第百七十四話「託すもの」
景継が帰った後も、勝家はすぐには休まなかった。
机の上には、越前、加賀、そして新たに柴田方の勢力圏となった土地を記した地図が広げられている。
これまで勝家が地図を見る時、考えることは決まっていた。
どこを守るか。
どこへ兵を置くか。
どの道を整えれば、いざという時に軍を素早く動かせるか。
だが今、勝家が考えているのは別のことだった。
自分がいなくなった後、この柴田家をどうするのか。
「まだご覧になっているのですか」
声に顔を上げると、市が立っていた。
「起きていたのか」
「それはこちらの言葉です」
市は勝家の隣へ座り、机の上の地図へ目を向けた。
「医師から休むように言われたのでしょう?」
「寝てばかりでは身体が鈍る」
「すでに十分すぎるほど働いてこられました」
「まだ足りん」
「何と戦っておられるのです?」
勝家は答えなかった。
市が小さく笑う。
「戦う相手がいなければ、ご自分の身体とまで戦われるのですね」
「……言うようになったな」
「長く夫婦をしておりますから」
勝家も僅かに笑った。
だが、その笑みは長く続かなかった。
「市」
「はい」
「俺が死んだ後、どうする」
市の表情から笑みが消えた。
「随分と勝手なことをお聞きになりますね」
「そうか?」
「私を一人残して先に逝く話をしておいて、その後どうするのかと聞かれても困ります」
「……すまん」
「謝らないでください」
市は静かに首を振った。
「まだ生きておられるではありませんか」
「それはそうだがな」
「でしたら、死んだ後のことばかり考えないでください」
「考えずに死んだら、残された者が困る」
市は何も言えなかった。
それが勝家という男だった。
自らの死を恐れるより先に、自分がいなくなった後に起こることを考えている。
「俺は戦うことばかり考えて生きてきた」
「存じております」
「若い頃は、家を残すことなど考えもしなかった」
「それも存じております」
「……何でも知っておるな」
「夫婦ですから」
勝家は苦笑した。
しばらくして、その視線が再び地図へ落ちる。
「景継に、柴田を預けようと思う」
市は驚かなかった。
「そうなさると思っておりました」
「分かっていたのか?」
「はい」
「なぜだ」
「あなた様が、景継殿のお話ばかりされますから」
勝家が眉を寄せる。
「俺が?」
「ご自覚がなかったのですか?」
「そんなにしておるか」
「はい」
市が笑う。
「戦の話をされても景継殿。領地の話をされても景継殿。何か変わったことがあれば、景継殿ならどう考えるだろうと口にされる」
「……」
「ずいぶんと気に入っておられるのですね」
「別に気に入ってなどおらん」
「そういうことにしておきましょう」
勝家は何か言い返そうとしたが、結局やめた。
「市はどう思う」
「柴田家を景継殿に託すことですか?」
「ああ」
市は少し考えてから答えた。
「よろしいのではないでしょうか」
「簡単に言うな」
「簡単に決めたわけではありません」
市の声が少し真剣になる。
「あの方なら、柴田家を奪うのではなく、残そうとなさるでしょう」
「……俺もそう思う」
「それに」
市は勝家を見る。
「あなた様は、もう決めておられるのでしょう?」
「まだ決めておらん」
「では、なぜ景継殿を二度もお呼びになるのです?」
勝家が黙った。
「やはり決めておられるではありませんか」
「……敵わんな」
勝家は小さく息を吐いた。
しばらく二人の間に静かな時間が流れた。
やがて勝家が口を開く。
「市」
「はい」
「俺が死んでも、後を追うような真似はするな」
市の表情が止まった。
「お前は生きろ」
「勝家様……」
「柴田の家が残るなら、それを見てやってくれ」
市は俯いた。
返事はすぐには返ってこなかった。
やがて、小さな声がする。
「でしたら」
「何だ」
「少しでも長く生きてくださいませ」
「努力はする」
「努力では困ります」
「難しいことを言うな」
勝家が笑った。
市も笑った。
だが、その目には僅かに涙が浮かんでいた。
◇
それから幾日かが過ぎた。
景継のもとへ、再び越前から使者がやって来た。
届けられた書状は驚くほど短い。
――話は決めた。来い。
「……勝家様らしいですね」
景継は思わず苦笑した。
だが、すぐに出立の準備を命じた。
前回よりも急いで越前へ向かう。
城へ到着すると、利家が出迎えた。
「待っていた」
「勝家様は?」
「お待ちだ」
「お身体は?」
利家は少し迷ってから答えた。
「前に来た時より、少し悪い」
景継の表情が変わる。
「会話はできる。食事も取っておられる。ただ、以前より横になっている時間が増えた」
「そうですか」
「今日は市様も同席される」
「市様も?」
「ああ」
景継はそれ以上聞かなかった。
今日の話が、前回よりも重いものになることだけは分かった。
◇
部屋へ入ると、勝家と市が待っていた。
「来たか」
「お待たせしました」
「今回は早かったな」
「前回、遅いと言われましたので」
「最初からそうしろ」
景継は勝家の前へ座った。
以前より顔色が悪い。
それでも声にはまだ力があった。
「市様も、お久しぶりです」
「お久しゅうございます、景継殿」
市が穏やかに微笑む。
「勝家様から何か聞いておられますか?」
「少しだけ」
「市」
勝家が遮った。
「俺から話す」
「はい」
市はそれ以上言わなかった。
勝家は景継を見た。
すぐに本題へ入るかと思ったが、なかなか口を開かない。
やがて勝家が静かに言った。
「景継」
「はい」
「その前に、一つ言っておく」
「何でしょう」
「改めて――北ノ庄では助かった」
景継は僅かに目を見開いた。
「あの時、お前がおらなんだら……俺は今、ここにはおらんかっただろう」
「勝家様……」
「俺はあの戦で、本気で秀吉を倒すつもりだった」
「はい」
「お前もそうだった」
「もちろんです」
あの戦いで、勝家は本気で秀吉に勝つつもりだった。
景継もまた、それを望んでいた。
ただ景継は、勝家が敗れた時の道まで用意していた。
結果として、その備えが勝家を救い、市を救った。
「俺が負けた後も、お前が次の手を用意しておったから、北ノ庄で終わらずに済んだ」
勝家はゆっくりと息を吐いた。
「もし、あのまま秀吉に完全に屈しておれば……俺は、あやつの下につくくらいなら潔く散っていたかもしれん」
市が静かに勝家を見つめている。
「この命は、お前に助けられた」
勝家が市へ目を向ける。
「それだけではない。市も助けてもらった」
景継は何も言えなかった。
「感謝してもしきれん」
勝家が再び景継を見る。
「この恩は、一生忘れん」
そして、ふっと笑った。
「まあ、その一生も……あと僅かかもしれんがな」
「勝家様」
市が呆れたように勝家を見る。
「鬼柴田ともあろうお方が、何をおっしゃいます」
「ははっ、違いない」
勝家が笑う。
景継も小さく笑った。
「そんな冗談を言えるのでしたら、まだまだ平気ですよ」
「お前まで言うか」
「ええ」
「なら、もう少し生きてやるか」
「そうしてください」
景継は笑って答えた。
市も笑っていた。
ほんの僅かな時間だった。
以前と何も変わらないように、三人で笑った。
だが、その時間がいつまでも続くわけではないことを、三人とも分かっていた。
勝家が一つ息をつく。
その表情から笑みが消えた。
「だからこそだ」
景継も表情を改める。
「俺が生きているうちに、決めておきたい」
「柴田家のことですね」
「ああ」
勝家は傍らに置いていた地図を広げた。
「前にも言った通り、今の柴田をそのまま一人に継がせるつもりはない」
「はい」
「越前を中心に、柴田の家そのものは残す。相応の所領も残す」
景継は黙って聞く。
「だが今の勢力を、何も変えずに次へ渡せばいずれ揉める」
「私もそう思います」
「佐々には佐々の考えがある。利家にも働いてもらわねばならん。新たに従った者たちもおる」
勝家は地図の上を指でなぞった。
「俺がおるから今はまとまっている。それを、俺が死んだ後まで同じようにまとめようとすれば、柴田家そのものまで壊れかねん」
「それで、どうされるおつもりです?」
勝家が地図から手を離した。
そして真正面から景継を見る。
「景継」
「はい」
「柴田家を、お前の下に置いてくれ」
景継は動かなかった。
前回の話を聞いた時から、おそらくそうなるのだろうとは考えていた。
それでも勝家本人の口から聞くと、その言葉の重さはまるで違った。
「……私の下に?」
「ああ」
「柴田家を、林道家の下に置くということですか」
「そうだ」
勝家は迷わなかった。
「家は残す。名も残す。だが俺が死んだ後、柴田家は林道の下につける」
「勝家様」
「勘違いするな。領地を全部お前にくれてやるという話ではないぞ」
「分かっています」
「俺が築いた家だ。簡単に潰されたら化けて出る」
「それは困りますね」
「なら残せ」
景継は僅かに笑った。
だが、すぐに真剣な表情へ戻る。
「家臣の方々は納得されますか?」
「全員は無理だろう」
勝家は即答した。
「俺が死ねば、自分の道を選ぶ者も出る。それは止めん」
「……」
「人までお前にくれてやるつもりはない。それぞれが自分で決めればいい」
景継は頷いた。
「柴田家を継ぐ者には、柴田の名と土地を残す。だが林道家の下で家を続ける。それが俺の望みだ」
「なぜ、私なのです?」
勝家が眉を寄せる。
「今さら聞くか」
「聞かせてください」
「面倒な奴だ」
勝家は息を吐いた。
それから静かに答えた。
「お前なら、柴田を食い潰さんと思ったからだ」
景継は黙る。
「使える者は使う。必要なら土地も動かす。だが、意味もなく家を潰すようなことはせん」
「随分と信用していただいているのですね」
「勘違いするな」
勝家の声に少しだけ力が戻った。
「信用しておらんところも山ほどある」
「山ほどですか」
「お前は何を考えているか分からん時がある」
「それは申し訳ありません」
「だが」
勝家は続ける。
「約束したことは守る」
景継の表情が僅かに変わった。
「俺は、それを何度も見てきた」
北ノ庄だけではない。
その後も二人は何度も同じ場所に立ち、時には意見をぶつけ、時には互いを利用しながら戦ってきた。
勝家は景継のすべてを理解しているわけではない。
それでも、信じられるものは知っていた。
「だから頼む」
勝家が頭を下げようとした。
「勝家様」
景継がすぐに止めた。
「やめてください」
「頼んでいるのだ」
「それでもです」
景継は勝家を見た。
「頭を下げられなくても、お引き受けします」
勝家が動きを止めた。
「……引き受けるのか」
「はい」
景継は迷わなかった。
「柴田家を残します」
勝家が静かに聞いている。
「家名も残します。後を継ぐ方には相応の所領を持っていただきます。柴田家の方々についても、無理に林道へ従わせることはいたしません」
「ああ」
「ただし、領地については整理させてください」
「構わん」
「柴田家を残すために必要なら、今の形を変えることもあります」
「それでいい」
景継は姿勢を正した。
「では、お約束します」
勝家の目を見る。
「柴田家は、私が守ります」
勝家はしばらく何も言わなかった。
やがて大きく息を吐いた。
「……そうか」
その声には、安堵が混じっていた。
「ならば、もう一つ頼む」
「何でしょう」
勝家が市を見る。
「市のことも頼む」
「勝家様」
「俺が死んだ後、一人で放っておくわけにもいかん」
景継も市を見る。
「市様がお望みになる限り、林道家でお守りします」
「お二人とも」
市が静かに言った。
「私は物ではございません」
二人の男が揃って黙った。
「……すまん」
勝家が先に謝った。
景継は思わず笑いそうになった。
「景継殿もです」
「私もですか?」
「当然です」
「……申し訳ありません」
「その時が来たなら、私は私で決めます」
景継は頷いた。
「もちろんです」
「それでよいのです」
勝家は不満そうだったが、やがて諦めたように息を吐いた。
「まったく……二人とも言うことを聞かんな」
「勝家様が言われますか?」
「お前は黙れ」
また三人の間に笑いが生まれた。
やがて、景継が帰る時間になった。
部屋を出る前、景継は振り返る。
「勝家様」
「何だ」
「次に来る時は、酒を持ってきます」
勝家が一瞬黙った。
以前、自分が言ったことを覚えていたらしい。
「上等なものにしろ」
「分かりました」
「安物を持ってきたら追い返すぞ」
「それなら、選ぶのに少し時間をいただきます」
「さっさと選べ」
「はい」
景継は笑った。
「では、また」
「ああ」
勝家も答える。
「またな、景継」
景継は頭を下げ、部屋を出た。
廊下を歩きながら、次に持ってくる酒のことを考えていた。
勝家なら、どの酒に文句をつけるだろう。
どれなら素直に旨いと言うだろう。
次に会えば、また何か言い合うことになる。
景継はそう思っていた。
――次があることを、疑っていなかった。




