第百七十六話「命」
柴田勝家が息を引き取った翌朝。
城には、昨夜までとはまるで違う空気が流れていた。
家臣たちは声を潜め、廊下を行き交う足音さえ小さい。
誰もが分かっている。
柴田家を長く率いてきた男は、もういない。
その死はすぐに柴田家中へ伝えられた。
驚き、泣き崩れる者。
言葉を失ったまま、その場に座り込む者。
すぐに今後の柴田家を案じ始める者。
受け止め方はそれぞれだったが、勝家という大きな柱を失った衝撃だけは同じだった。
景継は、その様子を静かに見ていた。
昨夜からほとんど眠っていない。
それでも休む気にはなれなかった。
「景継殿」
声をかけてきたのは利家だった。
「少しお休みになった方がいい」
「利家殿こそ」
「俺は柴田の家臣だ。今は休んでいる場合ではない」
「でしたら、私も同じようなものですよ」
利家が景継を見る。
勝家は死の直前、柴田家を林道家の下に置くことを決めた。
その遺志を実現するなら、これから景継にもやるべきことが山ほどある。
だが利家は首を振った。
「それは、葬儀が終わってからだ」
「……」
「勝家様も、亡くなった直後から領地の話を始められては怒るだろう」
景継は少しだけ考えた。
「確かに」
「まずは見送ろう」
「ええ」
景継も頷いた。
◇
勝家の葬儀は、盛大なものとなった。
柴田家の者だけではない。
勝家と縁のあった武将や寺社、周辺の国人たちからも次々と弔意が届けられた。
織田家を長く支えてきた重臣。
幾多の戦場を駆け抜けた猛将。
鬼柴田。
その名を知らぬ者は少ない。
棺の前には、市が座っていた。
泣き腫らした目をしている。
それでも、勝家の妻として最後まで背筋を伸ばしていた。
利家も、その近くにいる。
景継は少し離れた場所から二人を見ていた。
やがて自分の番が来る。
棺の前へ進み、静かに座る。
昨夜、最後に見た勝家の顔を思い出した。
『途中で……くたばるなよ』
『俺から柴田まで預かるんだ』
『先に死んだら……許さんぞ』
「……勝手なことをおっしゃいますね」
誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
自分は先に逝く。
だが、お前は死ぬな。
柴田家も守れ。
実に勝家らしい。
景継は深く頭を下げた。
「お任せください」
それだけを告げた。
葬儀が終わった後、市が景継のところへ来た。
「景継殿」
「市様」
「ありがとうございました」
「私は何も」
「最後に、あなたが来てくださってよかった」
景継は答えなかった。
「勝家様は、待っておられたのだと思います」
「私を?」
「はい」
市が僅かに笑う。
「柴田家のことをあなたに託して、それでもまだ言い足りないことがあったのでしょう」
「ずいぶんと言われましたよ」
「そうでしょうね」
「最後まで怒られました」
「それも、あの方らしい」
二人とも少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「市様」
「はい」
「これからのことですが」
市は静かに景継を見る。
「今すぐ決める必要はありません」
「……」
「勝家様から、市様のことも頼まれました。ですが、市様ご自身から言われた通りです。市様のこれからを、私や勝家様が勝手に決めることはできません」
「覚えておられたのですね」
「怒られましたから」
市が少し笑った。
「ですから、ゆっくりお考えください。どこで暮らすのかも、これから何をなさるのかも」
「ありがとうございます」
「ただ、困ったことがあればおっしゃってください」
「その時は、遠慮なく」
「はい」
市は少しだけ空を見上げた。
「私は、生きなければなりませんから」
景継は何も言わず、頷いた。
それが勝家との最後の約束なのだろう。
◇
その夜。
城内が静まり返った頃になっても、景継は眠れなかった。
部屋には一人だった。
目の前には、一本の酒が置かれている。
勝家へ渡すために持ってきた酒。
結局、勝家が口をつけることはなかった。
景継はしばらく、その酒を眺めていた。
やがて栓を開ける。
用意した杯は二つ。
一つを自分の前へ置く。
もう一つを、向かい側へ置いた。
そこには誰もいない。
景継は二つの杯に酒を注いだ。
「勝家様」
呼んでみる。
当然、返事はない。
「結局、飲んでいただけませんでしたね」
景継は自分の杯を持ち上げた。
「上等なものを持ってこいと、あれほど言われたので」
一口飲む。
口の中に酒の香りが広がった。
景継は少しだけ目を細める。
「……美味いですよ」
向かい側の杯を見る。
「上等なものを選んだと言ったでしょう」
静かな部屋に、景継の声だけが響く。
返事はない。
分かっている。
それでも景継は、しばらく向かい側を見ていた。
「文句の一つくらい、言ってくださいよ」
勝家なら何と言っただろう。
遅い。
もっと早く持ってこい。
量が少ない。
あるいは、本当に旨ければ素直に旨いと言ったかもしれない。
景継には分からなかった。
もう確かめることもできない。
もう一口、酒を飲む。
「……勝家様」
景継は杯を置いた。
「私は前にも、大切な方を失いました」
信長。
かつての主君であり、最後には前世から続く因縁まで知ることになった男。
そして今度は勝家だった。
「何度経験しても、慣れるものではありませんね」
返事はない。
景継は少しだけ俯いた。
「柴田家のことは、お任せください」
昨夜も言った言葉を、もう一度口にする。
「簡単ではないでしょう」
勝家ほどの男が束ねていた家だ。
勝家がいなくなった瞬間、すべてが景継に従うわけではない。
反発する者もいる。
離れる者もいる。
自らの領地を守ろうとする者もいるだろう。
「それでも、残します」
景継は向かいの杯を見る。
「柴田の名は消しません」
しばらくして、景継は自分の杯を持ち上げた。
「勝家様」
誰もいない場所へ向ける。
「お疲れさまでした」
静かに酒を飲む。
向かい側の杯には、最後まで手をつけなかった。
◇
翌日から、景継は柴田家の者たちと今後について話し始めた。
ただし、この場ですべてを決めることはしなかった。
勝家が亡くなった直後である。
家臣たちの感情も整理されていない。
勝家の遺志については利家から主要な者たちへ伝えてもらい、本格的な話し合いは改めて行うことにした。
当然、驚きは広がった。
柴田家を林道家の下へ置く。
勝家本人が決めたこととはいえ、すぐに全員が受け入れられる話ではない。
だが、それは後で向き合えばいい。
今は勝家を見送ったばかりなのだ。
数日後、景継は越前を発った。
出立前、市と利家に挨拶をする。
「また来ます」
「今度は、もう少し穏やかな時に来てくださいませ」
市が言った。
「そうしたいですね」
利家は景継を見る。
「次に来る時は、柴田の今後を決めることになる」
「ええ」
「勝家様の遺志だからといって、皆が黙って従うとは思わないでくれ」
「思っていませんよ」
「ならいい」
「利家殿」
「何だ」
「お願いします」
景継は頭を下げた。
利家が僅かに目を見開く。
「勝家様がいなくなった今、柴田家の方々と私の間に立てるのは、利家殿だと思っています」
「……分かった」
利家は力強く頷いた。
「俺も、勝家様の最後の願いを無駄にはしたくない」
「ありがとうございます」
景継は越前を後にした。
◇
戻った景継を、楓が迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました」
その言葉を口にして、景継は少しだけ不思議な気持ちになった。
以前は城へ帰っても、まず待っているのは仕事だった。
今は違う。
帰れば、楓がいる。
「お疲れでしょう」
「少し」
「今日はお休みください」
「そういうわけにも」
「休んでください」
景継が楓を見る。
「……はい」
「よろしい」
「勝家様だけでなく、楓にまで逆らえなくなってきましたね」
「良いことです」
景継は僅かに笑った。
楓はそれを見て、少し安心したようだった。
「勝家様は……」
「最期まで、勝家様でした」
「そうですか」
「ええ」
景継はそれ以上多くを語らなかった。
楓も聞かなかった。
ただ、その日は久しぶりにゆっくりと食事を取り、早く床についた。
それから、さらに幾日かが過ぎた。
景継は少しずつ普段の生活へ戻っていった。
新領の統治。
柴田家との今後の調整。
各地から届く報告。
やるべきことはいくらでもある。
そんなある日の朝だった。
「楓様?」
侍女の声がした。
景継が振り向く。
少し離れたところで、楓が柱に手をついていた。
「楓?」
「大丈夫です」
「大丈夫には見えませんが」
「少し気分が悪くなっただけです」
景継が近づく。
「休んでください」
「景継様に言われるとは思いませんでした」
「私でもそれくらいは言いますよ」
楓は笑ったが、顔色はあまり良くなかった。
その日は休むことになった。
翌日には幾分よくなったものの、数日後、再び体調を崩した。
心配した侍女たちが診てもらうよう勧めた。
景継もそうするよう言った。
そして、さらに数日が過ぎた。
◇
「景継様」
その日の夕刻。
仕事を終えた景継のところへ、楓がやって来た。
「どうしました?」
「少し、お時間をいただけますか」
「もちろんです」
景継は書状を置いた。
楓が向かい側へ座る。
どこか落ち着かない様子だった。
「体調はもうよろしいのですか?」
「はい」
「それならよかった」
「そのことなのですが」
「はい?」
楓は一度息を整えた。
それから、自らの腹へそっと手を添えた。
「景継様」
「はい」
「やや子を身籠りました」
景継の動きが止まった。
「……」
しばらく、言葉が出てこない。
「景継様?」
「……やや子?」
「はい」
「私と、楓の?」
楓が思わず笑った。
「他に誰がおりますか」
「それは、そうなのですが」
景継は珍しく完全に言葉を失っていた。
「本当なのですか?」
「診ていただきました。間違いないだろうと」
「……そうですか」
景継はそれだけ言った。
楓が少しだけ不安そうな顔をする。
「嬉しく……ありませんか?」
「違います」
景継はすぐに答えた。
「そうではありません」
自分でも、どういう顔をすればいいのか分からなかった。
嬉しい。
間違いなく嬉しい。
だが、その知らせを聞いた瞬間、景継の頭には別の顔も浮かんでいた。
大きな声で怒鳴る男。
最後まで自分に無理難題を押しつけて逝った男。
「……不思議ですね」
「何がです?」
景継は楓の腹へ目を向けた。
「人はいなくなるのに……また、生まれてくる」
楓は何も言わなかった。
「つい先日、一人の方を見送ったばかりなのに」
「……はい」
「今度は、新しい命が生まれようとしている」
景継は静かに笑った。
悲しみが消えたわけではない。
勝家を失った穴が埋まったわけでもない。
それでも今、確かに嬉しかった。
悲しいことと嬉しいことは、どちらか一つしか胸に置けないものではないらしい。
景継は楓の手に、自分の手を重ねた。
「ありがとうございます」
「私一人で授かったわけではありませんよ」
「……そうでした」
「景継様は、時々妙なことをおっしゃいますね」
「よく分からなくなっているのです」
楓が笑う。
景継も少しだけ笑った。
それから、ふと呟く。
「勝家様にも……お伝えしたかったですね」
楓の表情が柔らかくなった。
「きっと、お喜びになられたでしょう」
「どうでしょう」
「きっとそうです」
景継は勝家の顔を思い浮かべた。
「私の子なら、さぞ面倒な子になる、と言われそうです」
「ありそうですね」
「そこは否定してください」
「難しいお願いです」
景継が思わず笑った。
勝家が亡くなってから、初めて心の底から出た笑いだった。
楓も笑っていた。
しばらくして、景継はもう一度、楓の腹へ視線を落とした。
まだ何も見えない。
どのような子なのかも分からない。
男なのか、女なのか。
無事に生まれてきてくれるのかさえ、今はまだ分からない。
それでも、そこには確かに新しい命がある。
一つの命を見送ったばかりだった。
そして今、また一つの命が、この世へ生まれようとしている。
景継は楓の手を握った。
「楓」
「はい」
「身体を大切にしてください」
「景継様も」
「私もですか?」
「勝家様から言われたのでしょう?」
景継は目を瞬いた。
「途中でくたばるな、と」
「……どうしてそれを?」
「利家殿から少し」
「利家殿も余計なことを」
「余計ではありません」
楓は景継の手を握り返した。
「この子が生まれるのですから」
景継は何も言わなかった。
やがて、静かに頷く。
「そうですね」
勝家から託されたものがある。
そして今、新たに守るべき命が生まれようとしている。
景継はもう一度、楓の腹を見た。
そして心の中で、亡き友へ語りかける。
勝家様。
どうやら私には、まだまだ生きていなければならない理由があるようです。




