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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第九章 天下再導編

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第百七十話「祝言」



 小田原城では、朝から人の出入りが絶えなかった。


 北条氏政の娘、楓が林道景継のもとへ嫁ぐ。


 かつてはごく限られた者しか知らなかった婚姻の約束も、第二次清須会議を経た今では公のものとなっている。


 関東に大きな勢力を持つ北条家と、近江から畿内へ勢力を広げた林道家。その二家が婚姻によって結ばれる意味は大きい。


 だが、その中心にいる楓は思いのほか静かだった。


 支度を終えた楓のもとへ、氏政がやって来る。


「楓」


「父上」


「支度は済んだか」


「はい」


 氏政はしばらく娘の姿を眺めていた。


 景継との婚姻を最初に持ち出したのは自分だった。


 あの頃の林道家は、今ほど大きくない。


 それでも氏政は景継という男に将来性を見た。


 その後、秀吉は討たれ、林道家は畿内の中央へ大きく勢力を伸ばした。そして第二次清須会議では、景継の方から北条へ対等な同盟を申し入れてきた。


「以前にも聞いたが」


 氏政が言った。


「今でも気持ちは変わっておらぬな?」


 楓は少し笑った。


「今になって、また聞かれるのですか?」


「今だから聞くのだ」


「変わっておりません」


「そうか」


 氏政はそれ以上確かめなかった。


 娘が一度決めたことを簡単に曲げる性格ではないことくらい、よく知っている。


「一つだけ言っておく」


「はい」


「お前は北条の娘だ。それを忘れる必要はない。だが、今日からは林道の妻にもなる」


 楓は黙って父の言葉を聞いた。


「北条のためだけに景継を動かそうとはするな。あやつと共に考え、自分で決めろ」


「はい」


「それから――」


 氏政は少しだけ間を置いた。


「あの男が間違ったことをしようとしたなら、止めてやれ」


 楓の表情が緩んだ。


「それは、最初からそのつもりです」


「ならばよい」


 氏政は短く答えた。


 楓が頭を下げる。


「父上」


「何だ」


「行ってまいります」


「ああ」


 氏政は頷いた。


「達者でな」


 それだけだった。


 だが楓には、それで十分だった。



 ◇



 楓の一行が小田原を発った。


 北条家の姫が林道家へ嫁ぐ。


 その知らせはすでに広く知られており、道中の城下や宿場では一行を一目見ようとする者も多かった。


 何日もの旅を経て、やがて一行は林道家の領内へ入る。


 そして、その知らせは景継のもとにも届いた。


「殿」


 弥兵衛が部屋へ入ってきた。


「楓様の一行が到着されました」


「そうですか」


 景継は手にしていた書状を置いた。


「では、参りましょう」


 立ち上がった景継を、弥兵衛がじっと見る。


「何です?」


「いえ」


「何かあるでしょう」


「殿が朝から落ち着かないように見えましたので」


「そんなことはありません」


「そうでございますか」


「ええ」


 景継が歩き出す。


 その後ろを弥兵衛がついていく。


「ちなみに、先ほどの書状」


「はい?」


「朝から三度ほど読んでおられましたな」


 景継の足が止まった。


「確認していただけです」


「三度も?」


「大切な書状ですから」


「なるほど」


 弥兵衛は頷いた。


 景継が振り返る。


「何です、その顔は」


「何も」


「ならば笑わないでください」


「笑っておりませぬ」


「笑っています」


 弥兵衛は口元を引き締めた。


「これでよろしいでしょうか」


「……もういいです」


 景継は再び歩き出した。



 やがて、門の向こうから北条の一行が姿を現した。


 林道家の家臣たちが並ぶ中、景継はその到着を待った。


 そして輿から楓が降りる。


 小田原で会った時とは違う装いだった。


 景継は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。


 楓がその前まで歩いてくる。


「お久しゅうございます、景継様」


「……お久しぶりです、楓殿」


 楓が景継の顔を見る。


「今、少し間がございましたね」


「ありましたか?」


「ありました」


「気のせいでしょう」


「そういうことにしておきます」


 楓が小さく笑った。


 その様子を、周囲に並んだ家臣たちが見ている。


 楓もすぐにそれに気づいた。


「ずいぶんと大勢の方が見ておられますね」


「……皆、気になるのでしょう」


「私たちが、ですか?」


「北条から来られた姫君ですからね。楓殿がどのような方なのか、気になって仕方がないのでしょう」


「では、しばらくは見られ続けることになりそうですね」


「申し訳ありません」


「景継様が謝られることではありません」


 楓はそう言ってから、景継の後ろへ目を向けた。


 家臣たちは視線を逸らしたつもりなのだろうが、明らかにこちらを気にしている。


「ですが……」


「はい?」


「景継様まで、先ほどから私のことをよく見ておられますね」


「……見ていましたか?」


「はい」


 景継は少しだけ視線を逸らした。


「小田原でお会いした時とは、随分と雰囲気が違いましたので」


「それは、今日の装いが?」


「それもありますが……」


 景継は一度言葉を止めた。


「お綺麗になられたと思いまして」


 今度は楓が黙った。


「……景継様」


「はい」


「そういうことを、急に言われるのですね」


「いけませんでしたか?」


「いいえ」


 楓はわずかに頬を緩めた。


「少し、驚いただけです」


 その時、後ろで誰かが咳払いをした。


 景継が振り返る。


 弥兵衛をはじめ、家臣たちは揃って何事もなかったような顔をしていた。


「……聞いていましたね?」


「何のことでございましょう」


「もういいです」


 楓が隣で笑っていた。



 ◇



 祝言は盛大に執り行われた。


 林道家の家臣だけではない。


 丹羽長秀、滝川一益、池田恒興ら縁の深い者たちが祝いに訪れ、遠方の大名からも使者や祝いの品が届けられた。


 柴田勝家からも使者が来ていた。


『随分待たせたものだな。今度、顔を見せに来い』


 勝家らしい言葉だった。


 景継はそれを聞いて、思わず笑った。


「勝家様らしいですね」


 織田信孝からも祝いが届いた。


 徳川家康、上杉景勝からも使者が訪れている。


 北条と林道の婚姻が正式に成立したことは、もはや二家だけの話ではなかった。


 宴の端では、官兵衛と三成が並んでいた。


 官兵衛が杯を手に景継と楓を見る。


「珍しいものが見られましたな」


「何がです?」


 三成が尋ねる。


「林道様が、あれほど落ち着かぬ姿を見せるとは」


「落ち着いておられるように見えますが」


「表だけは」


 三成が景継を見た。


 確かに普段と大きく変わっているようには見えない。


「官兵衛殿は、余計なところまで見ているのですね」


「人を見るのが仕事のようなものですので」


「悪趣味とも言えます」


「三成殿も随分言うようになりましたな」


「事実を申しただけです」


 官兵衛が笑った。


「では、一つ事実を」


「何です?」


「三成殿も先ほどから何度も林道様の方を見ております」


 三成が黙る。


「……祝いの席ですから」


「そういうことにしておきましょう」


 三成は無言で杯に口をつけた。



 ◇



 長い宴が終わった頃には、夜もすっかり更けていた。


 景継と楓は、ようやく二人きりになった。


 昼間とは違う静けさが部屋を包んでいる。


 しばらく二人とも話さなかった。


 先に口を開いたのは楓だった。


「景継様」


「はい」


「何かお話しください」


「そう言われましても」


「先ほどまでは、あれほど多くの方と話しておられたではありませんか」


「あれは話す内容が決まっていますから」


「私とは決まっていないのですか?」


「……そういう意味ではありません」


 楓が笑った。


「安心しました」


「何がです?」


「小田原でお会いした時と、あまり変わっておられません」


 景継は少し考えた。


「楓殿は変わりましたね」


「先ほどもおっしゃいましたね」


「見た目だけではありません」


 楓が景継を見る。


「小田原でお会いした時より、ずっと落ち着いて見えます」


「そう見せているだけかもしれませんよ」


「緊張しているのですか?」


「少しは」


「……それなら安心しました」


「なぜです?」


「私だけではないということですから」


 景継は思わず笑った。


「お互い様ということですね」


「はい」


 再び静かな時間が流れる。


 今度の沈黙は、先ほどほど居心地の悪いものではなかった。


 やがて楓が口を開く。


「父上から、一つ言われました」


「氏政様から?」


「景継様が間違ったことをしようとしたら、止めてやれ、と」


 景継が目を瞬いた。


「……氏政様が?」


「はい」


「楓殿にも言われ、氏政様にも言われるのですか」


「嫌ですか?」


「いえ」


 景継は少し考えてから首を振った。


「ありがたいことなのでしょうね」


「そう思っていただけるなら、遠慮はいたしません」


「少しは遠慮してください」


「考えておきます」


「それは遠慮しない方の返事でしょう」


 楓が笑う。


 景継もつられて笑った。


 政略から始まった縁だった。


 北条には北条の考えがあり、林道には林道の考えがある。


 互いに利があるからこそ結ばれた婚姻であることを、二人とも理解していた。


 だが、それだけでこれからのすべてが決まるわけではない。


 景継は楓を見る。


「楓殿」


「はい」


「これから、よろしくお願いします」


 楓は少しだけ姿勢を正した。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「それと……」


「まだ何か?」


「もう楓殿では、おかしいでしょうか」


 楓が少し驚いた顔をした。


 やがて微笑む。


「では、何と?」


「楓、と」


「はい」


「……楓」


「何でしょう、景継様」


「いえ。呼んでみただけです」


「そうですか」


 楓は嬉しそうに笑った。


 その夜。


 北条氏政の娘、楓は正式に林道景継の妻となった。


 政治によって結ばれた二人の縁が、この先どのようなものになるのか。


 それはまだ、二人にも分からない。


 ただ一つ。


 この日から景継の帰る場所には、彼を待つ者が一人増えた。

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