第百九十七話 一年の使い方
翌朝。
景継が部屋へ入ると、官兵衛はすでに西国の地図を広げていた。
今日は他の家臣を呼んでいない。
兵をどこへ置き、誰に何を任せるのかという段階になれば、弥兵衛や三成たちにも話を通す必要がある。
その前に、景継と官兵衛の間で決めておくことがあった。
毛利との約定が残っている一年。
その時間を、林道家は何のために使うのか。
景継は官兵衛の向かいへ腰を下ろした。
「始めましょうか」
「はい」
地図には畿内から西国までが描かれている。
播磨。
淡路。
瀬戸内。
さらに西へ目を移せば、毛利の勢力が広がっていた。
「まず、これだけは変えません」
景継は毛利の方へ目を向けた。
「約定が終わった後、必ず毛利と戦うわけではありません」
「はい」
「戦わずに済むのであれば、それでも構いません。ただ、毛利が動いた時に何もできない状態では困ります」
「ならば、この一年で選べる道を増やしておくべきでしょう」
官兵衛の言葉に、景継が頷いた。
「私もそう考えています」
官兵衛の指が播磨へ伸びる。
「まずは、ここでございます」
「播磨ですか」
「はい。以前に比べれば随分と落ち着きましたが、西へ進むための場所として考えるなら、まだ足りませぬ」
播磨を治めているのは信孝だ。
景継の領地ではない以上、林道家の都合だけで手を加えることはできない。
「何が必要です?」
「兵糧を運ぶ道、兵を休ませる場所、港。それらを信孝様とともに整えておくべきかと」
「毛利と戦わなくても使えますね」
「むしろ、そのように整えた方がよろしいでしょう」
戦のためだけに道を整えれば、周囲にも警戒される。
だが、商人や荷が通りやすくなり、港が栄える形にすれば、播磨そのものにも利がある。
信孝にとっても悪い話ではない。
「では、信孝様に話を通しましょう。こちらから勝手に進めることはしません」
「それがよろしいかと」
官兵衛の指が南へ動いた。
「次は淡路でございます」
「こちらは早く動かせますね」
「はい」
淡路は景継の領地だ。
畿内と四国の間にあり、瀬戸内へ入る際にも使える。
長宗我部との話でも、互いの領域へ不用意に手を出さないことは確認していた。
「船を増やしますか」
「船だけ増やしても仕方がございません」
官兵衛は淡路の周囲を指でなぞった。
「兵糧を置ける場所、船を直せる場所、それに海を知る者が必要でございます。瀬戸内を行き来する商人や船乗りとの繋がりも増やしておきたいところです」
「なるほど」
景継は海を見つめた。
陸であれば、道を調べ、兵糧の量を計り、兵の進む速さをある程度読むことができる。
だが海では、それだけでは足りない。
船も潮も風もある。
土地を知っているだけでは、軍を動かせない。
「海については、知っている者に聞きましょう」
「はい。淡路だけで集める必要もございません。商人や船乗りの中にも使える者はおります」
「集めてください。戦の話だけではなく、どの港を使っているのか、どこを通る船が多いのかも知りたい」
「承知いたしました」
官兵衛の指が、さらに西へ進む。
「そして、毛利でございます」
「やはり、ここが一番難しいですね」
「一番大きな相手でございますから」
毛利との間には相互不戦の約定がある。
だが、味方になったわけではない。
約定が終わった後も関係を続けるのか、それとも争うのか。
今はまだ決まっていなかった。
「毛利の中へ人を入れますか」
「約定を破るような真似は避けます」
官兵衛はすぐに答えた。
「領内で騒ぎを起こさせることも、毛利の家臣へ寝返りを働きかけることもいたしません」
「ええ。それをやれば、一年後どころか今すぐ話が壊れます」
「しかし、何も知らずにいる必要もございません」
官兵衛は瀬戸内を指した。
「商人は動きます。船も動く。物も動きます。どこへ兵糧が集まり、どの港への出入りが増えているのか。それだけでも見えるものはございます」
「毛利もこちらを見ているでしょうね」
「間違いなく」
官兵衛の返答は早かった。
「我らだけが一年を得たわけではございません。毛利にとっても同じ一年です」
景継は毛利の領域を見つめた。
あの三人を思い出す。
毛利輝元。
吉川元春。
小早川隆景。
その間を動く安国寺恵瓊もいる。
毛利は、秀吉とは違う。
一人を倒せば終わる相手ではない。
それは以前、官兵衛からも聞いている。
「向こうも備えるなら、こちらも備える。それだけのことですね」
「はい」
「ただし、先に約定は破らない」
「御意」
ここまでは西の話だった。
播磨を整える。
淡路を強くする。
瀬戸内の情報を集める。
毛利の動きを見ながら、戦わない道も残しておく。
景継は地図を見ながら、一つずつ頭の中で整理していった。
「長宗我部はどうします?」
「今は、今の関係を保つべきでしょう」
官兵衛は四国へ目を向けた。
「元親殿は四国をまとめたばかり。こちらも毛利との約定がございます。今ここで互いに争う理由を作る必要はございません」
「淡路を整えれば、向こうも気にはするでしょう」
「でしょうな」
「ならば、余計な誤解はさせない方がいい」
景継は少し考えた。
「淡路を強くすることを一から十まで伝える必要はありません。ただ、以前の話を違えるつもりがないことは伝えておきましょう」
「それで十分かと」
長宗我部とは同盟を結んだわけではない。
しかし、今すぐ争う相手でもなかった。
西へ進むために敵を増やしていては意味がない。
そこで官兵衛が、地図の東側へ手を伸ばした。
「そして、こちらでございます」
「昨日の話ですね」
「はい」
西へ進むために、東を静かにしておく。
景継も視線を移した。
「畿内については、三成殿や吉継殿たちに任せられる範囲をさらに広げていけばよろしいでしょう。軍についても弥兵衛殿を中心に、林道様が不在でも必要な判断ができる形にしておく」
「そのために、ここしばらく動いてきましたからね」
「問題は林道家の外にございます」
官兵衛の指が東へ進んだ。
徳川家康。
現在、敵ではない。
秀吉との戦ではともに動き、戦後も関係は続いている。
しかし、林道家と徳川家が同じ家になったわけではない。
互いに領地を持ち、兵を持ち、それぞれの判断で動く大名だ。
「家康殿と敵対するつもりはありませんよ」
「敵と決める必要もございません」
官兵衛は答えた。
「だからこそ、林道様が西にいる間も東の様子が分かる状態を作っておきたいのでございます」
その指がさらに動く。
北条。
上杉。
景継は二つの名を見つめた。
北条氏政は同盟相手であり、今では楓の父でもある。
上杉景勝とは秀吉との戦でも協力し、その後も関係は続いていた。
「氏政様と景勝様に、家康殿を見張ってくれと頼むわけにはいきませんね」
「そのような話をすれば、こちらが徳川との戦を考えていると受け取られかねませぬ」
「それは困ります」
今の景継に、家康と争う理由はない。
西へ進もうとしている時に東で大戦を始めるなど、何のために毛利との一年を得たのか分からなくなる。
「求めるのは情報と、今の関係の確認でございます」
官兵衛は続けた。
「林道様が今後、西へ力を向けること。それを氏政様と景勝様には、林道様ご自身の口から伝えておいた方がよろしいでしょう」
「こちらから協力を求めるだけではなく、二人が何を考えているのかも聞いておく」
「はい」
景継は頷いた。
北条も上杉も、林道家のために存在しているわけではない。
氏政には氏政の利があり、景勝には景勝の事情がある。
西へ向かうから東を任せる、などという一方的な話では動かない。
「会いましょう」
「お二人と?」
「ええ。書状だけではなく、直接」
「どこまでお話しになります」
「毛利との約定が続いている間に、西へ向かう準備を進めること。その間、東で大きな争いを起こすつもりはないこと。まずはその程度でいいでしょう」
今日ここで官兵衛と話したことを、全て他家へ伝える必要はない。
その上で、氏政と景勝が現在何を望んでいるのかを聞けばいい。
「まずは北条です」
景継が言った。
「氏政様からでございますか」
「はい」
氏政とは婚姻による繋がりまで生まれている。
それだけに、他人から景継の動きを聞かせるより、自分から話した方がいい。
そして今回は、もう一つ話したいことがあった。
「万代丸のこともありますからね」
「すでに小田原には知らせておりますな」
「知らせることと、直接話すことは違います」
景継の声が少しだけ柔らかくなった。
「楓も無事で、万代丸も元気です。そのくらいは私の口から伝えておきたい」
官兵衛が静かに頷いた。
景継は再び西へ目を戻した。
「では、今日から動かします」
話すだけで一日を終えるつもりはなかった。
「播磨については信孝様へ使者を。こちらの都合で勝手に整えるのではなく、播磨のためにもなる形で道と港を整えたいと伝えてください」
「はい」
「淡路からは、港、船、兵糧を置ける場所について報告を上げさせます。海を知る者も集めてください」
「承知いたしました」
「毛利については、約定に触れない範囲で情報を集める。商人や船乗りから聞けることで構いません」
「すぐに手配いたします」
「長宗我部にも使者を出します。淡路から四国へ手を伸ばすつもりはないと、改めて伝えておきましょう」
官兵衛が一つずつ確認していく。
景継は最後に、地図の東側へ指を置いた。
「そして小田原へ使者を」
「氏政様との会談を?」
「ええ。私が直接伺います」
これで、一年を使うための最初の手は打てる。
景継は地図を畳まず、その場に残した。
一年後に毛利と戦うのか。
さらに約定を続けるのか。
別の道を選ぶのか。
今は決める必要がない。
決めるのは、その時でいい。
だが、その時になって選択肢が一つしか残っていないのでは遅い。
景継が欲しいのは、一年間の平穏ではなかった。
一年後に、自分で道を選べるだけの余地だった。
数日後。
各地へ向けて、林道家の使者が次々と出立した。
播磨へ。
淡路へ。
四国へ。
そして、小田原へ。
ほどなくして、北条から返答が届く。
景継との会談を受けるという。
「では、行きましょうか」
景継はその書状を置き、出立の準備を命じた。
西へ進むための一年。
その最初の会談相手は、西国の大名ではない。
北条氏政。
林道家と同盟を結ぶ大名であり、楓の父。
そして今では、万代丸の祖父となった男だった。




