第百九十話 林道景継という男②
柴田勝家。
本能寺の変の直後。
秀吉がいずれ自分の天下取りにおける最大の障害になるかもしれないと考えた景継は、同時に、その秀吉へ対抗するためには誰と手を結ぶべきなのかを考えていた。
丹羽長秀。
滝川一益。
織田家には、信長を長く支えてきた者たちがいる。
その中でも景継が、最も大きな力を持つと見ていた男が柴田勝家だった。
◇
およそ二年前。
本能寺の変、直後。
景継は一人、静かな部屋の中で考えていた。
もし秀吉が光秀を討つ。
あるいは、それに匹敵するほどの大功を挙げる。
そうなれば、信長も信忠も失われた織田家の中で、秀吉の立場は一気に大きくなる。
誰が信長の後を支えるのか。
誰が崩れかけた織田家をまとめるのか。
その答えが定まる前に秀吉が大きな功を挙げれば、後からその勢いへ追いつくことは容易ではない。
景継には、そのことが分かっていた。
そして同時に。
今の林道家だけでは足りないことも理解していた。
自分の知略に自信がないわけではない。
前世から積み重ねてきた経験もある。
人の考えを読み、流れを見て、機を待つことにも慣れている。
だが、戦は知略だけではできない。
兵がいる。
土地がいる。
兵糧がいる。
金がいる。
そして何より、自分とは別に、大きな力を持つ者が必要になる。
景継の頭の中に、何人もの顔が浮かんだ。
その中で。
最後まで残った男がいた。
柴田勝家。
信長の下で長く戦ってきた宿老であり、戦場での強さだけでなく、織田家中における重みも大きい。
抱える兵。
治める領地。
積み重ねてきた実績。
その全てを考えれば、もし秀吉が大きな力を持つようになった時、正面から対抗できる者として勝家以上の存在は簡単には見つからない。
――勝家様と手を結ぶ。
それが、最もいい。
もちろん。
今の時点で秀吉と争うことになると決まったわけではない。
勝家が自分へ協力してくれるとも限らないし、自分自身が今後どこまで力を伸ばせるのかさえ分からない。
それでも。
これから先のことを考えるなら。
勝家との関係を深めておく価値は、間違いなくある。
だから景継は、信長亡き後の織田家中をまとめるために動こうと考えた。
長秀とも話す。
一益とも話す。
勝家とも話す。
これから行われるであろう織田家中の話し合いを、ただ後継を決めるだけの場にしてはならない。
信長を失った後。
誰と誰が話せるのか。
誰と誰が手を結べるのか。
何かが起きた時、どのような形で協力できるのか。
それを作っておく必要がある。
ここまでの考えであれば。
景継自身にも、何の抵抗もなかった。
だが。
勝家と秀吉。
二人を比べているうちに。
景継の思考は、必要のないところまで進み始めた。
秀吉は強い。
そして、この先さらに大きくなる可能性がある。
人を集める力があり。
人を動かす力があり。
自らを中心にして、新たな勢力そのものを作ることができる。
では。
勝家はどうか。
もちろん強い。
だからこそ、秀吉へ対抗するための協力者として最も価値がある。
だが景継は、そこで思考を止めなかった。
勝家は、自分より年上だった。
そして。
その巨大な柴田家の全てを、何の問題もなくそのまま継ぐことのできる、明確な後継者がいるわけでもない。
景継はゆっくりと目を閉じた。
まだ考えるようなことではない。
勝家は生きている。
それどころか。
この先、共に戦うことになるかもしれない相手だ。
そんな男について。
その死後のことまで考える必要などない。
それなのに。
一度浮かんだ考えは、消えてくれなかった。
――もし。
――今から勝家様との関係を深めていけば。
勝家本人だけではない。
その家臣たち。
領内の者たち。
勝家の周囲にいる者たちからも、林道家が信頼を得ることができる。
そして。
いつか遠い先。
自分が勝家より長く生きることができたなら。
その時。
巨大な柴田家はどうなる。
勝家という大きな柱を失った後。
誰が家を支えるのか。
誰が周囲をまとめるのか。
誰へ助けを求めるのか。
もし。
その時までに。
林道家と柴田家の結びつきが十分に深くなっていたなら――。
柴田家が林道家を頼る形が生まれるかもしれない。
景継はそこで、ゆっくりと目を開いた。
「……」
自分でも。
しばらく言葉が出なかった。
勝家を殺そうとしているわけではない。
陥れようとも思っていない。
まして。
死を望んでいるわけでもない。
それでも。
天下を取るという一点だけから見れば。
秀吉ではなく、勝家と手を結ぶ方がいい。
秀吉という最大の障害へ対抗するための力を得られる。
その中で勝家との信頼を深めることもできる。
そして。
さらに遠い先。
もし勝家が自分より先に天寿を迎えたなら。
柴田という巨大な力まで、林道家へ近づいてくる可能性がある。
一つの選択によって。
最大の障害を排除できる可能性を高めながら。
同時に、自分の力を増やせる可能性まで残せる。
あまりにも。
都合がいい。
「……嫌な考えですね」
景継は、誰もいない部屋で小さく呟いた。
それでも。
その考えを忘れることはできなかった。
勝家を利用する。
そんな言葉だけで片づけたくはない。
だが。
天下を取るための道を考えれば考えるほど。
柴田勝家という男が、自分にとってどれほど大きな存在になるのかが見えてしまう。
ならば。
今はただ、信頼を得る。
それだけでいい。
先のことなど分からない。
秀吉と勝家が争うとも決まっていない。
勝家が自分を認めるとも限らない。
そもそも。
自分の方が先に死ぬ可能性だってある。
何一つ決まっていない。
だからこそ。
今できることだけを積み重ねる。
勝家と話す。
共に戦う機会があるなら、全力で戦う。
助けるべき時が来れば、迷わず助ける。
その先のことは。
本当にその時が来た時に、改めて考えればいい。
◇
――現在。
景継の指が、地図の越前に触れていた。
「……本当に、そうなってしまいましたね」
小さな声だった。
あの時。
未来が見えていたわけではない。
勝家と秀吉が本当に争うことになるとは知らなかった。
北ノ庄で共に秀吉を迎え撃つことも。
勝家を救うことも。
その後、再び秀吉と戦うことも。
何一つ知るはずがなかった。
ただ。
勝家と秀吉の関係が悪化し。
二人が別々の道を歩き始めた時。
景継は、それを止めようとはしなかった。
もちろん。
二人を争わせようと動いたわけではない。
自分から火をつけたわけでもない。
それでも心の奥では。
勝家と秀吉が離れていくことを、自分にとって悪いことだとは思っていなかった。
勝家と共に戦える。
秀吉へ対抗できる。
その中で。
勝家との関係を、さらに深めることもできる。
だからといって。
勝家を危険に晒していいと思ったことは、一度もなかった。
北ノ庄では。
景継は本気で勝つつもりだった。
秀吉を返り討ちにするため。
勝家を生かすため。
市を救うため。
最初から負けることを望んでいたわけではない。
あの戦で勝つ。
そのつもりで全てを組み立てていた。
だから。
勝家を助けることができた時。
景継は心から安堵した。
その後も。
勝家と過ごす時間は嫌いではなかった。
不器用で。
頑固で。
思ったことをそのまま口にして。
それでも。
一度信じた相手には、驚くほど真っ直ぐな男だった。
景継はいつしか。
天下を取るために必要だからではなく。
柴田勝家という男そのものを、本当に大切に思うようになっていた。
だから。
勝家が病に倒れた時。
生きてほしかった。
できることなら。
まだ何年も。
あの人と話したかった。
酒を飲み。
昔の戦を振り返り。
くだらない話でもしていたかった。
その思いに、嘘はない。
なのに。
景継の頭の奥には。
本能寺の直後に一度だけ考えたことが、消えずに残っていた。
――勝家様が亡くなった後。
――柴田家は、どうなる。
自分でも嫌になるほど。
そのことを考えることができた。
死んでほしくない。
だが。
死んだ後のことは考える。
できることなら、まだ何年も生きてほしい。
それでも。
勝家がいなくなった後。
柴田家がどこへ向かうのか。
その時。
林道家がどう動けば天下へ近づくのか。
そこまで考えることができてしまう。
どちらが本心なのか。
景継には分かっていた。
どちらもだった。
勝家に生きてほしかった。
心から。
そして同時に。
柴田家の力が林道家へ加われば、天下が近づくとも思っていた。
片方が嘘なのではない。
二つとも。
自分の中に確かにあった。
そして。
最後の日。
勝家は景継へ言った。
『景継。柴田家を、お前の下に置いてくれ』
あの言葉を聞いた時。
景継は喜ばなかった。
天下が近づいたなどとは思わなかった。
ただ。
死を前にした勝家から託されたものを。
守らなければならないと思った。
『柴田家は、私が守ります』
あの返事も本心だった。
今も変わっていない。
柴田家の名を消すつもりはない。
勝家から託されたものを、粗末に扱うつもりもない。
市が生きている限り。
利家たちが柴田の名を背負っている限り。
そして何より。
勝家が最後に自分へ託した以上。
守る。
それは決めている。
それでも。
こうして今の地図を見れば。
結果だけは。
あまりにも。
あの日の自分が思い描いた、一つの可能性に近かった。
秀吉は死んだ。
柴田家は残った。
そして。
その柴田家は今。
自ら林道家の下へ入っている。
「勝家様……」
景継は目を閉じた。
「私は、あなたに謝るべきなのでしょうか」
返事はない。
あるはずもない。
少しして。
景継はゆっくりと首を横に振った。
「……いえ」
勝家を裏切ったわけではない。
勝家を死へ追いやったわけでもない。
勝家が生きている間。
その信頼を利用して領地を奪ったこともない。
もし。
もう一度やり直すことができたとしても。
北ノ庄では助ける。
病に倒れれば、生きてほしいと思う。
最後に柴田家を託されたなら。
やはり守ると答える。
それは変わらない。
だが。
その全てとは別の場所で。
天下を取るために。
その先まで考えていた自分も、確かにいた。
景継はゆっくりと目を開けると。
越前に置いていた指を離した。
そして。
その指を東へ動かしていく。
北条。
氏政。
そして――楓。
ここだけは。
本能寺の直後に思い描いていたものとは違った。
楓との婚姻など。
考えたこともない。
北条とこれほど深い縁を結ぶことも。
当然、予想していなかった。
だが。
天下を取るための形として。
当時から考えていたことはある。
すべての方角を、一度に敵にしてはならない。
一方へ力を向けるのであれば。
別の一方には、大きな敵を作らない。
どこかへ進むためには。
どこかで争わずに済む形を作っておく必要がある。
その程度の考えは。
あの頃から持っていた。
そして実際に。
秀吉を追い詰めるため。
景継は北条へ近づいた。
北条の力が必要だった。
氏政の力を借りたかった。
その判断は間違っていなかった。
北条が動いたことで。
秀吉を包む力の一つが生まれた。
そして。
秀吉が死んだ後。
北条との関係は終わるどころか。
さらに強いものへ変わった。
楓との婚姻。
正式な同盟。
景継の指が。
関東からゆっくりと西へ動いていく。
北条と結んだことで。
得たものは、秀吉を倒すための力だけではない。
東に、簡単には敵対しない巨大な勢力ができた。
それによって。
林道家は以前よりも、西へ力を向けやすくなっている。
中国。
四国。
これから天下を目指すのであれば。
避けて通れない土地。
毛利と向き合うことも。
長宗我部と話すことも。
以前より動きやすくなっている。
景継はそこまで考えたところで。
ふと。
隣の部屋へ目を向けた。
その向こうには。
楓がいる。
自分の子を身籠った妻。
景継は楓を大切に思っていた。
それは政治とは関係ない。
帰れば迎えてくれる。
話せば心が休まる。
腹の中にいる子のことを考えれば。
今まで味わったことのないような不安と喜びが同時に湧いてくる。
その全てが。
間違いなく本心だった。
だが同時に。
楓との婚姻が林道家へ何をもたらしたのか。
その政治的な価値を。
景継は誰より理解していた。
「……」
勝家の時と同じだった。
情があるから。
計算できないわけではない。
計算しているから。
情が偽物になるわけでもない。
人を大切に思いながら。
その人との繋がりが天下へどう影響するのかまで考える。
景継の頭は。
いつからか。
その二つを同時に行うようになっていた。
いや。
本当に。
いつからなのだろう。
前世からなのか。
この乱世に生まれた時からなのか。
それとも。
信長から天下を取れと言われた、あの日からなのか。
景継にも分からない。
ただ。
今さら止めることもできなかった。
再び地図を見る。
柴田家は。
自ら林道家の下へ入った。
北条とは。
婚姻によって深く結ばれた。
そして。
つい先日。
また一人。
自分へ手を伸ばしてきた者がいる。
『これからも、力を貸してくれ』
織田信孝。
景継の指が。
美濃へ移った。
信孝を従わせたことはない。
領地を奪ったこともない。
むしろ。
播磨を信孝自身の名で治められるよう、力を貸した。
信雄との争いも止めた。
自分から。
林道家へ従えと言ったことなど一度もない。
それなのに。
信孝の方から。
自分を頼るようになっている。
景継は。
しばらく美濃を見つめていた。
そして。
その隣。
尾張へ視線を移す。
信雄。
さらに。
三法師。
織田家。
景継は昔から言い続けてきた。
織田家を奪うつもりはない。
林道家として天下を取る。
その言葉は。
一度も嘘ではなかった。
今も。
その考えは変わっていない。
ただ。
信長が死んだあの日。
天下を取れと言われたあの日から。
景継の中には。
もう一つ。
消えずに残っている考えがあった。
織田家を。
力で奪う必要など、本当にあるのだろうか。
景継の指が。
美濃と尾張の間で止まった。
そして。
その夜。
景継の胸の奥に長く沈められていた考えが。
ようやく。
はっきりとした形を持ち始める。
敵を倒して奪うよりも。
相手の方から。
自分を必要とするようになるまで待つ。
それは。
誰かに教えられたものではない。
司馬懿の記憶だけで生まれたものでもない。
林道景継という男が。
この乱世を生きる中で。
少しずつ身につけてきた。
最も静かで。
そして。
最も景継らしい――天下の取り方だった。




