第百九十九話 越後
小田原を発った景継は、そのまま領国へ戻らず北へ向かった。
目指す先は越後。
北条氏政には、西へ重心を移すことを自分の口から伝えた。
ならば、上杉景勝にも直接伝えておきたい。
毛利との一年の約定が残っている今だからこそ、できることだった。
越後へ近づくにつれて山は深くなり、吹き抜ける風にも冷たさが混じっていく。
馬上で景継が襟元を直すと、隣を進んでいた弥兵衛がそれを見た。
「寒うございますか」
「少し」
「小田原とは随分違いますからな」
「帰りたくなりました?」
「若様がお帰りになるのであれば」
「私は景勝殿と話をしてから帰ります」
「では、私もそういたします」
「置いて帰るつもりだったのですか」
「まさか」
弥兵衛は何事もなかったように前を向いた。
景継は小さく笑い、そのまま馬を進めた。
上杉方の迎えを受けた景継は、景勝の待つ城へ入った。
案内された部屋には、すでに二人の男がいた。
上杉景勝。
そして直江兼続。
「林道殿」
景勝が景継を迎えた。
「遠いところ、よく参られた」
「突然のお願いにもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます」
「座られよ」
景継が腰を下ろす。
しばらく近況を交わした後、景勝が静かに口を開いた。
「勝家殿のことは聞いている」
景継は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「惜しい男を亡くした」
「はい」
景勝はそれ以上、勝家について語らなかった。
景継も続けなかった。
勝家を失った悲しみが消えたわけではない。
だが、立ち止まっているわけにもいかなかった。
兼続が景継を見る。
「此度、越後まで参られた理由を伺っても?」
「しばらく西へ重心を移そうと思っております」
「毛利か」
景勝が尋ねる。
「毛利だけとは限りません」
「戦うのか」
「まだ決めておりません」
景継は率直に答えた。
「毛利との約定はまだ残っております。その後も毛利がこちらへ兵を向けないのであれば、私から戦を始める理由はありません」
「では、なぜ西へ?」
「何かが起きてから備えていては遅いでしょう」
景勝が頷いた。
「そのことを伝えるために来たか」
「はい。私がしばらく西を見る。それだけは景勝殿へ直接お伝えしておこうと思いました」
「分かった」
返事は短かった。
景継も、それ以上説明を重ねなかった。
「何かあれば知らせよう」
「ありがとうございます」
用件は済んだ。
景継が腰を浮かせようとした、その時だった。
「林道殿」
景勝が呼び止める。
「はい」
「一つ、耳に入れておいた方がよいことがある」
景継は再び腰を落ち着けた。
「何でしょう」
「信濃だ」
兼続が卓上へ絵図を広げる。
その指が置かれたのは、信濃から上野へ続く一帯だった。
「真田昌幸の周囲が、少々騒がしくなっております」
「真田……」
聞いたばかりの名だった。
小田原で氏政が口にしている。
小さいからと侮るな。
そう言っていた。
「徳川と何か?」
景継が尋ねる。
「まだ戦にはなっておりませぬ」
兼続が答える。
「ですが、徳川、北条、真田。それぞれの思惑が、以前ほど噛み合わなくなっております」
景継の目が絵図へ落ちた。
信濃。
上野。
そして、その周囲にいる大きな家々。
「上杉も関わることになりますか」
景勝が答えた。
「昌幸次第だ」
景継はしばらく絵図を眺めた。
真田は大きくない。
だが、その周囲には徳川、北条、上杉がいる。
小さな家がどちらを向くかによって、大きな家同士の関係まで変わる場所だった。
「氏政殿からも、昌幸殿の名を聞きました」
「何と言っていた」
「小さいからと侮るな、と」
兼続がわずかに笑う。
「氏政殿も、そこはよく見ておられる」
「そこまで言われると、余計に気になりますね」
「会われるか」
景勝が尋ねる。
景継は少し考えてから首を振った。
「今はやめておきましょう」
まだ何も起きていない。
この段階で林道景継が真田へ接触すれば、それ自体が周囲への意思表示になりかねない。
「ですが、覚えておきます」
「そうされるとよい」
兼続が絵図を畳んだ。
景継は今度こそ立ち上がる。
「景勝殿。本日はありがとうございました」
「ああ」
景継が一礼する。
その背へ景勝の声が届いた。
「林道殿」
景継が振り返る。
「西ばかり見ている間に、東が変わっているかもしれぬぞ」
景継は少しだけ笑った。
「その時は、また越後まで来ることにします」
「遠いぞ」
「それが困るのですよ」
景勝の口元がわずかに緩んだ。
城を出ると、待っていた弥兵衛がすぐに近づいてきた。
「終わりましたか」
「ええ」
「では帰れますな」
返事が妙に早い。
景継は弥兵衛を見る。
「やはり寒かったのでは?」
「そのようなことはございません」
「では、もう一泊します?」
「若様」
「何です?」
「楓様も万代丸様も、お待ちでございましょう」
景継は黙った。
それを言われると弱い。
「……帰りましょうか」
「はっ」
弥兵衛が満足そうに馬へ向かう。
「弥兵衛」
「何でしょう」
「最初からそれを言えばよかったのでは?」
「若様ご自身でお決めになった方がよろしいかと」
「随分と上手くなりましたね」
「長くお仕えしておりますので」
二人は馬へ乗った。
こうして景継は越後を後にした。
それからの日々は、戦ではなく備えに費やされた。
毛利との約定が続いている。
景継は、その時間を予定どおり西国の基盤を整えるために使った。
播磨では信孝と連絡を取りながら、主要な道や荷の流れを整えていく。
淡路では港の整備を進めた。
船を増やすだけではない。
船を修理できる者を集め、瀬戸内の潮を知る船乗りや商人とのつながりを深め、兵糧や物資を素早く積み込める場所も整えていった。
官兵衛は西国から入ってくる話を集め続けた。
毛利との約定を破るような調略は行わない。
だが、商人や船乗りが運んでくる話まで拒む必要はない。
どこの港に船が増えたか。
どこで米が集められているか。
どの道を人が多く通るようになったか。
そうした小さな変化を、官兵衛は一つずつ拾っていった。
毛利もまた、何もしていなかったわけではない。
西から入る話をつなぎ合わせれば、毛利領でも城や道、兵糧の備えが進んでいることが分かる。
互いに備えている。
それでも約定がある間、林道と毛利が兵を向け合うことはなかった。
林道家の内側も少しずつ変わっていった。
三成は銭と米を管理し、吉継は各地から上がってくる争いを処理する。
加藤嘉明や平野長泰も、新しく与えられた役目をこなすようになった。
軍の側では弥兵衛が動き、柴田家の兵と林道家の兵が共に動けるよう調整を重ねた。
前田利家。
佐々成政。
そして新たに加わった加藤清正と福島正則。
異なる場所から集まった者たちが、少しずつ同じ軍として形を整えていく。
景継自身がすべての場所へ行かなくとも、家中は動くようになり始めていた。
そして屋敷へ戻れば、万代丸がいる。
初めの頃は抱き上げるだけで身体を固くしていた景継も、少しずつ慣れていった。
「あなた、随分と上手になりましたね」
楓に言われ、景継は腕の中の万代丸を見る。
「私も学びますから」
「戦や政より時間がかかっておりますけれど」
「比べるものではないでしょう」
楓が笑った。
景継もつられて笑う。
そんな時間が、以前より少しだけ増えた。
季節は巡った。
播磨から届く報告の内容が変わり、淡路へ入る船も増えていく。
東からも知らせは届いた。
北条。
上杉。
徳川。
その中には、時折、真田昌幸の名も混じっていた。
まだ大きな戦にはなっていない。
それでも信濃と上野の周辺では、それぞれの思惑が少しずつぶつかり始めている。
景継は報告を読むたびに、その名を頭の片隅へ残した。
今は西を見る。
だが、東を忘れたわけではなかった。
そうして、ほぼ一年が過ぎた。
ある朝。
景継と官兵衛は西国の絵図を挟んで向かい合っていた。
官兵衛が一枚の書状を置く。
「本日をもちまして、毛利との約定は終わりにございます」
景継は書状へ目を落とした。
「一年ですか」
「早うございましたな」
「私は長く感じましたよ」
官兵衛がわずかに笑う。
「毛利から何か?」
「ございません」
「では、こちらも何もしません」
景継はそう答えた。
約定が終わった。
ただ、それだけだった。
昨日まで戦わなかった相手と、今日から戦わなければならないわけではない。
毛利が動かなければ、林道も動かない。
少なくとも今は、それでよかった。
翌日も、何も起きなかった。
さらに数日が過ぎた。
毛利から使者が来ることもなければ、林道領へ兵が向かってくるとの報告もない。
景継も普段どおり政務を続けた。
約定が切れて七日目。
その日も朝から三成が持ち込んだ勘定の話を聞き、昼には弥兵衛から兵の訓練について報告を受けた。
毛利の名が出ることはなかった。
その日の夕刻。
一人の使者が屋敷へ駆け込んできた。
「殿! 西より急報にございます!」
景継はすぐに官兵衛と弥兵衛を呼んだ。
間もなく二人が部屋へ入る。
使者の衣は汚れ、息も荒い。
相当に急いできたのだろう。
「何がありました」
景継が尋ねる。
使者が頭を下げた。
「毛利が兵を動かしました」
弥兵衛の表情が変わる。
官兵衛は黙ったまま使者を見る。
「播磨ですか」
景継が尋ねた。
「いえ」
「では、どこへ?」
「備前にございます」
景継と官兵衛の視線が、同時に卓上の絵図へ落ちた。
備前。
宇喜多。
景継が尋ねる。
「毛利が宇喜多領へ入ったのですか」
使者が一度息を整えた。
「すでに、戦となっております」
「すでに?」
「はっ。毛利勢と宇喜多勢が衝突いたしました」
景継の目が細くなる。
「戦況は」
使者は一瞬、言葉を選んだ。
「宇喜多勢も、よく戦ったとのことにございます」
「ですが?」
官兵衛が初めて口を開いた。
使者が頷く。
「敗れました」
部屋の空気が変わった。
「宇喜多勢は敗走。毛利勢は追撃の構えを見せているとのこと」
弥兵衛が絵図へ近づく。
「毛利は、このまま宇喜多を攻め切るつもりでしょうか」
「まだ分かりません」
景継は答えながら官兵衛を見る。
官兵衛は何も言わない。
ただ、備前を見つめていた。
「他には?」
景継が使者へ尋ねる。
「今のところは、これだけにございます。ただ、宇喜多方では兵を立て直そうとしているものの、かなり混乱しているとの話も」
「分かりました。休んでください」
「はっ」
使者が退出する。
弥兵衛が腕を組んだ。
「宇喜多が負けたとなれば、毛利は止まりませぬかな」
「勝った側が、相手の立て直しを待ってくれる理由はありませんからね」
景継が答える。
そこで官兵衛が顔を上げた。
「林道様」
「はい」
「もう少し、詳しい話を集めさせていただけませぬか」
景継は官兵衛を見る。
いつもの穏やかな顔だった。
だが、その目はすでに何かを追っている。
「宇喜多と毛利、双方について?」
「はい」
官兵衛の指が備前へ置かれる。
「宇喜多がどれほど兵を失ったのか。どこまで退いたのか。毛利がどれほどの兵を動かしているのか。そして、次にどこを狙うつもりなのか」
「分かりました」
景継が頷く。
「集められるだけ集めてください」
「承知いたしました」
官兵衛が頭を下げる。
その日は、それ以上の話にはならなかった。
翌日から、西国の情報が次々と集まり始めた。
敗走した宇喜多勢。
それを立て直そうとする家臣たち。
一方の毛利は兵を退いていない。
むしろ次の動きに備えている。
報告が増えるほど、宇喜多が置かれている状況は悪くなっていった。
そして数日後。
景継の前に、再び西国の絵図が広げられた。
向かいに座るのは官兵衛。
弥兵衛も少し離れたところに控えている。
集められた書状が、官兵衛の傍らに積まれていた。
景継が尋ねる。
「揃いましたか」
「おおよそは」
官兵衛が答える。
その声は落ち着いていた。
景継は絵図へ目を落とす。
「それで、どう見ます?」
官兵衛はすぐには答えなかった。
まず宇喜多領へ指を置く。
次に毛利。
そして最後に、東へ指を滑らせた。
林道家の勢力圏へ。
「林道様」
「はい」
官兵衛が顔を上げた。
その目には、迷いがなかった。
「これは――」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「またとない好機ですぞ」
景継は黙って官兵衛を見た。
官兵衛の指が、再び西へ向かう。
宇喜多を越え、その先へ。
毛利領へ。
「少々、長い軍議になりそうでございます」
景継も絵図へ目を戻した。
「構いません」
そして、静かに言った。
「聞かせてください」
西国を大きく動かす軍議が、始まろうとしていた。




