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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第百八十七話 織田の亀裂



 淡路から戻った景継を待っていたのは、信孝からの書状だった。


 信雄が徳川家康との結びつきを強めている。


 そのことについて、一度話がしたい。


 書かれていたのは、それだけではない。


 尾張と美濃の境では、すでに双方の家臣の間に小さな争いが起き始めていた。


 商人の通行。


 年貢米を運ぶ道。


 どちらの支配に属するか曖昧な村。


 以前なら話し合いで済んでいたことが、今では互いへの警戒から大きくなりつつある。


「思ったより早かったですね」


 景継は書状を置いた。


 向かいに座る官兵衛が頷く。


「秀吉様がおられた頃は、共に警戒すべき相手がおりました。勝家様も健在でございました」


「そのお二人が、もういない」


「はい」


 官兵衛の指が地図の上へ伸びる。


「今度は、それぞれが自分の立場を守らねばなりません」


 景継は美濃と尾張を見る。


 信孝。


 信雄。


 二人とも、今すぐ織田家そのものを滅ぼし合いたいわけではないだろう。


 だが、互いを信用していない。


 そこへ新たな問題が加わった。


 信孝の背後には景継がいる。


 信雄の背後には家康がいる。


 本人たちがそう公言していなくとも、周囲からはそう見え始めている。


「殿」


 部屋の外から弥兵衛の声がした。


「入ってください」


「はっ」


 弥兵衛が入り、一通の書状を差し出す。


「美濃より早馬にございます」


「信孝様ですか?」


「はい。すぐにお越しいただきたい、と」


 景継は受け取った。


 読み進めるうちに、表情が変わった。


「何が?」


 官兵衛が尋ねる。


「境で兵が集まり始めています」


「信雄様が?」


「信孝様もです」


 弥兵衛が顔を上げる。


「このままでは、ぶつかりますな」


「させたくありません」


 景継は立ち上がった。


「弥兵衛」


「はっ」


「すぐ出ます」


「兵はいかほど?」


「護衛だけでいいでしょう」


 弥兵衛が僅かに眉を寄せた。


「大丈夫でしょうか」


「大軍を連れて行けば、信雄様には私が信孝様と共に戦うために来たように見えます」


「では、官兵衛殿も?」


 景継は官兵衛を見る。


 官兵衛が頷いた。


「お供いたします」


「お願いします」


 景継は再び地図へ目を落とした。


 秀吉を倒した戦が終わってから、まだそれほど経っていない。


 勝家も死んだ。


 毛利と話し。


 長宗我部とも話した。


 ようやく西へ目を向けられると思った矢先に――。


 今度は織田家が割れようとしていた。


     ◇


 美濃へ到着した景継を、信孝はすぐに迎えた。


「よく来てくれた」


「状況は?」


「まだ戦ってはいない」


 信孝はそう答えたが、その顔には明らかな苛立ちがあった。


「だが、このままなら時間の問題だ」


「詳しく聞かせてください」


 信孝が地図を広げる。


「ここだ」


 尾張と美濃の境。


 信孝が指した場所には、いくつかの村と街道がある。


「もともと境が曖昧な場所ではあった。だが領地が大きく動いてから、互いの役人が自分たちの支配だと言い始めた」


「最初は役人同士の争いだった?」


「ああ」


「それがなぜ兵まで?」


「信雄の家臣が兵を置いた」


「信雄様ご本人の命令ですか?」


「知らん」


 信孝が吐き捨てるように言った。


「だが向こうが兵を置いた以上、こちらだけ何もしないわけにはいかん」


「それで信孝様も兵を?」


「当然だ」


「何人です?」


 信孝が答える。


 まだ大軍ではない。


 だが増やそうと思えば、すぐ増やせる。


 景継は少し考えた。


「減らしてください」


「何?」


「少なくとも、これ以上は増やさないでください」


「景継」


 信孝の顔が険しくなる。


「向こうが増やしたらどうする」


「その時はこちらも考えます」


「それでは遅い」


「では今、先に増やしますか?」


「ああ」


「信雄様も同じことを考えますよ」


 信孝が黙る。


「信孝様が増やす。信雄様も増やす。それを見て信孝様がさらに増やす」


「……」


「最後には、誰も戦を始めるつもりがなかったのに、数千の兵が向かい合うことになります」


 信孝は地図を睨んだ。


「では、俺に引けというのか」


「いいえ」


 景継は首を横に振る。


「話をつけましょう」


「信雄と?」


「はい」


「俺が頭を下げろと?」


「なぜ頭を下げるのです?」


「会談を求めれば、こちらが弱いと思われる」


「私から求めます」


 信孝が景継を見る。


「お前が?」


「ええ」


「信雄が応じると思うか」


「応じていただけるようにします」


「どうやって」


「家康様にもお願いします」


 信孝の表情が変わった。


「家康に?」


「信雄様が家康様を頼られているのであれば、家康様からも止めていただけばいい」


「景継、お前は――」


 信孝が身を乗り出す。


「家康まで、この話に入れるつもりか」


「すでに入っています」


「何?」


「信雄様が家康様を頼られた時点で、もう無関係ではありません」


 信孝はしばらく黙っていた。


 やがて椅子へ深く座り直す。


「……気に入らん」


「分かります」


「だが、戦よりはましか」


「はい」


「分かった」


 信孝は地図から手を離した。


「兵は増やさぬ」


「ありがとうございます」


「ただし、向こうが攻めれば戦うぞ」


「その時は止めません」


 景継は即答した。


「私がお願いしているのは、先に始めないでいただきたいということだけです」


「……分かった」


     ◇


 景継はすぐに信雄へ使者を送った。


 同時に家康にも書状を送る。


 返事を待つ間も、状況は動いた。


 二日後。


 境に近い村で、信雄方の兵と信孝方の兵が衝突した。


 死者が出た。


 数は多くない。


 だが、一人でも死ねば話は変わる。


「殿!」


 報告を受けた弥兵衛が景継の前へ来る。


「信孝様が兵を出されます」


「すでに?」


「はっ。集め始めております」


「行きましょう」


 景継は立ち上がった。


「殿自ら?」


「ここで止めなければ、次に届くのは三人の死では済みません」


 景継は信孝のもとへ急いだ。


 すでに城内は慌ただしい。


 武具を身につけた者たちが行き交い、馬が用意されている。


 信孝も具足姿だった。


「信孝様」


「止めるな、景継」


「何人死にました?」


「こちらが三人。向こうも死んでいる」


「誰の命令で戦ったのです?」


「それを今調べている」


「ならば、まだ出てはいけません」


「俺の兵が殺された!」


 信孝の声が響く。


「黙っていろというのか!」


「違います」


 景継は信孝の正面へ立った。


「誰が始めたのかも分からないまま、信雄様を討ちに行かないでくださいと申し上げています」


「向こうが先に手を出した!」


「それを信雄様が命じたのですか?」


「だから調べていると言っている!」


「ならば、調べてからでいいでしょう!」


 景継の声も強くなった。


 周囲が静まる。


 信孝が景継を睨む。


「……お前は俺の味方ではないのか」


 景継は一瞬黙った。


 そして答えた。


「味方です」


「ならば――」


「だから止めています」


 信孝の言葉が止まった。


「今ここで信雄様と戦えば、勝っても信孝様は傷つきます」


「……」


「負ければ、もっと失う」


 景継は一歩も退かなかった。


「それに」


 声を落とす。


「三法師様がおられます」


 信孝の顔が僅かに動いた。


「織田家の当主は三法師様です」


「ああ」


「その下で信長様のご子息同士が兵を出し、互いを討つ」


「……」


「それを天下に見せたいですか?」


 信孝は答えなかった。


 拳が強く握られる。


 しばらくして。


「……兵を戻せ」


 信孝が言った。


 家臣が顔を上げる。


「殿」


「聞こえなかったか」


 信孝が低く言う。


「兵を戻せ。だが備えは解くな」


「はっ!」


 家臣たちが動き始める。


 景継は息を吐いた。


 信孝がこちらを見る。


「これでよいか」


「ありがとうございます」


「礼を言われると腹が立つ」


「では、次から控えます」


「今さら遅い」


 信孝は具足の紐へ手をかけた。


「景継」


「はい」


「会談をまとめろ」


「必ず」


「信雄と話をする」


 景継が頷く。


 その時。


 外から弥兵衛が駆け込んできた。


「殿!」


「今度は何です?」


「徳川様より使者が参っております!」


 景継と信孝が同時に振り向いた。


     ◇


 家康からの返事は早かった。


 信雄も全面的な戦を望んでいない。


 境の衝突については、信雄本人の命令ではない。


 家康からも信雄へ兵を増やさぬよう進言する。


 そして――。


 信孝と信雄が望むのであれば、会談の場を設けることにも異存はない。


 書状を読み終えた信孝が鼻を鳴らす。


「ずいぶん話が早いな」


「家康様も、ここで織田家が割れることは望んでおられないのでしょう」


 景継が答える。


 官兵衛は少し考えてから口を開いた。


「少なくとも、今ここで争う利はないと見ておられるのでしょうな」


 信孝が官兵衛を見る。


「同じことではないのか」


「似ておりますが、少し違います」


「どう違う」


「戦そのものを嫌うのか。今は戦う時ではないと考えるのか。その違いにございます」


 官兵衛が一度言葉を切った。


「後者ならば、状況が変われば判断も変わります」


 景継は書状をもう一度見る。


 家康は信雄を止めた。


 自分は信孝を止めた。


 まずはそれでいい。


「会談場所を決めましょう」


 景継が言った。


「どこにする」


「どちらかの本城では、もう一方が警戒するでしょう」


「お前の城か?」


「それでは信雄様が嫌がるかもしれません」


「家康のところも同じか」


「ええ」


 官兵衛が地図を見る。


 やがて、尾張と美濃の境近くを指した。


「この辺りに、どちらへも深く与していない国人がおります」


「そこを使うのか?」


「その者が持つ小城を、一日だけ借りてはいかがでしょう」


 信孝が地図へ目を落とす。


「城か」


「はい。双方の兵は城外へ置きます。城内へ入る供の数も揃える。これならば、どちらか一方の懐へ入る形にはなりませぬ」


「なるほどな」


 信孝が腕を組んだ。


「だが、俺と信雄だけでは駄目なのか」


 景継は答えた。


「それで済むのであれば、その方がよいと思います」


「なら――」


「ですが、今の信雄様は家康様を頼られている」


 信孝が黙る。


「そして信孝様は、私を呼ばれた」


 景継は静かに続けた。


「もう、お二人だけで話せば済むところを越え始めています」


     ◇


 同じ頃。


 信雄もまた、家康と向かい合っていた。


「信孝が兵を止めた?」


「林道殿が止められたようにございます」


「……また景継か」


 信雄が小さく呟く。


 家康は何も言わなかった。


「家康」


「はい」


「俺は間違っているか?」


「何についてでしょう」


「景継を警戒していることだ」


 家康は少し考える。


「警戒すること自体は、間違いではないかと」


「やはりそうか」


「ですが」


 家康が続ける。


「警戒と敵対は違います」


 信雄が家康を見る。


「林道殿が大きくなられた。それを見て備えるのは当然でしょう。だからといって、今すぐ敵と決める必要もございません」


「だが信孝は景継を頼っている」


「はい」


「このままでは信孝まで景継の下へ入るかもしれん」


「それを決めるのは信孝様です」


「分かっている」


 信雄が低く答える。


「分かっているから、気になるのだ」


 家康は静かに信雄を見る。


「ならばなおさら、信雄様は信雄様のお立場を固められるべきかと」


「……俺の立場を」


「はい」


 尾張の大部分。


 伊勢。


 伊賀。


 そして新たに得た河内、和泉。


 信雄の持つものは決して小さくない。


「信孝様が景継殿を頼られるからといって、信雄様まで慌てて動けば、かえってご自身の足元が乱れます」


「では、お前は何をしてくれる」


 家康は信雄を見る。


「必要な時には、お力になります」


「信じてよいのか」


「これまでも共に秀吉と戦いました」


 家康はそれ以上のことを言わなかった。


 信雄はしばらく考えていたが、やがて頷いた。


「分かった」


「では、会談へ?」


「ああ」


 信雄は立ち上がる。


「信孝と話をつける」


 家康も立った。


「それがよろしいかと」


     ◇


 数日後。


 尾張と美濃の境に近い、小さな城。


 普段ならば数十人ほどの兵が詰めるだけの場所だった。


 だが、この日ばかりは空気が違う。


 城外には信孝方と信雄方の兵が、互いに距離を取って待機している。


 数はあらかじめ揃えられていた。


 林道家と徳川家の兵も同様に城外で待つ。


 城内へ入るのは、ごく限られた者だけ。


 景継は先に城へ入り、弥兵衛と共に城壁の上から外を見ていた。


 少し離れた場所では、官兵衛が会談の準備を確認している。


「随分と物々しくなりましたな」


 弥兵衛が言った。


「戦を止めるための場所なのですけどね」


「下では互いに槍を持って睨み合っております」


「だからこそ、今日で終わらせます」


 景継は城外へ目を向けた。


 先に美濃側から一団が現れる。


「信孝様です」


「ええ」


 信孝が到着した。


 兵を城外に残し、数人の供だけを連れて門をくぐる。


 間もなく。


 反対側の道にも馬影が見えた。


「信雄様も来られました」


 その一団の中には家康の姿もある。


 景継は城壁を下りた。


 中庭へ出ると、ちょうど家康が門をくぐってくるところだった。


 家康も景継に気づく。


「林道殿」


「家康様」


 互いに頭を下げる。


「ご無沙汰しております」


「西へ行かれていたと聞いております」


「ええ。戻って早々、このようなことになりました」


「お互い、なかなか休ませてはもらえませぬな」


「本当に」


 短い言葉だけを交わす。


 それ以上は話さなかった。


 今日の主役は二人ではない。


 やがて信孝が中庭へ入ってくる。


 ほぼ同時に、信雄も姿を見せた。


 二人の足が止まった。


「……信雄」


「信孝」


 呼び方だけなら兄弟だった。


 だが、その間にあるものは以前とは違う。


「中へ参りましょう」


 景継が言った。


 信孝が先に歩き出す。


 信雄も続いた。


 城内の一室には、大きな机が置かれている。


 その上には問題となっている尾張と美濃の境を記した地図。


 信孝が座る。


 その向かいに信雄。


 景継は信孝に近い側へ。


 家康は信雄に近い側へ腰を下ろした。


 官兵衛は景継の後方。


 弥兵衛は部屋の外に控える。


 信孝が景継を頼り。


 信雄が家康を頼る。


 まだ誰も、その形を正式に決めたわけではない。


 だが、こうして席に着いてみれば。


 それは誰の目にも分かるほど、はっきりと現れていた。


 景継が地図へ手を伸ばす。


「では――始めましょう」


 織田家の内紛を終わらせるための会談。


 ここで決めなければならないのは、境の村の扱いだけではない。


 信長と信忠を失い。


 秀吉を失い。


 勝家までいなくなった今。


 残された織田家が、これからどのような形で生き残っていくのか。


 その答えもまた――。


 この小さな城で、決まろうとしていた。



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