第百八十三話 毛利
数日後。
景継と官兵衛は、毛利との会談のため播磨西部へ向かった。
双方が大軍を動かせば、それだけで周囲を刺激する。
そのため連れてきたのは、護衛を務める少数の兵だけだった。
会談の場所として選ばれたのは、いずれの大城でもない。
毛利側と林道側、双方が兵を置かずに済む場所にある寺である。
寺へ近づくにつれ、官兵衛の口数が減っていった。
「官兵衛殿」
「はい」
「緊張されています?」
「しておりますよ」
官兵衛は前を向いたまま答えた。
「毛利の中枢が三人揃っているのでございます。緊張せぬ方がおかしいでしょう」
「そう聞くと、私まで緊張してきました」
「今からですか」
「先ほどまでは、あまり考えないようにしていました」
「それはよい方法ですな」
「官兵衛殿も試されては?」
「もう遅うございます」
二人はそれ以上話さなかった。
寺の門が見えてくる。
すでに毛利側は到着していた。
◇
案内された部屋へ入った瞬間、景継は自然と姿勢を正した。
四人の男が待っている。
中央に座るのは毛利輝元。
その左右には吉川元春と小早川隆景。
そして少し後ろに、安国寺恵瓊。
恵瓊とはすでに何度か顔を合わせた。
だが、残る三人とは違う。
景継は静かに頭を下げた。
「林道景継にございます」
「毛利輝元だ」
輝元が応じる。
「ようやく会えたな」
「私も、お会いしたいと思っておりました」
「本当か?」
「ええ」
「毛利と戦うために?」
いきなりだった。
景継は一瞬だけ輝元を見る。
その隣で、元春がじっとこちらを見ていた。
隆景は表情をほとんど変えない。
恵瓊だけが僅かに口元を緩めている。
「それを決めるために来ました」
景継が答えた。
輝元の眉が動く。
「戦わぬとは言わぬのだな」
「言えません」
「なぜだ」
「先のことは分からないからです」
景継は続ける。
「今ここで、毛利とは決して戦わないと約束したところで、互いの領地や利害がぶつかれば意味を失います」
「ならば、約束など必要ないと?」
「逆です」
景継は首を振った。
「守れる約束をすればよいのです」
そこで隆景が初めて口を開いた。
「半年の取り決めのように、ですかな」
「はい」
景継が隆景を見る。
声は穏やかだった。
だが、その目は景継からほとんど離れない。
「半年の間、毛利は播磨を乱さない。こちらも毛利へ兵を向けない」
「その半年が終われば?」
「改めて話しましょう」
「その頃には、林道殿の兵がさらに西へ近づいているかもしれませぬ」
「毛利の兵が東へ近づいているかもしれません」
隆景は少しだけ目を細めた。
「なるほど」
それだけだった。
だが景継には、今の短いやり取りだけでも分かる。
この男は、こちらが何を言うかだけを聞いているのではない。
何を言わなかったかまで見ている。
「一つ聞きたい」
今度は元春だった。
「はい」
「お主は、何が欲しい」
景継は元春を見る。
「随分と大きな問いですね」
「秀吉を倒した」
「はい」
「勝家亡き後、柴田はお主の下へ入るという」
「柴田家を残した上で、林道家の下へ入っていただきます」
「北条とは縁を結び、中央にも広い領地を持った」
元春の声には、隆景とは違う圧があった。
「それで今度は播磨だ」
「播磨は信孝様の領地です」
「分かっておる」
元春は即座に返した。
「だが、その信孝が困れば、お主が来る」
景継は答えなかった。
「なら聞いておきたい」
元春が身体を僅かに前へ出す。
「どこで止まる」
部屋が静かになった。
景継は少し考えた。
誤魔化すこともできる。
播磨より先へ行くつもりはない。
毛利の領地など欲しくない。
そう言えば、この場だけは穏便に済むかもしれない。
だが、いずれ嘘になる。
「分かりません」
「分からぬ?」
「はい」
元春の眉間に皺が寄る。
「自分がどこまで進むかも分からぬというのか」
「どこまで進めるかが、まだ分かりませんので」
景継は元春を見返した。
「私一人で決められることでもありません」
「天下を望んでいると聞いたが」
「望んでおります」
今度ははっきり答えた。
空気が僅かに変わった。
官兵衛は何も言わない。
恵瓊の目が細くなる。
輝元も景継を見ている。
「ならば」
元春が言った。
「いずれ毛利も邪魔になるのではないか」
「そうなるかもしれません」
景継は答えた。
「ならないかもしれません」
「何?」
「天下を取るために、すべての大名を滅ぼす必要があるとは思っておりません」
景継の脳裏に北条が浮かぶ。
氏政とは同盟を結んだ。
娘の楓を妻に迎えた。
それでも北条は北条である。
「毛利が毛利であることと、私が目指すものが必ずしも両立しないとは思っていません」
「では、毛利にお主の下へ入れと?」
輝元が尋ねる。
「今日は、そのような話をしに来たわけではありません」
「今日は、か」
景継は答えなかった。
今度は恵瓊が笑った。
「これは困りましたな」
「何がです?」
「一つも安心できることを言ってくださらない」
「嘘を言うよりよいでしょう」
「それはそうなのですが」
恵瓊は輝元を見る。
「少なくとも、林道様が何を考えておられるかは分かってまいりました」
「私はまだ分からんぞ」
輝元が言った。
「恵瓊」
「はい」
「お前は何が分かった」
「林道様は、毛利と今すぐ戦いたいわけではない」
「それだけか」
「ですが、毛利を恐れて西へ来ないわけでもない」
恵瓊が景継を見る。
「そういうことでございましょう?」
「否定はしません」
そこで隆景が口を開いた。
「では、こちらから一つ提案いたしましょう」
全員の視線が隆景へ集まった。
「半年という短い約束ではなく、もう少し長く東西を安定させる」
「どのように?」
「林道殿は、播磨より西へ手を伸ばさない」
景継は黙って聞く。
「毛利も播磨へ手を伸ばさない」
「期間は?」
「三年」
景継の目が僅かに動いた。
三年。
半年とは意味が違う。
その間、毛利との戦を避けられる。
西側を安定させられるのは大きい。
だが同時に――。
「受けられません」
景継は答えた。
輝元が眉を寄せる。
「即答か」
「はい」
「理由は?」
隆景が尋ねた。
「三年は長すぎます」
「半年はよくて、三年は駄目だと?」
「三年あれば、何が起きるか分かりません」
「また、それですか」
「重要なことですので」
景継は地図へ目を落とした。
「それに、播磨より西という言葉も曖昧です」
「ほう」
「毛利に属さない者から助けを求められたら? 毛利と別の勢力が争ったら? 海で争いが起きたら?」
隆景は答えない。
「そして何より――」
景継の指が、地図の南へ動いた。
「四国があります」
元春が景継を見る。
恵瓊は表情を変えなかった。
「やはり、そこを見られましたか」
恵瓊が言った。
「あなたが教えてくださったのでしょう」
「私は何も申し上げておりませんよ」
「十分でした」
景継は淡路を指した。
「私は淡路に領地を持っています。海の向こうでは、長宗我部元親殿が四国のほぼ全域を押さえようとしている」
「すでに残るところは僅か、とも聞きますな」
隆景が言った。
「はい」
土佐から始まった長宗我部の勢力は、今や四国のほぼ全域へ広がっている。
もはや地方の一勢力ではない。
四国そのものを一つの大勢力として見るべき段階に入っていた。
「その状況で、播磨より西へ出るなという約束はできません」
「長宗我部と戦うつもりがある?」
「まだ分かりません」
「では、元親殿と手を結ぶ可能性も?」
「あります」
「毛利と長宗我部が争った場合は?」
隆景の問いに、景継はすぐには答えなかった。
「その時の状況を見て決めます」
「なるほど」
隆景は景継を見つめた。
「やはり三年は結べそうにありませんな」
「申し訳ありません」
「いえ。無理に結んでも仕方がない」
そこで官兵衛が初めて口を開いた。
「ならば、線を引くのをやめてはいかがです?」
元春が官兵衛を見る。
「どういう意味だ」
「どこから西へ行くな。どこから東へ来るな。それでは、四国や海の動き一つで話が崩れます」
「ならば何を決める」
「相手そのものを決めればよろしい」
官兵衛が地図へ手を置く。
「林道家と毛利家は、互いを攻めない」
「どれほどの間だ」
「まず一年」
隆景が官兵衛を見る。
「半年から一年へ延ばすと?」
「はい」
「その間、四国へ林道家が兵を出しても毛利は口を挟まない」
「毛利家の利害を直接害さぬ限りは」
「逆も同じか」
「もちろんです」
官兵衛は続ける。
「毛利家が西や海で何をされようと、林道家の領地や盟約を結ぶ相手を害さぬ限り、こちらも兵を向けない」
「盟約を結ぶ相手、か」
隆景がその言葉を拾った。
「後からいくらでも増やせますな」
「ですから、そこは事前に知らせる」
官兵衛はすぐ返した。
「新たに同盟を結んだから、昨日まで毛利が争っていた相手を今日から守る、では話になりません」
隆景の表情が僅かに変わった。
「……よく考えておられる」
「毛利との話ですので」
官兵衛は淡々としている。
景継は口を挟まなかった。
今は官兵衛に任せた方がよい。
恵瓊もまた、官兵衛を見ていた。
「一年」
輝元が呟く。
「元春叔父上」
「悪くはない」
元春が答える。
「隆景叔父上は?」
「条件を詰める必要はございます」
隆景は景継を見る。
「ですが、三年を無理に結んで途中で破られるよりはよいでしょう」
輝元が頷いた。
「ならば、その方向で話を詰めよう」
「ありがとうございます」
景継が頭を下げた。
「ただし」
輝元が続ける。
「林道殿」
「はい」
「一年後、どうなる」
景継は輝元を見る。
「分かりません」
「またそれか」
「ですが」
景継は続けた。
「一年後にも、こうして話ができる関係であればよいとは思っています」
輝元はしばらく景継を見た。
「戦場ではなく?」
「できれば」
そこで元春が鼻を鳴らした。
「その言葉だけは信じてやろう」
「ありがとうございます」
「だが、もし戦場で会うことになれば」
元春の目が鋭くなる。
「その時は容赦せぬぞ」
景継は頭を下げた。
「もちろんです」
会談は、その後も続いた。
細かな条件は官兵衛と隆景、恵瓊を中心に詰めていく。
互いに直接攻撃しない。
相手の支配下にある者へ離反を促さない。
新たな同盟関係によって双方の利害が変わる場合は、事前に知らせる。
期間は一年。
すべてが完全に決まったわけではない。
だが、少なくとも今すぐ毛利と林道が戦うことは避けられそうだった。
◇
日が傾き始めた頃。
会談はいったん休憩となった。
景継が縁側へ出ると、少し遅れて隆景がやってきた。
「林道殿」
「隆景殿」
二人は庭を眺める。
「一つ、聞いても?」
「どうぞ」
「なぜ、そこまで急がれるのです?」
景継が隆景を見る。
「急いでいるように見えますか」
「見えます」
隆景は即答した。
「秀吉殿を倒され、勝家殿が亡くなり、ようやく中央で大きな戦が終わった。それなのに、もう播磨へ来られた」
「信孝様に頼まれましたので」
「それだけではございますまい」
景継は答えなかった。
「天下を望むからですか」
「それもあります」
「では、何を急いでおられる?」
景継は庭へ視線を戻した。
信長。
勝家。
秀吉。
この数年だけでも、多くの人間が消えた。
自分も四十一になった。
「時間が、いくらでもあるわけではありませんから」
隆景が景継を見る。
「まだお若い」
「勝家様も、少し前までそう思っていたかもしれません」
隆景は何も言わなかった。
「できる時に、できることをしておきたい。それだけですよ」
「……なるほど」
隆景は庭を見る。
「では私も、できることをしておかねばなりませんな」
「何をされるので?」
「毛利を守ります」
短い答えだった。
景継は隆景の横顔を見る。
この男もまた、自分のためだけにここへ来ているわけではない。
背負っているものがある。
「できれば、邪魔をしないでいただけると助かります」
景継が言った。
「それはこちらの台詞でございます」
二人の視線が合った。
今は敵ではない。
だが味方でもない。
それで十分だった。
◇
一方。
別の部屋では、官兵衛と恵瓊が向かい合っていた。
「まさか、またこうして毛利との条件を詰めることになるとは」
恵瓊が言った。
「私も思っておりませんでした」
「前とは立場が違いますな」
「ええ」
「あの時は秀吉殿がおられた」
官兵衛の目が僅かに伏せられる。
「……はい」
「今は林道殿か」
「今は、林道様のお仕事をしております」
「そうでしたな」
恵瓊はそれ以上踏み込まなかった。
代わりに一枚の紙を官兵衛の前へ置く。
「では、仕事をいたしましょう」
「そういたしましょう」
二人は細かな文言を確認していく。
昔話をするために再会したわけではない。
今はそれぞれの立場で、少しでも有利な条件を持ち帰る。
恵瓊は昔も今も、毛利のためにここにいる。
変わったのは、官兵衛の方だった。
かつては秀吉のために恵瓊と向き合い、今は景継のために同じ男と向き合っている。
主は変わった。
それでも官兵衛のすることは変わらない。
目の前の相手から、少しでも有利な条件を引き出す。
今は、それだけだった。
やがて恵瓊が筆を置く。
「官兵衛殿」
「はい」
「林道様は、どこまで行かれると思います?」
官兵衛は紙から顔を上げた。
「さあ」
「分からぬ?」
「ご本人も分からぬと申しておられましたでしょう」
「あなたまで同じことを」
「ですが」
官兵衛は少し考えた。
「止まるお方ではないでしょうな」
恵瓊は笑った。
「やはり、そう思われますか」
「だから私も忙しいのでございます」
「それはお気の毒に」
「恵瓊殿も同じでしょう」
「違いない」
再び二人は書面へ目を落とした。
◇
翌日。
大筋の取り決めがまとまった。
一年間。
林道と毛利は互いを直接攻めない。
播磨への毛利の介入も行わない。
それ以上の未来までは縛らない。
輝元が立ち上がる。
「次に会う時も、酒を飲める席であればよいな」
「そう願っております」
景継も立った。
元春が景継へ言う。
「その間に、あまり西へ近づくなよ」
「それはお約束できません」
「早速か」
「毛利家を攻めないとは約束しましたので」
元春が景継を睨む。
その横で隆景が小さく息を吐いた。
「叔父上。これ以上は何を聞いても同じでしょう」
「分かっておる」
元春が腕を組む。
「だから厄介なのだ」
景継は何も返さず、頭を下げた。
ひとまず、毛利との戦は避けた。
だが一年という時間を得ただけだ。
その一年をどう使うか。
毛利も考える。
林道も考える。
そして、その間にも周囲は動く。
◇
「林道様」
寺を出たところで、官兵衛が声をかけた。
「はい」
「淡路から使者が来ております」
景継が足を止める。
「何かありましたか?」
「四国の件にございます」
「長宗我部ですか」
「はい」
官兵衛が頷いた。
「元親殿より、使者が参りました」
「直接?」
「そのようです」
景継は少し考えた。
「何の用でしょう」
「おそらく――」
官兵衛が南へ視線を向ける。
「四国のことでございましょうな」
長宗我部元親。
土佐から勢力を広げ続け、今や四国のほぼ全域をその手に収めている。
残る勢力も僅か。
四国統一は、もはや目標と呼ぶより、完成を目前にした現実だった。
そして、その対岸にある淡路は林道領である。
長宗我部にとっても、林道家の存在を無視できる段階ではなくなっていた。
「官兵衛殿」
「はい」
「播磨へ戻りましょう」
「承知いたしました」
西との話を終えたばかりだった。
次は南。
景継が天下へ向けて歩みを進めるほど、これまで遠くにいた者たちが、次々と目の前へ現れ始めていた。




