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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第九章 天下再導編

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第百七十五話 柴田勝家



 景継が越前を離れてから、十日ほどが過ぎた。


 勝家の体調は、一度は落ち着いたように見えた。


 食事も取れている。短い時間ならば評定にも顔を出し、家臣から報告を受ければ、以前と変わらぬ調子で指示を飛ばした。


 利家が休むように言えば、


「お前は最近、それしか言わんな」


 と、不満そうに返すほどだった。


 だが、それは長く続かなかった。


 ある朝、勝家は床から起き上がることができなかった。


「……勝家様」


 市が呼びかける。


「聞こえておる」


 返事はある。


 しかし、その声には明らかに力がなかった。


 すぐに医師が呼ばれ、診察が行われた。


 その間、利家は部屋の外で待っていた。


 やがて襖が開き、医師が出てくる。


「どうなのだ」


 利家が詰め寄った。


 医師はすぐには答えなかった。


 その表情だけで、利家には分かってしまった。


「……どれほどだ」


「分かりませぬ」


「分からぬとは何だ」


「数日かもしれませぬ。もう少し持たれるかもしれませぬ。ただ……」


 医師が目を伏せる。


「覚悟は、なされた方がよろしいかと」


 利家は何も言えなかった。


 しばらくその場に立ち尽くした後、静かに頷く。


「分かった」


 そして、すぐに家臣を呼んだ。


「馬を出せ」


「はっ」


「景継殿のところへ走れ」


 家臣が顔を上げる。


「何とお伝えいたしましょう」


 利家は一瞬だけ迷った。


「勝家様の容体が急変した」


 そこで言葉を切り、声を強める。


「一刻も早く来てほしいとな」



 ◇



 急使が景継のもとへ到着したのは、その翌日だった。


「勝家様が?」


 景継は立ち上がった。


「はい。利家様より、一刻も早くお越しいただきたいと」


「……分かりました」


 すぐに弥兵衛を見る。


「馬を」


「はっ」


「供は最小限で構いません。すぐに出ます」


 景継は部屋を出ようとした。


 だが、数歩進んだところで足を止めた。


「殿?」


「少し待ってください」


 景継は踵を返した。


 向かったのは、以前から目をつけていた酒を置いている場所だった。


 その中から一本を手に取る。


 弥兵衛がそれを見た。


「それは……」


「約束しましたから」


 次に会う時は、酒を持っていく。


 上等なものにしろ。


 安物なら追い返す。


 つい先日、勝家と交わしたばかりの約束だった。


「持っていきます」


「……はい」


 弥兵衛は、それ以上何も言わなかった。


 出立しようとすると、楓が駆けつけてきた。


「景継様」


「楓」


「勝家様が?」


「容体が悪くなったそうです」


「……そうですか」


「行ってきます」


 楓は景継の顔を見つめた。


 前に越前へ送り出した時、楓は景継に勝家の顔をよく見てくるように言った。


 今度は、その言葉を口にしなかった。


「お気をつけて」


「はい」


 景継は馬へ乗った。


 そして、そのまま越前へ向かった。



 ◇



「景継殿!」


 城へ到着すると、利家が自ら出迎えた。


「勝家様は?」


「まだ意識はある」


 その言葉を聞いて、景継は僅かに息を吐いた。


「会えますか」


「ああ」


 利家が歩き出す。


「ただ……覚悟しておいてくれ」


 景継は返事をしなかった。


 廊下を進む。


 勝家の部屋へ近づくにつれ、景継の足取りは僅かに遅くなった。


 そして、襖が開く。


 市が勝家の傍らに座っていた。


 床に横たわる勝家は、十日ほど前とは明らかに違っていた。


 頬が落ち、呼吸も浅い。


 ほんの十日前には、自分を前にして笑っていた男とは思えないほどだった。


「勝家様」


 景継が声をかける。


 勝家の目がゆっくりと開いた。


「……来たか」


「はい」


 景継はすぐに傍らへ座った。


「お待たせしました」


「今回は……早かったな」


「急ぎましたから」


「最初から……そうしろ」


 弱々しい声だった。


 それでも、間違いなくいつもの勝家だった。


「約束のものを持ってきました」


「……何だ」


 景継が持ってきた酒を見せる。


 勝家の目が僅かに動いた。


「酒か」


「ええ。上等なものを選んだつもりです」


「本当だろうな」


「飲んで確かめてください」


 勝家が小さく笑った。


「今の俺に……飲ませる気か」


「一口くらいなら」


 すると、市が景継を見る。


「景継殿」


「……駄目ですか?」


「医師に叱られます」


「そうですか」


 勝家が鼻で笑った。


「市は……医者より厳しいぞ」


「勝家様が言うことを聞かれないからです」


「少しくらいよかろう」


「駄目です」


「……ほらな」


 景継は思わず笑った。


 勝家も笑う。


 市も困ったように笑っていた。


 少し離れたところに座っていた利家は、その光景を見ながら顔を伏せた。


 あまりにも、いつも通りだったからだ。


 この時間が終わろうとしていることを、認めたくなかった。



 ◇



 しばらくして、勝家が景継を見る。


「柴田のこと……覚えておるな」


「もちろんです」


「忘れておったら……今からでも殴ってやるところだ」


「そのお身体でですか?」


「一発くらいなら……いける」


「では、忘れないようにします」


 勝家が小さく笑った。


「頼むぞ」


「はい」


「俺が死んだからといって……好き勝手するな」


「しませんよ」


「本当か?」


「勝家様との約束ですから」


 その言葉を聞き、勝家はゆっくりと目を閉じた。


「……なら、よい」


 少しの間、部屋には勝家の呼吸だけが聞こえていた。


 やがて再び目を開く。


「利家」


「はっ」


 利家がすぐ近くへ寄った。


「お前にも……面倒をかけるな」


「何をおっしゃいます」


「柴田の者どもが揉めたら……お前が話せ」


「承知しております」


「佐々とも……よく話せ」


「はい」


「勝手に全部決めるなよ」


「勝家様ではありませんので」


「何だと」


 利家が笑った。


「冗談にございます」


「まったく……戻ってきてから生意気になりおって」


 勝家の口元も僅かに緩んだ。


 そして、少し間を置いてから言った。


「利家」


「はい」


「戻ってきてくれて……よかった」


 利家の表情が止まった。


「勝家様……」


「それだけだ」


 利家は俯いた。


 肩が僅かに震える。


「……はっ」


 それ以上、声は続かなかった。


 勝家は今度は市を見た。


「市」


「はい」


 市が勝家の手を握る。


「前に言ったこと……忘れるな」


「何のことでしょう」


「とぼけるな」


「……」


「生きろ」


 市の目に涙が浮かんだ。


「俺の後を追うな」


「勝家様……」


「お前まで来たら……向こうでも休めん」


 市が涙を流しながら笑った。


「最後まで、そのようなことを」


「最後と決めるな」


「ご自分から死んだ後の話ばかりされているではありませんか」


「……そうだったな」


 勝家も小さく笑った。


 それから、市の手を僅かに握り返す。


「市」


「はい」


「ありがとうな」


 市は勝家の手を強く握った。


「……私の方こそ」


 涙が頬を伝う。


「あなた様と夫婦になれて、幸せでございました」


 勝家は何も言わなかった。


 ただ、市の顔をじっと見つめた。


 やがて、その口元に穏やかな笑みが浮かぶ。


「……そうか」


 短い言葉だった。


 だが、市にはそれで十分だった。



 しばらくして、勝家が再び景継を呼んだ。


「景継」


「はい」


「近くへ来い」


 景継が身体を寄せる。


「何でしょう」


「……お前とは、随分長く一緒におった気がするな」


「そうですね」


「最初は……こんなことになるとは思わなんだ」


「私もです」


 勝家は少しだけ笑った。


「お前は腹の内を見せん。妙な策ばかり考える。勝手に話を進める」


「ずいぶんな言われようですね」


「まだあるぞ」


「もう十分です」


「だが……」


 勝家の声が少し弱くなった。


「面白かった」


 景継は何も言えなかった。


「お前と一緒に戦っていると……退屈せんかった」


「勝家様」


「秀吉とやり合った時も……北ノ庄も……その後もな」


「……はい」


「俺は、いい戦をした」


 勝家が天井を見る。


「信長様に仕え……戦って、戦って……最後まで戦のことばかりだった」


 そこで少しだけ息を整える。


「悪くない人生だった」


 景継の喉が詰まった。


 それでも声を出す。


「まだ終わっていませんよ」


「……そうだったな」


「酒も飲んでいただいていません」


「それは……心残りだ」


「でしたら元気になってください」


「無茶を言うな」


「勝家様ならできます」


「何でも俺に押しつけるな」


 二人は小さく笑った。


 だが、景継の目にはすでに涙が浮かんでいた。


 勝家がそれに気づく。


「何だ、景継」


「……何でしょう」


「泣いておるのか」


「泣いていません」


「嘘をつけ」


「勝家様こそ、目が悪くなられたのでは?」


「最後まで……可愛げのない奴だ」


「勝家様に教わりました」


「俺のせいにするな」


 勝家が笑う。


 その笑い声は、もうほとんど息に近かった。


「景継」


「はい」


「一つだけ……最後に言っておく」


 景継は黙って、勝家の言葉を待った。


「途中で……くたばるなよ」


 景継の表情が変わる。


「俺から柴田まで預かるんだ」


 勝家が僅かに笑った。


「先に死んだら……許さんぞ」


「……はい」


「返事が小さい」


「はい」


 景継は今度は強く答えた。


「分かりました」


「それでいい」


 勝家は満足そうに目を閉じた。



 ◇



 その夜。


 景継たちは勝家のそばを離れなかった。


 市はずっと勝家の手を握っていた。


 利家も近くに座っている。


 景継もまた、持ってきた酒を傍らに置いたまま、そこにいた。


 夜が深くなる。


 勝家の呼吸が、少しずつ弱くなっていった。


 誰も余計なことは話さなかった。


 ただ、同じ部屋にいた。


 やがて勝家の目が僅かに開いた。


「……市」


「はい」


 市がすぐに顔を寄せる。


「ここにおります」


「利家」


「はっ」


 利家も近づいた。


「おります」


 勝家が僅かに頷く。


 そして最後に、もう一つの名を呼んだ。


「景継」


「はい」


 景継は勝家のすぐそばへ寄った。


「ここにおります」


「……そうか」


 勝家は安心したようだった。


 三人の顔を確かめるように、ゆっくりと視線を動かす。


 そして、ほんの僅かに笑った。


「なら……よい」


 それが、柴田勝家の最後の言葉となった。


 しばらくして、呼吸が止まった。


「勝家様?」


 市が呼ぶ。


 返事はない。


「勝家様……」


 もう一度呼ぶ。


 それでも、返事はなかった。


 市は勝家の手を握ったまま、静かに俯いた。


 やがて、その肩が震え始める。


 利家は深く頭を下げた。


「……勝家様」


 声が震えていた。


 景継だけは、すぐには動けなかった。


 目の前に横たわる男を見つめ続ける。


 いつも大きな声で怒鳴っていた。


 何度も意見をぶつけた。


 何度も共に戦った。


 景継の策に怒りながら、それでも最後には力を貸してくれた。


 勝家がいたから乗り越えられた戦も、一度や二度ではない。


 つい先ほどまで話していた。


 なのに、もう声は返ってこない。


「……勝家様」


 景継が呼んだ。


 当然、返事はなかった。


 その時になって初めて、景継の頬を涙が伝った。


 傍らに置かれた酒を見る。


「酒……」


 景継は手を伸ばし、持ってきた酒を握った。


「持ってきたのですが」


 声が震えた。


「上等なものを選んだのですよ」


 誰も答えない。


「飲んでいただかないと……困るではありませんか」


 市が顔を伏せる。


 利家も唇を噛んだ。


 景継はしばらく酒を握りしめていた。


 やがて、それを勝家の傍らへ静かに置く。


「……約束は守ります」


 涙を拭うこともせず、景継は言った。


「柴田家は、必ず残します」


 勝家から返事はない。


 それでも景継は、深く頭を下げた。


「長い間……ありがとうございました」


 鬼柴田と恐れられた男。


 織田信長のもとで幾多の戦場を駆け、乱世を戦い抜いた柴田勝家。


 享年、六十三。


 その生涯が、静かに終わった。


 そして景継はこの夜、大切な友を一人失った。



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