第百七十話「祝言」
小田原城では、朝から人の出入りが絶えなかった。
北条氏政の娘、楓が林道景継のもとへ嫁ぐ。
かつてはごく限られた者しか知らなかった婚姻の約束も、第二次清須会議を経た今では公のものとなっている。
関東に大きな勢力を持つ北条家と、近江から畿内へ勢力を広げた林道家。その二家が婚姻によって結ばれる意味は大きい。
だが、その中心にいる楓は思いのほか静かだった。
支度を終えた楓のもとへ、氏政がやって来る。
「楓」
「父上」
「支度は済んだか」
「はい」
氏政はしばらく娘の姿を眺めていた。
景継との婚姻を最初に持ち出したのは自分だった。
あの頃の林道家は、今ほど大きくない。
それでも氏政は景継という男に将来性を見た。
その後、秀吉は討たれ、林道家は畿内の中央へ大きく勢力を伸ばした。そして第二次清須会議では、景継の方から北条へ対等な同盟を申し入れてきた。
「以前にも聞いたが」
氏政が言った。
「今でも気持ちは変わっておらぬな?」
楓は少し笑った。
「今になって、また聞かれるのですか?」
「今だから聞くのだ」
「変わっておりません」
「そうか」
氏政はそれ以上確かめなかった。
娘が一度決めたことを簡単に曲げる性格ではないことくらい、よく知っている。
「一つだけ言っておく」
「はい」
「お前は北条の娘だ。それを忘れる必要はない。だが、今日からは林道の妻にもなる」
楓は黙って父の言葉を聞いた。
「北条のためだけに景継を動かそうとはするな。あやつと共に考え、自分で決めろ」
「はい」
「それから――」
氏政は少しだけ間を置いた。
「あの男が間違ったことをしようとしたなら、止めてやれ」
楓の表情が緩んだ。
「それは、最初からそのつもりです」
「ならばよい」
氏政は短く答えた。
楓が頭を下げる。
「父上」
「何だ」
「行ってまいります」
「ああ」
氏政は頷いた。
「達者でな」
それだけだった。
だが楓には、それで十分だった。
◇
楓の一行が小田原を発った。
北条家の姫が林道家へ嫁ぐ。
その知らせはすでに広く知られており、道中の城下や宿場では一行を一目見ようとする者も多かった。
何日もの旅を経て、やがて一行は林道家の領内へ入る。
そして、その知らせは景継のもとにも届いた。
「殿」
弥兵衛が部屋へ入ってきた。
「楓様の一行が到着されました」
「そうですか」
景継は手にしていた書状を置いた。
「では、参りましょう」
立ち上がった景継を、弥兵衛がじっと見る。
「何です?」
「いえ」
「何かあるでしょう」
「殿が朝から落ち着かないように見えましたので」
「そんなことはありません」
「そうでございますか」
「ええ」
景継が歩き出す。
その後ろを弥兵衛がついていく。
「ちなみに、先ほどの書状」
「はい?」
「朝から三度ほど読んでおられましたな」
景継の足が止まった。
「確認していただけです」
「三度も?」
「大切な書状ですから」
「なるほど」
弥兵衛は頷いた。
景継が振り返る。
「何です、その顔は」
「何も」
「ならば笑わないでください」
「笑っておりませぬ」
「笑っています」
弥兵衛は口元を引き締めた。
「これでよろしいでしょうか」
「……もういいです」
景継は再び歩き出した。
やがて、門の向こうから北条の一行が姿を現した。
林道家の家臣たちが並ぶ中、景継はその到着を待った。
そして輿から楓が降りる。
小田原で会った時とは違う装いだった。
景継は、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
楓がその前まで歩いてくる。
「お久しゅうございます、景継様」
「……お久しぶりです、楓殿」
楓が景継の顔を見る。
「今、少し間がございましたね」
「ありましたか?」
「ありました」
「気のせいでしょう」
「そういうことにしておきます」
楓が小さく笑った。
その様子を、周囲に並んだ家臣たちが見ている。
楓もすぐにそれに気づいた。
「ずいぶんと大勢の方が見ておられますね」
「……皆、気になるのでしょう」
「私たちが、ですか?」
「北条から来られた姫君ですからね。楓殿がどのような方なのか、気になって仕方がないのでしょう」
「では、しばらくは見られ続けることになりそうですね」
「申し訳ありません」
「景継様が謝られることではありません」
楓はそう言ってから、景継の後ろへ目を向けた。
家臣たちは視線を逸らしたつもりなのだろうが、明らかにこちらを気にしている。
「ですが……」
「はい?」
「景継様まで、先ほどから私のことをよく見ておられますね」
「……見ていましたか?」
「はい」
景継は少しだけ視線を逸らした。
「小田原でお会いした時とは、随分と雰囲気が違いましたので」
「それは、今日の装いが?」
「それもありますが……」
景継は一度言葉を止めた。
「お綺麗になられたと思いまして」
今度は楓が黙った。
「……景継様」
「はい」
「そういうことを、急に言われるのですね」
「いけませんでしたか?」
「いいえ」
楓はわずかに頬を緩めた。
「少し、驚いただけです」
その時、後ろで誰かが咳払いをした。
景継が振り返る。
弥兵衛をはじめ、家臣たちは揃って何事もなかったような顔をしていた。
「……聞いていましたね?」
「何のことでございましょう」
「もういいです」
楓が隣で笑っていた。
◇
祝言は盛大に執り行われた。
林道家の家臣だけではない。
丹羽長秀、滝川一益、池田恒興ら縁の深い者たちが祝いに訪れ、遠方の大名からも使者や祝いの品が届けられた。
柴田勝家からも使者が来ていた。
『随分待たせたものだな。今度、顔を見せに来い』
勝家らしい言葉だった。
景継はそれを聞いて、思わず笑った。
「勝家様らしいですね」
織田信孝からも祝いが届いた。
徳川家康、上杉景勝からも使者が訪れている。
北条と林道の婚姻が正式に成立したことは、もはや二家だけの話ではなかった。
宴の端では、官兵衛と三成が並んでいた。
官兵衛が杯を手に景継と楓を見る。
「珍しいものが見られましたな」
「何がです?」
三成が尋ねる。
「林道様が、あれほど落ち着かぬ姿を見せるとは」
「落ち着いておられるように見えますが」
「表だけは」
三成が景継を見た。
確かに普段と大きく変わっているようには見えない。
「官兵衛殿は、余計なところまで見ているのですね」
「人を見るのが仕事のようなものですので」
「悪趣味とも言えます」
「三成殿も随分言うようになりましたな」
「事実を申しただけです」
官兵衛が笑った。
「では、一つ事実を」
「何です?」
「三成殿も先ほどから何度も林道様の方を見ております」
三成が黙る。
「……祝いの席ですから」
「そういうことにしておきましょう」
三成は無言で杯に口をつけた。
◇
長い宴が終わった頃には、夜もすっかり更けていた。
景継と楓は、ようやく二人きりになった。
昼間とは違う静けさが部屋を包んでいる。
しばらく二人とも話さなかった。
先に口を開いたのは楓だった。
「景継様」
「はい」
「何かお話しください」
「そう言われましても」
「先ほどまでは、あれほど多くの方と話しておられたではありませんか」
「あれは話す内容が決まっていますから」
「私とは決まっていないのですか?」
「……そういう意味ではありません」
楓が笑った。
「安心しました」
「何がです?」
「小田原でお会いした時と、あまり変わっておられません」
景継は少し考えた。
「楓殿は変わりましたね」
「先ほどもおっしゃいましたね」
「見た目だけではありません」
楓が景継を見る。
「小田原でお会いした時より、ずっと落ち着いて見えます」
「そう見せているだけかもしれませんよ」
「緊張しているのですか?」
「少しは」
「……それなら安心しました」
「なぜです?」
「私だけではないということですから」
景継は思わず笑った。
「お互い様ということですね」
「はい」
再び静かな時間が流れる。
今度の沈黙は、先ほどほど居心地の悪いものではなかった。
やがて楓が口を開く。
「父上から、一つ言われました」
「氏政様から?」
「景継様が間違ったことをしようとしたら、止めてやれ、と」
景継が目を瞬いた。
「……氏政様が?」
「はい」
「楓殿にも言われ、氏政様にも言われるのですか」
「嫌ですか?」
「いえ」
景継は少し考えてから首を振った。
「ありがたいことなのでしょうね」
「そう思っていただけるなら、遠慮はいたしません」
「少しは遠慮してください」
「考えておきます」
「それは遠慮しない方の返事でしょう」
楓が笑う。
景継もつられて笑った。
政略から始まった縁だった。
北条には北条の考えがあり、林道には林道の考えがある。
互いに利があるからこそ結ばれた婚姻であることを、二人とも理解していた。
だが、それだけでこれからのすべてが決まるわけではない。
景継は楓を見る。
「楓殿」
「はい」
「これから、よろしくお願いします」
楓は少しだけ姿勢を正した。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「それと……」
「まだ何か?」
「もう楓殿では、おかしいでしょうか」
楓が少し驚いた顔をした。
やがて微笑む。
「では、何と?」
「楓、と」
「はい」
「……楓」
「何でしょう、景継様」
「いえ。呼んでみただけです」
「そうですか」
楓は嬉しそうに笑った。
その夜。
北条氏政の娘、楓は正式に林道景継の妻となった。
政治によって結ばれた二人の縁が、この先どのようなものになるのか。
それはまだ、二人にも分からない。
ただ一つ。
この日から景継の帰る場所には、彼を待つ者が一人増えた。




