第百九十八話 小田原
小田原へ入った景継を迎えたのは、秋の気配を含んだ海風だった。
城下には人が多く、街道には商人や荷を運ぶ者たちが絶えず行き交っている。景継がこの地を訪れるのは初めてではないが、来るたびに北条という家が関東に張った根の深さを感じさせられた。
兵が強いだけでは、これほどの国は作れない。
景継は城下を眺めながら小田原城へ入り、案内された部屋へ向かった。
今回の目的は、北条との同盟を改めて結び直すことではない。
すでに北条と林道は盟を結んでいる。
さらに楓との婚姻によって、両家の関係は以前よりも深くなった。
だからこそ、西へ重心を移す前に一度、自分の口から氏政へ話しておきたかった。
部屋へ入ると、すでに北条氏政が待っていた。
「林道景継、参りました」
景継が頭を下げると、氏政は軽く手を上げた。
「堅苦しい挨拶はよい。座れ」
「では」
景継が腰を下ろす。
氏政はしばらく何も言わなかった。
景継も急かさず待つ。
やがて氏政が口を開いた。
「それで、楓は息災か」
景継は少しだけ目を瞬いた。
「はい。変わりなく」
「そうか」
氏政は短く答えた。
だが、その次の言葉は早かった。
「子は」
「元気にしております」
「男であったな」
「はい」
「名は何とした」
景継はわずかに笑った。
「万代丸と名付けました」
「万代丸……」
氏政がゆっくりと繰り返す。
「お前の幼名は、千代丸であったな」
「よくご存じで」
「娘を嫁がせた相手のことくらい調べておる」
「なるほど」
氏政は少し考えた。
「千から万か」
「はい」
「随分と欲張ったものだ」
「そういう意味ではないのですが」
「分かっておる」
氏政の表情がわずかに緩んだ。
景継はその変化を見逃さなかったが、あえて何も言わなかった。
「楓は母になって、何か変わったか」
「強くなったように思います」
「元から気の強い娘だ」
「それを父上が仰いますか」
言ってから、景継自身が一瞬止まった。
氏政の眉が動く。
「今、何と申した」
「……父上、と」
「聞こえておる」
「ならば聞き返さなくてもよいでしょう」
氏政が景継を睨んだ。
しかし、その目に怒りはない。
「お前という男は、妙なところで図太いな」
「そうでしょうか」
「娘は苦労しておらぬか」
「それは私ではなく、楓に聞いていただいた方がよろしいかと」
「ならば次は連れてこい」
氏政は即座に言った。
「楓を、ですか」
「楓だけではない」
そこで氏政は一度言葉を切った。
「万代丸もだ」
景継の表情が柔らかくなる。
「分かりました。楓と相談してみます」
「相談せねば連れて来られぬのか」
「私だけで決めれば、後で怒られますので」
氏政は何かを思い出したように口を閉じた。
「……それはそうだな」
どうやら覚えがあるらしい。
景継は笑いそうになったが、黙っておいた。
しばらく二人の間に穏やかな時間が流れる。
やがて氏政の表情が変わった。
娘を案じる父親の顔から、関東を治める北条家の当主の顔へ戻っていく。
「それで」
「はい」
「娘と孫の話だけをするために、小田原まで来たわけではあるまい」
景継も姿勢を正した。
「もちろんです」
「毛利か」
氏政はすぐに名を出した。
景継は驚かなかった。
北条も独自の情報網を持っている。
播磨が落ち着き、淡路を整え、さらに毛利と期限を区切った約定を結んだことも、おおよそのところは掴んでいるのだろう。
「毛利とは、今すぐ戦うつもりはありません」
「今すぐは、か」
「先のことまで約束するつもりもありません」
氏政は腕を組んだ。
「一年であったな」
「はい」
「その一年を使って、西へ備える」
「そのつもりです」
景継は隠さなかった。
もっとも、何をどこまで準備しているのか、すべてを話すつもりはない。
同盟相手であっても、林道家と北条家は別の家だ。
氏政もそれを理解している。
「播磨には信孝殿がおり、淡路はお前が押さえている。その先には毛利がいる」
「さらに海を越えれば四国もあります」
「長宗我部か」
「元親殿とは、今のところ争う理由はありません」
氏政が小さく頷いた。
「つまり、お前はしばらく東へ大きく手を伸ばすつもりがない」
「そのことを直接お伝えするために参りました」
氏政の目が細くなる。
「何を望む」
「東が大きく乱れないことを」
「やはり望みがあるではないか」
「もちろんあります。ただし、北条に徳川を見張ってほしいとも、上杉を押さえてほしいとも申しません」
「なぜだ」
「北条には北条の都合がありますから」
氏政は黙って景継を見る。
「私が西へ向かうからといって、北条の兵を私の都合で動かすつもりはありません。ただ、何か大きな動きがあれば知らせていただきたい。こちらからも、北条に関わることで大きな動きがあればお知らせします」
「それだけか」
「今お願いしたいのは、それだけです」
「お前は、俺がそれを受けると思っているのだな」
「北条にも利があります」
「申してみろ」
景継は少し考えてから答えた。
「林道家と北条家が、互いに何をしているか分からない状態が一番困ります」
西へ向かった林道が何をしているか分からなければ、北条は警戒する。
北条が東で何をしているか分からなければ、林道もまた警戒しなければならない。
同盟を結んでいながら、互いを疑って余分な兵を残すことになる。
「知らせ合えることだけでも知らせ合えば、余計な疑いを減らせます」
「随分と現実的な婿殿だ」
「国を治めるには、人も銭も要りますので」
氏政は小さく笑った。
「よかろう」
景継は頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ただし」
氏政の声が低くなった。
「北条は林道のために関東を治めているわけではない」
「承知しております」
「上杉と何かあれば、北条は北条のために動く。徳川についても同じだ」
「それで構いません」
景継は即答した。
氏政がわずかに眉を上げる。
「本当に構わぬのか」
「北条が北条のために動くことを止める権利など、私にはありません」
「同盟とは、随分と不便なものだな」
「便利すぎる同盟の方が、私は怖いですが」
氏政は声を漏らして笑った。
「違いない」
話が一段落したところで、氏政は卓上に置かれていた関東の絵図へ手を伸ばした。
「ならば、一つ教えておいてやる」
氏政の指が東国の街道をなぞる。
「お前が西を見ている間にも、東は止まらぬ」
「はい」
「徳川も領内を固めている。上杉も越後だけを見ているわけではない。信濃には真田のように、誰の思い通りにもならぬ者もいる」
景継の視線が信濃で止まった。
「真田……」
「昌幸だ。小さいからと侮るな。あの男は生き残るためなら、昨日までの話を今日には変える」
「それだけ状況を見る目があるということでしょう」
「お前はそういう男を好みそうだな」
「会ったこともない方を、今から好むことはできませんよ」
氏政は鼻を鳴らした。
「ともかく、関東も信濃も静かに見えるだけだ。何か一つ崩れれば、すぐに動く」
景継は絵図を見ながら頷いた。
毛利との一年をどう使うか。
そればかりを考えているわけにはいかない。
官兵衛も言っていた。
毛利にも同じ一年がある。
そしてそれは、毛利だけではなかった。
徳川にも、上杉にも、北条にも、真田にも、それぞれ同じ時間が流れている。
「覚えておきます」
「そうしろ」
氏政は絵図から手を離した。
「それと、上杉のところへも行くのだろう」
景継は氏政を見た。
「分かりますか」
「俺のところまで来て、景勝には何も言わぬという方がおかしい」
「その通りです」
「何を話す」
「ここでお話ししたことと、大きくは変わりません。私が西へ重心を移すこと。その間も互いに大きな動きがあれば知らせ合いたいことです」
氏政の表情が少し険しくなった。
北条と上杉。
両家の間に積み重なったものは、景継との関係だけで消えるようなものではない。
景継もそれを承知している。
だから、北条と上杉を仲良くさせようなどとは考えていなかった。
「景勝に、北条と争うなとでも言うつもりか」
「いいえ」
「ほう」
「それを決めるのは私ではありません」
氏政が景継を見る。
「ただ、私が西へ向かっているからという理由だけで、東の皆様に動きを止めていただこうとは思っていません」
「ならば、何のために会う」
「知らないまま西へ行くより、互いの考えを聞いてから行く方がよいからです」
氏政はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頷いた。
「それならよい」
「許しをいただく話でもありませんが」
「楓の夫が、上杉と組んで北条を攻める相談をしに行くというなら止める」
「そのような相談はしませんよ」
「ならば行ってこい」
「はい」
そこから先は、さらに細かな話になった。
関東へ入ってくる商人の動き。
東海道を通る荷。
徳川領との往来。
北条と上杉の境に近い地域の様子。
どれも今すぐ戦になるような話ではない。
それでも景継は、一つずつ頭へ入れていった。
大きな戦は、突然始まったように見えることがある。
だが、その前には必ず何かが動いている。
人が動き、物が動き、銭が動く。
それを知っているだけでも、次の判断は変わる。
話が終わる頃には、外の光も少し傾いていた。
景継が席を立つ。
「では、私はこれで」
「ああ」
「今日はありがとうございました」
「礼などよい。こちらにも利のある話だ」
景継が一礼し、部屋を出ようとした。
「景継」
背後から氏政の声が飛んだ。
振り返る。
「はい」
氏政は少しだけ言いにくそうな顔をしていた。
先ほどまで関東の話をしていた男とは思えない。
「次に来る時は」
景継は黙って待った。
「楓と万代丸を連れてこい」
景継の表情が柔らかくなる。
「分かりました」
「忘れるなよ」
「父上から二度も言われれば、忘れませんよ」
氏政は一瞬黙った後、追い払うように手を振った。
「もう行け」
「はい」
景継は笑いながら頭を下げ、部屋を後にした。
廊下を歩きながら、先ほどの氏政の顔を思い返す。
北条氏政。
関東に大きな勢力を築く北条家の当主であり、林道家の同盟相手。
それだけだった関係に、今では別のものが加わっている。
楓の父。
そして万代丸の祖父。
政治だけで結ばれたはずの縁が、いつの間にかそれだけではなくなっていた。
だからといって、北条が林道のために動くわけではない。
林道も北条のためだけに動くわけではない。
それでよかった。
互いに自分の家を守り、その上で共に歩けるところでは歩く。
今は、それで十分だった。
小田原を発つ日の朝。
景継は馬上から城を振り返った。
次は楓と万代丸を連れてこい。
氏政の言葉が頭に残っている。
「……帰ったら、楓に話しておきましょうか」
傍らを進んでいた弥兵衛が景継を見る。
「何をでございますか」
「次は楓と万代丸を連れて来いと、父上に言われました」
「父上」
弥兵衛が少しだけ笑った。
「随分と馴染まれましたな」
「自分でも少し驚いています」
「若様にも、そういうところがおありになるのですな」
「どういう意味です?」
「そのままの意味にございます」
景継は聞き返そうとしたが、弥兵衛はすでに前を向いていた。
景継もそれ以上は追わなかった。
小田原から東海道をそのまま帰るわけではない。
次に向かう先は、すでに決めてある。
越後。
上杉景勝。
北条氏政とは違う形で、これまで何度も景継と利害を重ねてきた男だった。
毛利との約定が残っている間に、東で確かめておくべきことを確かめる。
その後は西へ戻る。
播磨。
淡路。
その先には宇喜多があり、さらに西には毛利がいる。
まだ戦は始まっていない。
だが、景継だけではなく、誰もが次のために動いている。
氏政の言葉を思い出しながら、景継は越後へ続く道へ目を向けた。
一年は長い。
だが、何もしなければ驚くほど早く過ぎる。
ならば、その一年を使い切る。
景継たちの一行は、小田原を後にした。




