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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第九章 天下再導編

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第百七十六話「命」



 柴田勝家が息を引き取った翌朝。


 城には、昨夜までとはまるで違う空気が流れていた。


 家臣たちは声を潜め、廊下を行き交う足音さえ小さい。


 誰もが分かっている。


 柴田家を長く率いてきた男は、もういない。


 その死はすぐに柴田家中へ伝えられた。


 驚き、泣き崩れる者。


 言葉を失ったまま、その場に座り込む者。


 すぐに今後の柴田家を案じ始める者。


 受け止め方はそれぞれだったが、勝家という大きな柱を失った衝撃だけは同じだった。


 景継は、その様子を静かに見ていた。


 昨夜からほとんど眠っていない。


 それでも休む気にはなれなかった。


「景継殿」


 声をかけてきたのは利家だった。


「少しお休みになった方がいい」


「利家殿こそ」


「俺は柴田の家臣だ。今は休んでいる場合ではない」


「でしたら、私も同じようなものですよ」


 利家が景継を見る。


 勝家は死の直前、柴田家を林道家の下に置くことを決めた。


 その遺志を実現するなら、これから景継にもやるべきことが山ほどある。


 だが利家は首を振った。


「それは、葬儀が終わってからだ」


「……」


「勝家様も、亡くなった直後から領地の話を始められては怒るだろう」


 景継は少しだけ考えた。


「確かに」


「まずは見送ろう」


「ええ」


 景継も頷いた。



 ◇



 勝家の葬儀は、盛大なものとなった。


 柴田家の者だけではない。


 勝家と縁のあった武将や寺社、周辺の国人たちからも次々と弔意が届けられた。


 織田家を長く支えてきた重臣。


 幾多の戦場を駆け抜けた猛将。


 鬼柴田。


 その名を知らぬ者は少ない。


 棺の前には、市が座っていた。


 泣き腫らした目をしている。


 それでも、勝家の妻として最後まで背筋を伸ばしていた。


 利家も、その近くにいる。


 景継は少し離れた場所から二人を見ていた。


 やがて自分の番が来る。


 棺の前へ進み、静かに座る。


 昨夜、最後に見た勝家の顔を思い出した。


『途中で……くたばるなよ』


『俺から柴田まで預かるんだ』


『先に死んだら……許さんぞ』


「……勝手なことをおっしゃいますね」


 誰にも聞こえないほどの声で呟いた。


 自分は先に逝く。


 だが、お前は死ぬな。


 柴田家も守れ。


 実に勝家らしい。


 景継は深く頭を下げた。


「お任せください」


 それだけを告げた。



 葬儀が終わった後、市が景継のところへ来た。


「景継殿」


「市様」


「ありがとうございました」


「私は何も」


「最後に、あなたが来てくださってよかった」


 景継は答えなかった。


「勝家様は、待っておられたのだと思います」


「私を?」


「はい」


 市が僅かに笑う。


「柴田家のことをあなたに託して、それでもまだ言い足りないことがあったのでしょう」


「ずいぶんと言われましたよ」


「そうでしょうね」


「最後まで怒られました」


「それも、あの方らしい」


 二人とも少しだけ笑った。


 だが、その笑みはすぐに消えた。


「市様」


「はい」


「これからのことですが」


 市は静かに景継を見る。


「今すぐ決める必要はありません」


「……」


「勝家様から、市様のことも頼まれました。ですが、市様ご自身から言われた通りです。市様のこれからを、私や勝家様が勝手に決めることはできません」


「覚えておられたのですね」


「怒られましたから」


 市が少し笑った。


「ですから、ゆっくりお考えください。どこで暮らすのかも、これから何をなさるのかも」


「ありがとうございます」


「ただ、困ったことがあればおっしゃってください」


「その時は、遠慮なく」


「はい」


 市は少しだけ空を見上げた。


「私は、生きなければなりませんから」


 景継は何も言わず、頷いた。


 それが勝家との最後の約束なのだろう。



 ◇



 その夜。


 城内が静まり返った頃になっても、景継は眠れなかった。


 部屋には一人だった。


 目の前には、一本の酒が置かれている。


 勝家へ渡すために持ってきた酒。


 結局、勝家が口をつけることはなかった。


 景継はしばらく、その酒を眺めていた。


 やがて栓を開ける。


 用意した杯は二つ。


 一つを自分の前へ置く。


 もう一つを、向かい側へ置いた。


 そこには誰もいない。


 景継は二つの杯に酒を注いだ。


「勝家様」


 呼んでみる。


 当然、返事はない。


「結局、飲んでいただけませんでしたね」


 景継は自分の杯を持ち上げた。


「上等なものを持ってこいと、あれほど言われたので」


 一口飲む。


 口の中に酒の香りが広がった。


 景継は少しだけ目を細める。


「……美味いですよ」


 向かい側の杯を見る。


「上等なものを選んだと言ったでしょう」


 静かな部屋に、景継の声だけが響く。


 返事はない。


 分かっている。


 それでも景継は、しばらく向かい側を見ていた。


「文句の一つくらい、言ってくださいよ」


 勝家なら何と言っただろう。


 遅い。


 もっと早く持ってこい。


 量が少ない。


 あるいは、本当に旨ければ素直に旨いと言ったかもしれない。


 景継には分からなかった。


 もう確かめることもできない。


 もう一口、酒を飲む。


「……勝家様」


 景継は杯を置いた。


「私は前にも、大切な方を失いました」


 信長。


 かつての主君であり、最後には前世から続く因縁まで知ることになった男。


 そして今度は勝家だった。


「何度経験しても、慣れるものではありませんね」


 返事はない。


 景継は少しだけ俯いた。


「柴田家のことは、お任せください」


 昨夜も言った言葉を、もう一度口にする。


「簡単ではないでしょう」


 勝家ほどの男が束ねていた家だ。


 勝家がいなくなった瞬間、すべてが景継に従うわけではない。


 反発する者もいる。


 離れる者もいる。


 自らの領地を守ろうとする者もいるだろう。


「それでも、残します」


 景継は向かいの杯を見る。


「柴田の名は消しません」


 しばらくして、景継は自分の杯を持ち上げた。


「勝家様」


 誰もいない場所へ向ける。


「お疲れさまでした」


 静かに酒を飲む。


 向かい側の杯には、最後まで手をつけなかった。



 ◇



 翌日から、景継は柴田家の者たちと今後について話し始めた。


 ただし、この場ですべてを決めることはしなかった。


 勝家が亡くなった直後である。


 家臣たちの感情も整理されていない。


 勝家の遺志については利家から主要な者たちへ伝えてもらい、本格的な話し合いは改めて行うことにした。


 当然、驚きは広がった。


 柴田家を林道家の下へ置く。


 勝家本人が決めたこととはいえ、すぐに全員が受け入れられる話ではない。


 だが、それは後で向き合えばいい。


 今は勝家を見送ったばかりなのだ。


 数日後、景継は越前を発った。


 出立前、市と利家に挨拶をする。


「また来ます」


「今度は、もう少し穏やかな時に来てくださいませ」


 市が言った。


「そうしたいですね」


 利家は景継を見る。


「次に来る時は、柴田の今後を決めることになる」


「ええ」


「勝家様の遺志だからといって、皆が黙って従うとは思わないでくれ」


「思っていませんよ」


「ならいい」


「利家殿」


「何だ」


「お願いします」


 景継は頭を下げた。


 利家が僅かに目を見開く。


「勝家様がいなくなった今、柴田家の方々と私の間に立てるのは、利家殿だと思っています」


「……分かった」


 利家は力強く頷いた。


「俺も、勝家様の最後の願いを無駄にはしたくない」


「ありがとうございます」


 景継は越前を後にした。



 ◇



 戻った景継を、楓が迎えた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま戻りました」


 その言葉を口にして、景継は少しだけ不思議な気持ちになった。


 以前は城へ帰っても、まず待っているのは仕事だった。


 今は違う。


 帰れば、楓がいる。


「お疲れでしょう」


「少し」


「今日はお休みください」


「そういうわけにも」


「休んでください」


 景継が楓を見る。


「……はい」


「よろしい」


「勝家様だけでなく、楓にまで逆らえなくなってきましたね」


「良いことです」


 景継は僅かに笑った。


 楓はそれを見て、少し安心したようだった。


「勝家様は……」


「最期まで、勝家様でした」


「そうですか」


「ええ」


 景継はそれ以上多くを語らなかった。


 楓も聞かなかった。


 ただ、その日は久しぶりにゆっくりと食事を取り、早く床についた。



 それから、さらに幾日かが過ぎた。


 景継は少しずつ普段の生活へ戻っていった。


 新領の統治。


 柴田家との今後の調整。


 各地から届く報告。


 やるべきことはいくらでもある。


 そんなある日の朝だった。


「楓様?」


 侍女の声がした。


 景継が振り向く。


 少し離れたところで、楓が柱に手をついていた。


「楓?」


「大丈夫です」


「大丈夫には見えませんが」


「少し気分が悪くなっただけです」


 景継が近づく。


「休んでください」


「景継様に言われるとは思いませんでした」


「私でもそれくらいは言いますよ」


 楓は笑ったが、顔色はあまり良くなかった。


 その日は休むことになった。


 翌日には幾分よくなったものの、数日後、再び体調を崩した。


 心配した侍女たちが診てもらうよう勧めた。


 景継もそうするよう言った。


 そして、さらに数日が過ぎた。



 ◇



「景継様」


 その日の夕刻。


 仕事を終えた景継のところへ、楓がやって来た。


「どうしました?」


「少し、お時間をいただけますか」


「もちろんです」


 景継は書状を置いた。


 楓が向かい側へ座る。


 どこか落ち着かない様子だった。


「体調はもうよろしいのですか?」


「はい」


「それならよかった」


「そのことなのですが」


「はい?」


 楓は一度息を整えた。


 それから、自らの腹へそっと手を添えた。


「景継様」


「はい」


「やや子を身籠りました」


 景継の動きが止まった。


「……」


 しばらく、言葉が出てこない。


「景継様?」


「……やや子?」


「はい」


「私と、楓の?」


 楓が思わず笑った。


「他に誰がおりますか」


「それは、そうなのですが」


 景継は珍しく完全に言葉を失っていた。


「本当なのですか?」


「診ていただきました。間違いないだろうと」


「……そうですか」


 景継はそれだけ言った。


 楓が少しだけ不安そうな顔をする。


「嬉しく……ありませんか?」


「違います」


 景継はすぐに答えた。


「そうではありません」


 自分でも、どういう顔をすればいいのか分からなかった。


 嬉しい。


 間違いなく嬉しい。


 だが、その知らせを聞いた瞬間、景継の頭には別の顔も浮かんでいた。


 大きな声で怒鳴る男。


 最後まで自分に無理難題を押しつけて逝った男。


「……不思議ですね」


「何がです?」


 景継は楓の腹へ目を向けた。


「人はいなくなるのに……また、生まれてくる」


 楓は何も言わなかった。


「つい先日、一人の方を見送ったばかりなのに」


「……はい」


「今度は、新しい命が生まれようとしている」


 景継は静かに笑った。


 悲しみが消えたわけではない。


 勝家を失った穴が埋まったわけでもない。


 それでも今、確かに嬉しかった。


 悲しいことと嬉しいことは、どちらか一つしか胸に置けないものではないらしい。


 景継は楓の手に、自分の手を重ねた。


「ありがとうございます」


「私一人で授かったわけではありませんよ」


「……そうでした」


「景継様は、時々妙なことをおっしゃいますね」


「よく分からなくなっているのです」


 楓が笑う。


 景継も少しだけ笑った。


 それから、ふと呟く。


「勝家様にも……お伝えしたかったですね」


 楓の表情が柔らかくなった。


「きっと、お喜びになられたでしょう」


「どうでしょう」


「きっとそうです」


 景継は勝家の顔を思い浮かべた。


「私の子なら、さぞ面倒な子になる、と言われそうです」


「ありそうですね」


「そこは否定してください」


「難しいお願いです」


 景継が思わず笑った。


 勝家が亡くなってから、初めて心の底から出た笑いだった。


 楓も笑っていた。


 しばらくして、景継はもう一度、楓の腹へ視線を落とした。


 まだ何も見えない。


 どのような子なのかも分からない。


 男なのか、女なのか。


 無事に生まれてきてくれるのかさえ、今はまだ分からない。


 それでも、そこには確かに新しい命がある。


 一つの命を見送ったばかりだった。


 そして今、また一つの命が、この世へ生まれようとしている。


 景継は楓の手を握った。


「楓」


「はい」


「身体を大切にしてください」


「景継様も」


「私もですか?」


「勝家様から言われたのでしょう?」


 景継は目を瞬いた。


「途中でくたばるな、と」


「……どうしてそれを?」


「利家殿から少し」


「利家殿も余計なことを」


「余計ではありません」


 楓は景継の手を握り返した。


「この子が生まれるのですから」


 景継は何も言わなかった。


 やがて、静かに頷く。


「そうですね」


 勝家から託されたものがある。


 そして今、新たに守るべき命が生まれようとしている。


 景継はもう一度、楓の腹を見た。


 そして心の中で、亡き友へ語りかける。


 勝家様。


 どうやら私には、まだまだ生きていなければならない理由があるようです。



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