第百六十八話 変わった景色
林道家と北条家が、婚姻を伴う正式な同盟を結ぶ。
その事実は、清洲の広間に集まった者たちへ、旧羽柴領の分配以上の衝撃を与えていた。
最初に口を開いたのは信雄だった。
「……景継」
「はい」
「お前、いつからここまで考えていた」
「どこまで、と申されますと?」
「北条だ」
信雄は氏政を見る。
「上杉と北条を一時的に止めたところまでは知っていた。だが、その裏ですでに婚姻まで決めていたとは聞いていない」
「お伝えしていませんでしたから」
「それは分かっている」
信雄が少し苛立ったように言った。
「俺が聞いているのは、あの頃から今の形まで考えていたのかということだ」
「そこまでは考えていませんよ」
景継は答えた。
「北条と縁を結んだ時、秀吉様を倒した後に林道家がどれほどの大きさになっているかなど分かりませんでした」
「なら、偶然か?」
「それも違います」
景継は氏政を見る。
「あの時は、北条との縁が将来大きな意味を持つと思った。それだけです」
全てを見通していたわけではない。
だが、使える縁は作っておく。
その縁が何に変わるかは、後から決めればいい。
信雄はしばらく景継を見ていたが、やがて息を吐いた。
「お前と話していると、どこからが最初からの考えなのか分からなくなる」
景継はそれには答えなかった。
「しかし、これは大きいですな」
長秀が口を開いた。
視線は地図へ向いている。
「林道家は近江から山城、摂津、大坂方面へ力を伸ばす。その林道家と、関東の北条が婚姻で結ばれた」
一益も頷く。
「間に徳川がいる」
その一言で、何人かの視線が家康へ向いた。
家康は表情を変えなかった。
「私を見られても困りますな」
「気にならぬのか?」
勝家が聞く。
「気にならぬと言えば嘘になります」
家康はあっさり認めた。
「ですが、林道殿と北条殿が同盟を結んだからといって、直ちに徳川を挟み撃ちにするわけでもありますまい」
「もちろんです」
景継が答えた。
「徳川様を敵とするための同盟ではありません」
「それならば今は、それでよいでしょう」
家康は静かに答えた。
今は。
その言葉を、景継は聞き逃さなかった。
家康の目が地図へ戻る。
三河、遠江。
そして今回、信雄から譲られることになる尾張東南部。
その西には、急速に勢力を拡大した林道家。
さらに東には北条。
家康にとっても、無視できる配置ではない。
「景継」
勝家が呼んだ。
「はい」
「お前、俺にも黙っておったな」
「婚姻のことですか」
「他に何がある」
勝家の声に怒鳴るような勢いはなかった。
だからこそ、景継も軽く返さなかった。
「申し訳ありません」
素直に頭を下げる。
勝家が少し意外そうな顔をした。
「北条と上杉の不戦についてはお伝えしました。ですが婚姻まで明かせば、どこから秀吉様へ漏れるか分からなかった」
「俺を疑ったか」
「柴田様ではありません」
景継はすぐに答えた。
「知る者が増えれば、それだけ漏れる場所も増えます」
勝家は黙った。
「それに、あの時点で婚姻を公にすれば、北条と上杉の不戦そのものを疑われる可能性もありました」
「……それで俺にも伏せたか」
「はい」
勝家はしばらく景継を見た後、鼻から息を吐いた。
「次からは、せめて俺が後で恥をかかぬ程度には教えておけ」
「覚えておきます」
「覚えるだけでは困る」
それ以上、勝家は責めなかった。
景継も、この男が完全に納得したとは思っていない。
それでも勝家は、必要だった理由を理解してくれたのだろう。
「信孝様はどう見られます?」
長秀が尋ねた。
信孝は少し考えてから答えた。
「強くなった。それだけだ」
「林道家が?」
「違う。景継の立場がだ」
信孝は景継を見る。
「秀吉を討っただけなら、戦に勝った大名だ。そこへ今回の領地が加わった。それでもまだ、畿内で急に大きくなった大名と言えなくもない」
その視線が氏政へ移る。
「だが北条と婚姻で結ばれたとなれば、話は変わる」
信孝は織田家の人間である。
だからこそ、家と家が婚姻で結ばれる意味を理解している。
「簡単には潰せぬ家になった」
短い言葉だった。
景継は否定しなかった。
「信孝様も、随分とはっきり申されますな」
長秀が言う。
「ここで遠回しに言って何になる」
信孝は地図へ視線を落とした。
「俺も播磨を得る。勝家も大きくなる。信雄兄上も力を残す。家康殿もいる。上杉も北条もいる」
そして最後に景継を見る。
「秀吉が死んだからといって、誰か一人の天下になったわけではない」
「その通りです」
景継が答えた。
むしろ逆だった。
秀吉という一際大きな存在が消えたことで、それまでその陰に隠れていた者たちの力が見えるようになった。
「氏政様はどうです?」
景継が尋ねた。
「何がだ」
「以前、小田原で会った時と比べて」
氏政は少しだけ考えた。
「あの時のお前は、北条の力を借りに来た男だった」
「否定できませんね」
「今は違う」
氏政は景継を見る。
「北条に同盟を持ちかけられるだけのものを持った」
それは氏政なりの評価だった。
「だが、勘違いするな」
「何でしょう」
「先ほど、お前はいずれ立場が逆転するかもしれぬと言ったな」
「言いました」
「そう簡単に北条を追い越せると思うな」
氏政の声には怒りではなく、挑むような響きがあった。
「北条も止まっているつもりはない」
景継は氏政を見返した。
「それでこそ、同盟を結ぶ意味があります」
片方だけが強くなり、もう片方が寄りかかる関係では長く続かない。
互いに力を持つからこそ、相手を利用できる。
氏政が求めたのも、そういう関係なのだろう。
「話を戻しましょう」
長秀が言った。
「まだ決めることが残っています」
清洲へ集まった目的は、林道と北条の同盟だけではない。
細かな領地の境は後日に回すとしても、戦後の大枠だけはここで固める必要がある。
丹羽長秀、滝川一益、池田恒興らには、それぞれ今回の働きに応じた加増を行う。
大きな国を一つ与えるのではなく、既存領に近い城や土地を中心に調整することになった。
旧羽柴方の城についても、降伏した者を全て追い出すことはしない。
働く意思があり、領民を治められる者ならば残す。
その判断には官兵衛、三成、吉継、且元らも使う。
「それと」
家康が言った。
「三法師様についてはどうされる」
広間の空気が少し変わった。
織田三法師。
信長の嫡孫。
かつての清須会議で、織田家の後継として据えられた存在である。
秀吉が死んだ今、その扱いを曖昧にするわけにはいかなかった。
信孝が先に口を開いた。
「三法師様は織田家の主だ。それは変わらぬ」
信雄が信孝を見る。
「俺も今さらそれを覆すつもりはない」
勝家も頷く。
「俺も異論はない」
視線が景継へ集まった。
「私も同じです」
「林道家が織田家を飲み込むつもりはないと?」
家康が確認する。
「ありません」
景継は即答した。
「私は林道家で天下を取ると申し上げました」
織田の名を借りて天下を取るつもりはない。
三法師を利用して織田家を乗っ取るつもりもない。
「三法師様には、織田家の主としていていただけばよい」
信孝が景継を見た。
「その言葉、忘れるなよ」
「ええ」
これで大きなところは決まった。
旧羽柴方の土地。
戦功への恩賞。
徳川への尾張東南部。
上杉への越中東部。
北条の上野における権利。
そして林道と北条の正式な同盟。
織田家についても、三法師を主とする形を維持する。
残る細かな調整は、それぞれの家臣に任せればよい。
長秀が静かに息を吐いた。
「ようやく、形になりましたな」
「ああ」
勝家が答える。
「前にここへ集まった時とは、随分違う形になったがな」
その言葉に、景継は清洲城へ入った時のことを思い出した。
――また、ここですか。
同じ城。
同じように天下の行方を話し合う大名たち。
だが、そこにいる者も、力関係も、まるで違う。
そして何より。
前の清須会議では、景継は天下の行方を決める中心ではなかった。
今は違う。
景継が口を開けば、徳川が聞く。
柴田が聞く。
織田が聞く。
上杉が聞く。
北条が聞く。
それだけの場所まで来た。
会議が終わり、一人、また一人と広間を出ていく。
家康も立ち上がった。
「林道殿」
「はい」
「次に会う時も、こうして同じ席で話せるとよいですな」
景継は家康を見た。
穏やかな表情だった。
だが、その言葉をただの挨拶とは思わなかった。
「私もそう願っています」
家康は小さく頷き、去っていった。
その背を景継はしばらく見送った。
秀吉はもういない。
共に倒すべき大敵もいない。
ここから先、今日同じ広間に座った者たちが、いつまでも同じ側にいる保証などなかった。
第二次清須会議は終わった。
そして同時に――。
秀吉亡き後の、新しい天下が動き始めた。




