第百七十九話 西からの使者
信孝の前に座った安国寺恵瓊は、すぐには本題へ入らなかった。
用意された茶へ口をつけ、静かに室内を見渡している。
織田信孝。
林道景継。
黒田官兵衛。
偶然にしては、ずいぶんと面白い顔ぶれが揃ったものだ。
「それで」
先に口を開いたのは信孝だった。
「毛利は何のためにお前を寄越した」
「随分とお急ぎになりますな」
「播磨が落ち着かぬ時に毛利の使者が来た。のんびり茶を飲んでいる場合でもあるまい」
「ごもっとも」
恵瓊は茶碗を置いた。
「では、単刀直入に申し上げましょう」
その表情から笑みが消える。
「毛利には、播磨を乱すつもりはございません」
信孝の眉が動いた。
「……ずいぶんと先回りした話だな」
「疑われることは分かっておりますので」
「ならば聞く。西へ行くほど俺の使者への返答が鈍い。それと毛利は無関係だと言うのか?」
「少なくとも、毛利が命じたことではございません」
「信じろと?」
「信じていただくために参ったわけではございませんよ」
恵瓊は平然としていた。
「疑うのであれば、お調べになればよろしい。毛利が播磨の城々へ兵を送ったのか。兵糧を送ったのか。それとも、信孝様へ従うなと書状を送ったのか」
信孝が黙る。
現時点では、その証拠は何もない。
官兵衛も景継も、そのことは分かっていた。
「では、なぜ来たのです?」
景継が尋ねた。
恵瓊の視線が景継へ移る。
「確かめるためでございます」
「何を?」
「播磨の向こうに、誰が立つことになるのかを」
景継は少しだけ目を細めた。
恵瓊は続ける。
「清須で播磨が信孝様のものになったことは、毛利も承知しております。しかし、国を一つ与えられたからといって、その後ろに誰もいないとは限らない」
「私がいる、と?」
「こうして来ておられるではございませんか」
恵瓊の言葉に、信孝が口を挟んだ。
「勘違いするな。景継は俺が助けを頼んだから来ただけだ。播磨は俺の領地だ」
「承知しております」
恵瓊はすぐに頭を下げた。
その態度に、信孝を軽んじる様子はない。
「ゆえに、まず信孝様へご挨拶申し上げております」
そして再び顔を上げる。
「ただ――林道様がここにおられることを、毛利が気にせぬわけにも参りません」
「なぜです?」
「それを私に言わせますか」
恵瓊の口元に再び笑みが戻った。
「羽柴秀吉を討ったお方が、兵を西へ向けられるかもしれぬ。その先に毛利がおる。気にするなという方が無理でございましょう」
景継は否定しなかった。
毛利から見れば当然の警戒だった。
「安心してください。今のところ、私は毛利と戦うために播磨へ来たわけではありません」
「今のところ、ですか」
恵瓊は、その部分を聞き逃さなかった。
「未来の約束まで求められても困ります」
「これは手厳しい」
「毛利も同じでしょう」
景継が言った。
「今後何が起ころうとも播磨へ兵を出さない、と約束できますか?」
恵瓊は答えなかった。
代わりに茶碗へ手を伸ばす。
それだけで十分だった。
「お互い様ということです」
「なるほど」
恵瓊が茶を一口飲む。
「話の早いお方で助かります」
景継はそこで、官兵衛へ視線を向けた。
先ほどから官兵衛はほとんど口を開いていない。
「官兵衛殿は、どう思われます?」
「そうですな」
官兵衛は恵瓊を見る。
「恵瓊殿がおっしゃっていることに、嘘はないのでしょう」
信孝が官兵衛を見る。
「毛利は何もしていないということか?」
「そこまでは申しておりません」
「では何だ」
「毛利が播磨の混乱を起こしたわけではない。それは本当だと思います」
官兵衛はそこで言葉を切った。
「ですが――利用しないとは、一言も申しておられません」
恵瓊の目が官兵衛へ向いた。
しばらく二人が見つめ合う。
やがて恵瓊が吹き出した。
「やはり、官兵衛殿がいると話が面倒になりますな」
「昔からご存じでしょう」
「ええ。嫌というほど」
信孝が二人を見る。
「昔、何があった」
恵瓊が官兵衛より先に答えた。
「大したことではございません」
「先ほど官兵衛も同じようなことを言っていたぞ」
「ならば、本当に大したことではないのでしょう」
「二人揃って隠すと余計に気になるのだが」
官兵衛は小さく息を吐いた。
「秀吉様が中国で毛利と戦っていた頃の話でございます」
「本能寺の頃か」
「はい」
信孝の表情が少し変わった。
父、信長が死んだ時の話である。
「秀吉様は、急いで畿内へ戻らねばならなくなりました。そのためには毛利との戦を終わらせる必要があった」
「そこで、この生臭坊主と話をしたというわけか」
恵瓊が眉を上げた。
「信孝様。本人を前に、なかなかのお言葉ですな」
「違うのか?」
「否定しづらいところが困ります」
室内に小さな笑いが起きる。
だが、官兵衛は笑わなかった。
「あの時は、時間がございませんでした」
「ええ」
恵瓊も今度は真面目に応じた。
「ずいぶんと無茶な話を持ってこられた」
「受けていただいたではありませんか」
「毛利にも戦を続ける理由が薄くなっておりましたからな」
二人はそれ以上語らなかった。
だが景継には、それで十分だった。
この二人は単に顔を知っているだけではない。
一度、互いの腹を探りながら、大きな戦を終わらせる交渉をしたことがある。
「それなら、今回も話は早そうですね」
景継が言った。
恵瓊が景継を見る。
「今回も?」
「毛利と播磨の間で、余計な戦を起こしたくはありません」
「それは毛利も同じでございます」
「ならば、一つ決めておきましょう」
景継は地図を引き寄せた。
「毛利は、播磨の城々へ働きかけない」
恵瓊の表情が止まった。
「随分と大きく出られますな」
「兵を送らない、だけでは足りません」
「書状も送るな、と?」
「信孝様の支配を妨げるような働きかけは、控えていただきたい」
「それを毛利に求める代わりに、こちらは何を得られるので?」
「逆です」
景継が答えた。
「毛利が何を求めるのか、先に聞かせてください」
恵瓊は黙った。
先ほどまでより、少し長い沈黙だった。
「……林道様」
「はい」
「播磨を落ち着かせた後、どちらへ向かわれるおつもりです?」
信孝が景継を見る。
官兵衛は動かない。
「まだ決めていません」
「では、毛利領へ兵を向けぬと約束していただくことは?」
「できません」
即答だった。
恵瓊の目が細くなる。
「随分と正直でございますな」
「できない約束をしても仕方がないでしょう」
「それでは毛利も、播磨に一切関わらぬとは約束しづらい」
「でしょうね」
景継は地図を見た。
ここで互いに都合のよい約束を交わしても、状況が変われば破られる。
ならば別の形を探す必要がある。
その時、官兵衛が初めて地図へ手を伸ばした。
「期限を設けてはいかがでしょう」
恵瓊が官兵衛を見る。
「期限?」
「先のことまで縛ろうとするから話がまとまらぬのです」
官兵衛の指が播磨と、その西側の境へ置かれる。
「まず半年」
「半年で何が変わる?」
信孝が尋ねる。
「半年もあれば、信孝様が播磨を治められるかどうかは見えてまいります」
「なるほど」
「その間、毛利は播磨の諸勢力へ信孝様の支配を妨げる働きかけをしない。こちらも毛利領へ軍事行動を起こさない」
恵瓊が腕を組んだ。
「半年……」
「短いですか?」
「いや」
恵瓊は考えている。
「むしろ長いかもしれませんな」
その言葉に景継が反応した。
「何か起こると?」
「何も起こらぬ方がおかしいでしょう」
恵瓊が地図へ目を落とした。
「秀吉殿が死に、勝家殿も亡くなられた。中央だけではございません。西も南も、皆が次の動きを考えております」
「南?」
信孝が聞き返す。
恵瓊は答えず、茶を飲んだ。
景継は地図を見る。
播磨の南。
海。
そのさらに向こう。
淡路。
四国。
景継自身、淡路の旧羽柴領を得たばかりである。
「四国ですか」
恵瓊は笑っただけだった。
「今日は毛利の使者として参っておりますゆえ、余計なことを申すのはやめておきましょう」
景継はそれ以上追わなかった。
今は毛利との話が先だった。
「半年については、持ち帰られますか?」
「そうさせていただきたい」
恵瓊が答える。
「私一人で決められる話ではございません」
「分かりました」
「ただし」
恵瓊が景継を見る。
「毛利からも条件を出すことになるでしょう」
「聞きましょう」
「それは次に」
信孝が不満そうな顔をした。
「今日ではないのか」
「こちらも林道様が播磨におられるとは思っておりませんでしたので」
「私がいることで条件が変わる?」
「変わらぬ方がおかしいでしょう」
恵瓊は立ち上がった。
「毛利へ戻り、改めて話をいたします」
そして信孝へ深く頭を下げる。
「信孝様。本日はお時間をいただき、ありがとうございました」
「ああ」
続いて景継へ。
「林道様」
「はい」
「次にお会いする時には、もう少し踏み込んだ話ができそうですな」
「期待しておきます」
最後に官兵衛を見る。
「官兵衛殿」
「何でしょう」
「またあなたと交渉することになるとは思いませんでした」
「私もです」
「今度は、前よりゆっくり話したいものですな」
「あの時は、急いでおりましたから」
「まったくです」
恵瓊はそう言って部屋を出ていった。
足音が遠ざかる。
しばらく誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは信孝だった。
「……食えん坊主だな」
「ええ」
官兵衛が答える。
「昔から、ああいうお方です」
「信用できるのか?」
「交渉相手としては」
「それは信用できるという意味なのか?」
「約束したことと、約束していないことを分けて考えればよろしいかと」
信孝が眉間に皺を寄せた。
「面倒な相手だ」
「だからこそ、毛利から使者として来るのでしょう」
景継は地図へ視線を戻した。
毛利が播磨の混乱を作った証拠はない。
今すぐ攻め込んでくる様子もない。
ならば、まずやるべきことは変わらなかった。
「信孝様」
「なんだ」
「毛利への返事を待っている間に、播磨を進めましょう」
「どうする」
景継は官兵衛を見る。
「先ほどの続きを」
「承知いたしました」
官兵衛が地図の前へ座り直す。
「まず、返事を渋っている城を三つほど回りましょう」
「三つだけでよいのか?」
「最初は」
官兵衛は一つの城を指した。
「ここが動けば、周囲も動きます」
次に、別の場所へ指を移す。
「そして、こちらは信孝様ご自身に動いていただきたい」
「俺が?」
「はい」
「何をする」
「戦ではございません」
官兵衛は信孝へ向き直った。
「播磨の者たちに、信孝様がどのような主になるのかを見せていただきます」
信孝はしばらく官兵衛を見た。
やがて立ち上がる。
「分かった」
「よろしいので?」
「俺の国にするのだろう」
信孝は地図を見下ろした。
「ならば、景継と官兵衛に全部やらせてどうする」
景継は何も言わなかった。
その言葉を聞けただけでも、播磨へ来た意味はあった。
信孝が家臣たちへ命令を出し始める。
使者を出す。
兵を整える。
だが、攻めるためではない。
まず、会うために。
景継も立ち上がった。
その目は、地図の西端へ一度だけ向いた。
毛利との話は、まだ始まったばかり。
そして南には、恵瓊が口にしなかった四国がある。
播磨を治めるだけのつもりで来たわけではない。
だが、ここから先へ進むためにも、まず足元を固めなければならない。
「行きましょうか、官兵衛殿」
「どちらへ?」
「決まっているでしょう」
景継は、官兵衛が最初に指した城へ目を向けた。
「まずは、話を聞きに行きます」
西国へ進む前に。
景継たちは、播磨そのものと向き合うことになった。




