第百七十三話「託すために」
柴田勝家からの使者が景継のもとへ到着したのは、それから間もなくのことだった。
「勝家様が?」
「はい。できるだけ早くお越しいただきたいと」
使者の言葉に、景継はわずかに眉を寄せた。
勝家から呼び出されること自体は珍しくない。
だが、いつもなら用件の一つくらいは書いて寄越す男だった。
「何かありましたか?」
「それが……」
使者が言葉を濁す。
景継はその様子を見逃さなかった。
「勝家様の身に何か?」
「先日、評定の最中にお倒れになりました」
「倒れた?」
景継の声が低くなる。
「今は起きておられます。医師も、すぐに命に関わるものではないと申しております」
「そうですか」
景継は短く答えた。
だが、すぐに弥兵衛を見る。
「支度を」
「はっ」
「今日中に出ます」
使者が驚いた。
「本日でございますか?」
「勝家様が急げとおっしゃったのでしょう?」
「……はい」
「ならば急ぎます」
景継は立ち上がった。
◇
出立の支度をしていると、楓がやって来た。
「越前へ行かれると聞きました」
「ええ」
「勝家様がお倒れになったとか」
「耳が早いですね」
「景継様が急に越前へ向かわれると聞けば、何かあったと思います」
景継は少し黙った。
「すぐに命に関わる状態ではないそうです」
「そうですか」
「本人も起きているそうですから、それほど心配する必要はないと思います」
楓は景継を見つめた。
「……何です?」
「ご自分に言い聞かせておられるように聞こえました」
景継は返事をしなかった。
楓もそれ以上は追及しない。
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
「それと」
「はい?」
「勝家様のお顔を、よく見てきてください」
景継が少し不思議そうな顔をする。
「顔を?」
「はい」
「なぜです?」
「今は、それでよいと思います」
景継には意味が分からなかった。
だが楓の表情を見て、聞き返すのをやめた。
「分かりました」
そう答えて、景継は越前へ向かった。
◇
景継が勝家の城へ到着すると、利家が出迎えた。
「景継殿」
「利家殿」
「早かったな」
「急げと言われましたので」
「そうか」
利家の表情は硬かった。
景継はすぐに尋ねる。
「勝家様は?」
「部屋におられる」
「容体は?」
「今すぐどうこうというものではない」
使者から聞いたものと同じ答えだった。
「ですが?」
利家が景継を見る。
「……分かるか」
「その顔をされていれば」
利家は小さく息を吐いた。
「医師からは、以前のような無理はできぬと言われた」
「病なのですか?」
「病もある。だが、それだけではないそうだ」
利家が少し声を落とす。
「六十を越えた身体で、何十年も戦場を駆け回ってきた。その積み重ねだと」
景継は黙った。
「最近は疲れが抜けなかったらしい。馬に乗っていても身体がついてこぬことがあったと、本人も認めた」
「勝家様が?」
「ああ」
「自分から?」
「俺も驚いた」
景継の表情が曇った。
勝家という男は、多少の傷や疲れで弱音を吐くような人物ではない。
その勝家自身が身体の衰えを認めた。
それだけで、景継には十分だった。
「会えますか?」
「ああ」
利家が歩き出す。
「ただし、一つだけ言っておく」
「何でしょう」
「見た目ほど弱ってはいない」
「それは安心しました」
「口はな」
景継が利家を見る。
「そこは変わっていませんか」
「まったく変わらん」
「なら大丈夫そうですね」
「俺も最初はそう思った」
利家の顔は笑っていなかった。
◇
「遅い」
部屋へ入った瞬間だった。
景継は足を止めた。
勝家が座っている。
確かに、見たところ以前と大きく変わらない。
「急いできたのですが」
「俺が呼んでから何日経ったと思っておる」
「距離というものがあります」
「馬を飛ばせ」
「途中で私が倒れます」
「お前はまだ若いだろう」
「勝家様よりは」
「余計なことを言うな」
景継は少し安心した。
いつもの勝家だった。
だが近くへ座った時、その考えは少し変わった。
顔色が以前より悪い。
そして何より、景継が入ってきた時にも勝家は立ち上がらなかった。
以前なら、何かにつけて自ら動いていた男だ。
「何だ」
勝家が景継を見る。
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「お元気そうで安心しました」
「嘘をつけ」
「……分かりますか」
「俺の顔を見てから、お前の目が変わった」
勝家が鼻を鳴らす。
「心配するな。まだ死なん」
「そうしていただけると助かります」
「お前に言われるまでもない」
勝家は横に置かれていた書状を手に取った。
「それより、今日は話がある」
「そのために呼ばれたのでしょう」
「ああ」
勝家が利家を見る。
「利家。お前もいろ」
「はっ」
利家が座る。
景継は二人の顔を見た。
「随分と改まっていますね」
「茶化すな」
「茶化してはいません」
「なら黙って聞け」
「はい」
勝家はしばらく何も言わなかった。
やがて一枚の地図を広げる。
越前、加賀。
そして今回の戦の後に柴田方へ加わった丹波、但馬方面。
景継は地図へ目を落とした。
「今の柴田は大きくなった」
「そうですね」
「大きくなりすぎたとも言える」
景継が顔を上げる。
勝家から出るとは思わなかった言葉だった。
「俺が生きておる間はよい」
勝家は淡々と続ける。
「俺が命じれば、少なくとも今は動く。佐々もおる。利家も戻った。古くからの者も、新しく従った者もいる」
「はい」
「だが、俺が死んだらどうなる」
景継は答えなかった。
「答えてみろ」
「私がですか?」
「お前以外に誰がおる」
景継は地図を見る。
柴田家は強大だった。
だからこそ危うい。
勝家という大きな柱が存在するから、一つの勢力としてまとまっている。
だが、その柱が消えた時。
「……割れる可能性があります」
「そうだ」
勝家は迷わず認めた。
「佐々には佐々の考えがある。利家にもある。新たに得た土地には、昨日まで羽柴に従っていた者までいる」
利家が黙って聞いている。
「俺の後を継ぐ者に、今のすべてをそのまま背負わせるのは無理だ」
「勝家様」
利家が口を開いた。
「俺は事実を言っておる」
「……はい」
勝家は景継へ視線を戻した。
「だから考えておきたい」
「今からですか?」
「今だからだ」
その言葉は強かった。
「死ぬ間際になってから考えて何になる。頭が動き、口が利けるうちに決める」
景継は勝家を見た。
この男らしいと思った。
死を恐れていないわけではないだろう。
それでも、自分が死んだ後に何が起きるのかを見ないふりはしない。
「景継」
「はい」
「お前なら、どうする」
「柴田家をですか?」
「ああ」
景継はすぐには答えなかった。
「後継を定め、領地を整理します」
「それだけか」
「今の柴田家の領地を、そのまま一人へ渡すのは危険です」
勝家の目が細くなる。
「続けろ」
「家を継ぐことと、今の勢力すべてをそのまま継ぐことは別です」
利家が景継を見る。
「越前を中心に柴田家の核を残す。そのうえで、離れた土地については、それぞれ信頼できる者に任せる必要があります」
「佐々や利家か」
「それも一つでしょう」
「それでまとまると思うか」
景継は地図を見た。
「……それだけでは難しいでしょうね」
「だろうな」
勝家は腕を組もうとして、途中で小さく顔をしかめた。
景継はそれに気づいた。
だが何も言わなかった。
「景継」
「はい」
「俺はな」
勝家が地図へ目を落とす。
「柴田の名を残したい」
景継は黙って聞く。
「領地をすべて残せとは言わん。今の勢力をそのまま残せとも言わん。そんなものは、俺が死んだ後に争いの種になるだけだ」
「……」
「だが柴田家そのものまで消える必要はない」
「そうですね」
「俺が何十年も戦って残した家だ」
勝家の太い指が、地図の越前を押さえた。
「俺の代で終わらせる気はない」
利家が静かに頭を下げた。
「勝家様」
「まだ何も決めておらん」
勝家はそう言ったが、その声にはすでに何かを決めつつある響きがあった。
景継もそれを感じていた。
「それで私を呼んだのですか?」
「ああ」
「私に何をさせるおつもりです?」
「今日はまだ頼まん」
景継が少し眉を寄せる。
「まだ?」
「俺にも考える時間くらい寄越せ」
「それなら、なぜこれほど急いで私を?」
「お前の考えを聞きたかった」
「私の?」
「柴田の土地を欲しがるかどうかもな」
景継の表情が止まった。
利家も勝家を見る。
「勝家様」
「黙っておれ」
勝家は景継から目を逸らさない。
「今の柴田は大きい。俺が死ねば、欲しがる者はいくらでも出る」
「私もその一人だと思われましたか?」
「違うのか?」
景継は答えなかった。
欲しくないと言えば嘘になる。
越前も加賀も、丹波も但馬も価値がある。
兵も、人も、道もある。
天下を争うなら、大きな力になる。
そんなことは考えるまでもない。
だが――。
「欲しいか欲しくないかで言えば、欲しいですよ」
利家が僅かに目を見開く。
勝家は動かなかった。
「正直だな」
「勝家様に嘘をついても仕方ありませんから」
「なら、俺が死ねば奪うか?」
「いいえ」
今度は即答した。
「なぜだ」
「勝家様から奪わないと決めているからです」
勝家が景継を見る。
「生きていようが、亡くなられようが同じです。柴田家が持つものを、勝家様がいなくなった途端に私が奪えば、それまで勝家様と築いてきたものまで壊れます」
「天下を狙うには甘い考えかもしれんぞ」
「かもしれませんね」
景継はそれ以上言わなかった。
勝家も追及しなかった。
代わりに、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……そうか」
それだけだった。
◇
話が終わり、景継が部屋を出ようとした時だった。
「景継」
「はい」
振り返る。
勝家は座ったまま、景継を見ていた。
「近いうちに、もう一度来てもらう」
「分かりました」
「次は――」
勝家が一度言葉を止める。
「頼み事をする」
景継の目が僅かに細くなった。
「今日ではないのですか?」
「まだだ」
「分かりました」
「その時は断るな」
「内容も聞かずに約束はできません」
「相変わらず可愛げのない奴だ」
「勝家様にだけは言われたくありません」
「さっさと帰れ」
「はい」
景継は頭を下げ、部屋を出た。
城の外へ向かう途中、利家が追いついてきた。
「景継殿」
「利家殿」
二人は並んで歩く。
「勝家様が何を頼もうとしているか、分かるか?」
景継は少し考えた。
「おそらくは」
「……俺もだ」
二人とも、それ以上は口にしなかった。
城門の前で景継は一度振り返った。
大きな城だった。
柴田勝家が何十年もの戦の果てに築いたものが、その向こうにある。
領地だけではない。
家臣も、兵も、家も、名も。
そして、それを築いた本人が今、自分のいなくなった後を考え始めている。
楓に言われた言葉を、景継は思い出した。
――勝家様のお顔を、よく見てきてください。
その意味が、今になって少し分かった気がした。
「利家殿」
「何だ」
「勝家様をお願いします」
「ああ」
利家は短く答えた。
「任せておけ」
景継は頷き、馬へ向かった。
まだ勝家は生きている。
まだ話せる。
まだ会うことができる。
だから景継は、その時が来るまで、別れの言葉を考えないことにした。




