第ニ百話 好機到来
「聞かせてください」
景継がそう言うと、官兵衛は小さく頷いた。
二人の間には西国の絵図が広がっている。
播磨。
備前。
備中。
そのさらに西へ続く毛利の勢力圏。
少し離れたところには弥兵衛も座っていた。
官兵衛が最初に指を置いたのは備前だった。
「まず、宇喜多でございます」
「はい」
「先の戦では、宇喜多もよく戦っております。毛利も無傷ではございません」
官兵衛の指が少し西へ動く。
「ですが、勝ったのは毛利です」
景継は黙って聞いている。
「宇喜多は兵を退き、立て直しを急いでおります。一方、毛利は兵を退いておりませぬ。すでに次の戦を見据えて動いていると考えるべきでしょう」
「このまま、もう一度戦えば?」
「宇喜多が負けます」
即答だった。
弥兵衛が官兵衛を見る。
「そこまで差がありますか」
「一度の戦で宇喜多の兵すべてが失われたわけではございません。城もあり、まだ戦える将もおります。次の一戦だけを見れば、宇喜多が勝つこともありましょう」
官兵衛はそこで言葉を切った。
「ですが、それで終わりではございません」
景継が頷く。
「毛利には、次がありますか」
「はい」
一度押し返されても、兵を整え直せる。
別の場所から兵を動かせる。
長く戦うほど、持っているものの差が出てくる。
「宇喜多は、毛利ほど長く戦えない」
「その通りにございます」
官兵衛が答えた。
「ゆえに私は、宇喜多がこのまま単独で毛利と戦い続ければ、いずれ敗れると見ております」
「降る可能性は?」
景継が尋ねる。
「あります」
官兵衛は否定しなかった。
「ならば、好機とは言えないのでは?」
「宇喜多が毛利へ降れば、我らの西には今より大きな毛利ができます」
「ええ」
「それは困ります」
「困りますね」
「ゆえに、そうなる前に我らが入ります」
景継の目が細くなった。
「宇喜多を助ける?」
「それだけではございません」
官兵衛の指が備前へ置かれた。
「宇喜多を使います」
弥兵衛が眉を上げた。
景継は表情を変えない。
「続けてください」
「これまで我らが毛利領へ兵を進めれば、林道家から戦を始めることになりました」
一年の約定は終わった。
だから攻めても約定違反にはならない。
だが、約定が切れたからといって、その直後に毛利領へ攻め込めば話は別だ。
周囲から見れば、林道が最初から毛利との戦を望んでいたようにも映る。
「ですが、今は違います」
官兵衛が言った。
「毛利が宇喜多へ兵を向け、宇喜多が敗れた」
「そして宇喜多が我らへ助けを求めれば」
「我らは宇喜多救援のために兵を出せます」
景継はしばらく官兵衛を見た。
「求めてきますか?」
「来ると見ております」
また即答だった。
「なぜです」
「他に頼れる相手が少ないからでございます」
官兵衛は絵図を指しながら続けた。
「少なくとも、毛利に対抗するだけの兵を早急に動かせ、宇喜多を救う意思を持ち得る相手となれば限られます」
「ですが、宇喜多が毛利から条件を示されたら?」
景継が問う。
「例えば、領地の一部を渡せば家を残す、と」
「毛利ならば考えるでしょうな」
「なら、宇喜多がそれを受ける可能性もある」
「ございます」
「それでも来ると?」
「来る可能性が高いと見ております」
官兵衛は落ち着いて答えた。
「一度負けただけで、まだ戦える宇喜多が、すぐに大きく領地を差し出して毛利へ屈するでしょうか」
景継は答えない。
「少なくとも、その前に他の道を探すはずです」
「その道が林道家ですか」
「はい」
官兵衛の指が播磨から備前へ動いた。
「近い。そして兵を出せる。何より、毛利に対抗できる」
弥兵衛が腕を組んだ。
「助けを求めてきたとして、すぐに兵を出すのですか」
「出しませぬ」
官兵衛の返事に、弥兵衛が目を瞬いた。
「助けるのでしょう?」
「助けます」
「ですが、すぐには出さない?」
「はい」
官兵衛は当然のように答えた。
景継がその意味を察した。
「条件を決めるのが先ですか」
「その通りにございます」
官兵衛の指が宇喜多領の上で止まる。
「我らは毛利と戦うことになります。兵を出し、米を使い、人が死ぬ。それを何の見返りもなく行う理由はございません」
「宇喜多が苦しい今だからこそ、条件を呑ませる」
「はい」
官兵衛は悪びれもしなかった。
弥兵衛が景継を見る。
景継は何も言わない。
官兵衛の話は冷たい。
だが、間違ってはいなかった。
「何を求めます?」
景継が尋ねた。
「まず、今後の軍事協力。毛利との戦においては我らと歩調を合わせてもらいます」
一本目の指が立つ。
「次に、我らの兵が宇喜多領を通ることを認めさせる。必要となれば、道だけでなく港も使わせてもらいます」
二本目。
「そして、今後大きな外交判断を行う際には、我らを無視して勝手に毛利と手を結ばぬこと」
三本目。
弥兵衛が言った。
「随分と持っていきますな」
「宇喜多家そのものは残します」
官兵衛が答える。
「当主も替える必要はございません。宇喜多の土地をすべて我らが治める必要もない」
景継が官兵衛を見る。
「形としては独立した宇喜多を残す」
「はい」
「ですが、林道家を無視しては動けなくする」
「その形が最もよろしいかと」
景継は絵図へ目を戻した。
奪わない。
だが、離れにくくする。
宇喜多自身に国を治めさせながら、その向く先を林道へ寄せる。
「宇喜多が拒めば?」
景継が尋ねる。
官兵衛は少しも迷わなかった。
「それも宇喜多の選択にございます」
「助けない?」
「我らから頼んで助けさせてもらうわけではございません」
静かな声だった。
「宇喜多が自力で毛利を退けられると考えるのであれば、そうすればよろしい」
「ですが、官兵衛殿は無理だと思っている」
「はい」
官兵衛は景継を見た。
「私が宇喜多との交渉へ参りましょう」
「官兵衛殿が?」
「戦況も含め、私から説明いたします」
官兵衛の表情は変わらない。
「今の兵の状態。毛利との違い。この先、どこまで耐えられるのか」
「脅しますか」
「いいえ」
官兵衛は首を振った。
「事実を申し上げるだけでございます」
そして、はっきりと言った。
「林道家が加勢しなければ、宇喜多家はいずれ滅びるでしょう、と」
弥兵衛が黙った。
景継もすぐには答えなかった。
官兵衛はそれを脅しとは考えていないのだろう。
自分が見た盤面を、そのまま相手へ示す。
その上で選ばせる。
「宇喜多が条件を呑んだとして」
景継が再び尋ねた。
「我らが出れば、本当に毛利へ勝てますか」
「勝てると見ております」
「毛利は強いですよ」
「存じております」
「宇喜多を一度破っている」
「はい」
「我らが加わると分かれば、毛利も戦い方を変えるでしょう」
「当然でございます」
官兵衛は微笑んだ。
「だからこそ、面白い」
弥兵衛が官兵衛を見る。
景継は少しだけ眉を上げた。
「楽しそうですね」
「これほど大きな盤面を任せていただける機会は、そう多くございませんので」
官兵衛の指が動いた。
播磨。
備前。
そして毛利領へ。
「宇喜多は敗れました。されど、まだ兵が残っております」
指が次に林道側へ移る。
「我らには、この一年で整えた播磨と淡路がある」
さらに西へ。
「そして毛利は今、宇喜多へ意識を向けております」
景継が尋ねる。
「毛利が我らの参戦を知って、宇喜多領から退けば?」
「追いません」
「……ほう」
「宇喜多を救うことはできます。宇喜多は我らの力によって存続し、先ほどの条件も残る。それだけでも我らの利益です」
景継の目がわずかに細くなった。
「では、毛利が退かなければ?」
「戦います」
「勝った後は?」
そこで官兵衛の指が、初めて備前を越えた。
備中。
さらに西へ。
「進みます」
部屋が静かになった。
「宇喜多を守って終わりではない?」
「それでは、この機を半分しか使っておりませぬ」
官兵衛が答える。
「毛利が我らと戦い、敗れるのであれば、そのまま毛利領へ入ります」
「どこまで?」
「相手次第でございます」
「曖昧ですね」
「では、数字を申し上げましょう」
官兵衛が絵図を見つめた。
「五分の一」
弥兵衛が官兵衛を見る。
だが、官兵衛はまだ続けた。
「事が上手く運べば」
指がさらに西へ動く。
「三分の一」
今度は景継も黙った。
宇喜多を救う。
その話をしていたはずだった。
それがいつの間にか、毛利領の三分の一を奪う話になっている。
「官兵衛殿」
「はい」
「随分と大きな話になりましたね」
「大きくできる時に、小さく終わらせる必要はございませぬ」
景継はその言葉を聞きながら、絵図を見る。
「長宗我部が動けば?」
「四国をまとめたばかりの長宗我部にとって、今すぐ海を越えて大きな戦へ入る利がどこまであるか。まずは動きを見ます。必要ならば、これまでの取り決めを再確認いたしましょう」
「毛利が我らではなく、宇喜多へ有利な条件を出して戦を終わらせたら?」
「その場合は、無理に戦いませぬ」
「毛利が宇喜多を攻めながら、別働隊を播磨へ向ければ?」
「それに備えるために、この一年で播磨を整えてまいりました」
官兵衛の返事は早かった。
景継がさらに問う。
「宇喜多を救っている間に、東で徳川が動けば?」
「だからこそ、林道様は北条と上杉へ行かれたのでございましょう」
景継が黙る。
弥兵衛が二人を交互に見た。
「……お二人とも、もう少しゆっくり話していただけませんか」
景継が弥兵衛を見る。
「聞いていたでしょう」
「聞いております。聞いておりますが、宇喜多を助ける話から毛利領を三分の一取る話になるとは思っておりませんでした」
「私もですよ」
景継が言うと、官兵衛が笑った。
「ですから申し上げたでしょう」
官兵衛は姿勢を正した。
「またとない好機だと」
笑みが消える。
「林道様。西国は長く拮抗しております」
毛利がいる。
宇喜多がいる。
その東には林道がいる。
四国には長宗我部。
誰か一人が簡単にすべてを呑み込める状況ではなかった。
「我らが西へ進めば、毛利は警戒する。毛利が東へ進めば、我らが警戒する。その間に宇喜多がいる」
官兵衛の指が備前を叩く。
「その宇喜多が今、毛利に敗れました」
景継は黙って聞く。
「毛利にとっては、宇喜多を呑み込む機会でしょう」
「ええ」
「ですが」
官兵衛の目が景継へ向いた。
「我らにとっても同じでございます」
景継の目がわずかに動く。
「宇喜多を救えば、宇喜多はこちらへ寄る。毛利が退けば、それだけで西への壁が一つ薄くなる。毛利が戦えば、勝ってその領へ踏み込むことができる」
官兵衛は一つずつ確かめるように言った。
「どちらへ転んでも、今より西へ進めます」
「負ければ?」
景継が聞いた。
官兵衛は一瞬だけ黙った。
そして頭を下げた。
「ゆえに」
顔を上げる。
「勝つための策を、この官兵衛に考えさせていただきたい」
その声に迷いはなかった。
「宇喜多との交渉も」
「はい」
「毛利との戦も?」
「もちろん」
「随分と欲張りますね」
「取れるものを残して帰る方が、私は嫌いでございます」
景継はその言葉を聞いて、しばらく官兵衛を見た。
この男は、自分とは違う。
以前から分かっていたつもりだった。
だが、こうして一つの絵図を前に長く話していると、その違いがよく見える。
景継なら、もう少し待つ。
宇喜多と毛利を見ながら、双方がどこまで疲れるのかを見る。
誰が助けを求めるのか。
誰が離れるのか。
何を差し出そうとするのか。
それを見極め、最も崩れやすいところへ手を伸ばす。
官兵衛は違う。
待てない男ではない。
必要なら、いくらでも待つだろう。
だが、一度好機と見れば、その一つ先だけを見ない。
宇喜多を救う。
宇喜多をこちらへ寄せる。
毛利を破る。
毛利領へ入る。
西国における林道家の立場そのものを変える。
一つの好機から、取れるものをまとめて取りにいこうとしている。
勝てる時に、取れるものを一気に取りにいく。
それが、この男の戦い方なのかもしれない。
「官兵衛殿」
「はい」
「分かりました」
景継は絵図の上へ手を置いた。
「お任せします」
官兵衛が深く頭を下げた。
「必ずや、ご期待に添えてみせます」
「ただし」
景継の言葉に、官兵衛が顔を上げる。
「三分の一という数字に、こだわらないでください」
官兵衛の目が細くなった。
「取れるから取るのではありません。取った後、それが我らの力になるところまでです」
しばらく二人の視線が重なった。
やがて官兵衛が笑う。
「承知いたしました」
景継も頷いた。
「では、まず宇喜多ですね」
「はい」
官兵衛が備前へ指を戻す。
「向こうから来るのを待ちましょう」
「来なければ?」
「それならば、それまでにございます」
「本当に来ると思っています?」
官兵衛は答えようとして、ふと廊下の方を見た。
足音が聞こえた。
やがて部屋の前で止まる。
「殿」
外から声がした。
「備前より使者が参っております」
三人の視線が重なった。
景継は官兵衛を見る。
官兵衛は何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。
景継はその顔を見てから、戸の向こうへ声をかけた。
「どなたからです?」
返ってきた答えは短かった。
「宇喜多家にございます」
弥兵衛が官兵衛を見る。
景継もまた、目の前に座る男を見た。
つい先ほどまで話していたことが、早くも一つ現実になった。
官兵衛は静かに頭を下げる。
「お会いになられますか」
景継は小さく息を吐いた。
「もちろんです」
そして絵図の上の備前を見る。
ここから先は、ただ宇喜多を救うだけの戦ではない。
西国そのものを動かすための戦になるかもしれなかった。
「官兵衛殿」
「はい」
「交渉は、お任せします」
官兵衛の返事に迷いはなかった。
「お任せあれ」




