第百八十五話 帰還
播磨を発ってから数日。
景継はようやく、自らの領地へ戻ってきた。
「殿」
馬を並べていた弥兵衛が、前方を指す。
「見えてまいりました」
「ええ」
見慣れた景色だった。
播磨へ向かってから、それほど長い月日が過ぎたわけではない。
それでも景継には、随分と久しぶりに戻ってきたように感じられた。
秀吉との戦。
勝家の死。
柴田家の行く末。
播磨。
毛利。
そして長宗我部。
立て続けに物事が起こり、落ち着いて自領を見る時間すらほとんどなかった。
「やっと帰ってこられましたな」
弥兵衛が言った。
「弥兵衛も疲れましたか?」
「私は殿についていただけですから」
「それを疲れたと言うのでは?」
「そうとも申します」
景継が少し笑う。
弥兵衛は景継がまだ何者でもなかった頃から、長く傍にいる。
官兵衛が加わってからは、政や策について話す相手が増えた。
それでも景継が軍を動かせば、当然のように弥兵衛が近くにいる。
「殿」
「はい」
「一つだけ申し上げても?」
「何でしょう」
「しばらくは、どこにも行かれぬ方がよろしいかと」
「なぜです?」
「奥方様がお待ちです」
「……やはり、怒っていますかね」
「私に聞かれても困ります」
弥兵衛は前を向いたままだった。
「ですが、身重の奥方様を残して長く留守にされたのは殿です」
「播磨へ行く必要がありましたから」
「それを私ではなく、奥方様へお話しください」
「弥兵衛」
「はい」
「一緒に来ません?」
「嫌でございます」
即答だった。
「早いですね」
「戦場ならお供いたします」
「こちらの方が怖いと?」
「少なくとも、私が戦う相手ではございません」
景継は小さく息を吐いた。
その少し後ろでは、官兵衛が二人の会話を聞きながら馬を進めていた。
「官兵衛殿」
「はい」
「官兵衛殿は来てくださいます?」
「私は戻りましたら、播磨で集めた書付を整理せねばなりませぬ」
「皆さん冷たいですね」
「林道様ご自身のお家のことでございますので」
逃げ道はなさそうだった。
◇
屋敷へ戻った景継を、楓は静かに迎えた。
「お帰りなさいませ」
「……ただいま戻りました」
景継は少し身構えた。
だが、楓は怒っている様子を見せない。
「随分と長いお出かけでしたね」
「申し訳ありません」
「怒ってはおりませんよ」
「まだ何も聞いていませんが」
「お顔に書いてあります」
景継は思わず自分の顔へ手をやった。
楓が笑う。
「本当に怒っておりません。播磨で大切なお仕事をされていたのでしょう?」
「ええ」
「ならば、仕方ありません」
楓はそう言ってから、自分の腹へ手を添えた。
「この子にも、父上は忙しい方なのだと教えておきました」
「もう聞こえるのですか?」
「知りません」
「では、私からも話しておきましょう」
「何をです?」
「父は遊び歩いていたわけではない、と」
「それは生まれてからご自分で弁明してください」
景継は楓の前へ座った。
そして、少し迷ってから尋ねる。
「触れても?」
「どうぞ」
楓が微笑む。
景継はそっと腹へ手を置いた。
まだ大きく動くわけではない。
それでも、この中に命がある。
自分と楓の子。
「……不思議ですね」
「そうですか?」
「はい」
景継は手を置いたまま答えた。
「自分の子が生まれるというのは、もっと分かりやすく嬉しいものだと思っていました」
「嬉しくないのですか?」
「嬉しいですよ」
景継はすぐに答えた。
「ただ、それ以上に……怖い」
楓が景継を見る。
「この子が生まれれば、私が守らなければならないものが、また増えます」
「一人で守るおつもりですか?」
「え?」
「私もおります」
楓は自分の腹へ置かれた景継の手に、自らの手を重ねた。
「二人の子なのでしょう?」
「……そうですね」
「それに」
楓が少し笑う。
「林道家には、景継様一人しかいないわけでもありません」
景継の脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。
弥兵衛。
家臣たち。
そして今では官兵衛や、林道家の下へ入ることを決めた者たちもいる。
「随分と増えました」
「何がです?」
「私の周りにいる人です」
「よいことでは?」
「……ええ」
景継はそう答えた。
だが、その言葉が妙に胸に残った。
増えた。
本当に、随分と増えた。
◇
景継が帰還した翌日。
早くも仕事は始まった。
留守中の報告を受け、領内の収支を確認し、柴田家との今後についても詰めなければならない。
さらに淡路の守りについても指示を出した。
長宗我部元親が四国をほぼ手中に収めている以上、淡路をこれまでと同じ状態にはしておけない。
「弥兵衛」
「はっ」
「淡路へ送る兵について、今の配置から無理なく動かせる数を調べてください」
「承知いたしました」
「ただし、増やしすぎないように」
「長宗我部を刺激せぬためですか」
「それもあります」
景継は頷く。
「守る姿勢は見せる。ただ、今すぐ戦うつもりだと思われるほどにはしない」
「では、港の方は?」
「そちらは進めましょう。兵糧も増やしておきたい」
「はっ」
弥兵衛が退出する。
入れ替わるように官兵衛が入ってきた。
「林道様」
「何かありました?」
「信雄様との会談の日取りが決まりました」
「早いですね」
「向こうも急いでおられるのでしょう」
「分かりました」
景継は机の上に置かれた書状を見る。
織田信雄。
播磨へいる間に届いた面会の申し入れ。
その理由は、おおよそ想像できる。
「信孝様のことでしょうね」
「おそらく」
「柴田家のことも」
「それもございましょう」
景継は少し考えた。
「会いましょう」
「承知いたしました」
◇
数日後。
景継は信雄と向かい合っていた。
大勢を交えた評定ではない。
互いに必要最低限の者だけを連れた、小さな会談だった。
弥兵衛は景継の少し後ろに控えている。
官兵衛はこの場にはいない。
信雄が話したいのは、西国の情勢でも毛利でもない。
景継自身のことだった。
「久しいな、景継」
「はい」
「播磨から戻ったばかりだと聞いた」
「数日前に」
「随分と信孝を助けたそうだな」
やはりそこから来た。
「頼まれましたので」
「それだけか?」
「それだけ、とは?」
信雄は少し黙った。
そして、遠回しに探るのをやめた。
「景継」
「はい」
「信孝をどうするつもりだ」
「どうする、とは?」
「お前の下へ入れるつもりなのかと聞いている」
景継は信雄を見た。
「そのような話はしておりません」
「今は、だろう」
「今後も、こちらから求めるつもりはありません」
「本当か?」
「はい」
信雄は景継の顔をじっと見ている。
「では、柴田はどうなのだ」
「勝家様から託されました」
「それは知っている」
信雄の声が少し強くなる。
「勝家が死に、柴田はお前の下へ入ることになった」
「はい」
「信孝は播磨を治められず、お前を呼んだ」
「それも事実です」
「北条とは縁を結んだ」
「はい」
「秀吉を倒してから、まだそれほど経っていない」
信雄は一度言葉を切った。
「なのに、気づけばお前の周りに人も土地も集まっている」
景継は何も言わなかった。
否定できない。
信雄の目に、僅かな警戒が浮かぶ。
「次は織田か?」
弥兵衛が僅かに顔を上げた。
景継は動かなかった。
「織田家まで、お前のものにするつもりなのか」
「信雄様」
「何だ」
「私は以前、お話ししたはずです」
景継は静かに答える。
「織田家を奪って天下を取るつもりはない、と」
「覚えている」
「その考えは変わっておりません」
「では、信孝にも手を出さない?」
「信孝様は物ではありません」
信雄が黙る。
「私が手を出す、出さないと決めることではないでしょう」
「ならば、もし信孝がお前の下へ入りたいと言ったら?」
景継はすぐには答えなかった。
信雄がそこを見逃さない。
「答えられぬか」
「まだ起きていないことですので」
「だが、起きるかもしれん」
「その時に考えます」
信雄の表情は晴れなかった。
「……やはり安心はできんな」
「申し訳ありません」
「謝ってほしいわけではない」
信雄は息を吐いた。
「俺はな、景継。お前と戦いたいわけではない」
「私もです」
「だが、お前が大きくなりすぎれば話は変わる」
景継は信雄を見る。
「それは私だけではないでしょう」
「何?」
「信雄様が今より遥かに大きな力を持たれれば、私も考えます」
「俺を警戒すると?」
「当然です」
景継は淡々と答えた。
「大きな力を持つ者同士が、何も考えずに仲良くしていられるほど、今の世は穏やかではありません」
信雄はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「お前と話すと、安心したいのか警戒したいのか分からなくなる」
「私としては、話し合えるうちは話し合いたいと思っています」
「……そうか」
信雄が立ち上がった。
「今日はそれだけ聞ければよい」
景継も立つ。
「また何かあれば、お話ししましょう」
「そうだな」
信雄は出口へ向かいかけ――足を止めた。
「景継」
「はい」
「一つだけ、覚えておいてくれ」
信雄が振り返る。
「織田は、まだ終わっておらん」
景継は静かに頭を下げた。
「承知しております」
◇
信雄が去った後。
景継も弥兵衛と共に帰路についた。
しばらく進んだところで、弥兵衛が口を開く。
「殿」
「何です?」
「よろしかったので?」
「何がでしょう」
「信雄様に、あのようなお答えで」
「嘘を言うよりはよいでしょう」
「織田家を奪うつもりはない、と?」
「ええ」
「では、本当にそのおつもりはないので?」
景継は馬上から弥兵衛を見る。
「ありませんよ」
「そうですか」
「何です、その顔は」
「いえ」
弥兵衛は前を向いた。
「殿の考えることは、昔から私には難しいので」
「そんなに難しいことは考えていません」
「それを信じてよいものか」
景継は答えなかった。
ただ、僅かに視線を遠くへ向けた。
織田家を奪うつもりはない。
その言葉に、嘘はなかった。
少なくとも――。
自ら手を伸ばし、力ずくで奪い取るつもりは。
◇
その数日後。
三河では、別の会談が始まろうとしていた。
徳川家康の前に座ったのは、織田信雄。
「お久しゅうございます、信雄様」
「ああ」
家康が頭を下げる。
「本日は、どのようなお話で?」
信雄は少し迷った後、口を開いた。
「景継と会ってきた」
家康の目が、僅かに動いた。
「林道殿と?」
「ああ」
「何と申されておりました?」
「織田家を奪うつもりはないそうだ」
家康は黙って続きを待った。
「だが」
信雄の表情は晴れない。
「俺には、どうしても安心できん」
「なぜでしょう」
「柴田が景継の下へ入った。信孝も景継を頼っている。北条とは縁戚だ。今度は毛利とまで直接話をしている」
家康は一つ一つ聞いていく。
「俺が考えすぎなのか?」
信雄が尋ねた。
家康は少し考えた。
「林道殿が織田家を奪うつもりはないという言葉」
「ああ」
「おそらく、本心でしょう」
信雄が顔を上げる。
「ならば――」
「ですが」
家康が続けた。
「それと、信雄様が安心してよいかどうかは、別の話にございます」
信雄が黙る。
「林道殿が何をするかだけを考えていても仕方がございません」
「では、どうしろと?」
「信雄様ご自身が、強くなられればよい」
「俺が?」
「はい」
家康は静かに頷いた。
「領国を整え、家臣をまとめ、ご自身の力を確かなものにする。そうすれば林道殿がどれほど大きくなられようと、必要以上に恐れることはございません」
「簡単に言うな」
「簡単ではございません」
家康は即座に答えた。
「ですから、必要であれば徳川もお力になります」
信雄が家康を見る。
「徳川が?」
「これまでにも共に戦っております。今さら不思議なことでもありますまい」
信雄は黙って考え込んだ。
やがて、ゆっくりと頷く。
「……分かった」
家康は頭を下げた。
信孝が景継を頼り始める一方で。
信雄もまた、自らの立場を守るために家康へ近づいていく。
まだ誰も争ってはいない。
だが、織田家を挟んで二つの大きな力が、静かに形を持ち始めていた。




