第百七十五話 柴田勝家
景継が越前を離れてから、十日ほどが過ぎた。
勝家の体調は、一度は落ち着いたように見えた。
食事も取れている。短い時間ならば評定にも顔を出し、家臣から報告を受ければ、以前と変わらぬ調子で指示を飛ばした。
利家が休むように言えば、
「お前は最近、それしか言わんな」
と、不満そうに返すほどだった。
だが、それは長く続かなかった。
ある朝、勝家は床から起き上がることができなかった。
「……勝家様」
市が呼びかける。
「聞こえておる」
返事はある。
しかし、その声には明らかに力がなかった。
すぐに医師が呼ばれ、診察が行われた。
その間、利家は部屋の外で待っていた。
やがて襖が開き、医師が出てくる。
「どうなのだ」
利家が詰め寄った。
医師はすぐには答えなかった。
その表情だけで、利家には分かってしまった。
「……どれほどだ」
「分かりませぬ」
「分からぬとは何だ」
「数日かもしれませぬ。もう少し持たれるかもしれませぬ。ただ……」
医師が目を伏せる。
「覚悟は、なされた方がよろしいかと」
利家は何も言えなかった。
しばらくその場に立ち尽くした後、静かに頷く。
「分かった」
そして、すぐに家臣を呼んだ。
「馬を出せ」
「はっ」
「景継殿のところへ走れ」
家臣が顔を上げる。
「何とお伝えいたしましょう」
利家は一瞬だけ迷った。
「勝家様の容体が急変した」
そこで言葉を切り、声を強める。
「一刻も早く来てほしいとな」
◇
急使が景継のもとへ到着したのは、その翌日だった。
「勝家様が?」
景継は立ち上がった。
「はい。利家様より、一刻も早くお越しいただきたいと」
「……分かりました」
すぐに弥兵衛を見る。
「馬を」
「はっ」
「供は最小限で構いません。すぐに出ます」
景継は部屋を出ようとした。
だが、数歩進んだところで足を止めた。
「殿?」
「少し待ってください」
景継は踵を返した。
向かったのは、以前から目をつけていた酒を置いている場所だった。
その中から一本を手に取る。
弥兵衛がそれを見た。
「それは……」
「約束しましたから」
次に会う時は、酒を持っていく。
上等なものにしろ。
安物なら追い返す。
つい先日、勝家と交わしたばかりの約束だった。
「持っていきます」
「……はい」
弥兵衛は、それ以上何も言わなかった。
出立しようとすると、楓が駆けつけてきた。
「景継様」
「楓」
「勝家様が?」
「容体が悪くなったそうです」
「……そうですか」
「行ってきます」
楓は景継の顔を見つめた。
前に越前へ送り出した時、楓は景継に勝家の顔をよく見てくるように言った。
今度は、その言葉を口にしなかった。
「お気をつけて」
「はい」
景継は馬へ乗った。
そして、そのまま越前へ向かった。
◇
「景継殿!」
城へ到着すると、利家が自ら出迎えた。
「勝家様は?」
「まだ意識はある」
その言葉を聞いて、景継は僅かに息を吐いた。
「会えますか」
「ああ」
利家が歩き出す。
「ただ……覚悟しておいてくれ」
景継は返事をしなかった。
廊下を進む。
勝家の部屋へ近づくにつれ、景継の足取りは僅かに遅くなった。
そして、襖が開く。
市が勝家の傍らに座っていた。
床に横たわる勝家は、十日ほど前とは明らかに違っていた。
頬が落ち、呼吸も浅い。
ほんの十日前には、自分を前にして笑っていた男とは思えないほどだった。
「勝家様」
景継が声をかける。
勝家の目がゆっくりと開いた。
「……来たか」
「はい」
景継はすぐに傍らへ座った。
「お待たせしました」
「今回は……早かったな」
「急ぎましたから」
「最初から……そうしろ」
弱々しい声だった。
それでも、間違いなくいつもの勝家だった。
「約束のものを持ってきました」
「……何だ」
景継が持ってきた酒を見せる。
勝家の目が僅かに動いた。
「酒か」
「ええ。上等なものを選んだつもりです」
「本当だろうな」
「飲んで確かめてください」
勝家が小さく笑った。
「今の俺に……飲ませる気か」
「一口くらいなら」
すると、市が景継を見る。
「景継殿」
「……駄目ですか?」
「医師に叱られます」
「そうですか」
勝家が鼻で笑った。
「市は……医者より厳しいぞ」
「勝家様が言うことを聞かれないからです」
「少しくらいよかろう」
「駄目です」
「……ほらな」
景継は思わず笑った。
勝家も笑う。
市も困ったように笑っていた。
少し離れたところに座っていた利家は、その光景を見ながら顔を伏せた。
あまりにも、いつも通りだったからだ。
この時間が終わろうとしていることを、認めたくなかった。
◇
しばらくして、勝家が景継を見る。
「柴田のこと……覚えておるな」
「もちろんです」
「忘れておったら……今からでも殴ってやるところだ」
「そのお身体でですか?」
「一発くらいなら……いける」
「では、忘れないようにします」
勝家が小さく笑った。
「頼むぞ」
「はい」
「俺が死んだからといって……好き勝手するな」
「しませんよ」
「本当か?」
「勝家様との約束ですから」
その言葉を聞き、勝家はゆっくりと目を閉じた。
「……なら、よい」
少しの間、部屋には勝家の呼吸だけが聞こえていた。
やがて再び目を開く。
「利家」
「はっ」
利家がすぐ近くへ寄った。
「お前にも……面倒をかけるな」
「何をおっしゃいます」
「柴田の者どもが揉めたら……お前が話せ」
「承知しております」
「佐々とも……よく話せ」
「はい」
「勝手に全部決めるなよ」
「勝家様ではありませんので」
「何だと」
利家が笑った。
「冗談にございます」
「まったく……戻ってきてから生意気になりおって」
勝家の口元も僅かに緩んだ。
そして、少し間を置いてから言った。
「利家」
「はい」
「戻ってきてくれて……よかった」
利家の表情が止まった。
「勝家様……」
「それだけだ」
利家は俯いた。
肩が僅かに震える。
「……はっ」
それ以上、声は続かなかった。
勝家は今度は市を見た。
「市」
「はい」
市が勝家の手を握る。
「前に言ったこと……忘れるな」
「何のことでしょう」
「とぼけるな」
「……」
「生きろ」
市の目に涙が浮かんだ。
「俺の後を追うな」
「勝家様……」
「お前まで来たら……向こうでも休めん」
市が涙を流しながら笑った。
「最後まで、そのようなことを」
「最後と決めるな」
「ご自分から死んだ後の話ばかりされているではありませんか」
「……そうだったな」
勝家も小さく笑った。
それから、市の手を僅かに握り返す。
「市」
「はい」
「ありがとうな」
市は勝家の手を強く握った。
「……私の方こそ」
涙が頬を伝う。
「あなた様と夫婦になれて、幸せでございました」
勝家は何も言わなかった。
ただ、市の顔をじっと見つめた。
やがて、その口元に穏やかな笑みが浮かぶ。
「……そうか」
短い言葉だった。
だが、市にはそれで十分だった。
しばらくして、勝家が再び景継を呼んだ。
「景継」
「はい」
「近くへ来い」
景継が身体を寄せる。
「何でしょう」
「……お前とは、随分長く一緒におった気がするな」
「そうですね」
「最初は……こんなことになるとは思わなんだ」
「私もです」
勝家は少しだけ笑った。
「お前は腹の内を見せん。妙な策ばかり考える。勝手に話を進める」
「ずいぶんな言われようですね」
「まだあるぞ」
「もう十分です」
「だが……」
勝家の声が少し弱くなった。
「面白かった」
景継は何も言えなかった。
「お前と一緒に戦っていると……退屈せんかった」
「勝家様」
「秀吉とやり合った時も……北ノ庄も……その後もな」
「……はい」
「俺は、いい戦をした」
勝家が天井を見る。
「信長様に仕え……戦って、戦って……最後まで戦のことばかりだった」
そこで少しだけ息を整える。
「悪くない人生だった」
景継の喉が詰まった。
それでも声を出す。
「まだ終わっていませんよ」
「……そうだったな」
「酒も飲んでいただいていません」
「それは……心残りだ」
「でしたら元気になってください」
「無茶を言うな」
「勝家様ならできます」
「何でも俺に押しつけるな」
二人は小さく笑った。
だが、景継の目にはすでに涙が浮かんでいた。
勝家がそれに気づく。
「何だ、景継」
「……何でしょう」
「泣いておるのか」
「泣いていません」
「嘘をつけ」
「勝家様こそ、目が悪くなられたのでは?」
「最後まで……可愛げのない奴だ」
「勝家様に教わりました」
「俺のせいにするな」
勝家が笑う。
その笑い声は、もうほとんど息に近かった。
「景継」
「はい」
「一つだけ……最後に言っておく」
景継は黙って、勝家の言葉を待った。
「途中で……くたばるなよ」
景継の表情が変わる。
「俺から柴田まで預かるんだ」
勝家が僅かに笑った。
「先に死んだら……許さんぞ」
「……はい」
「返事が小さい」
「はい」
景継は今度は強く答えた。
「分かりました」
「それでいい」
勝家は満足そうに目を閉じた。
◇
その夜。
景継たちは勝家のそばを離れなかった。
市はずっと勝家の手を握っていた。
利家も近くに座っている。
景継もまた、持ってきた酒を傍らに置いたまま、そこにいた。
夜が深くなる。
勝家の呼吸が、少しずつ弱くなっていった。
誰も余計なことは話さなかった。
ただ、同じ部屋にいた。
やがて勝家の目が僅かに開いた。
「……市」
「はい」
市がすぐに顔を寄せる。
「ここにおります」
「利家」
「はっ」
利家も近づいた。
「おります」
勝家が僅かに頷く。
そして最後に、もう一つの名を呼んだ。
「景継」
「はい」
景継は勝家のすぐそばへ寄った。
「ここにおります」
「……そうか」
勝家は安心したようだった。
三人の顔を確かめるように、ゆっくりと視線を動かす。
そして、ほんの僅かに笑った。
「なら……よい」
それが、柴田勝家の最後の言葉となった。
しばらくして、呼吸が止まった。
「勝家様?」
市が呼ぶ。
返事はない。
「勝家様……」
もう一度呼ぶ。
それでも、返事はなかった。
市は勝家の手を握ったまま、静かに俯いた。
やがて、その肩が震え始める。
利家は深く頭を下げた。
「……勝家様」
声が震えていた。
景継だけは、すぐには動けなかった。
目の前に横たわる男を見つめ続ける。
いつも大きな声で怒鳴っていた。
何度も意見をぶつけた。
何度も共に戦った。
景継の策に怒りながら、それでも最後には力を貸してくれた。
勝家がいたから乗り越えられた戦も、一度や二度ではない。
つい先ほどまで話していた。
なのに、もう声は返ってこない。
「……勝家様」
景継が呼んだ。
当然、返事はなかった。
その時になって初めて、景継の頬を涙が伝った。
傍らに置かれた酒を見る。
「酒……」
景継は手を伸ばし、持ってきた酒を握った。
「持ってきたのですが」
声が震えた。
「上等なものを選んだのですよ」
誰も答えない。
「飲んでいただかないと……困るではありませんか」
市が顔を伏せる。
利家も唇を噛んだ。
景継はしばらく酒を握りしめていた。
やがて、それを勝家の傍らへ静かに置く。
「……約束は守ります」
涙を拭うこともせず、景継は言った。
「柴田家は、必ず残します」
勝家から返事はない。
それでも景継は、深く頭を下げた。
「長い間……ありがとうございました」
鬼柴田と恐れられた男。
織田信長のもとで幾多の戦場を駆け、乱世を戦い抜いた柴田勝家。
享年、六十三。
その生涯が、静かに終わった。
そして景継はこの夜、大切な友を一人失った。




