第百九十一話 「乱世にて、我は待つ」
景継の指が、美濃と尾張の間で止まっていた。
信孝。
信雄。
三法師。
そして、織田家。
信長が死んだ後も、その名が持つ重みは決して消えていない。
景継自身、それを消そうと思ったことはなかった。
織田家を奪うつもりはない。
林道家として天下を取る。
これまで何度か口にしてきたその言葉に、嘘はなかった。
ただ、それは織田家の持つ力を天下取りに利用しないという意味ではない。
奪わなくてもいい。
むしろ、奪わない方がいい。
景継は、ずっとそう考えていた。
◇
およそ二年前――。
本能寺の変、直後。
秀吉を、自分の天下取りにおける最大の障害になり得る男として考えた。
そして勝家を、その秀吉へ対抗するための最も有力な相手として考えた。
そこまで思考を進めた後、景継の意識は自然と織田家そのものへ向かっていた。
信長はいない。
信忠もいない。
ならば、これから織田家はどうなる。
三法師はまだ幼い。
信孝もいる。
信雄もいる。
信長の息子たちは残っている。
さらに、勝家、長秀、一益をはじめ、長年織田家を支えてきた者たちもいる。
その中の誰かが織田家をまとめるのか。
それとも、一つにまとまることができず、いくつかの勢力へ分かれていくのか。
今の段階で答えを出すことなど、景継にはできなかった。
ただ、景継は一人一人の顔を静かに思い浮かべていた。
信孝。
信雄。
三法師。
誰も軽んじているわけではない。
信長の血を引き、それぞれに立場も力もある。
だが、少なくとも今の彼らには、信長亡き後の織田家を一つにまとめ、そのまま天下まで取り切るだけの力はない。
景継は、そう見ていた。
三法師はあまりにも幼い。
信孝には力があり、自ら前へ出て戦おうとする意思もある。
しかし、織田家全体をまとめ、諸大名を従えながら天下を取り切るには、まだ足りないものが多い。
信雄もまた、広い領地と信長の子という立場を持っているが、それだけで天下人になれるほど、この乱世は甘くない。
もちろん、この先に誰かが大きく変わる可能性までは否定できない。
信孝が経験を積み。
信雄が力を蓄え。
三法師が成長し。
いつか自分の想像を超える存在になることもあるかもしれない。
その時は、その時に改めて考えればいい。
だが今は違う。
信長の後をそのまま一人で継ぎ、織田家をまとめ、天下まで押し切れる者はいない。
ならば。
織田家はいずれ、誰かの力を必要とする可能性が高い。
そう考えた時、景継の中で一つだけ、自分がしてはならないと思うことがはっきりした。
織田家を、力で奪う。
それは違う。
信長が死んだ直後に、その家臣だった自分が兵を動かして織田家を乗っ取る。
できるかどうか以前に、選ぶべき道ではなかった。
もしそんなことをすれば、勝家はどう思う。
長秀はどう思う。
一益はどう思う。
そして何より、長年信長に仕えてきた者たちは何を思う。
仮に戦で勝ち、織田家を力ずくで押さえることができたとしても、その後に残るものが多すぎる。
不満。
反発。
疑念。
恨み。
そうしたものを抱えたまま天下へ進めば、仮に天下を取ることができたとしても、その後まで火種を抱えることになる。
「……必要ありませんね」
景継は、小さく呟いた。
無理に奪う必要などない。
織田家が一つにまとまり、自分たちの力だけで立てるのであれば、それでいい。
信長の後を継ぎ、皆をまとめられる者が現れるのであれば、その時はその者と改めて向き合えばいいだけだ。
では、そうならなかったら。
信長という巨大な柱を失った織田家が、自分たちだけでは立てなくなったら、その時はどうする。
景継はしばらく考えた。
そして出た答えは、驚くほど単純だった。
助ければいい。
困っているのであれば、助ける。
敵に攻められたなら、必要に応じて力を貸す。
領内が乱れたなら、知恵を貸す。
家中で問題が起きたなら、話を聞く。
林道家の方から奪いに行く必要などない。
助けを求められた時に、応えればいい。
一度だけではない。
二度、三度とそれを繰り返していく。
林道家に頼めば何とかなる。
景継へ相談すれば道が開ける。
そう考える者が増えていけば、やがて何かを決める時に、織田家の者たちは林道家を見るようになる。
兵を動かす時には、景継の考えを聞くようになる。
国を治める時にも、林道家との関係を無視できなくなる。
そうした積み重ねが続けば。
「……」
景継は、そこで口を閉じた。
自分が何を考えようとしているのか、はっきりと分かったからだ。
しばらくして、小さく息を吐く。
「奪う必要など、ないのですね」
向こうから頼ってくるようになればいい。
信長から託された織田家を、力で踏みにじる必要はない。
信長の子を殺す必要もない。
三法師から名を奪う必要もない。
織田の名を消す必要もない。
ただ、林道家が大きくなればいい。
兵を増やし。
領地を増やし。
人を集め。
道を押さえ。
商いを育て。
周囲の大名との関係を築いていく。
そして、織田家が困った時には手を差し伸べる。
それを繰り返していけばいい。
一度こちらへ重心を預けたなら。
二度と、離れられぬほど深く支えればいい。
支配する必要はない。
命令する必要もない。
気づけば、織田家が何かをしようとした時、林道家なしでは動けなくなっている。
人も、土地も、道も、政も。
少しずつ林道家を中心として動くようになっていく。
そうなれば、織田家を奪ったことにはならない。
織田家は残る。
三法師も残る。
信長の子らも、自らの領地を持ったままでいられる。
その上で。
天下を動かす中心だけが林道家へ移っていく。
「……」
景継は、その考えを胸の中で何度か繰り返した。
自分で考えておきながら、随分と都合のいい話だとも思う。
だが、天下を取るのであれば、戦って奪うことだけが道ではない。
相手が自らこちらを必要とするまで待つ。
そして、その時が来たなら手を差し伸べる。
ただし、一度取ったその手を簡単には離さない。
景継は、そんな天下の取り方もあるのだと、その時初めてはっきりと理解した。
現在。
景継は、地図の上から指を離した。
あれから、およそ二年。
織田家を取り巻く状況は、あの日に自分が考えた可能性の一つへ少しずつ近づいていた。
もちろん、思い描いた通りに進んだわけではない。
信孝が播磨を得ることも。
信雄が家康へ近づくことも。
二人の間で争いが起こりかけることも。
当時の自分が知るはずなどなかった。
それでも、先日の出来事がある。
播磨が乱れた時、信孝は自分を呼んだ。
景継は官兵衛と共に播磨へ向かい、信孝の名で国が治まるよう力を貸した。
領地を奪ってはいない。
播磨を林道家のものにもしていない。
そして、信雄との争いが起こりかけた時も、信孝は再び自分を頼った。
争いを止めた後。
信孝は、こう言った。
『これからも、力を貸してくれ』
景継は静かに目を閉じた。
自分から従えと言ったことは、一度もない。
それでも、信孝の方から自分を頼り始めている。
本能寺の直後。
誰にも話すことなく、ただ一人で考えた形に。
あまりにも似ていた。
一方で、信雄は家康を頼り始めている。
それは景継にとって、望んだ形ではない。
むしろ、この先に大きな問題へ繋がる可能性さえある。
だからこそ、すべてが思い通りになっているわけではないことも、よく分かっている。
天下には、自分以外の意思がある。
家康にも。
氏政にも。
景勝にも。
毛利にも。
元親にも。
それぞれに望みがあり、それぞれが自分たちのために動いている。
誰も、景継の思い通りに動くために生きているわけではない。
ならば、状況が変わった時には、その変化を受け入れた上で、また次の手を考えればいい。
景継はそうやって、ここまで生きてきた。
再び地図へ目を落とす。
そこには、二年前には持っていなかったものがいくつもあった。
勝家から託された柴田家。
氏政と結んだ北条との同盟。
自分を頼るようになった信孝。
中央に広がった林道家の領地。
そして、西へ向かうための淡路。
毛利とは一年の猶予を得ており、四国には元親がいる。
どれ一つとして、本能寺の直後に景継が正確に思い描いていたものではない。
思い通りになったこともあれば、予想すらしていなかった出来事もあった。
失った者もいる。
危うく自分が死にかけたことも、一度や二度ではない。
それでも、景継は生き残ってきた。
その時々で選び。
手を伸ばし。
時には退きながら。
ここまで来た。
天下を取ったわけではない。
まだ遠い。
だが、かつてとは違う。
今ならば、手を伸ばせば届くかもしれない。
そう思えるだけの場所まで、ようやく来た。
景継は地図を見つめたまま、自分の胸の内へ意識を向けた。
秀吉が最大の障害になると考えた。
勝家と手を結び、その死後に柴田家がどうなるかまで考えた。
織田家についても、力で奪うのではなく、向こうから自分を必要とする時を待とうと考えた。
そして実際に。
今の自分は、その道の上に立っている。
こうして考える自分は、いったい何なのだろう。
人を信じながら、その人間が自分の天下取りにどう影響するのかまで考える。
大切な者の死を悲しみながら、その死によって変わる天下の形を見る。
相手の家を奪わないと言いながら、向こうから自分を必要とする時を待つ。
その時。
景継の頭に、一人の男が浮かんだ。
司馬懿仲達。
前世の自分。
長い時を耐え、生き残り、機が来るまで待った男。
「これは……仲達の……」
そこまで口にして、景継は止まった。
静かな部屋に、短い沈黙が落ちる。
やがて景継は、小さく首を横に振った。
「……違いますね」
仲達の記憶があるから。
前世で乱世を生きたから。
だから、自分はこうなった。
そう言ってしまえば簡単だった。
今まで考えてきたことを、すべて前世の自分へ押しつけることができる。
だが。
「それは、卑怯でしょう」
秀吉を最大の障害になるかもしれないと考えたのは、自分だ。
勝家と手を結び、その死後まで考えたのも自分だ。
北条との縁が天下取りにどれほど大きな意味を持つのかを理解し、その関係を深めたのも自分だ。
織田家を力で奪わず、向こうから頼られるまで待とうと考えたのも自分だ。
すべて。
自分自身が選んだことだった。
「私です」
景継の声が、静かな部屋に落ちた。
「林道景継が、考えたことです」
前世の記憶はある。
司馬懿として生きた経験も、自分の中に残っている。
だが、今この地図の前にいるのは司馬懿仲達ではない。
尾張で生まれ。
信長に仕え。
光秀を先生と呼び。
勝家と共に戦い。
秀吉を討ち。
楓を妻に迎えた。
林道景継だ。
ならば。
この野望も。
この冷たさも。
誰かを大切に思う心も。
すべて自分自身のものとして背負うしかない。
景継は、小さく息を吐いた。
「……随分と、嫌な男になったものです」
ほんの少しだけ口元が緩んだが、次に口にした言葉には迷いがなかった。
「それでも――天下は取ります」
景継の目が、天下を記した地図へ戻る。
信長から託されたから。
それだけではない。
今はもう、自分自身が望んでいる。
林道家として。
林道景継として。
この天下を取る。
ただし、焦るつもりはない。
家康がいる。
毛利がいる。
元親がいる。
まだ動きを見せていない者もいる。
今日勝ったからといって、明日も勝てるとは限らない。
一度大きくなったからといって、そのまま天下まで進めるとも限らない。
ならば、急ぐ必要はない。
生き残り。
力を蓄え。
必要とされたなら、手を差し伸べる。
敵が動けば、その意図を読み。
機が来たなら、迷わず手を伸ばす。
そして、まだその時でないのなら。
景継は地図を見つめ、静かに目を細めた。
そしてこう思う‥‥‥
「乱世にて、我は待つ。」




