第百七十一話「戻る場所」
楓との祝言から数日が過ぎた。
祝いのために訪れていた者たちも少しずつ帰路につき、林道家もようやく普段の空気を取り戻し始めていた。
もっとも、景継に休んでいる暇はない。
新たに得た領地の統治。
旧羽柴家臣の処遇。
北条との連絡。
さらに各地から届く書状。
景継が一つずつ目を通していると、弥兵衛が部屋へ入ってきた。
「殿」
「どうしました?」
「お会いしたいという方が来られております」
「どなたです?」
「前田利家殿です」
景継の手が止まった。
「……利家殿が?」
「はい」
「分かりました。お通ししてください」
「はっ」
弥兵衛が出ていく。
景継は手にしていた書状を置いた。
前田利家。
秀吉とも勝家とも深い縁を持った男。
北ノ庄の戦いの後も、景継のもとへ入ることはなかった。
秀吉との縁も完全には切らず、かといって勝家と再び敵対することも望まなかった。
その利家が、秀吉亡き今、自ら訪ねてきた。
やがて襖が開く。
「お久しゅうございます」
「利家殿」
景継が迎える。
利家は向かいへ座った。
「祝言を挙げられたそうですな」
「ありがとうございます」
「北条の姫君と聞きました」
「ええ」
「……随分と遠いところまで縁を結ばれたものだ」
利家はわずかに笑った。
だが、その表情はすぐに消えた。
「今日は、その祝いを言いに来たわけではない」
「でしょうね」
景継は急かさなかった。
利家が自分から話し始めるまで待つ。
しばらくして、利家が口を開いた。
「秀吉が死んだ」
「はい」
「いや……」
利家は目を伏せた。
「秀吉様が、死んだ」
景継は何も言わなかった。
「お前が討った」
「はい」
「恨んでいるかと聞かれれば……自分でも分からん」
利家の声は静かだった。
「戦だった。秀吉様はお前を討とうとし、お前は秀吉様を討った。それくらいは分かっている」
「……はい」
「だからといって、何も感じぬわけではない」
「当然でしょう」
利家が景継を見る。
「随分と簡単に言うのだな」
「私が利家殿の立場なら、同じだと思います」
「お前が?」
「親しい方を討った相手と、すぐに笑って話せるほど器用ではありませんので」
利家は少しだけ表情を緩めた。
「そうか」
再び沈黙が落ちる。
やがて利家は大きく息を吐いた。
「秀吉様がいなくなって、考えた」
景継は黙って聞く。
「俺はこれから、どこへ行くのかとな」
利家の声が低くなる。
「秀吉様のところへ行くこともできん。お前に仕えるつもりもない」
「それで構いません」
「だろうな」
利家が苦笑した。
「お前ならそう言うと思っていた」
「では、どちらへ?」
景継が尋ねる。
利家はすぐには答えなかった。
「……勝家様だ」
景継の目がわずかに動いた。
「勝家様のところへ戻りたい、と?」
「戻れるならな」
「なるほど」
利家は拳を膝の上で握った。
「だが、俺は一度あの方から離れた」
賤ヶ岳へ至る争い。
秀吉と勝家。
二人の間で、利家もまた難しい立場に置かれた。
「今さら勝家様の前へ出て、『戻って参りました』で済む話ではない」
「だから私のところへ?」
「ああ」
利家が真っ直ぐ景継を見る。
「頼みがある」
「聞きましょう」
「勝家様との間を取り持ってくれ」
景継はしばらく利家を見ていた。
「私でよろしいのですか?」
「今の勝家様に、俺の話を持っていける者で、俺が頼める相手はそう多くない」
「それはそうでしょうね」
「それに――」
利家が少しだけ笑う。
「お前なら、勝家様に怒鳴られることにも慣れているだろう」
「そこを理由にされるのは納得できませんね」
「違うのか?」
「……否定はしません」
利家が久しぶりに笑った。
景継もわずかに笑う。
「分かりました」
景継が答えた。
「勝家様に話してみます」
「恩に着る」
「ただし」
利家の表情が戻る。
「私ができるのは、利家殿が勝家様と話せる場を作るところまでです」
「ああ」
「勝家様が何と答えるかは、勝家様がお決めになることです」
「それでいい」
利家は迷わなかった。
「俺が自分で話す」
「分かりました」
景継は頷いた。
◇
数日後。
景継は勝家のもとを訪れていた。
「利家が?」
勝家の声が低く響いた。
「はい」
「俺のところへ戻りたいと?」
「そう申しております」
勝家は腕を組んだ。
喜ぶでもなく、怒るでもない。
ただ難しい顔をしていた。
「今さら何をしに戻る」
「それは利家殿本人からお聞きください」
「お前は聞いたのだろう」
「聞きました」
「なら言え」
「嫌です」
勝家の眉が動く。
「何?」
「利家殿が勝家様に直接話すべきことです」
「……お前な」
「私の言葉を挟んだら意味が変わります」
勝家は景継を睨んだ。
景継も黙っている。
しばらくして勝家が鼻を鳴らした。
「昔から、妙なところで頑固な奴だ」
「勝家様ほどではありません」
「余計な一言を足すな」
景継は口を閉じた。
「それで?」
「はい?」
「利家はどこだ」
「外で待っていただいております」
「最初から連れてきたのか」
「ええ」
「俺が会わんと言ったらどうするつもりだった」
「利家殿と一緒に帰ります」
「……まったく」
勝家が息を吐いた。
「呼べ」
「よろしいのですか?」
「話くらいは聞く」
「分かりました」
景継が立ち上がる。
しばらくして、利家が入ってきた。
勝家と利家。
二人の視線がぶつかる。
「……勝家様」
「利家」
景継は二人を見た。
「では、私は――」
「待て」
勝家に止められる。
「お前もいろ」
「よろしいので?」
「お前が連れてきたのだろう」
「それはそうですが」
「なら最後まで付き合え」
景継は仕方なく座り直した。
利家も座る。
しばらく誰も話さなかった。
先に口を開いたのは利家だった。
「勝家様」
「何だ」
「申し訳ございませんでした」
利家が深く頭を下げた。
勝家は黙っている。
「何について謝っている」
「すべてにございます」
「それでは分からん」
利家が顔を上げた。
「勝家様と秀吉様の間で、私は最後まで迷いました」
「知っておる」
「どちらにも恩があった。どちらとも戦いたくなかった。だから……どちらにも中途半端になった」
勝家は何も言わない。
「自分なりに考えて選んだつもりでした。ですが今思えば、結局は覚悟を決めきれなかっただけなのかもしれませぬ」
「それで?」
「秀吉様は、もうおりません」
利家の声が少し詰まる。
「だから勝家様のところへ戻る、というのでは虫がよすぎることも分かっております」
「その通りだ」
勝家は即答した。
景継は口を挟まない。
「だが」
勝家が続ける。
「お前は、俺に許してほしくて来たのか」
利家が首を振った。
「いいえ」
「なら何だ」
「働かせていただきたい」
勝家の目が細くなる。
「俺の下で?」
「はい」
「なぜだ」
利家は少し考えた。
「戻る場所を考えた時、勝家様の顔が浮かびました」
「……」
「それだけにございます」
勝家は利家を見つめた。
長い沈黙だった。
やがて勝家が景継を見る。
「景継」
「はい」
「お前はどう思う」
「私に聞くのですか?」
「聞いておる」
景継は利家を見る。
そして勝家へ視線を戻した。
「使えばよろしいかと」
利家が僅かに目を見開いた。
「利家殿ほどの方が働きたいと言っているのです。使わない理由はありません」
「簡単に言うな」
「難しく考えたところで、利家殿の過去は変わりません」
勝家が黙る。
「勝家様が許せないことまで、許す必要はないでしょう」
「……」
「ですが、許すことと、共に働くことは別です」
勝家はしばらく景継を睨んでいた。
やがて利家へ視線を戻す。
「利家」
「はっ」
「昔と同じだと思うな」
「承知しております」
「俺はお前に気を遣わん」
「はい」
「働けぬと思えば、すぐに外す」
「はい」
利家が頭を下げる。
勝家はその姿を見て、大きく息を吐いた。
「……ならば働け」
利家の肩がわずかに震えた。
「勝家様」
「二度も言わせるな」
「……はっ!」
利家は深く頭を下げた。
「前田又左衛門利家、もう一度、勝家様の下で働かせていただきます」
「好きにしろ」
勝家はそう言って顔を背けた。
景継には、その横顔がほんの少しだけ緩んだように見えた。
だが何も言わなかった。
◇
帰り際。
景継が城を出ようとすると、後ろから声がした。
「景継」
振り返ると、勝家が立っていた。
「どうされました?」
「利家のことだ」
「はい」
「余計なことをしたな」
景継は少し考える。
「怒っておられます?」
「誰がそう言った」
「では、よかったのですか?」
「それも言っておらん」
「難しいですね」
「黙れ」
景継は小さく笑った。
勝家がその顔を見て、鼻を鳴らす。
「……だが」
「はい」
「礼は言っておく」
景継は少し驚いた。
「珍しいですね」
「取り消すぞ」
「では、ありがたく受け取っておきます」
勝家は背を向けた。
「景継」
「はい」
「また来い」
「もちろんです」
「今度は酒でも持ってこい」
「分かりました」
景継はそう答え、勝家の背中を見送った。
前田利家が、柴田勝家のもとへ戻った。
それは天下を揺らすほど大きな出来事ではない。
だが、秀吉の死によって一度行き場を失った者たちが、それぞれ新しい場所を選び始めている。
その一つが、静かに決まった日だった。




