第百八十六話 四国統一
信雄と家康が会談を行ったことを景継が知ったのは、それからしばらく後のことだった。
「信雄様が、家康様と?」
「はっ」
報告を持ってきた弥兵衛が頷く。
「詳しい話までは分かりませぬ。ただ、信雄様が三河へ赴き、家康様と直接お会いになったことは間違いないようです」
「そうですか」
景継は驚かなかった。
むしろ、納得した。
先日の信雄は明らかに景継を警戒していた。
柴田家が林道家の下へ入った。
信孝は播磨の統治で景継を頼った。
北条とは婚姻を通じて結ばれている。
それらを見れば、信雄が自らの立場に不安を覚えるのも当然だった。
「殿」
「はい」
「家康様が信雄様と手を結ばれれば、厄介では?」
「すでに近しい関係です。今さら驚くことではありませんよ」
「ですが、以前より深く結びつく可能性はございます」
「ええ」
景継は頷いた。
「だからといって、こちらから何かする必要もありません」
「放っておかれるので?」
「信雄様が誰を頼るかは、信雄様が決めることです」
弥兵衛は少し考えた後、頭を下げた。
「承知いたしました」
「ただ、動きは知らせてください」
「はっ」
弥兵衛が退出する。
入れ替わるように、官兵衛が入ってきた。
「林道様」
「今日は皆さん、次々来られますね」
「お忙しいところ申し訳ございません」
「今度は何でしょう」
「淡路より、急ぎの知らせにございます」
景継の表情が変わる。
「長宗我部ですか」
「はい」
官兵衛が一通の書状を差し出した。
景継は受け取り、目を通していく。
そして――。
「……ついにですか」
「そのようでございます」
四国。
土佐から始まった長宗我部元親の勢力は、阿波、讃岐、伊予へと広がり続けていた。
残っていた勢力も次々と屈し、あるいは従った。
そして今。
四国のほぼ全域が、長宗我部の支配下に入った。
長宗我部元親――。
四国統一。
細かな抵抗や、完全には従っていない土地が消えたわけではない。
それでも、天下の誰もが長宗我部を四国の主と見るだけの状況は整った。
「早かったですね」
景継が言う。
「元親殿がですか?」
「ええ。少し前に使者と話した時には、まだ僅かに残っていると聞いていました」
「最後まで長く抵抗できるほどの勢力が、すでに残っていなかったのでございましょう」
官兵衛が地図を広げる。
景継も四国を見る。
以前とは意味が違う。
土佐の長宗我部ではない。
四国をほぼ一つにまとめた長宗我部である。
「これで、元親殿との約束も動きますね」
「はい」
以前、長宗我部の使者は言った。
四国が定まった後、元親本人が景継と会いたい。
場所は淡路でも構わない、と。
官兵衛がもう一通の書状を取り出した。
「そして、こちらが長宗我部家より届いております」
「もう?」
「四国の統一が定まるのを待って出したのでございましょう」
景継が書状を開く。
内容は簡潔だった。
以前の約束通り、直接会いたい。
場所は淡路。
日取りはこちらと相談したい。
「随分と早く次へ動かれますね」
「四国を取って終わるお方ではない、ということでしょうか」
「それを確かめるためにも、お会いしましょう」
景継は書状を置いた。
「淡路へ行きます」
◇
数日後。
景継は淡路へ向かった。
同行するのは官兵衛。
そして弥兵衛。
大軍は連れていない。
元親もまた、限られた供回りだけで淡路へ渡ることになっている。
船上から海を眺めていた弥兵衛が、四国の方向を見る。
「あの向こうが、ほとんど一人のものになったのですな」
「正確には長宗我部家のものです」
「分かっております」
弥兵衛が景継を見る。
「ですが、元親という方がおられなければ、こうはなっておらぬのでしょう?」
「おそらく」
官兵衛が答えた。
「土佐一国から、四国のほぼ全域まで。並の大名にできることではございません」
「強いのですか?」
弥兵衛が尋ねる。
「間違いなく」
「官兵衛殿がそこまで言いますか」
「四国を見れば分かりましょう」
弥兵衛が再び海の向こうを見る。
「殿」
「はい」
「戦うことになると思われますか?」
景継は少し考えた。
「分かりません」
「またそれですか」
「まだ会ってもいませんから」
「では、会ってから決める?」
「元親殿も、同じつもりでしょう」
互いに相手を見る。
林道景継がどこまで西へ進むのか。
長宗我部元親が四国の次に何を望むのか。
それを確かめるための会談だった。
◇
淡路。
景継が会談場所へ到着した時には、すでに海の向こうに船影が見えていた。
「来られましたな」
官兵衛が言う。
「ええ」
景継は海を眺めた。
やがて船が港へ入る。
降りてきた男たちの中央に、一人の武将がいた。
景継より若い。
だが、その歩き方には迷いがない。
供の者たちが自然とその男を中心に動いている。
「あれが……」
弥兵衛が呟く。
「長宗我部元親殿でしょうね」
景継は答えた。
元親もこちらに気づいた。
視線が合う。
互いに歩み寄る。
「林道景継殿か」
「はい」
景継が頭を下げる。
「初めてお目にかかります。林道景継にございます」
「長宗我部元親だ」
元親は景継を上から下まで一度見る。
「もっと大きな男かと思っていた」
弥兵衛の眉が僅かに動いた。
景継は気にしなかった。
「申し訳ありません。これ以上はなかなか」
元親が一瞬黙る。
そして笑った。
「なるほど」
「何でしょう」
「秀吉を討った男だ。もっと恐ろしい顔をしているのかと思っていた」
「顔で勝ったわけではありませんから」
「それはそうだ」
元親は景継の後ろを見る。
「そちらが黒田官兵衛か」
「黒田孝高にございます」
「噂は四国まで届いている」
「よい噂であればよいのですが」
「さてな」
元親はさらに弥兵衛を見る。
「そちらは?」
弥兵衛が一歩前へ出た。
「弥兵衛にございます。林道様にお仕えしております」
「そうか」
元親は短く頷いた。
「では、話をしよう」
◇
席につくと、元親は回りくどい挨拶をほとんどしなかった。
「四国は取った」
最初の言葉が、それだった。
景継は元親を見る。
「おめでとうございます」
「まだ細かな始末は残っている。だが、もう大勢は変わらん」
「ええ。そのように聞いております」
「だから、お主に会いに来た」
「私に?」
「以前、こちらの使者に言ったそうだな」
元親が景継を見る。
「長宗我部が四国をまとめるだけなら、邪魔はしないと」
「言いました」
「約束を守ったな」
「まだ何もしていないだけですよ」
「それでもだ」
元親は少し笑った。
「中央の者は、四国を自分たちの都合で分けようとするものだと思っていた」
「私は四国に領地を持っていませんから」
「淡路を持っている」
「淡路は四国ではないでしょう」
「近いぞ」
「近いですね」
元親が景継を見る。
「だからこそ、聞いておきたい」
「どうぞ」
「四国を取った俺に、次は何を求める?」
「何も」
景継は答えた。
元親の眉が動く。
「何も?」
「今のところは」
「俺に従えとも言わぬ?」
「言いません」
「天下を狙っているのであろう」
「はい」
「ならば、四国を一つにした俺を放っておくのか」
「元親殿が私を攻めないのであれば」
元親は景継を見つめた。
「随分と余裕があるな」
「ありませんよ」
「ではなぜだ」
「毛利とも話をしたばかりです」
景継は答えた。
「その直後に元親殿へ喧嘩を売るほど、私は戦が好きではありません」
「毛利と何を決めた?」
「一年、互いを直接攻めないことになりました」
元親の目が僅かに細くなる。
ここで初めて、長宗我部側へ具体的な内容が伝わった。
「一年か」
「はい」
「ならば、その一年で俺をどうにかするつもりか?」
「そのようなつもりなら、ご本人に言いませんよ」
元親が笑う。
「確かにな」
景継も元親を見る。
「では、こちらからも聞いてよろしいですか?」
「言え」
「四国を取りました」
「ああ」
「次は、どこを取られるおつもりです?」
元親の笑みが消えた。
官兵衛も黙って元親を見る。
少し離れた場所に控える弥兵衛も動かない。
「俺が次も戦をすると決めつけるのか」
「四国を統一された直後に、わざわざ私に会いに来られた方ですから」
「お主が淡路を持っているからだ」
「それだけですか?」
元親は答えなかった。
景継も急かさない。
やがて元親が口を開く。
「一つだけ、はっきりさせておく」
「はい」
「四国を取ったからといって、中央の誰かに頭を下げるつもりはない」
「分かりました」
「お主が天下を取ったとしてもだ」
弥兵衛が元親を見る。
景継は表情を変えなかった。
「まだ取っておりませんよ」
「取った後の話だ」
「その時になったら、もう一度話しましょう」
「俺が断ったら?」
「それも、その時に考えます」
元親が目を細める。
「お主、本当にそればかりだな」
「まだ起きてもいないことで戦を始めても仕方ありませんから」
「なら、今決められることだけ決めるか」
「そうしましょう」
二人の間に地図が広げられた。
淡路。
四国。
そして瀬戸内海。
元親が指を置く。
「淡路には手を出さん」
「ありがとうございます」
「ただし、四国から出る船を林道が妨げることも認めん」
「商いの船なら問題ありません」
「兵を乗せた船なら?」
「行き先によります」
「毛利領なら?」
景継は元親を見る。
「それは毛利と長宗我部の話でしょう」
「林道は動かぬ?」
「私との約定を害さない限りは」
「では、播磨なら?」
「止めます」
即答だった。
「淡路なら?」
「沈めます」
元親の口元が上がる。
「分かりやすい」
「その方がよいでしょう」
「では、こちらも同じだ」
元親の指が四国へ戻る。
「林道の船が四国へ兵を運べば、俺も止める」
「構いません」
「話が早いな」
官兵衛が二人のやり取りを聞きながら、必要な部分を書き留めていく。
細かな条件はまだ残る。
だが、大筋は見えた。
林道は長宗我部の四国支配へ介入しない。
長宗我部は淡路へ手を出さない。
海上で互いの商いを妨げない。
今すぐ、両家が戦う理由を作らない。
それで十分だった。
◇
会談が終わりに近づいた頃。
元親が景継へ尋ねた。
「景継殿」
「はい」
「毛利と俺。その両方と戦うことになっても、天下を狙うのか?」
景継は少しだけ考えた。
「必要なら」
「勝てると思っている?」
「分かりません」
「それでもやる?」
「天下を取ると決めましたので」
元親はしばらく景継を見た。
やがて立ち上がる。
「ならば、俺も四国を守る」
「ええ」
「いつか敵になるかもしれんな」
「その時までは、敵にならなければよいでしょう」
元親が笑った。
「気に入った」
「ありがとうございます」
「褒めておらん」
「そうですか」
景継も立ち上がった。
四国を統一した男と、天下を目指す男。
どちらも相手へ頭を下げるつもりはない。
それでも今は、戦う必要もなかった。
元親はその日のうちに四国へ戻った。
◇
元親を見送った後。
景継は淡路の高台から海を眺めていた。
隣には弥兵衛がいる。
「すごい方でしたな」
「ええ」
「戦いたくはありません」
「私もです」
「毛利とも同じことを言われておりませんでしたか?」
「強い相手とは、できるだけ戦いたくないものです」
弥兵衛は海を見る。
「ですが殿」
「何です?」
「増えましたな」
「何が?」
「殿の周りにいる、大きな方々が」
景継は少し黙った。
毛利。
長宗我部。
北条。
上杉。
徳川。
信孝。
信雄。
そして、林道家の下へ入る柴田家。
「……そうですね」
楓にも、似たようなことを言われたばかりだった。
随分と増えた。
人も。
土地も。
繋がりも。
景継は海の向こうを見つめた。
その時だった。
「殿!」
後ろから家臣が駆けてくる。
「信孝様より、急ぎの書状にございます!」
「信孝様から?」
景継が受け取る。
封を切り、目を通した。
内容は短い。
信雄が徳川との結びつきを強めている。
そのことについて、一度景継と話したい。
景継は読み終えると、しばらく書状を見つめていた。
「何かございましたか?」
弥兵衛が尋ねる。
「信雄様が、家康様へ近づいていることを信孝様も気にされているようです」
「また信孝様からご相談ですか」
「ええ」
弥兵衛は何気なく言った。
「信孝様も、随分と殿を頼られるようになりましたな」
景継の指が止まった。
その言葉に、何かを返そうとして――やめる。
「殿?」
「……いえ」
景継は書状を畳んだ。
「戻りましょう」
「はっ」
歩き出した景継の顔を、弥兵衛は見ることができなかった。
信孝は、自分を頼っている。
信雄は、家康へ近づいている。
柴田家は、すでに自分の下へ入った。
北条とは縁を結んだ。
西では毛利と一年の時間を得た。
南では長宗我部との当面の衝突を避けた。
景継は何も言わず歩き続けた。
かつて頭の中で描いたものと、今の天下の形。
その二つが‥‥。
少しずつ、重なり始めていた。




