第百九十四話 万代丸
越前から戻って数日が経った。
林道家と柴田家の間では、景継が帰った後も武将同士のやり取りが続いていた。
合同で兵を動かしたことで互いの違いが見え、実務を担う者たちの間にも新しい連絡の道ができた。弥兵衛などは利家とすっかり意気投合したらしく、次に会った時にはどちらが多く飲めるか確かめるのだと、どうでもいい約束まで交わして帰ってきた。
景継としては、最後の約束だけは忘れてもらっても構わなかった。
だが、越前へ行った目的そのものは果たせたと思っている。
柴田家が林道家の下へ入ったことは、すでに決まっていた。今回必要だったのは、その決定を書状の上だけのものにしないことだった。
次に同じ戦場へ立つ時、互いの顔を知っている。何か問題が起きた時には、誰へ話せばよいのか分かっている。
それだけでも、以前とは大きく違う。
景継は帰還した翌日から政務へ戻り、越前で決まったことを確認しながら、留守中に上がっていた報告にも目を通していた。
その日の昼も、いつもと変わらなかった。
三成から渡された書付を読み、必要な箇所だけを確認して返す。吉継から領内の報告を受け、弥兵衛とは越前で行った合同訓練を今後どの程度続けるのかを話していた。
少なくとも景継自身は、その日の予定が大きく変わるとは思っていなかった。
「殿!」
廊下から聞こえてきた声に、景継が顔を上げた。
直後、襖の向こうで人が止まる。
「申し上げます! 奥方様が産気づかれました!」
その一言を聞いた瞬間、景継の手が止まった。
「楓が?」
「はい!」
景継は持っていた書付を机へ置いて立ち上がったが、そのまま部屋を出ようとして、なぜか足を止めた。
「殿?」
弥兵衛が怪訝そうに景継を見る。
「……私は、どうすればよいのでしょう」
「はい?」
「ですから、こういう時は何をすればよいのですか」
弥兵衛が目を瞬いた。
近くにいた三成まで顔を上げている。
「俺に聞かれましても、戦なら分かりますが、子を産んだことはございませんので」
「それは私も同じです」
「でしょうな」
何の役にも立たない会話だった。
三成が二人を見比べてから、呆れたように口を開いた。
「少なくとも、我らが何人も押しかけても邪魔になるだけではございませんか」
「では、待つしかないと?」
「そうなるかと」
景継は黙った。
待つことなら得意なはずだった。
敵が動くまで待ったこともある。何年も先を見ながら機会が来るのを待ち続けたこともあれば、相手が何を考えているのかを読みながら、こちらが動くべき瞬間まで耐えたこともある。
しかし、今日の待つは、それらとはまるで違った。
「……何もできないのですね」
「出産されるのは奥方様ですからな」
弥兵衛の言葉に、景継は返事をしなかった。
これほど待つことが難しいとは思わなかった。
景継は奥へ向かったものの、当然ながら楓のいる部屋へ入ることはできなかった。
女たちが慌ただしく行き来し、必要なものが次々と運び込まれていく。その邪魔にならない場所で、景継はただ待つことになった。
最初は座っていた。
しかし、どうにも落ち着かない。
気づけば立ち上がって廊下を歩き、しばらくすると元の場所へ戻って座る。それでも落ち着かず、また立ち上がる。
そんなことを何度か繰り返していると、いつの間にか弥兵衛が近くに立っていた。
「殿」
「何でしょう」
「先ほどから、そこを何度往復されました?」
「数えていません」
「俺は途中から数えております」
「なぜですか」
「暇でしたので」
景継は弥兵衛を見た。
「弥兵衛。仕事へ戻っていただいても構いませんよ」
「こんな殿を置いて戻れませぬ」
「こんな、とは何です」
「これまで見たことがないほど落ち着きのない殿です」
否定しようとして、景継はやめた。
実際、その通りだった。
再び座ってしばらくすると、部屋の向こうから楓の苦しそうな声が聞こえてきた。
景継の表情が変わる。
「……大丈夫なのでしょうか」
「俺に聞かれましても」
「先ほども聞きましたね」
「はい」
景継は両手を組んだ。
頭の中では、考えたくもないことばかりが浮かんでくる。
子が無事に生まれなかったらどうする。
楓に何かあったら。
もし、二人とも。
そこまで考えたところで、景継は強く目を閉じた。
戦場であれば、危険があれば対処できる。兵を動かし、退くべき時には退き、攻めるべき時には攻める。敵の狙いを読み、損害を減らす方法を考えることもできる。
だが今は、自分にできることが何もない。
それが恐ろしかった。
「殿」
弥兵衛の声が少し低くなる。
「奥方様は強い御方です」
景継は弥兵衛を見て、しばらくしてから小さく頷いた。
「……そうですね」
「ですから、待ちましょう」
「ええ」
それから景継は歩くのをやめた。
何もできないのであれば、せめてここにいよう。
そう思って、ただ待った。
どれほど時間が経ったのか。
景継には随分と長く感じられた。
やがて部屋の中から、それまでとは違う声が聞こえた。
高く、小さな声だった。
景継が顔を上げる。
「……今のは」
弥兵衛も立ち上がった。
もう一度、赤子の泣き声が響いた。
景継はすぐには動けなかった。
閉じられた襖を見つめたまま、次の言葉を待つ。
少しして中から女が出てきた。
「殿」
「楓は」
自分でも驚くほど早く言葉が出た。
「ご安心くださいませ。奥方様はご無事にございます」
その言葉を聞いて、景継の肩からようやく力が抜けた。
「……そうですか」
「はい。そして、お生まれになった御子もお元気にございます」
「子も……」
そこで景継は、もう一つ聞かなければならないことに気づいた。
「男ですか。女ですか」
「若君にございます」
景継は何も言わず、目を閉じてゆっくりと息を吐いた。
自分に息子が生まれた。
言葉の意味は理解できるのに、まだどこか現実のこととは思えなかった。
「殿」
弥兵衛が声をかける。
「若君ですぞ」
「聞いておりました」
「それならよろしいのですが、あまりにも静かなので」
「私も、どういう顔をすればよいのか分からないのです」
そう答えた景継を見て、弥兵衛は嬉しそうに笑った。
しばらくして部屋へ入ると、最初に見えたのは楓だった。
疲れ切った顔をしている。
それでも景継を見つけると、微かに笑った。
「……お帰りなさいませ」
「楓」
景継は枕元へ座った。
「大丈夫ですか」
「はい。少し疲れました」
「少しには見えませんが」
「では、とても疲れました」
「それなら分かります」
楓が小さく笑った。
その笑顔を見て、景継はようやく本当に安心した。
「よく……無事でいてくださいました」
「ご心配をおかけしました」
「心配しました。本当に」
「聞いております」
「何をです?」
「廊下を何度も歩いておられたと」
景継の表情が止まる。
「……誰からですか」
「皆、知っております」
「弥兵衛ですね」
「弥兵衛殿だけではございません」
どうやら隠すことはできないらしい。
その時、近くにいた女が赤子を抱いてきた。
「殿」
景継の視線がそちらへ向く。
白い布に包まれた、小さな赤子だった。
先ほどまで泣いていたはずなのに、今は目を閉じている。
景継はしばらく、その姿を見つめた。
「抱かれますか」
「私が?」
思わず聞き返すと、楓が笑った。
「父親でしょう」
「そうですが……」
戦場で刀を持つことに迷ったことはない。
何千、何万という兵の行方を左右する命令を出したこともある。
それなのに、差し出された赤子を前にすると、どう手を出せばよいのか分からなかった。
「首を支えてくださいませ」
「首を?」
「こちらでございます」
「……こうですか」
「もう少し優しく」
「これ以上ですか」
楓が声を抑えて笑っている。
景継は教えられるまま、慎重に赤子を受け取った。
腕の中に収まる。
あまりにも軽く、少し力を入れれば壊れてしまいそうなほど小さい。
「……こんなに小さいのですね」
「生まれたばかりですから」
「知識としては知っていましたが、実際に抱くと全く違いますね」
景継は赤子の顔を覗き込んだ。
自分に似ているのか。
楓に似ているのか。
今の景継には、まったく分からない。
ただ、この子が自分の息子なのだということだけは分かる。
小さな手が動いた。
景継が指を近づけると、その指を赤子の手が握った。
「……」
力などほとんどない。
それでも景継は、しばらく動けなかった。
自分の指を握っている。
ただそれだけのことが、不思議なほど胸に残った。
「景継様」
楓が呼ぶ。
「はい」
「お顔が変わっております」
「どのように?」
「私には上手く言えません」
「それは困りましたね」
景継は赤子から目を離さなかった。
しばらくして、ようやく楓を見る。
「ありがとうございます、楓」
楓が少し目を見開いた。
「この子を産んでくださって。そして、無事でいてくださって。ありがとうございます」
楓は何も言わず、静かに微笑んだ。
少し時間が経った後。
楓が赤子を見ながら尋ねた。
「この子の名は、どうなさいますか」
「実は、一つ考えていました」
「もう?」
「男でも女でも、いくつかは考えていました」
「随分と用意がよろしいのですね」
「何も考えていない方が怒られるかと思いまして」
「誰にです?」
「楓に」
「怒りません」
「では、考えすぎましたか」
楓がまた笑った。
景継は腕の中の赤子を見る。
自分にも、かつて別の名があった。
林道景継になる前。
尾張で生まれ、まだ天下どころか戦すら知らなかった頃に呼ばれていた名。
「私の幼い頃の名は、千代丸でした」
「存じております」
「ですから、この子の名にも、その名を少し残したいと思っていました」
楓が興味深そうに景継を見る。
「千代丸から?」
「はい。ただ、同じでは面白くありません」
「では、どうなさるのです?」
景継は少しだけ笑った。
「千よりも、大きなものにします」
「千よりも?」
「万です」
楓が一瞬考えた。
景継は眠り始めた我が子を見つめながら、その名を口にした。
「万代丸」
「……万代丸」
「はい。万代丸です」
楓がゆっくりと、その名を繰り返す。
「千代丸と、万代丸……」
「代の字は同じにしました」
「景継様の名を受け継いでいるのですね」
「ええ」
景継は小さく頷いた。
千代。
そして、万代。
自分より強くなれとも、自分より賢くなれとも思わない。
天下を取れと、生まれたばかりの子に背負わせるつもりもなかった。
ただ、自分よりも長く。
自分がいなくなった後も。
そのさらに先まで。
この子と、この子から続いていく者たちが生きていけるように。
「千代よりも、その先まで」
景継が静かに言った。
「この子の生きる先にも、林道家が続いているように。そう願って、この名にしたいと思います」
楓は眠る赤子へ手を伸ばし、小さな頬に触れた。
「よい名だと思います」
「本当ですか」
「はい」
楓が微笑む。
「万代丸」
その声に応えることなく、赤子は眠り続けている。
「では、この子は今日から万代丸です」
「ええ」
景継も頷いた。
「万代丸」
初めて、息子の名を呼んだ。
当然ながら返事はない。
「寝ていますね」
「寝ていますね」
「私がこれほど考えて名を付けたのですが」
「まだ分かりませんよ」
「それもそうですね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
その日の夕刻。
林道家に嫡男が誕生したという知らせが家臣たちへ伝えられた。
若君の名は、万代丸。
弥兵衛は大喜びし、すぐに祝いの酒を用意すると言い出した。三成は祝いを述べた直後に、若君誕生に伴って必要になる手続きについて話し始め、吉継からせめて今日くらいは祝いだけにしておけと止められていた。
且元や長泰をはじめ、城内の者たちにも笑顔が広がった。
やがて越前の柴田家にも知らせは届くだろう。
そして、小田原にも。
楓の父である氏政にとって、万代丸は孫にあたる。
婚姻によって結ばれた林道家と北条家の間に、新しい血の繋がりが生まれたことにもなる。
だが、今の景継にとっては、そんな政治の話よりも先に考えることがあった。
夜。
景継は再び楓の部屋を訪れていた。
万代丸は母の傍らで眠っている。
景継は少し離れた場所に座り、その寝顔を飽きることなく眺めていた。
「景継様」
「はい」
「まだ見ておられるのですか」
「見ていてはいけませんか」
「いけないとは申しておりません」
楓は少し笑った。
景継も口元を緩めながら、万代丸へ視線を戻す。
これまで景継は、自分が生き残ることを何より重く考えてきた。
前世で司馬懿として生きた時も、今世で林道景継として乱世を歩いてきた時も、生きていなければ次の一手を打つことはできなかった。
だが今日からは、それだけではない。
自分がいなくなった後にも、この子の人生は続く。
林道家という家も、できることならその先へ続いていく。
その事実は嬉しくもあり、同時にこれまでとは違う重さを景継へ与えていた。
「楓」
「はい」
「私は、この子に天下を取らせたいとは思いません」
楓が少し意外そうに景継を見る。
「そうなのですか」
「私が取ればよいでしょう」
楓はしばらく景継を見つめた後、静かに笑った。
「では、お願いいたします」
「随分と簡単に言われますね」
「景継様が言い出されたことです」
「それはそうなのですが」
景継も笑った。
万代丸が小さく身じろぎしたため、二人とも自然に声を小さくする。
「この子には、この子の生きたいように生きてもらえればいい」
景継は眠る息子を見つめながら、穏やかに続けた。
「そのために私ができることは、この子が大きくなった時、少しでも生きやすい世を残すことなのでしょうね」
楓は何も言わず、景継の言葉を聞いていた。
やがて万代丸の小さな手が布の中から出る。
景継は、その手にそっと指先で触れた。
昼間のように握られることはなかったが、それでも構わなかった。
天下を望む林道景継に、この日、新しい家族が増えた。
嫡男、万代丸。
その小さな命が、いつかどのような道を選ぶのか。
今はまだ、誰にも分からない。
だからこそ景継は、父親として一つだけ願った。
万代丸が自らの道を選べる日まで、どうか健やかに育ってほしいと。




