」
別の重臣が低い声を出した。
「我らは助けを求めているのだ。できるか、できぬかを答えていただきたい」
「できます」
官兵衛は即答した。
部屋が静かになる。
「林道家は兵を出せます」
秀家の目が官兵衛へ向く。
「では」
「ですが、その前に宇喜多様ご自身が、今の状況を理解されなければなりませぬ」
官兵衛は持参していた絵図を広げた。
「先の戦。宇喜多勢はよく戦われました」
誰も答えない。
「毛利にも損害を与えている。宇喜多方の城も大半が残っております。兵もまだいる」
官兵衛の指が宇喜多側へ置かれる。
「次の戦だけなら、勝つこともありましょう」
秀家の表情が少し変わった。
「ならば」
「その次は?」
言葉が止まる。
官兵衛の指が毛利側へ移った。
「毛利には、まだ兵がおります」
別の場所を指す。
「ここにも」
さらに指を動かす。
「ここにも」
そして宇喜多へ戻った。
「宇喜多様は?」
誰も答えない。
「先の戦で失った兵を、すぐに戻せますか」
沈黙。
「失った武具を揃え、使った米を戻し、傷を負った者を治し、その間に毛利が待ってくれますか」
「……待つはずがない」
秀家が答えた。
「はい」
官兵衛は頷いた。
「勝った側が、負けた側の立て直しを待つ理由はございません」
一人の重臣が官兵衛を睨む。
「何が言いたい」
官兵衛はその視線を受けても表情を変えなかった。
「今のまま、宇喜多家だけで毛利と戦い続ければどうなるかを申し上げております」
「我らが負けると?」
「はい」
はっきりと言った。
部屋の空気が張り詰めた。
「次も負けると言うのか」
「いいえ」
官兵衛は首を振った。
「次は勝つかもしれませぬ」
重臣が眉をひそめる。
「その次も、勝つかもしれない」
官兵衛は淡々と続けた。
「ですが、毛利との戦が続けば、最後に立っているのは宇喜多ではないと私は見ております」
秀家は黙って官兵衛を見ていた。
官兵衛も目を逸らさない。
「黒田殿」
「はい」
「そこまで言うか」
「援軍を求めておられる方へ、都合のよい話だけをする方が不誠実でしょう」
秀家の拳が膝の上で握られた。
「では、はっきり言え」
官兵衛は頷いた。
そして、静かに告げた。
「林道家が加勢しなければ」
誰も動かない。
「このままでは、宇喜多家は滅びます」
重い沈黙が落ちた。
若い秀家の顔から、先ほどまでの強さが消えたわけではない。
怒りもある。
悔しさもあるだろう。
だが、官兵衛は待った。
否定するなら否定すればいい。
追い返すなら、それでもいい。
先に口を開いたのは秀家だった。
「……ならば」
声が低い。
「林道家が加勢すれば、宇喜多は残るのか」
「残します」
官兵衛は即答した。
秀家が顔を上げる。
「勝てると?」
「そのために参りました」
「何人出せる」
「それを決めるのは、まだ先にございます」
「なぜだ」
官兵衛は絵図を閉じた。
「宇喜多様」
「何だ」
「林道家は、宇喜多家の家臣ではございません」
秀家の表情が固まる。
周囲の重臣たちも、官兵衛が何を言おうとしているのか察し始めた。
「毛利と戦えば、林道家の兵が死にます」
官兵衛は続ける。
「米を使い、銭を使い、船を使う。勝ったとしても、それで終わるとは限らない」
「……」
「それほどの戦へ、何の見返りもなく兵を出すことはできませぬ」
重臣の一人が低く言った。
「条件があるということか」
「当然にございます」
官兵衛はその男を見る。
「宇喜多家を残すために、林道家は毛利と戦う」
そして秀家へ視線を戻す。
「ならば宇喜多家にも、その後の西国を林道家と共に歩んでいただきたい」
「臣従せよと?」
秀家の声が鋭くなる。
官兵衛は首を振った。
「宇喜多の名を捨てよとは申し上げておりませぬ」
秀家が黙る。
「宇喜多秀家様には、これからも宇喜多家を率いていただく。備前も宇喜多の者たちが治めればよろしい」
「では、何を求める」
官兵衛は指を一本立てた。
「まず、今回の毛利との戦において、林道家と軍事行動を共にしていただきます」
二本目。
「林道軍が宇喜多領を通ることを認めていただく。必要となれば、道だけでなく港も使わせていただきたい」
三本目。
「そして今後、毛利を含む周辺の大名と大きな取り決めを結ぶ際には、林道家と事前に話し合っていただきます」
重臣たちがざわめいた。
一人が声を上げる。
「それでは、名ばかり独立しているだけではないか!」
官兵衛がそちらを見る。
「そう思われるのであれば、お断りいただいて構いませぬ」
「何?」
「我らは宇喜多家を攻めているわけではございません」
官兵衛の声は穏やかなままだった。
「選ぶのは、宇喜多様にございます」
秀家の顔が険しくなる。
官兵衛は続けた。
「林道家の力を借りず、宇喜多家だけで毛利と戦う」
一つ。
「毛利へ頭を下げ、家を残す条件を探る」
二つ。
「林道家と共に毛利と戦い、宇喜多家を残す」
三つ。
「私がお示しできる道は、この三つにございます」
「黒田殿」
秀家が低い声で呼ぶ。
「三つ目を選べば、本当に宇喜多を守れるのだな」
官兵衛はすぐには答えなかった。
ここで軽々しく必勝を口にする必要はない。
「戦に絶対はございません」
秀家の眉が動く。
「ですが」
官兵衛は再び絵図を開いた。
今度は宇喜多領だけではない。
播磨から、そのさらに西まで。
「林道家が兵を出し、宇喜多家と共に戦うのであれば」
官兵衛の指が毛利側へ進んだ。
「私は、守るだけで終えるつもりはございません」
「……何?」
「毛利を宇喜多領から追い払う。それだけでは、この戦をする意味が半分しかございませぬ」
重臣たちが黙る。
秀家も官兵衛を見ていた。
「毛利を押し返します」
指が備前を越える。
「そして」
さらに西へ。
「そのまま、こちらから参ります」
秀家が絵図を見る。
「毛利領へ……攻め込むつもりか」
「毛利が戦を続けるのであれば」
官兵衛は顔を上げた。
「そのつもりにございます」
部屋の空気が変わった。
先ほどまで話していたのは、滅亡の危機にある宇喜多をどう救うかだった。
今は違う。
毛利へ反撃する話になっている。
秀家がしばらく絵図を見つめる。
「……少し、時間をくれ」
「もちろんにございます」
「家臣たちと話したい」
官兵衛は頭を下げた。
「お待ちしております」
立ち上がろうとした時、秀家が呼び止めた。
「黒田殿」
「はい」
「一つだけ聞かせてくれ」
「何でしょう」
秀家は官兵衛をまっすぐ見た。
「林道景継という男は」
少し間が空く。
「本当に、この条件で宇喜多を残すのか」
官兵衛は秀家の問いの意味を理解した。
毛利を破れるほどの力を持って入ってくるなら、そのまま宇喜多まで奪うこともできるのではないか。
そう考えるのは当然だった。
「残します」
官兵衛は答えた。
「なぜ、そう言い切れる」
「林道様は、必要のないものまで奪うことを好まれませぬ」
「必要になれば?」
鋭い問いだった。
官兵衛は少しだけ笑った。
「その時は、私にも分かりませぬ」
秀家の目が細くなる。
「随分と正直だな」
「嘘を申し上げても、いずれ分かることでございます」
官兵衛は一礼した。
「ですが、少なくとも今、林道様が望んでおられるのは宇喜多家の領地ではございません」
「では何だ」
官兵衛の視線が、絵図の西へ向いた。
「道にございます」
「道?」
「はい」
播磨で止まっていた林道家が、さらに西へ進むための道。
その意味まで説明する必要はなかった。
「ご返答をお待ちしております」
官兵衛は部屋を後にした。
その日の夜。
用意された部屋で官兵衛は一人、宇喜多から渡された戦況の書付を読んでいた。
外から足音が近づく。
「黒田様」
「はい」
「宇喜多様より、明朝もう一度お話ししたいとのことでございます」
「承知しました」
足音が遠ざかる。
官兵衛は書付へ目を戻した。
宇喜多の損害。
毛利の位置。
残る城。
動かせる兵。
一つずつ確かめる。
まだ答えは出ていない。
だが、宇喜多に残された時間が多くないことだけは変わらなかった。
翌朝。
官兵衛は再び広間へ通された。
昨日と同じ顔ぶれが並んでいる。
だが、空気は違っていた。
秀家の前に置かれているのは、一通の書状だった。
「黒田殿」
「はい」
「昨夜、皆と話した」
官兵衛は黙って待つ。
「納得していない者もいる」
重臣の何人かが険しい顔をしていた。
「当然かと」
「それでも」
秀家が書状を手に取る。
「宇喜多を残す」
若い当主の声が、広間へ響いた。
「そのために、林道家の力を借りる」
官兵衛の表情は変わらない。
秀家は続ける。
「そなたが示した条件を、すべてそのまま呑むつもりはない」
「承知しております」
「詰めたいところがある」
「そのために私が参りました」
秀家が初めて、ほんの少し笑った。
「ならば話そう」
「はい」
官兵衛も腰を据え直した。
ここからが、本当の交渉だった。
宇喜多を残すための交渉。
そして同時に。
林道家が、播磨のさらに西へ踏み出すための交渉でもあった。




