第百八十八話 それぞれの道
小さな城の一室。
信孝と信雄が、地図を挟んで向かい合っていた。
その傍らには景継と家康。
少し離れた場所に官兵衛が控えている。
誰もすぐには口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのは信雄だった。
「まず聞いておきたい」
視線は信孝へ向いている。
「境へ兵を出したのは、お前の命令か」
「違う」
信孝は即答した。
「俺が兵を出したのは、お前の側が先に兵を置いたと聞いたからだ」
「俺も命じていない」
「なら、誰が置いた」
「家臣が勝手に判断した」
「こちらも同じだ」
信孝が吐き捨てる。
信雄の眉が動いた。
「それで三人死んだ」
「こちらにも死者は出ている」
「だから何だ」
「信孝」
「何だ」
二人の声が強くなる。
景継は口を挟まなかった。
家康も同じだった。
まずは言わせる。
互いに何を不満に思っているのか。
境の争いだけが原因ではないことなど、最初から分かっていた。
「お前は最近、景継を頼りすぎではないのか」
やがて信雄が言った。
信孝の目が細くなる。
「それがお前に何の関係がある」
「ある」
「どこに」
「織田の話だからだ」
「景継は林道だ」
「だから言っている!」
信雄が机を叩いた。
「柴田が林道の下へ入った。播磨でもお前は景継を呼んだ。何かあればまた景継だ。このままでは、お前まで林道の下へ入るのではないかと皆が見る!」
「皆ではなく、お前がそう思っているだけだろう」
「同じことだ!」
「どこが同じだ」
信孝も身を乗り出した。
「では俺も聞こう。お前はどうなのだ」
「何がだ」
「徳川だ」
今度は信孝が家康を見る。
「秀吉との戦でも徳川と組んだ。今も何かあれば家康へ相談している。俺が景継を頼れば問題で、お前が家康を頼るのは構わんのか」
「徳川と林道では――」
「何が違う」
信雄の言葉が止まる。
「答えてみろ」
「……」
「俺が景継を頼るのが気に入らぬのなら、お前も家康を頼るな」
「それは別だ」
「何が別なのだ!」
信孝の声が部屋へ響いた。
その瞬間。
「そこまでにしましょう」
景継が初めて口を開いた。
信孝が振り向く。
「景継」
「このままでは、何のために集まったのか分かりません」
「だが――」
「信孝様」
景継がまっすぐ信孝を見る。
「私を頼られたことを、恥じる必要はございません」
信孝が黙る。
景継は続けた。
「ただし、私を頼られていることを理由に信雄様より上になれるわけでもありません」
次に信雄を見る。
「信雄様も同じです」
「俺も?」
「家康様と親しくされることは、何も悪くありません。ですが、それによって信孝様より優位に立てるわけでもない」
信雄の顔が僅かに険しくなる。
その時、家康が口を開いた。
「私も林道殿と同じ考えにございます」
信雄が家康を見る。
「家康」
「徳川が信雄様のお力になることと、織田家の中で信雄様がどのようなお立場にあるかは別に考えるべきでしょう」
「……」
「今日ここへ参ったのも、信孝様と争っていただくためではございません」
家康の声は静かだった。
「争いを止めるためにございます」
信雄は不満そうだったが、それ以上は言わなかった。
景継は机の上の地図を引き寄せる。
「まず、最初の問題を片づけましょう」
指を境へ置く。
「今回争いになった村々についてです」
官兵衛が用意していた書付を景継へ渡した。
「過去の年貢、役人、寺社領、用水、街道の管理まで調べられる範囲で確認しました」
信孝が書付を見る。
「もう調べたのか」
「官兵衛殿が」
信孝が官兵衛を見る。
「早いな」
「播磨よりは近うございますので」
官兵衛は淡々と答えた。
景継が説明を続ける。
「すべてを一方へ渡せば、もう一方に不満が残ります。ですから、以前からどちらの支配が強かったかを村ごとに確認して分ける」
「街道は?」
信雄が尋ねた。
「どちらも使えるようにします」
「関銭は」
「勝手に増やさない。新たに設ける場合は双方で話す」
「兵は?」
「境から下げる」
信孝が景継を見る。
「どれほど」
「常時置く兵は必要最低限に。増やす場合は、先に相手へ理由を知らせる」
「敵が来た時まで知らせるのか」
「外から攻められた時は別です」
「ならよい」
信雄も地図を見る。
「死んだ兵はどうする」
その一言で、部屋が少し静かになった。
景継は答えず、二人を見た。
ここは自分が決めることではない。
信孝もそれを理解したのだろう。
しばらくして口を開いた。
「今回の件で、信雄自身が兵を動かしたわけではないことは認める」
信雄が顔を上げる。
「俺もだ」
「こちらの家臣が勝手に動いた部分もある」
「こちらも同じだ」
「なら、互いに処分する」
信孝が言った。
「それでどうだ」
信雄は少し考えた。
「ああ」
短い返事だった。
完全に納得した顔ではない。
だが、これで境を理由に戦う必要はなくなった。
「では――」
景継が言いかけた時だった。
「まだだ」
信雄が止めた。
「境の話だけなら、それでいい」
信雄は信孝を見る。
「だが、俺が今日ここへ来たのは、それだけではない」
「何だ」
「これからの織田をどうする」
信孝の表情が変わった。
景継も口を閉じる。
やはり来た。
境の村など、きっかけにすぎない。
本当の問題はこちらだった。
「どうするも何もない」
信孝が言う。
「三法師がいる」
「ああ」
「織田家の当主は三法師だ」
「それは俺も認めている」
「なら何が問題だ」
「三法師はまだ幼い」
信雄が答えた。
「誰かが織田を支えねばならん」
「それをお前がやると言うのか」
「お前でもない」
再び空気が張り詰める。
「俺は信長の子だ」
「俺もだ」
「だからこそだ!」
信雄が声を上げる。
「このまま互いに自分こそ織田を支えると言い続ければ、今日と同じことが何度でも起きる!」
信孝は言い返そうとして――止まった。
その言葉だけは否定できなかった。
信雄が続ける。
「俺はお前の下には入らん」
「俺もお前の下へ入る気はない」
「ならば決めておこう」
「何を」
「互いの領地へ手を出さない」
信孝が黙る。
「三法師を当主として立てることは変えない。だが俺とお前のどちらかが、もう一方を従わせて織田を一つにすることもやめる」
「……織田を割るつもりか」
「もう割れている」
信雄の言葉に、信孝の顔が険しくなる。
だが。
誰も否定しなかった。
信長がいた頃の織田家には戻れない。
信忠もいない。
勝家もいない。
秀吉もいない。
信雄には信雄の領地と家臣がいる。
信孝にも信孝の領地と家臣がいる。
三法師という当主をいただきながら、それぞれが巨大な大名として存在している。
形だけ一つだと言い張っても、現実は変わらない。
「……三法師を蔑ろにはしない」
信孝が言った。
「当然だ」
「織田の名も捨てん」
「俺もだ」
「ならば」
信孝は信雄を見た。
「互いの領地には手を出さぬ」
「ああ」
「家臣を引き抜くこともしない」
「よい」
「一方が外敵に攻められた場合は?」
信雄が少し迷う。
景継は黙って二人を見る。
ここも二人で決めるべきだった。
「……助けを求められれば、話をする」
信雄が答えた。
「必ず助けるとは言わんのだな」
「お前も同じだろう」
「まあな」
信孝の口元が僅かに緩んだ。
今日初めてだった。
景継はその様子を見て、ようやく少し肩の力を抜いた。
家康も静かに二人を見ている。
「では、書付にいたしましょう」
官兵衛が口を開いた。
信孝と信雄が同時に官兵衛を見る。
「口約束では、後で家臣が困ります」
「……そうだな」
信孝が頷く。
信雄も異論はなかった。
◇
そこからは早かった。
境の村々については、過去の支配関係を調べた上で整理する。
街道は双方の商人が利用できるようにする。
境に置く兵は減らす。
今回、命令なく兵を動かした者については双方が調べ、処分する。
三法師を織田家当主として扱うことは変えない。
信孝と信雄は互いの領地を侵さない。
相手方の家臣を勝手に引き抜かない。
問題が起きた場合、まず使者を立てる。
それでも解決しなければ直接話す。
書付が出来上がる頃には、外は夕刻になっていた。
信孝が署名する。
信雄も続く。
最後に二人が顔を合わせた。
「これでよいな」
信孝が言う。
「ああ」
「次に兵を置く時は先に言え」
「お前もだ」
「分かっている」
信孝が立ち上がる。
信雄も立った。
握手をするような時代ではない。
抱き合うような関係でもない。
ただ、互いに短く頭を下げた。
それで十分だった。
少なくとも今日。
織田信孝と織田信雄が戦うことは避けられた。
◇
城外へ出ると、信孝方と信雄方の兵がまだ離れて待っていた。
会談の結果が伝えられる。
張り詰めていた空気が、少しずつ緩んでいった。
信雄は家康のもとへ歩く。
「家康」
「はい」
「しばらく領内を整えたい」
「それがよろしいでしょう」
「力を貸せ」
家康は僅かに頭を下げた。
「私でお役に立てることであれば」
「頼む」
短いやり取りだった。
だが景継は、その言葉を少し離れた場所から聞いていた。
一方。
「景継」
信孝が呼ぶ。
「はい」
「少しよいか」
二人は人から離れた。
「今日は助かった」
「私は話す場所を作っただけです」
「それがなければ、俺は兵を出していた」
「信雄様も出されていたかもしれません」
「ああ」
信孝は城外に並ぶ兵を見る。
「それと……播磨のこともある」
「はい」
「俺は美濃も播磨も、まだ十分に治め切れておらん」
「時間が必要でしょう」
「だから」
信孝が景継を見る。
「これからも、力を貸してくれ」
景継は一瞬だけ黙った。
「もちろんです」
「よいのか?」
「困っておられるのでしょう?」
「ああ」
「ならば、お手伝いします」
信孝は安心したように息を吐いた。
「恩に着る」
「大袈裟ですよ」
「俺にとっては大きい」
信孝はそう言うと、自らの兵のもとへ戻っていった。
景継はその背中を見送った。
「殿」
いつの間にか弥兵衛が近くへ来ていた。
「終わりましたな」
「ええ」
「戦にならずに済みました」
「それが一番です」
弥兵衛は反対側を見る。
そこでは信雄が家康と話している。
「信雄様は、家康様を頼られる」
「そうですね」
「信孝様は、殿を頼られる」
景継は答えなかった。
弥兵衛は深い意味もなく続ける。
「なんとも不思議な形になりましたな」
「……ええ」
「少し前までは、皆同じ織田の中におられたというのに」
景継の視線が動く。
信雄。
その隣には家康。
信孝。
こちらへ戻っていく背中。
そして、その間に三法師という織田家当主がいる。
内紛は終わった。
少なくとも、今すぐ信孝と信雄が兵をぶつける理由はなくなった。
それでも。
会談を始める前と、終えた後では何かが変わっていた。
信雄は、以前より徳川を必要とするようになった。
信孝は、以前より林道を必要とするようになった。
誰かが命じたわけではない。
誰かが織田家を二つに割ったわけでもない。
それぞれが自ら選んだ結果だった。
「帰りましょう、弥兵衛」
「はっ」
◇
数日後。
景継は自らの屋敷へ戻った。
信孝と信雄の間で交わされた書付の写しは、すでに手元に届いている。
境の兵も少しずつ引き始めた。
大きな衝突は起きていない。
ひとまず、これでいい。
その夜。
楓が休んだ後も、景継は一人起きていた。
灯りの下。
机の上へ、一枚の大きな地図を広げる。
しばらく眺めた。
中央には林道家。
越前には、勝家から託された柴田家。
美濃と播磨には信孝。
尾張には信雄。
その東には徳川。
さらに東には、縁を結んだ北条。
北には上杉。
西には毛利。
海の向こうには、四国を統一した長宗我部。
景継は地図を見つめたまま、動かなかった。
信雄は家康を頼った。
信孝は自分を頼った。
柴田家は、自分の下へ入る道を選んだ。
北条とは縁を結んだ。
毛利とは一年の時間を得た。
長宗我部とも、今すぐ戦う必要はなくなった。
景継の指が、ゆっくりと地図の上へ伸びる。
だが。
何も言わない。
ただ、今の天下を見つめる。
随分と長い間。
そして。
景継の口が、僅かに開いた。
そこで、夜は更けていった。




