第百九十五話 千代丸の家族
万代丸が生まれてから数日。
林道家の屋敷には、祝いの品や書状が次々と届いていた。
越前の柴田家からも祝いが届き、小田原へは楓と万代丸がともに無事であることを知らせる使者を送っている。
景継自身も、政務の合間を見つけては楓と万代丸のもとを訪れるようになっていた。
もっとも、赤子に会いに行っているだけなのに、最近は家臣たちから妙な目で見られる。
その日の昼もそうだった。
「殿」
「何でしょう」
「先ほども奥へ行かれておりませんでしたか」
弥兵衛に尋ねられ、景継は書状から顔を上げた。
「行きましたね」
「その前にも」
「行きました」
「朝にも」
「……行ってはいけませんか」
「いえ」
弥兵衛は笑いを堪えるような顔をしている。
「ただ、随分と変わられたと思いまして」
「何がです?」
「若君がお生まれになってから、殿がよく笑われるようになりました」
「以前から笑っていますよ」
「そうでしたか?」
「弥兵衛」
「はい」
「仕事を増やしましょうか」
「申し訳ございません」
まったく申し訳なさそうには見えなかった。
景継が再び書状へ目を戻そうとしたところで、廊下から家臣が入ってきた。
「殿。お客様がお見えにございます」
「客?」
「はい」
家臣が告げた名前を聞いて、景継の表情が変わった。
「……もう来られたのですか」
弥兵衛が笑う。
「随分とお早いですな」
「知らせを出してから、それほど経っていないのですが」
「初孫でございますからな」
「そういうものですか」
「俺に聞かれましても」
「またそれですか」
景継は立ち上がった。
万代丸の誕生を知り、やって来た者たち。
景継の父と母。
そして、兄だった。
景継が三人を迎えた時、最初に声を上げたのは母だった。
「千代丸」
その名を聞いた瞬間、近くにいた家臣たちの視線が一斉に景継へ集まった。
景継は少しだけ眉を動かす。
「母上」
「元気そうね」
「ええ。母上もお変わりないようで」
「何を言っているの。歳を取りましたよ」
そう言いながら母は景継へ近づき、顔を確かめるように見上げた。
「少し痩せたのではありませんか」
「そうでしょうか」
「ちゃんと食べていますか?」
「食べています」
「本当に?」
「母上」
景継は周囲を見た。
家臣たちが必死に表情を崩すまいとしている。
「その話は後にしませんか」
「なぜです?」
「いえ……」
今や林道景継は、大勢の家臣を従える大名である。
信長とともに戦い、秀吉を討ち、柴田家までその傘下へ収めた。
天下を狙っていることも、もはや一部の者しか知らない秘密ではない。
それでも母の前では、何も変わらなかった。
四十を越えてなお、景継は千代丸だった。
「母上。千代丸も困っております」
横から声がした。
景継がそちらを見る。
「兄上」
「久しいな」
「お久しぶりです」
兄は景継を見て、少し笑った。
「随分と偉くなったものだな、千代丸」
「兄上までやめてください」
「母上が呼んでいるのだから、よいではないか」
「家臣が見ています」
「お前にも、そういうことを気にする心が残っていたのだな」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
景継は何か言い返そうとしたが、その前に父が口を開いた。
「二人とも、その辺にしておけ」
低い声だった。
昔から変わらない。
景継も兄も、自然に口を閉じた。
父は景継の前まで来ると、しばらく息子の顔を見つめた。
「景継」
「はい」
「無事で何よりだ」
「父上も」
それだけだった。
母のように次々と言葉が出るわけでもなく、兄のように景継をからかうわけでもない。
だが、景継にはそれで十分だった。
「それで」
母が周囲を見る。
「万代丸はどこです?」
「やはり私に会いに来たわけではないのですね」
「あなたには今会えたでしょう」
「そういう問題ですか」
「早く案内してください」
景継は小さく息を吐いた。
「分かりました。楓も待っています」
三人を連れ、奥へ向かった。
楓はすでに身なりを整えて待っていた。
景継たちが入ると、ゆっくり頭を下げる。
「お待ちしておりました」
母が楓へ近づいた。
「身体は大丈夫ですか?」
「はい。おかげさまで」
「無理をしてはいけませんよ。産んだ後も大切なのですから」
「ありがとうございます」
「千代丸は困らせていませんか?」
「母上」
景継がすぐに止める。
楓は一瞬だけ景継を見た後、微笑んだ。
「とてもよくしていただいております」
「そう。それなら安心しました」
「楓」
「はい?」
「何か余計なことを話す必要はありませんからね」
「何のことでしょう」
楓まで楽しんでいる。
兄が肩を揺らしていた。
「兄上」
「俺は何も言っていないぞ」
「顔が笑っています」
「気のせいだ」
景継は早くも疲れ始めていた。
戦場で数万の兵を相手にしている方が、まだ何をすればよいのか分かる。
その時、母の視線が楓の傍らへ向いた。
表情が一変する。
「この子が……」
眠っている万代丸だった。
母がゆっくり近づく。
「抱いても?」
「もちろんでございます」
楓から万代丸を受け取ると、母の顔が見る間に緩んだ。
「まあ……」
その声だけで、景継にもどれほど喜んでいるのか分かった。
「小さいですね」
「お前もこのくらいだったのですよ」
景継が万代丸を見てから母を見る。
「私も?」
「当たり前でしょう」
「そうなのですが、あまり想像できません」
「それは私の言葉です」
母は万代丸を抱きながら、景継を見た。
「あなたが、この子を抱いているところなど、昔は想像もしませんでした」
「私もです」
母の腕の中で、万代丸が小さく動く。
すると父も近づいてきた。
何も言わず、孫の顔を覗き込む。
「父上」
「何だ」
「抱きますか」
「……いや」
答えが早かった。
兄が笑う。
「怖いのでしょう、父上」
「違う」
「では、抱けばよいではありませんか」
「お前は黙っておれ」
景継は父を見る。
なるほど。
自分が初めて万代丸を抱いた時と、どこか似ている。
「父上」
「何だ」
「私でも抱けましたよ」
「お前に言われると腹が立つな」
結局、母に半ば押しつけられるような形で、父も万代丸を抱くことになった。
先ほどまでの威厳はどこへ行ったのか。
身体が妙に固い。
「首を支えてください」
「分かっておる」
「もう少しこちらです」
「分かっておると言っている」
「父上」
「景継、お前は少し黙れ」
景継は口を閉じた。
兄がとうとう声を出して笑った。
「何がおかしい」
「いや。父上と千代丸は、やはり親子だと思いまして」
「どういう意味だ」
「千代丸も最初に万代丸を抱いた時、同じような顔をしていたのでしょう?」
楓が口元に手を当てた。
「はい」
「楓」
「本当のことでございます」
今度は母まで笑った。
景継は諦めた。
今日、この場で自分に味方はいないらしい。
やがて万代丸は兄の腕にも渡った。
「これが、俺の甥か」
兄は不思議そうにその顔を見つめていた。
「どうです?」
「どう、と言われてもな」
「私に似ていますか」
「まだ分からん」
「やはりそうですよね」
「だが、お前より愛想のいい男になるかもしれん」
「寝ているだけですが」
「今のところ、お前よりは可愛げがある」
「兄上」
久しぶりだった。
こんなふうに兄と話すのは。
いつからだろう。
景継が家を率いる立場となり、戦が増え、領地が広がっていくにつれて、家族と過ごす時間は少なくなった。
父も兄も、景継が当主として歩むことを邪魔しなかった。
母もまた、息子が帰ってくるたびに心配こそしたが、その歩みを止めようとはしなかった。
だからこそ、いつの間にか当たり前になっていた。
自分には家族がいる。
その事実を、景継は久しぶりに強く感じていた。
「ところで」
父が口を開いた。
「万代丸という名は、お前が決めたのか」
「はい」
「なぜ、その名にした」
景継は万代丸を見る。
「私が千代丸でしたから」
母が景継を見る。
「そこから取ったの?」
「ええ。代の字は残しました」
「千代丸から、万代丸か」
兄が呟いた。
「千より万とは、随分と大きくしたな」
「息子ですからね。私より少しくらい大きくてもよいでしょう」
「少しどころではないと思うが」
景継は笑った。
「それだけではありません」
三人が景継を見る。
「千代より、その先まで続いてほしいと思ったのです」
景継は穏やかに続けた。
「この子が長く生き、そのさらに先まで家が続いていくように。それで、万代丸としました」
母が万代丸を見つめる。
「そう……」
その目が少し潤んだように見えた。
「よい名ですね」
「ありがとうございます」
「千代丸」
「はい」
「あなたも、そんなことを考えるようになったのですね」
景継は一瞬、言葉に詰まった。
「私を何だと思っているのですか」
「私の子ですよ」
母は当たり前のように答えた。
「何歳になっても」
景継は何も言えなくなった。
父が静かに万代丸を見ている。
「家が続く、か」
「はい」
「ならば、お前も長く生きねばならんな」
景継が父を見る。
「万代丸だけ長生きしても仕方あるまい。父親が早々にいなくなってどうする」
「……そうですね」
「お前は昔から、何を考えているのか分からん子だった」
「父上まで、その話をされますか」
「聞け」
父の声が少しだけ強くなった。
景継は姿勢を正す。
「十三の頃からそうだった。子供のくせに妙に周りを見て、余計なことまで考えておった。清洲へ連れていった時も、何を考えているのか分からん顔で信長様を見ていたな」
景継は懐かしい記憶を思い出した。
まだ千代丸と呼ばれていた頃。
父と兄とともに清洲へ向かった日のこと。
あの頃は、自分がここまで来るとは思っていなかった。
「それが今では、多くの土地と人を背負っておる」
父は続ける。
「俺には、お前がどこまで行くつもりなのか分からん」
景継は黙って父を見た。
天下を目指していることを、今さら家族の前で隠すつもりはない。
「まだ先へ行きます」
「そうか」
父はそれ以上聞かなかった。
「ならば行け」
短い言葉だった。
「ただし、帰ってこい」
景継の目がわずかに動く。
「勝っても負けても、生きて帰れ。今のお前には、帰る場所がこれだけある」
父の視線の先には、楓と万代丸がいる。
その隣には母と兄。
景継はしばらく黙った後、深く頭を下げた。
「はい、父上」
その日の夕方。
母と楓はまだ万代丸のことで話を続けていた。
父もそれに付き合っている。
景継は兄と二人、廊下へ出ていた。
庭を眺めながら並んで歩く。
「兄上」
「何だ」
「今日は来てくださって、ありがとうございます」
「急にどうした」
「たまには言っておこうかと」
「気味が悪いな」
「言わなければよかったですね」
「冗談だ」
兄は笑った。
しばらく二人で歩く。
「千代丸」
「兄上まで、まだそう呼びますか」
「今日くらいはいいだろう」
景継は苦笑した。
「……何でしょう」
「お前、本当に父親になったのだな」
「そうらしいです」
「まだ実感がないのか」
「あります。ただ、不思議なのです」
景継は足を止めた。
「私はずっと、自分が生き残ることを考えてきました」
兄は黙って聞いている。
「生きていなければ、何もできませんからね。ですが、万代丸が生まれてからは少し違います」
「何がだ」
「私がいなくなった後のことまで、以前より考えるようになりました」
兄が景継を見る。
「この子が大きくなった時、どんな世になっているのか。林道家はどうなっているのか。楓は、家臣たちは、皆どうなっているのか」
景継は庭へ視線を戻した。
「守るものが増えるというのは、少し怖いものですね」
「千代丸でも怖いことがあるのだな」
「ありますよ」
「そうか」
兄はそれだけ答えた。
少しして、景継の肩を軽く叩く。
「なら、怖がっていればいい」
景継が兄を見る。
「怖いと思うから、帰ろうとするのだろう」
「……兄上らしくないことを言いますね」
「どういう意味だ」
「もう少し適当なことを言われるかと思いました」
「お前は兄を何だと思っている」
景継は笑った。
兄も笑う。
遠くから母の声が聞こえた。
「千代丸!」
景継と兄が同時に振り返る。
「万代丸が起きましたよ!」
兄が景継を見る。
「呼ばれているぞ、千代丸」
「聞こえています」
「早く行け」
「兄上もでしょう」
「俺もか?」
「叔父上なのでしょう?」
景継は先に歩き出した。
兄も後からついてくる。
天下を争う時には、誰も景継を千代丸とは呼ばない。
家臣たちは殿と呼び、他家の者たちは林道様と呼ぶ。
敵から見れば、林道景継は倒すべき大名の一人でしかない。
それでも、この場所には。
林道景継が何者になるよりも前から、彼を知っている者たちがいる。
父がいる。
母がいる。
兄がいる。
楓がいて、今日からは万代丸もいる。
景継は部屋へ戻る直前、わずかに足を止めた。
母の声が聞こえる。
楓の笑う声も。
その中に、万代丸の泣き声が混じっていた。
景継は静かに襖を開ける。
「母上。今度は何ですか」
「何ですか、ではありません。あなたの子でしょう」
「分かっていますよ」
そう答えながら、景継は万代丸のもとへ向かった。
この日だけは、天下も戦も西国も遠かった。
林道景継ではなく。
かつて千代丸と呼ばれた一人の男が、家族とともに過ごす一日だった。




