第百八十九話 林道景継という男
夜は深かった。
屋敷の中から、人の気配がほとんど消えている。
楓もすでに休んでいる。
景継の部屋にだけ、まだ灯りが残っていた。
机の上には、一枚の大きな地図。
今の天下が記された地図だった。
近江。
山城。
摂津。
淡路。
そして、勝家から託され、林道家の下へ入ることになった柴田家。
東では北条と縁を結び、美濃と播磨を領する信孝からは再び力を貸してほしいと頼まれた。
尾張の信雄は家康へ近づいている。
西では毛利と一年の間、互いに兵を向けない約束を交わした。
海の向こうでは長宗我部が四国を統一し、淡路を挟んで林道家と向かい合っている。
信長が生きていた頃とは、まるで違う天下になっていた。
景継の指が、地図の上をゆっくりと動く。
そして、止まった。
「……やっとここまで来ましたね‥‥」
誰に聞かせるでもなく、景継が呟く。
「我が手中に天下を収めるだけの力、領地、権力、人……」
景継の視線が、地図の上をゆっくりと巡っていく。
「それら全てが……ようやく集まりつつある……」
その声に浮ついた喜びはなかった。
長い時間をかけて積み上げてきたものを、一つずつ確かめるような響きだけがあった。
景継は椅子へ深く腰を下ろした。
その目が地図から離れる。
不意に。
もう聞くことのできない声が、耳の奥で蘇った。
『景継――天下を取れ』
◇
およそ二年前――。
本能寺の変、直後。
――天下を取れ。
何度目か分からないほど、その言葉を思い返していた。
信長がいない。
信忠もいない。
先生――明智光秀が兵を挙げた。
天下の形が、一夜にして崩れた。
景継自身、まだ心の整理などついていなかった。
信長が死んだ。
それも、自分が先生と呼んできた男の謀反によって。
悲しくないはずがない。
悔しくないはずもない。
なぜ。
どうして。
考えても答えの出ない思いが、何度も胸の内を巡った。
それでも。
景継の頭の一部だけは、止まらなかった。
信長が最後に残した言葉。
天下を取れ。
それを本当に成し遂げるのであれば。
自分はこれから、何をしなければならないのか。
まず考えたのは、先生のことだった。
明智光秀。
自分に多くを教えた人。
前世の記憶があることを知りながら、それでも自分を林道景継として見てくれた人。
景継自身に、光秀を討つつもりはなかった。
それ以前に――。
討てるとも思っていなかった。
当時の林道家の力では足りない。
光秀が率いる兵と正面からぶつかり、自分の力だけでこれを討つ。
そんなことができるほど、林道家は大きくなかった。
ならば。
考えなければならない。
先生がこのまま生き残った場合。
そして――。
誰かに討たれた場合。
二つの先を。
光秀が生き残れば、織田家中は大きく揺れる。
信長と信忠を討った光秀を、そのまま新たな主として皆が認めるとも思えない。
だが、光秀には力がある。
簡単に消えるとも限らない。
一方。
光秀が討たれるとすれば。
誰が討つ。
勝家か。
長秀か。
一益か。
家康か。
他にも、動く者はいるだろう。
だが景継の思考は、一人の男のところで止まった。
羽柴秀吉。
「……秀吉様」
小さく、その名を口にした。
動くなら早い。
信長の死を知って、ただ状況を眺めている男ではない。
遠くにいる。
目の前には別の敵もいる。
それでも。
あの男ならば、戻ってくるかもしれない。
何かを捨て。
何かを差し出し。
常人なら不可能だと思うような速さで。
機を逃さぬために動く。
景継は秀吉を、それほどの男だと見ていた。
光秀を討つ者として、最も警戒すべき一人。
本来ならば。
そこで思考を止めればよかった。
だが――。
『景継――天下を取れ』
再び、信長の言葉が浮かんだ。
その瞬間。
景継の思考が、一段先へ進んだ。
――もし。
――私が、本当に天下を取るのなら。
誰が、最も邪魔になる。
景継は考えた。
光秀か。
違う。
少なくとも今、真っ先に浮かぶ相手ではない。
勝家。
もちろん強い。
長秀もいる。
一益もいる。
家康も侮れない。
だが。
景継の頭の中で、一人だけ明らかに違って見える男がいた。
羽柴秀吉。
身分の低いところから、信長の下でここまで上がった。
兵を動かせる。
城を攻められる。
人を集められる。
人の心へ入り込み、昨日まで敵だった者さえ自らの側へ引き寄せることができる。
負けても、そこで終わる男ではない。
そして何より。
機を見つけた時の動きが、恐ろしく速い。
信長という巨大な存在が消えた今。
秀吉がどこまで伸びるのか。
景継にも分からない。
だからこそ。
危険だった。
嫌いだからではない。
むしろ逆だった。
景継は秀吉の力を高く見ていた。
誰よりも危険だと思えるほどに。
だから答えは、簡単だった。
――秀吉様が、最も邪魔になる。
その考えが浮かんだ瞬間。
景継は自分でも眉を寄せた。
信長が死んで、まだほとんど時が経っていない。
先生がどうなるのかも分からない。
織田家そのものがどうなるのかさえ分からない。
それなのに自分はもう。
天下を取るために、誰が邪魔になるのかを考えている。
「……随分と薄情ですね、私は」
誰もいない部屋で呟いた。
だが。
考えることを止めることはできなかった。
秀吉が生きている限り、自分は絶対に天下を取れない。
そこまでは思わない。
秀吉がいようと。
勝家がいようと。
家康がいようと。
その全てを越えて天下を取る道はある。
ただ。
信長から託された言葉を、本当に成し遂げるのであれば。
天下を取れる可能性は、少しでも高い方がいい。
そのために。
最大の障害は、ない方がいい。
では。
秀吉を討つのか。
今は無理だ。
そもそも秀吉はまだ敵ですらない。
では、秀吉と手を組むのか。
景継は考えた。
秀吉の力を借りる。
その下で働く。
そうすれば林道家をさらに大きくできるかもしれない。
信長亡き後の混乱を、秀吉と共に収めることもできるかもしれない。
だが。
その先にあるものは何だ。
羽柴秀吉が中心となる天下。
そこに林道景継が従う。
それでは――。
信長から託された言葉には届かない。
『景継――天下を取れ』
秀吉を天下人にしろ。
そう言われたのではない。
景継は静かに目を開いた。
――秀吉様とは、組まない。
敵になる必要はない。
今すぐ争う必要もない。
秀吉が何をするのかも、まだ分からない。
だが。
その下には入らない。
自ら羽柴の力の一部となる道だけは選ばない。
林道家として立つ。
そして。
もし秀吉が巨大になり。
自分が天下を目指す道の前へ立ちはだかったなら。
その時は――。
倒す。
そこまで考えて。
次の問題が生まれた。
どうやって。
今の林道家だけでは無理だ。
秀吉がさらに力をつければ、なおさら難しくなる。
ならば。
必要になる。
力を貸してくれる者が。
景継は、織田家中の顔を一人ずつ思い浮かべた。
柴田勝家。
丹羽長秀。
滝川一益。
信長がいなくなった今。
この者たちがどこへ立つかで、織田家の形は大きく変わる。
今のうちに関係を作る。
話をする。
林道家が何を考え、どこに立つのかを知ってもらう。
いつか秀吉と争う時が来たとしても。
林道家だけで戦う形にはしない。
そのためにも。
これから開かれるであろう織田家中の話し合いは重要になる。
そして。
誰を最も頼るべきなのか。
景継の思考は、一人の男へ向かった。
柴田勝家。
武勇。
兵力。
領地。
織田家中で積み重ねてきた立場。
どれを見ても大きい。
もし秀吉と争う日が来るのなら。
勝家と共に戦うことができれば。
勝てる可能性は大きく上がる。
景継はそう判断した。
だが――。
その時。
もう一つの考えが浮かんだ。
勝家を選ぶ理由。
それは。
秀吉を倒すための力だけではなかった。
◇
――現在。
景継は静かに目を開けた。
机の上には、今の天下を記した地図がある。
あの頃とは、何もかもが違う。
秀吉があれほど巨大になることなど分からなかった。
北ノ庄で何が起こるかも。
小牧・長久手で誰がどのように動くのかも。
上杉や北条が、自分の呼びかけにどう応じるのかも。
当然、知るはずがなかった。
何もかもを思い描いていたわけではない。
思い通りにならなかったこともある。
死にかけたこともある。
予定になかった出会いも、決断も、いくつもあった。
それでも。
信長が死んだ直後に下した、一つの判断だけは。
最後まで変わらなかった。
秀吉とは組まない。
秀吉の下には入らない。
そして。
自分の天下取りを阻む最大の存在になったなら――。
倒す。
実際に。
そうなった。
最後に秀吉の本陣へ兵を進めた時。
景継は、本能寺直後に考えたことなど思い出してはいなかった。
目の前の戦を終わらせることだけを考えていた。
だが。
結果だけを見れば。
あの日。
まだ何も始まっていなかった頃に、最も警戒した男は。
今はもう、いない。
「秀吉様……」
景継が呟く。
「やはり、あなたは強かった」
だからこそ。
自分は、あの人と同じ道を歩かなかった。
景継の指が地図の上を北へ動く。
越前。
そこには今も、柴田の名が残っている。
勝家は死んだ。
だが柴田家は消えていない。
そして今。
その柴田家は、林道家の下へ入った。
景継の指が止まる。
しばらく。
そのまま動かなかった。
「……勝家様」
景継が小さく呟く。
秀吉を最大の障害と見た、あの日。
同時に景継は考えていた。
秀吉を倒すためには、誰の力を借りるべきなのか。
その答えとして。
最も有力だったのが柴田勝家。
だが。
景継が勝家を選ぼうと考えた理由は。
それだけではなかった。
今ならば。
その先に浮かんだ考えが、どれほど冷たいものだったのか。
よく分かる。
秀吉を敵として見たことよりも。
自分を信じ。
最後には柴田家そのものを託してくれた男について考えたことの方が。
ずっと。
口にするには、躊躇われるものだった。




