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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十章 天下西進編

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第百七十八話 播磨





 越前から戻って数日。


 景継の前には、一通の書状が置かれていた。


 送り主は織田信孝。


 第二次清須会議によって、信孝は美濃に加え、旧羽柴方が支配していた播磨の地を得た。


 だが、清須で行われたのは、あくまで戦後の取り決めである。


 秀吉が討たれたことで、播磨を取り巻く状況は一変した。


 昨日まで羽柴の命令を受けていた城々へ、今度は信孝の使者が向かう。

 新たな支配を受け入れる城もあれば、返答を引き延ばす城もある。

 表向きは従いながら、兵を解かず周囲の様子を窺っている者もいた。


 しかも中央では、秀吉に続いて勝家まで世を去ったばかりである。


 大きな力が立て続けに消えたことで、誰が次の時代を主導するのか、まだ見極められていない。


「……なるほど」


 書状を読み終えた景継が、小さく呟いた。


 播磨で大きな反乱が起きているわけではない。


 だが、このまま放置すれば、いつ火がついてもおかしくない。


「弥兵衛」


「はっ」


「官兵衛殿を呼んでください」


「やはり、そうなりますか」


「播磨のことで、官兵衛殿以上に頼れる方を探す方が難しいでしょう」


 弥兵衛が頷き、部屋を出ていく。


 ほどなくして、黒田官兵衛が姿を現した。


「お呼びでしょうか」


「こちらを」


 景継が信孝の書状を差し出す。


 官兵衛は受け取ると、その場で目を通した。


 読み進めていた官兵衛の目が、あるところで止まる。


 やがて最後まで読み終えると、書状を机へ戻した。


「……信孝様も、苦労しておられるようですな」


「どう見ます?」


「播磨は、まだ次の主を見定めている最中なのでございます」


 官兵衛は書状を机へ置いた。


「秀吉様が討たれたからといって、昨日まで従っていた者たちの心まで、一夜で信孝様へ移るわけではございません」


「では、反抗するつもりだと?」


「そこまで腹を決めた者は、むしろ少ないでしょう」


 官兵衛は首を振った。


「皆、待っているのでございます。信孝様が本当に播磨を治められるのか。中央の情勢がこのまま落ち着くのか。そして――西の毛利がどう動くのか」


 景継は書状へ視線を落とした。


「誰につくかを決めていない」


「ええ。ゆえに今なら、まだ話ができます」


 官兵衛の指が、書状の上を軽く叩いた。


「ですが、放っておけば話だけでは済まなくなるでしょう」


 景継が頷いた。


 まだ敵ではない。


 だからこそ、今動く必要がある。


「信孝様からは、私に播磨へ来てほしいと」


「林道様に?」


「ええ」


 官兵衛が少し考える。


「悪くない手かもしれませんな」


「私が行けば収まりますか?」


「まさか」


 官兵衛ははっきり否定した。


「むしろ林道様が大軍を率いて播磨へ入れば、余計に身構える者が出るでしょう」


「でしょうね」


 秀吉を討った男が、大軍を連れて現れる。


 それを単なる援軍と受け取ってくれる保証はない。


「ですが、林道様自身が信孝様を助ける姿勢を見せることには意味がございます。問題は、どのように入るかでしょう」


「兵を見せるために行くのではない」


「はい」


「では、話をするために行きましょう」


 官兵衛の視線が景継へ向いた。


「私も、ということでございますか」


「もちろんです」


「故郷へ錦を飾れ、と?」


「まだ錦を飾るほど出世していないのでしたら、もっと働いていただきましょう」


「それは困りましたな」


 そう言いながらも、官兵衛は断らなかった。


 むしろ、すでに頭の中では播磨の地図を広げているようだった。


「一つ、よろしいでしょうか」


「何でしょう」


「播磨をどこまで信孝様のものにするおつもりです?」


 景継は少し考えた。


「すべてです」


「……ほう」


「ただし、力ずくで従わせるつもりはありません」


 清須で播磨の行方は決まった。


 だが、それは地図の上で新たな主が決まったに過ぎない。


 信孝の名で年貢が集まり、命が城々へ届き、争いが起こればその裁きを受け入れる。


 そこまで根づいて初めて、播磨は信孝の治める国となる。


「信孝様のお名前で、播磨が動くようにしたい」


「簡単ではございませんぞ」


「ですから、官兵衛殿に来ていただくのです」


 官兵衛はしばらく景継を見ていたが、やがて信孝の書状へ目を戻した。


「ならば、まず確かめなければなりませんな」


「何をです?」


「誰が返事を止めているのかではございません」


 官兵衛が言った。


「なぜ、返事を止めているのかです」


 景継は黙って続きを待った。


「信孝様の力を疑っているのか。旧主への思いが残っているのか。それとも――西から何かを待っているのか」


「毛利ですね」


「可能性はございます」


 官兵衛は地図へ手を伸ばした。


 播磨。


 そして、その西。


「秀吉様がおられた頃、この地は西国へ向かう入口でもございました」


 指がゆっくりと西へ動く。


「そして秀吉様が亡くなられた今、その入口の先にいる毛利が何も考えていないとは思えませぬ」


 毛利家。


 中国地方に巨大な勢力を築き、長く西国に君臨してきた大大名。


 秀吉が中国へ兵を進めた際にも、幾度となく向き合った相手である。


「毛利が播磨へ手を伸ばしていると?」


「まだ、そこまでは申せません」


 官兵衛は首を振った。


「毛利が直接何かをした証はございません。ですが、向こうもこちらを見ているでしょう」


 景継は地図を見つめた。


 秀吉がいた頃とは、何もかもが違う。


 あの男が死んだことで、西国との境目そのものが揺れ始めている。


「急ぎましょう」


「よろしいので?」


「何がです」


「勝家様のことがあったばかりでございます」


 景継の手が止まった。


 ほんの僅かな沈黙。


 脳裏に、越前で別れた男の顔が浮かぶ。


 まだ、日が経ったとは言えない。


 だが、景継は静かに息を吐いた。


「だからといって、播磨の時が止まってくれるわけではありません」


「……左様ですな」


「それに、信孝様から助けを求められたのです。行かない理由はありません」


 翌日から、播磨へ向かう準備が始まった。


 ただし、大軍は動かさない。


 必要な護衛と、交渉に必要な者たちだけを連れていく。


 最初から兵で押さえ込めば、まだ迷っているだけの者まで城門を閉ざしかねない。


 まず現地を見る。


 誰が何を望み、何を恐れているのかを知る。


 戦うかどうかを決めるのは、その後でよかった。


 出立を前に、楓が景継を見送った。


「今度は播磨ですか」


「ええ。少し西へ行ってきます」


「少し、で済めばよいのですが」


 景継は返事をする前に、一瞬だけ黙った。


 播磨。


 その先には、さらに広大な土地が続いている。


「まずは播磨です」


「では、まずは播磨から無事にお戻りください」


「はい」


 楓はまだ腹の目立たない身体に手を添えた。


 その仕草を見た景継の表情が、僅かに柔らかくなる。


「戻ります」


「必ず」


「必ず」


 それだけを約束して、景継は屋敷を出た。


     ◇


 数日後。


 景継と官兵衛は播磨へ入った。


 道中、官兵衛は何度も馬を止めた。


 川を見る。


 道を見る。


 遠くの山を見る。


 時には村人へ声をかけ、時には昔の地名を口にする。


 景継はその様子を黙って見ていた。


「懐かしいですか」


「懐かしい、だけではございませんな」


 官兵衛は遠くを見た。


「変わったところもあれば、変わらぬところもある」


「人は?」


「それをこれから確かめるのでございます」


 やがて二人は、信孝のいる城へ到着した。


 信孝は景継を見るなり立ち上がった。


「来てくれたか」


「お待たせいたしました」


「いや、助かる」


 以前よりも、その顔には疲労が見える。


 信孝は二人を座らせると、すぐに播磨の現状を語り始めた。


「城そのものは、かなり受け取った。だがな」


「そこから先が進まない」


 官兵衛が言った。


 信孝が苦い顔をする。


「その通りだ」


 地図が広げられる。


「こちらはすでに俺の命を受けている。ここも問題ない。だが、この辺りは何を命じても返答が遅い。それに西へ行くほど、こちらの使者への態度が悪くなる」


 官兵衛が一つ一つ確認していく。


 城を預かる者の名。


 持っている兵。


 秀吉との関係。


 近隣との縁。


 どこから兵糧を得ているのか。


 質問の数が増えるにつれ、信孝の家臣たちが官兵衛を見る目も変わっていった。


 名前を聞いただけで、その家の事情を思い出すことさえある。


「官兵衛」


 信孝が思わず声を上げる。


「お前、全部知っているのか」


「全部ではございません」


「十分すぎるほど知っているではないか」


「播磨で育ちましたので」


 官兵衛は淡々と答え、地図の一点を指した。


「ここには、まず使者を送り直しましょう」


「従わせるのか?」


「先に話を聞きます」


「何を聞く」


「なぜ信孝様への返事を渋っているのかを」


 続いて別の城を指す。


「一方、こちらには兵を近くまで出した方がよろしい」


「先ほどとは逆ではないか」


「ここは迷っているのではなく、こちらが何もしないと見て強気になっております」


 信孝が地図を見る。


「同じように扱うわけにはいかんか」


「それでは余計に時間がかかります」


 景継は、そのやり取りを聞きながら官兵衛を見ていた。


 播磨に詳しいことは知っていた。


 だが、実際にその知識が使われるところを見ると、想像以上だった。


 道や城だけではない。


 そこにいる人間まで含めて、この男の頭の中には播磨が入っている。


「信孝様」


「なんだ」


「しばらく、官兵衛殿をお借りしてもよろしいですか」


 官兵衛が景継を見る。


 信孝は即座に頷いた。


「むしろ置いていってくれ」


「それは困ります」


 景継が答えると、信孝が初めて笑った。


 張り詰めていた場の空気が、少しだけ緩む。


 しかし、その時だった。


 廊下の向こうから足音が近づいた。


「申し上げます!」


 信孝の家臣が入ってくる。


「どうした」


「西より使者が参っております」


「西?」


 信孝の表情が戻る。


「どこの者だ」


 家臣は一度、息を整えた。


「毛利家にございます」


 室内の空気が変わった。


 景継は官兵衛を見る。


 官兵衛もまた、景継を見ていた。


「……思ったより早かったですね」


「ええ」


 信孝が二人を交互に見る。


「会うべきか?」


「もちろんです」


 景継が答えた。


「何を考えているのか、向こうから話しに来てくれたのです。断る理由はないでしょう」


 信孝が家臣へ命じる。


「通せ」


「はっ」


 しばらくして。


 一人の僧が案内されてきた。


 僧衣をまといながら、その目には寺に籠もる僧侶とは思えぬ鋭さがある。


 男は信孝へ一礼した。


「毛利家より参りました」


 そして顔を上げる。


「安国寺恵瓊と申します」


 その視線が景継へ向かう。


 そして――官兵衛へ移った。


 ほんの一瞬。


 二人の目が合う。


 先に口を開いたのは恵瓊だった。


「これはこれは」


 恵瓊の口元に笑みが浮かぶ。


「随分と懐かしいお顔がおられますな」


 官兵衛も静かに恵瓊を見る。


「お久しゅうございます」


「黒田官兵衛殿」


「安国寺恵瓊殿」


 景継は二人を見る。


 信孝も同じだった。


「知り合いか?」


 官兵衛が答える。


「昔――少々」


 恵瓊が笑った。


「少々とは、随分と薄情な言い方をされる」


 官兵衛は何も返さなかった。


 恵瓊はそれ以上追わず、今度は景継へ向き直る。


「林道景継様」


「はい」


「一度、お会いしてみたいと思っておりました」


 その目が細くなる。


「羽柴秀吉を討ち――今度は播磨へ来られたお方に」


 景継は恵瓊を見返した。


「それで、恵瓊殿」


「はい」


「毛利家は、私たちに何をお望みなのでしょう」


 恵瓊の笑みが、僅かに深くなった。


「それをお話しするために、はるばる参ったのでございます」


 その隣で、官兵衛が黙って恵瓊を見ている。


 かつて中国の地で、秀吉のために毛利との交渉に臨んだ官兵衛。


 そして、その毛利側にいた恵瓊。


 あの時は、二人の間に秀吉がいた。


 今、その秀吉はいない。


 播磨の主は変わり、天下の形も変わった。


 それでも二人は、再び同じ席についた。


 景継はまだ、毛利と戦うつもりで播磨へ来たわけではない。


 毛利もまた、兵を率いて播磨へ踏み込んできたわけではない。


 まず交わされるのは、刃ではなく言葉。


 西国を巡る新たな駆け引きが、静かに始まろうとしていた。




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