第百六十九話 新領統治
第二次清須会議を終えた景継が最初にしたことは、新たな城へ入ることでも、祝宴を開くことでもなかった。
机いっぱいに、地図と帳簿を広げることだった。
「……多いですね」
近江へ戻った景継の前には、各地から集められた書状が山のように積まれている。
近江。
山城。
摂津。
大坂周辺。
淡路。
今回、林道家が新たに治めることとなった土地は広い。
だが、地図の上で色を塗り替えれば、それで領地になるわけではない。
「多い、で済ませないでいただきたい」
向かいに座っていた石田三成が言った。
「まだ揃っていないものもございます」
「これで?」
「これでも、です」
三成が一冊の帳簿を開く。
「村ごとの石高、戸数、昨年の年貢、今年の見込み。さらに戦で荒れた田畑、逃散した百姓、焼けた家屋。調べ直さねばならぬ場所がいくつもございます」
その隣では片桐且元が、別の書状を整理していた。
「城についても同じです。旧羽柴方の城主で、そのまま林道家に従うと申している者がおります。一方、城を捨てて逃げた者もおります」
「残っている兵は?」
「武装を解いた者が多いですが、一部は判断を待っています」
景継が頷く。
「無理に追い出す必要はありません」
三成が顔を上げた。
「旧羽柴方であっても?」
「秀吉様に仕えていたというだけで追い出していては、人がいなくなります」
「裏切る可能性もございます」
「ありますね」
「ならば――」
「だから調べるのです」
景継は三成の前にあった帳簿を一冊取った。
「秀吉様への忠義が厚かった者と、領民を苦しめた者は同じではありません。私を嫌っている者と、使えない者も同じではない」
三成が黙る。
「誰に仕えていたかだけで決めないでください。その者が何をしてきたかを見ましょう」
「……承知しました」
「ただし」
景継は帳簿を戻した。
「兵を隠している者、年貢をごまかしている者、こちらが来るまでに蔵の中身を持ち出した者は別です」
「すでに何人かおります」
三成の返答が早かった。
「早いですね」
「調べれば分かります」
三成が別の帳面を出す。
「特にこちらの三家。提出された石高と、過去の兵糧搬入量が合いません」
景継が数字を見る。
「なるほど」
「少なく申告しております」
「どれほどです?」
「一つは誤差で済みます。しかし三年分を比べれば、意図的と見るべきでしょう」
景継は少しだけ三成を見た。
秀吉を失った直後、この男は景継に仕えることを素直に受け入れたわけではなかった。
だが仕事を与えれば違う。
数字を前にした途端、誰よりもよく働く。
「三成殿」
「はい」
「楽しいですか?」
「何がでございますか」
「その顔です」
三成が怪訝そうな顔をした。
「楽しんでなどおりません。間違っているものを正しているだけです」
「そうですか」
「それより、この三家をどうなさいます」
景継は笑みを消した。
「まず説明を求めましょう。最初から罰する必要はありません」
「言い逃れをした場合は?」
「その時に考えます」
三成は頷き、すぐに書きつけた。
少し離れた場所では、大谷吉継が各地から届いた訴えを読んでいる。
「景継様」
「何でしょう」
「こちらも少々厄介です」
吉継から渡された書状には、二つの家の名が書かれていた。
ともに旧羽柴方。
秀吉の死後、どちらがある村を治めるかで争っているという。
「土地の奪い合いですか」
「表向きはそうです。しかし村の者に聞くと、話が違います」
「と申しますと?」
「争っているのは土地そのものではありません」
吉継が地図を指した。
「この道です」
村の横を一本の道が通っている。
大きな街道ではない。
だが山城から摂津方面へ荷を運ぶ際、使い勝手のよい道だった。
「両家とも、この道から取れる銭を欲しがっております」
「それなら話が早い」
景継は地図を見る。
「どちらにも渡しません」
「林道家で押さえますか」
「ええ」
且元が顔を上げた。
「反発するのでは?」
「するでしょうね」
景継はあっさり答えた。
「ですが、争いの原因を片方へ与えれば、もう片方は必ず不満を持つ。ならば林道家が管理して、両家には別の形で利益を与えればいい」
吉継が頷く。
「通行を妨げる関所も整理した方がよろしいでしょう」
「お願いします」
「では、現地を見て参ります」
「任せます」
吉継が書状を持って立ち上がった。
その様子を、部屋の端にいた官兵衛が黙って見ていた。
「随分と使われますな」
「誰をです?」
「三成殿も、吉継殿も、且元殿も」
「働いていただかないと困ります」
「少し前まで、秀吉様の家臣でございましたぞ」
「知っていますよ」
「疑わぬので?」
景継が官兵衛を見る。
「官兵衛殿に聞かれたくありませんね」
「これは手厳しい」
官兵衛はわずかに笑った。
「ですが、使える者を使うという点では、確かに私も同じでございます」
「でしょう?」
景継は地図へ目を戻した。
「それに、今の林道家には人が足りません」
土地だけが一気に増えた。
それを治める人間まで同時に増えたわけではない。
昔から林道家に仕えてきた者だけですべてを管理しようとすれば、必ずどこかに無理が出る。
だから旧羽柴家臣も使う。
現地の者も残す。
能力があるなら、出自だけで遠ざけるつもりはなかった。
「官兵衛殿」
「はい」
「大坂について、どう思います?」
景継の指が地図の一点に止まった。
官兵衛の表情が変わる。
「どの意味でお尋ねですかな」
「全部です」
「また難しい聞き方をされる」
官兵衛は景継の横まで来ると、地図を覗き込んだ。
「捨てる理由がございません」
「やはり?」
「海がある。川がある。京へも近い。西へ向かうにもよい。物も人も集められる」
官兵衛の指が周辺をなぞる。
「何より、ここを押さえる者は畿内の流れに手を掛けられます」
「同感です」
「ただし」
「はい」
「手に入れたばかりの土地でございます」
官兵衛が景継を見る。
「城と道だけ押さえて満足されぬことですな」
「民ですか」
「商人もです」
景継は頷いた。
兵を置けば土地を取れる。
だが兵だけでは国は続かない。
「税を急に変えないようにしましょう」
三成が顔を上げた。
「すべてでございますか?」
「まずは、です」
景継は答えた。
「林道家になった途端、取り方も額も全部変わったのでは混乱します」
「しかし旧羽柴領の中でも、場所によって徴収の仕方が違います」
「だから今すぐ揃えない」
三成の目が少し変わった。
「一年かけて調べましょう。その間に、どこを変えるべきか決める」
「戦で荒れた村は?」
「減らします」
「どの程度」
「そこは三成殿に任せます」
「私に?」
「先ほど、戦で荒れた村から同じだけ取れば来年以降の収穫が減ると言っていたでしょう」
三成は少し黙った。
「……申しました」
「ならば、その考えで決めてください」
「承知しました」
三成が帳簿へ向き直る。
官兵衛がその姿を見ていた。
「ずいぶん思い切って任せますな」
「任せた方が私より上手いでしょう」
「失敗すれば?」
「直していただきます」
景継の返答に、官兵衛は小さく息を吐いた。
「相変わらずでございますな」
「有岡の頃から変わりませんか?」
「変わったところもございます」
官兵衛の視線が地図へ落ちる。
「任せられるものが、あの頃とは比べものにならぬほど大きくなりました」
その言葉に、景継も地図を見た。
確かにそうだった。
かつては一つの家を守るだけでも必死だった。
今は近江だけではない。
山城。
摂津。
大坂。
淡路。
そこに住む者たちの暮らしまで、林道家の判断に左右される。
「景継様!」
廊下から声が響いた。
弥兵衛が足早に入ってくる。
「どうしました?」
「摂津より急報にございます」
差し出された書状を景継が受け取る。
内容に目を通すと、眉がわずかに動いた。
「何か?」
官兵衛が尋ねる。
「旧羽柴方の兵が集まっています」
三成と且元も手を止めた。
「反乱ですか」
「まだ分かりません」
景継は書状を官兵衛へ渡した。
数百ほどの旧羽柴兵が、一つの城の周辺に集まり始めている。
城主はすでに林道家へ従う意向を示していた。
だが、その配下の一部が納得していないらしい。
「兵を出しますか」
弥兵衛が聞いた。
「出します」
景継はすぐに答えた。
「平野長泰殿を向かわせてください」
「討伐を?」
「いえ」
景継は首を振った。
「まず話をさせます」
官兵衛が景継を見る。
「長泰殿を選ばれた理由は?」
「少し前まで、同じ羽柴家にいた方です」
旧羽柴兵から見れば、林道家の古参が説得に来るのとは意味が違う。
「それでも武器を捨てなければ?」
「その時は戦います」
景継は立ち上がった。
「ただし、先に逃げ道を作っておいてください」
「逃げ道?」
「武器を置けば、元の村へ戻れる。林道家に仕えたい者には、働き口を用意する」
景継は書状を指した。
「秀吉様が死んだからといって、この方々まで死ぬ必要はありません」
弥兵衛が頭を下げる。
「すぐに長泰殿へ伝えます」
数日後。
摂津へ入った平野長泰は、集まった旧羽柴兵と向かい合った。
長泰自身も、つい先日まで秀吉の下で戦っていた男である。
「俺も同じだ」
長泰は彼らへそう言った。
「秀吉様に仕えていた」
兵たちが長泰を見る。
「だから、お前たちに秀吉様を忘れろとは言わん」
誰も答えない。
「だが、秀吉様が死んだからといって、俺たちまで死なねばならんのか」
長泰は地面へ槍を置いた。
「武器を置けば殺さぬ。村へ戻るなら戻れ。林道家で働くなら、その道もある」
「……林道景継は、秀吉様を討った男だぞ」
一人が言った。
「ああ」
長泰は否定しなかった。
「俺も知っている」
「なら、なぜ仕える」
「生きるためだ」
長泰の答えは短かった。
「それと――まだ戦えるからだ」
沈黙が続いた。
やがて、一人が刀を地面へ置いた。
続いて、もう一人。
一人ずつ、武器を手放していく。
結局、大きな戦にはならなかった。
その報せが景継のもとへ届いたのは、それから数日後だった。
「そうですか」
景継は書状を畳んだ。
「長泰殿に礼を」
「はっ」
弥兵衛が下がろうとする。
「それと弥兵衛」
「はい」
「武器を置いた方々が、本当に村へ帰れているか確認してください」
「そこまでなさいますか」
「約束しましたから」
弥兵衛は一礼して部屋を出た。
景継は再び地図へ向き直る。
戦は終わった。
だが、国を取ることと、国を治めることは違う。
秀吉を討っただけでは、天下へ近づいたとは言えない。
手に入れた土地を富ませ、人を残し、道をつなぎ、次の戦が起きても揺らがない国にする。
そこまでやって初めて、領地は力になる。
「景継様」
且元が新しい書状を持ってきた。
「今度は何でしょう」
「小田原からでございます」
景継の手が止まった。
「北条から?」
「はい」
且元が書状を差し出す。
景継が開く。
短い文だった。
清洲で婚姻を公にした以上、これ以上楓を小田原に留めておく理由はない。
北条側でも準備を始める。
輿入れの日取りを決めたい。
氏政からの書状だった。
「……そう来ましたか」
官兵衛が景継の顔を見る。
「何でございます?」
「楓殿です」
「なるほど」
官兵衛はすぐに察した。
「いよいよ奥方を迎えられますか」
景継はもう一度書状を見る。
新しい領地。
新しい家臣。
そして今度は、新しい家族。
秀吉との戦が終わり、林道家は急速に姿を変え始めていた。
「返書を」
景継は言った。
「お迎えします、と」
戦の後に得たものを、ただ持っているだけでは意味がない。
土地も。
人も。
そして縁も。
これから林道家のものとして、形にしていかなければならなかった。




