第百七十七話 柴田家
勝家の葬儀を終えてから、数日が過ぎた。
越前では、悲しみに浸っているだけでは済まない時間が始まっていた。
柴田勝家は死んだ。
だが、柴田家は残っている。
越前を中心とした領地も、そこに暮らす民も、勝家に従ってきた家臣たちも消えたわけではない。
そして何より――勝家が最後に景継へ託した言葉が残っている。
――柴田家を、お前の下に置いてくれ。
景継は、その言葉を受けた。
柴田の名を消さない。
家そのものを奪わない。
勝家が築いたものを、勝家が死んだからという理由だけで食い尽くすような真似はしない。
そう約束した。
だが。
約束したからといって、すべてがその通りに進むわけではない。
勝家に仕えていた者たちには、それぞれの考えがある。
その日の評定の場には、重い空気が流れていた。
景継の前には前田利家。
そして、佐々成政をはじめとした柴田方の諸将たちが座っている。
お市も、その場にいた。
景継は彼らの顔を一人ずつ見た。
当然だが、誰も晴れやかな顔などしていない。
勝家を失ってから、まだ日が浅いのだ。
「まず、お伝えしておきます」
景継が口を開いた。
「私は柴田家をなくすつもりはありません」
誰も答えない。
「勝家様から柴田家を託されました。しかし、それは柴田のすべてを林道家のものにする、という意味ではないと私は考えています」
成政が、わずかに眉を動かした。
景継は続ける。
「柴田の名は残します。越前を中心とする柴田家の基盤も残すつもりです」
そこで、成政が口を開いた。
「ならば、林道殿は何を求められる」
「柴田家には、林道家の下に入っていただきます」
室内の空気が変わった。
分かっていたことである。
勝家がそう望んだことも、ここにいる者の多くが知っている。
それでも、実際に景継の口から告げられるのとでは意味が違った。
成政が景継を見る。
「……勝家様のご遺志ゆえか」
「それもあります」
「それも?」
「今の柴田家が、その形を保ったまま独立して立ち続けることは難しいと思っているからです」
景継は淡々と言った。
勝家が生きていた時の柴田勢力は巨大だった。
越前、加賀方面。
さらに、秀吉との戦いの後に得た丹波、但馬方面。
だが、その広大な領域を一つに束ねていたものは、制度だけではない。
柴田勝家という男そのものだった。
その勝家がいない。
「勝家様がおられたから従っていた者もいるでしょう」
景継が言う。
「柴田家そのものに忠誠を誓っている者もいる。自らの領地を守るために従っていた者もいる。織田家のために勝家様と行動していた者もいる」
成政は黙って聞いていた。
「それらを、勝家様がお亡くなりになった後も、同じ形で一つにまとめ続けることは難しい」
「だから林道家がまとめると?」
「いいえ」
景継は首を振った。
「無理にまとめません」
成政の目が細くなる。
「柴田家に残る者は残る。林道家に直接仕えることを望む者がいるなら話を聞く。織田家へ戻る者がいるなら、それも止めません」
「去る者も止めぬと?」
「はい」
「それでは柴田は弱くなるぞ」
「なるでしょうね」
あまりにあっさりと景継が認めたため、何人かが顔を上げた。
「ですが、それでいいのです」
「何?」
「勝家様がおられた頃と同じ大きさを保つことが、柴田家を残すことではありません」
景継は言った。
「無理に大きなものを抱えれば、いずれ内側から崩れます」
勝家とも話したことだった。
家を継ぐことと、巨大な勢力をそのまま継ぐことは違う。
勝家自身も最後には、それを理解していた。
「残すべきものを残す」
景継は静かに言った。
「私は、その方がよいと思っています」
成政は腕を組んだ。
「……随分と簡単に言われる」
「簡単ではありませんよ」
「ならば、丹波と但馬はどうされる」
具体的な話が出た。
景継は少しだけ間を置いた。
「再編します」
今度は、はっきりとざわめきが起きた。
「やはり取るのではないか」
誰かが言った。
景継はその声の方を見る。
「林道家がすべて取るとは申していません」
「同じことであろう。勝家様が得られた土地を――」
「勝家様が得られたからこそです」
景継の声は大きくなかった。
それでも、言葉を遮るには十分だった。
「勝家様が自らのためだけに、あの土地を得たとお考えですか」
男が黙る。
「秀吉様との戦いの後、再び争いが起こらぬようにするためでもあった。柴田家を強くするためでもあった。そして、織田家を支えるためでもあった」
景継は地図へ目を落とした。
「勝家様がおられなくなった今、その目的を果たせる形へ組み直す必要があります」
「……誰が決める」
成政だった。
景継は顔を上げる。
「私一人では決めません」
「では?」
「柴田家の者とも話します。信孝様、長秀殿、一益殿とも話す必要があるでしょう。土地によっては、そこを治めている者の意見も聞かなければならない」
そこで景継は言葉を切った。
「ただし」
全員を見る。
「一つだけ、譲るつもりのないことがあります」
「何だ」
「柴田家を巡って、次の戦を起こさせないことです」
静まり返った。
「勝家様がお亡くなりになった途端、土地の奪い合いが始まる。それだけは避けます」
景継の声には、わずかな強さがあった。
「そのために必要なら、林道家の力を使います」
成政は、しばらく景継を見つめていた。
やがて利家が口を開いた。
「俺は、勝家様のお言葉に従う」
全員の視線が利家へ向く。
「勝家様は、景継殿に柴田を託された」
「利家」
成政が低い声を出した。
「分かっている」
利家は成政を見る。
「お前が言いたいことも分かる。俺だって、何も思わんわけじゃない」
一度は勝家から離れ、秀吉の側へ傾いた。
そして秀吉が死んだ後、勝家のもとへ戻った。
そんな自分だからこそ、軽々しく言える話ではない。
「だがな」
利家は続けた。
「最後に勝家様が決めたことだ」
成政は答えなかった。
「俺は、もう一度あの方の下で働かせてもらった」
利家の声が少しだけ低くなる。
「最後に頼まれたことまで無視したら、俺は何のために戻ったのか分からん」
「……だから林道に従うというのか」
「違う」
利家は即座に答えた。
「勝家様の遺した柴田を守るために、景継殿と共にやると言っている」
景継は何も挟まなかった。
これは景継が説得する場面ではない。
勝家に仕えてきた者たち自身が、決めなければならない。
成政はしばらく利家を見ていた。
そして景継へ視線を戻す。
「林道殿」
「はい」
「一つ聞きたい」
「どうぞ」
「もし俺が、林道家の下に入ることを拒んだらどうする」
何人かが息を呑んだ。
景継は成政を見た。
「成政殿は、柴田家に残るおつもりですか」
「それを聞いているのではない」
「大事なことです」
「……何?」
「柴田家に残りたい。しかし林道家の下に入るのは嫌だ、ということであれば、話し合う必要があります」
「では、柴田から離れると言えば?」
「止めません」
即答だった。
成政が眉を寄せる。
「俺が兵を連れていってもか」
「勝家様から預かった兵まで勝手に連れていかれては困ります」
景継は答えた。
「ですが、成政殿自身の家臣まで置いていけとは言いません」
「敵に回るかもしれんぞ」
「その時は、その時です」
成政が黙る。
「勝家様は、柴田家を私に託されました」
景継は続けた。
「家臣を奴隷として渡されたわけではありません」
その言葉に、お市がわずかに目を細めた。
景継は続ける。
「皆様には、ご自分で決めていただきます」
長い沈黙が流れた。
やがて成政が息を吐いた。
「……今日は決めん」
「構いません」
「領地の話も聞かねばならん」
「もちろんです」
「勝家様のご遺志だからといって、何でも従うつもりもない」
「分かりました」
成政はそれ以上何も言わなかった。
利家も口を挟まない。
完全にまとまったわけではない。
だが、割れもしなかった。
それで十分だった。
今ここで全員に答えを出させれば、必ずどこかに無理が生じる。
景継は急がなかった。
勝家から柴田家を託された。
だからこそ、まずは残された者たち自身が何を選ぶのかを見なければならない。
評定が終わった後。
景継が廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「景継殿」
振り返る。
お市だった。
「市様」
「少し、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
二人は庭の見える場所へ移った。
しばらく、お市は何も言わなかった。
秋の風が木々を揺らしている。
やがて、お市が口を開いた。
「勝家様は、あなたなら柴田を残してくれるとおっしゃっていました」
「はい」
「本当に、そのおつもりなのですね」
景継はお市を見る。
「疑っておられましたか?」
「少しは」
お市は正直に答えた。
「人は、立場が変われば考えも変わります」
「そうですね」
「勝家様がおられなくなった今、柴田の領地をすべて取ろうと思えば、あなたにはできるのでしょう」
景継はすぐには答えなかった。
できるかどうかだけで言えば、不可能ではない。
勝家は死んだ。
柴田家は揺れている。
景継には勝家の遺言がある。
それを都合よく解釈し、柴田家そのものを林道家へ吸収することもできる。
だが。
「しません」
景継は答えた。
「なぜです?」
「約束しましたから」
「それだけですか?」
景継は少し考えた。
「それだけではありません」
お市が景継を見る。
「柴田家をすべて飲み込めば、私は一時的には大きくなれるでしょう」
「はい」
「ですが、勝家様に仕えていた方々からすれば、どうでしょう」
お市は黙っている。
「勝家様が死んだ途端、友を名乗っていた男がすべてを奪った」
景継は小さく息を吐いた。
「そのように見えるでしょうね」
「……ええ」
「そんな家に、誰が心から従いますか」
景継は庭へ目を向けた。
「土地だけ取って、人を失うのでは意味がありません」
お市は何も言わなかった。
しばらくして、その視線を庭へ移す。
「……あの方も、同じことを申しておりました」
景継が振り向いた。
「勝家様が?」
「ええ。あなたに柴田を託すと決めた夜に」
お市は静かに続けた。
「景継なら、柴田を大きくしようとはするかもしれぬ。だが、柴田を消して自分だけ大きくなろうとはせぬ――と」
景継は言葉を失った。
勝家本人からは聞かなかった言葉だった。
「……そうですか」
それだけ答えて、景継は再び庭へ目を向けた。
もう、その言葉を口にした男はいない。
だからこそ。
「でしたら、なおさら破るわけにはいきませんね」
「お願いいたします」
お市は深く頭を下げた。
景継もまた、黙って頭を下げた。
少しして、お市が顔を上げた。
「私は、しばらく越前に残ります」
「はい」
「勝家様から、生きろと言われました」
景継は何も言わなかった。
「ですから、生きます」
お市は庭を見ながら言った。
「そして、見届けます」
「柴田家を、ですか」
「ええ」
お市は頷いた。
「勝家様が残された柴田が、この先どうなるのか。それを見届けることも、私が生きる理由の一つになりました」
景継は静かに頭を下げた。
「分かりました」
お市は景継を見る。
「もし、いつか勝家様との約束を違えそうになった時は、私が申し上げます」
その言葉を、景継は正面から受け止めた。
「その時は、遠慮なくお願いいたします」
お市は静かに頷いた。
勝家はもういない。
だが、勝家が残した言葉まで消えたわけではなかった。
◇
それからさらに数日。
柴田家の今後について、大枠が定められた。
柴田の名は残す。
越前を中心とする領地も残す。
家臣団も、残ることを望む者を中心として再編する。
そして――柴田家は林道家の下に入る。
ただし、丹波・但馬をはじめとする広域の所領については、そのまま柴田家に抱えさせず、今後改めて諸将と協議して再編する。
勝家が一人で支えていた巨大な勢力を、そのまま次の者へ背負わせることはしない。
それが、景継と勝家が最後に話した形だった。
前田利家は、その方針を受け入れた。
佐々成政は、まだ完全な答えを出していない。
他にも迷っている者はいる。
それでいい。
すべてが一日で決まる方がおかしい。
景継は彼らに時間を与えた。
そして、自らの領地へ戻る日。
城を出る前に、景継は一度だけ振り返った。
勝家がいた城。
もう、あの大きな声が飛んでくることはない。
――景継。
そう呼ばれることもない。
景継はしばらく城を見つめた後、馬へ乗った。
「参りましょう」
「はっ」
弥兵衛が答える。
一行が動き始める。
その途中、一人の使者が景継たちのもとへ駆け込んできた。
越前からではない。
景継は馬を止めた。
「どちらからです?」
使者が息を整え、頭を下げる。
「岐阜より!」
岐阜。
景継の目がわずかに細くなった。
「信孝様からにございます」
景継は書状を受け取った。
封を切る。
目を通していくうちに、その表情が少しずつ変わった。
弥兵衛が尋ねる。
「何かございましたか」
景継は書状を閉じた。
「……勝家様がお亡くなりになって、まだそれほど経っていないのですがね」
「は?」
景継は西の方角へ目を向ける。
信孝が治める美濃。
そして、そのさらに先。
新たに信孝の領地となった――播磨。
書状には、播磨で旧羽柴方の者たちとの間に問題が起き始めていることが記されていた。
さらに西には、まだ巨大な勢力が存在している。
秀吉を倒したからといって、天下から戦が消えたわけではない。
むしろ、一つの大きな存在が消えたことで、それまで抑えられていたものが動き始めている。
「信孝様は、何と?」
弥兵衛が尋ねた。
景継は答えた。
「力を貸してほしい、と」
そして少し考えた後、景継はある男の顔を思い浮かべた。
播磨。
その土地を誰よりよく知る者が、今の林道家にはいる。
景継は馬の向きを変えながら言った。
「戻ったら、官兵衛殿を呼んでください」
「官兵衛殿を?」
「ええ」
景継はもう一度、西を見た。
「播磨のことでしたら――」
その答えに迷いはなかった。
「官兵衛殿ほど、頼りになる方もいないでしょう」
勝家を送り。
柴田家の行く末を定め。
そして景継の目は、初めて本格的に西へ向こうとしていた。




