第百七十二話「異変」
前田利家が柴田勝家のもとへ戻ってから、しばらくの時が過ぎた。
林道家では、新たに得た領地の統治が着実に進んでいた。
近江、山城、摂津、大坂周辺、淡路。
急激に広がった領地を一つの仕組みで無理にまとめることはせず、景継は土地ごとの事情を調べさせながら、必要なところから手を入れていた。
石田三成は年貢や蔵入地の整理を進め、大谷吉継と片桐且元は旧羽柴方の領主や国衆との調整に追われている。
黒田官兵衛もまた、旧羽柴家臣たちの動向を探りながら、新たな林道領の形を整えていた。
そして景継自身も、以前より忙しくなっていた。
「景継様」
声をかけられ、景継が書状から顔を上げる。
楓が立っていた。
「まだ続けられるのですか?」
「もう少しだけ」
「先ほども、そうおっしゃっていました」
「……そうでしたか?」
「はい」
楓が景継の前に置かれた書状の束を見る。
「全部、今日中に?」
「できれば」
「では、その前に食事をなさってください」
「後でも――」
「冷めます」
景継は黙った。
楓がじっと見ている。
「……分かりました」
「はい」
景継は筆を置いた。
祝言からまだそれほど長い時が経ったわけではない。
それでも二人の間には、少しずつ夫婦としての日常が生まれ始めていた。
◇
その頃。
越前では、柴田勝家が城を出ていた。
「遅れておるぞ!」
勝家の声が響く。
「そこを詰めろ! 兵糧を運ぶ道がそれでは、いざという時に兵が動けん!」
家臣たちが慌ただしく動く。
勝家は新たに整備している道と砦を自ら見て回っていた。
秀吉との戦が終わり、柴田家の勢力は以前より大きくなっている。
だからこそ勝家は、戦が終わった後の整備を疎かにするつもりはなかった。
「勝家様」
後ろから利家が声をかけた。
「何だ」
「少しお休みになられては」
「まだ半分も見ておらん」
「朝からずっと歩き通しです」
「それがどうした」
「どうしたではございませぬ」
勝家が振り返る。
「利家」
「はい」
「俺はまだそこまで老いておらん」
「老いたとは申しておりませぬ」
「ならば黙ってついてこい」
勝家は再び歩き始めた。
利家は小さく息を吐き、その後を追った。
以前と変わらない。
声は大きく、歩く速度も速い。
家臣への指示にも迷いがない。
だが――。
利家は気づいていた。
勝家が時折、立ち止まるようになっている。
以前なら一息で上っていた坂でも、ほんのわずかに呼吸を整える。
誰かが見ていると分かれば、すぐに何事もなかったように歩き始める。
「勝家様」
「何だ」
「やはり一度――」
「しつこいぞ、利家」
「しかし」
勝家が振り返った。
「お前は俺の母親か」
「違います」
「ならば心配するな」
「心配くらいさせてください」
勝家が一瞬黙った。
「……戻って早々、随分と生意気になったものだな」
「昔からでございましょう」
「言うようになったな」
勝家は鼻を鳴らし、また歩き始めた。
利家もそれ以上は言わなかった。
ところが、その日の評定で異変は起きた。
城へ戻った勝家は、休むことなく家臣たちを集めていた。
「丹波については――」
勝家が地図を指す。
「旧羽柴方の者をすべて追い出す必要はない。使える者は残せ。ただし――」
言葉が止まった。
利家が顔を上げる。
「勝家様?」
勝家は地図に手をついたまま動かなかった。
「……何でもない」
そう言って身体を起こそうとする。
その瞬間だった。
勝家の身体が大きく揺れた。
「勝家様!」
利家が立ち上がる。
近くにいた家臣たちも一斉に動いた。
「触るな!」
勝家が怒鳴った。
だが、いつもの声ではなかった。
利家は構わず勝家の腕を支える。
「離せ、利家」
「離しませぬ」
「この程度――」
「勝家様!」
利家の声が部屋に響いた。
勝家が黙る。
「もうよろしいでしょう」
利家は勝家を見た。
「医師を呼びます」
「必要ない」
「呼びます」
「利家」
「何を言われても呼びます」
勝家が睨む。
利家も退かなかった。
やがて勝家が目を逸らした。
「……勝手にしろ」
「最初からそのつもりです」
「まったく……」
勝家は家臣に支えられながら部屋を出ていった。
◇
医師の診立てを聞いた利家は、険しい表情になった。
「では、すぐに命に関わるわけではないのだな?」
「今すぐということではございませぬ」
医師は慎重に答えた。
「ですが、これまでと同じように無理を続けられれば……」
「どうなる」
「お身体が持たぬ可能性がございます」
利家が黙った。
「六十を越えられ、長年戦場に立ち続けてこられました。身体には相応の負担が積み重なっております」
「治るのか」
「まずはお休みいただくことです」
「それを一番聞かぬ方なのだ」
利家は額を押さえた。
医師も困った顔をした。
「ですが、今まで通りというわけには参りませぬ」
「……分かった」
利家は立ち上がった。
勝家の部屋へ入る。
当の本人は床に横になっているどころか、座って書状を読んでいた。
「何をされているのです」
「見れば分かるだろう」
「休めと言われたでしょう」
「寝ておれば領地が治まるのか?」
「勝家様が倒れれば、もっと治まりませぬ」
勝家が顔を上げた。
「医者は何と言った」
「ご自分で聞かれたでしょう」
「お前にも聞いておる」
利家は勝家の前へ座った。
「今すぐどうこうということではないそうです」
「ならば問題ない」
「最後まで聞いてください」
勝家が黙る。
「これまでのような無理はできぬと」
「医者は大袈裟なのだ」
「勝家様」
「分かっておる」
その返事に、利家が少し驚いた。
勝家は手にしていた書状を置いた。
「自分の身体だ」
しばらく沈黙する。
「分からぬほど耄碌してはおらん」
「では……」
「最近、疲れが抜けん」
利家は初めて聞く言葉に黙った。
「馬に乗っていても、昔ほど身体がついてこん。今日だけではない」
「なぜ黙っておられたのです」
「言ってどうなる」
「どうなるでは――」
「俺が老いたと家中に触れ回るのか?」
利家は答えられなかった。
柴田家は急激に大きくなった。
勝家という一人の武将の力と名声によって結びついている部分も大きい。
その勝家が弱った。
その話が広がれば、家中にも領国にも少なからず影響が出る。
「だからといって、無理を続ければ同じことでございます」
「ああ」
勝家は珍しく素直に認めた。
「少し考える」
利家が勝家を見る。
「何を、でございますか」
「色々とな」
勝家はそれ以上話さなかった。
だが利家には分かった。
勝家が考えているのは、自分の身体だけではない。
柴田家そのものだった。
◇
それから数日。
勝家は表向き、これまで通り振る舞った。
だが軍の視察は家臣に任せるようになり、評定の時間も短くなった。
利家が代わって動くことも増えた。
そしてある夜。
「利家」
「はっ」
勝家が地図を眺めながら言った。
「景継に使いを出せ」
利家が顔を上げる。
「景継殿に?」
「ああ」
「何と?」
勝家はすぐには答えなかった。
越前。
加賀。
さらに今回の戦で得た土地。
地図の上には、今の柴田家が持つ大きな勢力が広がっている。
勝家はそれを長く見つめた。
「一度、こちらへ来いとな」
「それだけでよろしいのですか?」
「ああ」
「理由を聞かれると思いますが」
「言わんでいい」
利家は勝家の横顔を見た。
「……承知いたしました」
立ち上がろうとする。
「利家」
「はい」
勝家が呼び止めた。
「急がせろ」
利家の表情が変わった。
「どれほどでしょう」
「できるだけ早くだ」
「……はっ」
利家が部屋を出ていく。
一人になった勝家は、もう一度地図へ目を落とした。
やがて、その指がゆっくりと越前の上に置かれる。
「さて……」
小さく呟いた。
「俺がおらんようになった後、こいつをどうするか」
勝家はしばらく地図を見つめ続けていた。




