第百九十六話 残された二人
景継の父母と兄が万代丸に会いに訪れた日から、数日が過ぎた。
家族と過ごした時間が終われば、景継は再び林道家の当主として日々の政務に戻る。
父親になったからといって、景継を取り巻く状況が止まるわけではない。
越前では柴田家との連携が進み、領内では三成や吉継たちが、景継が長く不在にしても政務が滞らない仕組みを整え始めている。
そして西には、毛利との一年間の約定がある。
今すぐ戦が始まるわけではないからこそ、この間に片づけておきたいことはいくつもあった。
そんなある日、景継の前に片桐且元が座っていた。
「清正殿と正則殿にございます」
二人の名を聞いて、景継は手にしていた書状を置いた。
「何かありましたか」
「大きな問題を起こしているわけではございません。ただ、このまま曖昧な状態を続けるべきではないかと存じます」
加藤清正。
福島正則。
二人とも秀吉の下で戦い、特に強い恩義を感じていた武将である。
秀吉が死んだ後、景継は旧羽柴方の者たちを一律に排除しなかった。
三成も、吉継も、且元も、長泰も、今ではそれぞれ林道家の中で役割を持って働いている。
だが、清正と正則は違った。
以前話した時、二人は景継への仕官を拒んでいる。
景継が、秀吉を討った男だからだ。
「二人の気持ちは変わりましたか」
「そこまでは」
且元は正直に答えた。
「ただ、以前とは少し違うように思います」
「何がです?」
「秀吉様が亡くなられた直後は、林道様に仕えるなど考えることすらできなかったのでしょう。しかし今は、その先を考え始めております」
景継は黙って続きを待った。
「我らがここで働いていることも知っております。特に正則殿からは、なぜ林道様に仕えているのかと聞かれました」
「何と答えたのです」
「生きているからだ、と」
景継が且元を見る。
「それだけですか」
「それだけにございます」
且元は穏やかに続けた。
「秀吉様はもうおられません。しかし、我らは生きております。ならば、生きている者にはその先がございます」
景継はしばらく考えた。
無理に仕官させるつもりはない。それは以前から変わっていない。
だが、二人ほどの武将をいつまでも宙に浮かせておくことが良いとも思わなかった。
「一度、話しましょう」
「お呼びいたしますか」
「ええ。ただ、仕官するかどうかを聞くだけなら、以前と同じ話を繰り返すことになります」
景継は少し考えてから続けた。
「官兵衛殿にも来ていただきましょう」
「官兵衛殿を?」
「二人にとっては、私より話しやすいでしょう」
且元は納得したように頷いた。
数日後。
清正と正則が景継のもとを訪れた。
二人とも以前と大きく変わったようには見えない。
景継を見る目にも、秀吉を討った男に対する複雑な感情が残っている。
それでも前回とは違った。
最初から話を拒むような空気ではない。
景継の隣には官兵衛が座り、少し離れた場所には且元もいる。
「お久しぶりです」
景継が声をかけると、清正が頭を下げた。
「……お久しぶりにございます」
正則もそれに続いた。
景継は二人を座らせる。
「今日は来ていただいてありがとうございます」
「且元に、もう一度話をしたいと言われました」
正則が答えた。
「そうですか」
「それで」
正則は景継を真っ直ぐ見た。
「また、仕えろと言われるのでしょうか」
「その話もします」
景継は誤魔化さなかった。
「ですが、それだけではありません。お二人がこれからどうされるつもりなのか、それを聞いておきたいと思いまして」
「これから……」
正則の声が少し低くなる。
清正が代わりに尋ねた。
「我らが林道様に仕えぬと言えば、どうなさいます」
「それだけで斬るつもりはありません」
「では、好きに生きろと?」
「どこへ行かれるかにもよります」
景継の返答に、正則の眉が動いた。
「もし私の敵になる方のところへ行き、兵を率いて戻ってこられるのであれば、さすがに好きにとは言えません」
「……当然だな」
「ですが、林道家へ仕えないというだけで敵と決めるつもりもありません」
正則は黙った。
清正が景継を見ている。
「ならば、なぜ我らを欲しがるのです」
「強いからです」
迷いのない答えに、清正が少し目を細めた。
「お二人は戦場を知っています。兵を率いることもできる。これから林道家が大きく動くのであれば、力を貸していただきたいと思うのは当然でしょう」
「秀吉様の家臣だった我らでも?」
「それが何か問題ですか」
今度は正則が口を開いた。
「問題だろう」
その声には感情が混じっていた。
「俺たちが仕えていた秀吉様を討ったのは、あんただ。そのあんたに、今度は仕えろと言われている」
「はい」
「そんな簡単に切り替えられると思うか」
「思っていません」
景継の返事に、正則が言葉を止めた。
「秀吉様を忘れて私に仕えてくださいと言うつもりはありません。お二人が秀吉様から受けた恩まで、私が消せるものではないでしょう」
清正の目が景継から離れない。
「むしろ、忘れなくてよいと思っています」
「……何?」
「秀吉様に仕えたことも、ともに戦ったことも、最後まで助けようとしたことも。それはお二人が生きてきた時間です。私へ仕えるために捨てる必要などありません」
正則は何も言わなかった。
景継自身、二人から秀吉への思いを奪いたいわけではない。
秀吉への恩義も、そこで積み重ねた経験も、二人という人間を形作っているものだ。それを捨てさせたところで、景継にとって何の得にもならない。
「ただし、秀吉様が亡くなられた後も、お二人の人生は続いています」
部屋が静かになる。
「その先をどこで、誰と生きるのか。それだけは、ご自身で決めていただきたい」
清正がゆっくり息を吐いた。
「林道様は、我らに忠誠を誓えとは言われぬのですか」
「仕えていただくのであれば、林道家の家臣として命令には従っていただきます」
「それは分かっております」
「ですが、私を好きになる必要はありません」
正則が思わず景継を見る。
「好きに?」
「お二人が私を嫌っていることくらい分かっています」
「……そこまで言ってはいない」
「違うのですか」
正則が詰まった。
官兵衛が横で目を伏せている。
「官兵衛殿」
正則がそちらを見る。
「何だ」
「あんたは、どうなんだ」
「何がだ」
「秀吉様を討った男に仕えて、何とも思わないのか」
官兵衛はすぐには答えなかった。
景継も口を挟まない。
これは官兵衛が答えるべき問いだった。
「思わぬはずがあるまい」
官兵衛の声は静かだった。
「私は秀吉様に長く仕えた。あの御方の下で戦い、多くのものを得た。その秀吉様を討ったのが、今ここにいる林道様だ」
正則と清正が聞いている。
「それでも私は生き残った。秀吉様から、残せる兵を残せと命じられてな」
正則の表情がわずかに変わった。
最後の戦で、秀吉が官兵衛を逃がしたことは二人も知っている。
「ならば、私は生きるしかあるまい。秀吉様を忘れず、その上で自分がどこまで行けるのかを見る。それが今の私の選んだ道だ」
「それが林道様に仕えることだったのか」
「仕えるという言葉だけで考えれば、そうなる」
官兵衛が景継を見る。
「だが、最初から話は決まっておる。私は林道様を利用する。林道様も私を利用する。それで始まった関係だ」
正則が呆れたような顔をする。
「よく本人の前で言えるな」
「本人が認めたからな」
「……変な主従だ」
「私もそう思います」
景継が口を挟むと、正則がさらに複雑な顔になった。
清正はしばらく考え込んだ後、且元へ目を向ける。
「三成たちも、ここで働いているそうですな」
「はい」
「且元も。平野も」
「ええ」
「皆、秀吉様を忘れたわけではないと?」
「それは本人たちに聞いてください」
景継はそう答えた。
「ですが、少なくとも私は忘れろと命じたことはありません」
清正は且元を見る。
且元が静かに頷いた。
「私は今でも、秀吉様に仕えたことを恥じておりません」
「なら、なぜ」
「先ほど申し上げた通りです。我らは生きておりますから」
再び沈黙が落ちた。
景継は急かさなかった。
二人にとって簡単に決められる話ではない。それでも、秀吉が死んだ直後とは違い、二人には考えるための時間があった。
三成たちが林道家で働く姿も見ている。
旧羽柴方だったというだけで排除されることもなく、秀吉に仕えていた過去を否定するよう求められることもなかった。
それを見た上で、今日ここへ来ている。
やがて清正が口を開いた。
「一つ、条件がございます」
「聞きましょう」
「秀吉様のことを悪く言われるのは、我慢できませぬ」
「言うつもりはありません」
景継は即答した。
「私は秀吉様と敵対し、最後には討ちました。しかし、弱い相手だったとも、取るに足らぬ相手だったとも思っていません」
清正の表情がわずかに変わる。
「強い方でした。だからこそ、私もあれだけのことをしなければ勝てなかった」
それは景継の本心だった。
秀吉を追い詰めるまでには、いくつもの戦と駆け引きがあった。景継一人の力で倒したなどと思ったことはない。
「私は秀吉様を敵として恐れていました。そして、敵として敬意を持っています」
清正は長く黙っていた。
やがて、ゆっくりと頭を下げる。
「……分かりました」
正則が清正を見る。
「清正」
「正則。俺たちも、いつまでもここにいるわけにはいかん」
「だが」
「秀吉様は戻られん」
清正の言葉に、正則の顔が歪んだ。
「分かってる」
「ならば、俺たちがこれからどう生きるかは、俺たちで決めるしかない」
「分かってると言ってるだろ」
正則の声が強くなった。
だが、それ以上は続かなかった。
しばらくして正則は俯き、握っていた拳をゆっくりと開いた。
「……俺は」
言葉が途切れる。
景継は待った。
「俺は、あんたを許したわけじゃない」
正則が顔を上げる。
「はい」
「秀吉様を討ったことも、忘れない」
「それで構いません」
「それでもいいのか」
「ええ」
景継は正則の視線を受け止めた。
「その気持ちまで変えて仕えてほしいとは思っていません」
正則はしばらく景継を睨むように見ていたが、やがて大きく息を吐いた。
「なら……働いてやる」
「私の下で?」
「何度も言わせるな」
「確認しておきたかったのです」
「林道景継」
正則がはっきりと名前を呼ぶ。
「俺は秀吉様のことを忘れない。それでもよいと言うなら、あんたの下で戦う」
「分かりました」
景継は頭を下げた。
「ありがとうございます」
正則は少し居心地が悪そうに顔を背けた。
その隣で、清正も景継へ向き直る。
「加藤清正。お仕えいたします」
「よろしくお願いします、清正殿」
「はっ」
清正が深く頭を下げる。
景継は正則にも目を向けた。
「正則殿も、よろしくお願いします」
「……おう」
「正則」
清正が横から睨む。
「分かってる。よろしく頼む」
景継は小さく頷いた。
秀吉への忠義を捨てたわけではない。
景継を許したわけでもない。
それでも清正と正則は、自分たちの意思で次に立つ場所を選んだ。
加藤清正と福島正則。
秀吉への思いが特に強かった二人が、こうして林道家へ加わった。
二人が部屋を出た後、景継は小さく息を吐いた。
「……疲れました」
官兵衛が景継を見る。
「戦よりもですか」
「種類が違います」
且元がわずかに笑った。
「ですが、よろしかったのではございませんか」
「ええ」
景継は清正と正則が出ていった方へ目を向けた。
時間はかかった。
だが、無理に頭を下げさせるより、これでよかったのだと思う。
「且元殿」
「はい」
「二人のことをお願いします。林道家の中で困ることもあるでしょうから」
「承知いたしました」
「三成殿たちにも伝えておいてください」
「はっ」
且元が退出すると、部屋には景継と官兵衛だけが残った。
景継はしばらく座っていたが、やがて立ち上がる。
部屋の端に置かれていた地図へ歩み寄った。
「官兵衛殿」
「はい」
「明日、時間をいただけますか」
「もちろんでございます」
官兵衛も立ち上がった。
「何のお話でしょう」
景継は地図を広げる。
播磨と淡路。
その間に広がる海。
さらに西へ目を移せば、その先には毛利の勢力がある。
「この一年の使い方についてです」
官兵衛の目が地図へ向いた。
「毛利との約定でございますな」
「ええ」
毛利との間には、一年間の相互不戦がある。
だが、その一年は何もしないために得た時間ではない。
「一年後に毛利と戦うと決めているわけではありません」
「承知しております」
「戦わずに済むのであれば、それも一つです。しかし、約定が終わった時に何も用意できていないというのは困ります」
官兵衛が頷いた。
「毛利もまた、この一年をただ待ってはおりますまい」
「でしょうね」
景継も同じことを考えていた。
毛利は一人の当主を倒せば崩れるような家ではない。
一年という時間を得たのはこちらだけではなく、向こうも同じだった。
「ならば、こちらも使い切りましょう」
「どのように?」
「それを明日、官兵衛殿と決めたいのです」
景継の指が播磨へ触れる。
「播磨をさらに安定させる。淡路を使えるようにする。瀬戸内の情報も集める。それだけでは足りないでしょう」
「はい」
「毛利と話を続ける道も残します。戦になった時の備えもする。別の道へ進めるようにもしておく」
官兵衛は地図を見つめながら、しばらく考えていた。
「約定が終わった時、どの道を選ぶことになっても動けるようにしておく、と」
「そういうことです」
戦うと決めて備えるのではない。
戦わないと決めて安心するのでもない。
どちらを選んでもよい状態を作る。
そのために得た一年だった。
官兵衛の視線が、やがて地図の西から離れた。
「林道様」
「何でしょう」
「西へ進まれるのであれば、一つお願いがございます」
「聞きましょう」
「東を、静かにしておいてください」
景継の目が官兵衛へ向く。
「東を?」
「林道様ご自身が西へ出られるのであれば、畿内より東で大きな動きが起きるたびに戻るわけにはまいりません」
官兵衛はそう言って、地図の東側へ手を伸ばした。
「西だけを見て、西へは進めませぬ」
景継はその言葉の意味を考える。
徳川家康がいる。
その周囲には、信雄をはじめとする織田の動きもある。
さらに東へ目を向ければ、北条と上杉がいる。
どの家も景継の命令で動く者たちではない。
だからこそ、西へ力を向ける前に確認しておかなければならないことがある。
「なるほど」
景継は地図を見下ろした。
「西へ行く前に、東ですか」
「西で戦をするという意味ではございません。ですが、林道様が長く西へ目を向けるのであれば、その間に東で何が起こり得るのかは考えておくべきでしょう」
「そうですね」
景継の指が東へ動く。
まず思い浮かんだのは、小田原にいる男だった。
北条氏政。
今では同盟相手であるだけでなく、楓の父でもある。
そのさらに北には上杉景勝がいる。
秀吉との戦でも、ともに動いた相手だった。
「書状だけでは足りませんね」
「私もそう思います」
「ならば、直接話しましょう」
官兵衛が景継を見る。
「氏政様と、景勝様に?」
「ええ。二人とも私の家臣ではありません。こちらの都合だけを伝えて、あとはお願いしますというわけにはいかないでしょう」
氏政には氏政の事情があり、景勝には景勝の考えがある。
協力を求めるなら、景継自身が話をするべきだった。
「まずは明日です」
景継は地図を見つめたまま続けた。
「官兵衛殿。西へ進むために何が必要なのか、一つずつ考えましょう」
「承知いたしました」
官兵衛が頭を下げる。
毛利との約定が終わるまで、まだ時間はある。
だが、その時間は景継だけのものではない。
毛利も備える。
家康も動く。
氏政も、景勝も、それぞれの国を見ている。
ならば景継も、止まってはいられない。
西へ進むために、西だけを見ない。
その一年をどう使うのか。
翌日から、景継と官兵衛は本格的にそれを決めていくことになる。




