第百六十七話 北条と林道
「北条が今回働いた価値を――お前の口から聞かせてもらおうか」
北条氏政の声が広間に響いた。
誰もすぐには口を挟まなかった。
西上野、南上野の領有を認める。
沼田についても北条の権利を一定程度認めながら、最終的な帰属は先送りする。
決して軽い条件ではない。
だが、氏政が問うているのは土地の広さではなかった。
今回の戦で北条が果たした役割を、景継がどれほど重く見ているのか。
景継は氏政を見返した。
「北条が動かなければ、秀吉様をあの戦で討てなかった可能性があります」
広間に小さなどよめきが起こった。
「そこまで申すか」
「はい」
景継は地図へ目を落とした。
「徳川様が長久手で勝ち、柴田様が秀吉様の兵を引きつけた。信雄様、信孝様も動き、一益殿には道を乱していただいた。そして北からは上杉、東からは北条が動いた」
秀吉は、一度負ければ終わる男ではなかった。
北ノ庄で敗れても、再び兵を集め、味方を増やし、立て直した。
だからこそ、今度は逃がすわけにはいかなかった。
「秀吉様を倒すには、戦に勝つだけでは足りませんでした。兵を集める場所も、援けを求める相手も、立て直すための時間も削らなければならなかった」
景継の指が東へ動く。
「北条が動いたことで、それができました」
「つまり、北条が動かなければ秀吉は生き残ったかもしれぬと?」
「ええ」
景継はためらわなかった。
「少なくとも、私はあの戦で確実に討てたとは申しません」
氏政はしばらく景継を見つめていた。
やがて、その表情からわずかに険しさが消える。
「ならば、北条の働きは認めておるのだな」
「もちろんです」
「では、どう報いる」
「西上野と南上野の承認だけでは足りないと?」
「そう申しておる」
「分かりました」
景継は一度、地図から手を離した。
「では、土地とは別のものを提案します」
「申してみよ」
「林道家と北条家で、正式に同盟を結びたい」
広間の空気が変わった。
「同盟?」
信雄が景継を見る。
勝家も眉を上げた。
家康は声を発しなかったが、視線が景継へ向いている。
「以前、小田原を訪れた時とは状況が変わりました」
景継は氏政に向かって続けた。
「あの頃の林道家では、北条家と対等な同盟を結ぶなどとは申し上げられなかった」
「ほう」
「北条は関東に広大な領地を持ち、多くの兵を動かせる。対して、当時の林道家はまだ小さかった」
氏政は否定しなかった。
それは事実だった。
小田原で初めて顔を合わせた時、景継は氏政に協力を求める側だった。
北条と上杉を一時的に止め、秀吉を追い詰めるために北条の力を借りる。
氏政にとって景継は、興味深くはあっても、まだ肩を並べる相手ではなかった。
「だが、今は違うと?」
「違います」
景継は即答した。
「林道家は近江を基盤とし、これから山城、摂津、大坂、淡路へと力を伸ばします。北条は関東に基盤を持つ。互いに領地を奪い合う必要もありません」
景継の指が、地図の中央と東を示した。
「林道は中央。北条は東。どちらかに大きな敵が現れれば、もう一方が支える。兵だけではなく、道、物資、外交でも互いを助けられる」
「対等な同盟を望むということか」
「そのつもりです」
氏政は黙った。
そして景継をじっと見つめる。
しばらくして、低い声で問いかけた。
「景継」
「はい」
「林道に――それだけの価値があると思っているのか」
広間の空気が張り詰めた。
勝家が氏政を見る。
信孝も口を閉ざした。
北条氏政からすれば当然の問いだった。
秀吉を討ったとはいえ、北条は長い年月をかけて関東に巨大な勢力を築いてきた。
林道家が急速に伸びたことと、それは同じではない。
だが景継は迷わなかった。
「あります」
「言い切るか」
「ええ」
景継の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「それどころか、氏政様」
「何だ」
「林道家は、まだまだ大きくなります」
氏政の目が細くなる。
「ずいぶんと言うようになったな」
「ですから、今のうちに同盟を結んでおいた方がよろしいかと」
氏政の眉が動いた。
「……何?」
「もう少し先になれば」
景継は氏政を真正面から見た。
「どちらが同盟を申し込む側なのか――立場が逆転しているかもしれませんよ」
広間が静まり返った。
誰もすぐには言葉を発しなかった。
関東の北条氏政を前に、景継は言ったのだ。
いずれ林道家は北条を越えるかもしれない、と。
信雄が驚いたように景継を見る。
長秀も黙ったまま二人の様子を見ている。
家康の目だけが、静かに細くなった。
氏政は怒らなかった。
景継を見つめたまま、やがて小さく息を漏らす。
「……面白い」
その口元に笑みが浮かんだ。
「初めて小田原へ来た時のお前なら、到底言えなかった言葉だな」
「言っても笑われたでしょうね」
「笑うだけで済めばよかったな」
氏政の笑みが消える。
「だが、今なら聞いてやれる」
景継も表情を戻した。
「ありがとうございます」
「まだ同盟を受けるとは申しておらぬ」
「そうでしたね」
「一つ聞こう」
「はい」
「お前の言う通り、林道がこれからさらに大きくなるとしよう」
氏政の声が低くなる。
「その時、北条との約定を守る保証はどこにある?」
景継はすぐには答えなかった。
力が変われば、関係も変わる。
今は互いに利がある。
だが林道家がさらに巨大になれば、北条を必要としなくなる可能性もある。
氏政が疑うのは当然だった。
「口約束だけでは足りぬぞ」
「そうでしょうね」
「ならば、何をもって結ぶ」
景継は氏政を見た。
氏政も景継を見返す。
ほんの短い沈黙。
やがて景継は、広間にいる者たちへ向き直った。
「では、この場で一つ明らかにしておきましょう」
「何をだ?」
勝家が聞く。
景継は一度だけ氏政を見る。
氏政が小さく頷いた。
「私は――北条氏政様の娘、楓殿を妻に迎えることになっています」
一瞬、誰も反応できなかった。
「……は?」
勝家の声が漏れる。
「待て」
信雄が身を乗り出した。
「今、何と言った?」
「氏政様の娘、楓殿を妻に迎えることになっていると申し上げました」
「いつ決まった!」
勝家の声が広間に響いた。
「以前、小田原を訪ねた時です」
「では、北条と上杉の不戦をまとめた頃には、すでに決まっていたのか?」
信孝が問いかける。
「はい」
「なぜ黙っていた」
「公にすべき時ではなかったからです」
勝家が険しい顔で景継を見る。
「俺にもか」
「ええ」
景継はそこを濁さなかった。
「柴田様にもお伝えしていませんでした」
「……そうか」
勝家はそれ以上何も言わなかったが、納得した顔でもなかった。
長秀が静かに氏政を見る。
「氏政殿。この婚姻は事実で?」
「事実だ」
「北条から持ちかけられたものですか」
「そうだ」
今度は氏政が隠さず答えた。
「小田原で景継と話した後、俺が娘を嫁がせると決めた」
その言葉に、家康の視線が景継へ移った。
以前の景継は、今ほどの大名ではなかった。
その時点で氏政は娘を嫁がせる決断をしていた。
つまり氏政は、今の林道家が出来上がるより前から景継に何かを見ていたことになる。
「しかし」
信雄が口を開いた。
「それほど前に決まっていたなら、なぜ今まで公にしなかった?」
景継が答える。
「以前の林道家では、婚姻を公にすれば北条家に取り込まれたように見えたでしょう」
氏政は何も言わない。
「ですが今なら違う」
景継は広間を見渡した。
「北条家から一方的に庇護を受けるための婚姻ではありません」
そして氏政を見る。
「北条と林道が、互いに利を持つ大名として結ぶための婚姻です」
氏政がゆっくり頷いた。
「そういうことだ」
景継は続ける。
「だからこそ、この場で正式に申し入れます」
氏政へ向き直る。
「北条氏政様」
「何だ」
「林道家と北条家で、婚姻を柱とした正式な同盟を結びたい」
再び広間が静かになった。
「互いの領地を侵さない。どちらかが他家から不当に攻められた時には協力する。ただし、一方が始めた戦へ無条件に兵を出すものではない」
「北条の戦なら何でも助けるわけではないということだな」
「もちろんです。逆も同じです」
「物資と道は?」
「必要に応じて互いに融通する。ただし、自家を危うくしてまで差し出す義務は負わない」
「外交では?」
「互いを敵として扱わず、相手を害するための同盟には加わらない」
氏政は一つずつ聞き、景継は答えた。
主従ではない。
どちらかがもう一方の戦に引きずられる関係でもない。
互いの家を守り、互いの利益になる限り助け合う。
北条にも林道にも利がある同盟だった。
「悪くない」
氏政が言った。
「だが、先ほどの言葉は忘れぬぞ」
「どの言葉でしょう」
「とぼけるな」
氏政の目が鋭くなる。
「いずれ立場が逆転するかもしれぬと言っただろう」
「そのつもりで大きくなりますので」
氏政はしばらく景継を見つめた。
そして笑った。
「ならば、北条も大きくなればよい」
景継の目がわずかに細くなる。
「競争ですか」
「同盟とは、相手の後ろに隠れるために結ぶものではあるまい」
氏政は広間に響く声で続けた。
「北条は林道家との同盟を受ける」
景継が頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、対等な同盟だ」
「もちろんです」
「北条が林道の下についたなどと申す者がおれば、俺が訂正する」
「その必要はありません。私からも否定します」
ここに、北条家と林道家の正式な同盟が成立した。
西上野、南上野における北条の領有を認める。
沼田については北条の権利を一定程度認めつつ、最終的な帰属は先送り。
吾妻は現状を維持する。
そしてそれとは別に、林道家と北条家は婚姻を公にし、対等な同盟を結ぶ。
氏政が求めた北条の価値への答えは、土地を積み増すことではなかった。
景継自身が、これから天下を狙う林道家の同盟相手として北条を選んだ。
「上杉としても、一つ確認させていただきたい」
直江兼続が口を開いた。
「どうぞ」
「林道と北条が同盟を結んだからといって、上野で争いが起きれば林道が自動的に北条方へつく、ということではございませぬな」
「違います」
景継が答えた。
「先ほど申し上げた通り、北条が始めた戦へ林道家が無条件で加わることはありません」
氏政も続ける。
「北条も同じだ。景継が勝手に始めた戦に、北条が兵を出す義理はない」
「ならば結構にございます」
兼続が頭を下げた。
そのやり取りを、家康は黙って聞いていた。
「徳川様」
景継が声をかける。
「何でしょう」
「何かございますか」
「いや」
家康は静かに地図へ目を落とした。
「いろいろと驚かされているだけです」
景継と氏政。
二人の関係が思っていた以上に深かった。
それだけではない。
林道家は、秀吉を討ったことで大きくなった。
近江から山城、摂津、大坂、淡路へ。
天下の中央に根を張り始めている。
そこへ関東の北条が婚姻によって結ばれた。
「氏政殿」
家康が言った。
「随分と早い時期から景継殿を買っておられたのですな」
「そうなるな」
「今ほどの勢力になる前から娘を?」
「ああ」
「なるほど」
家康はそれ以上聞かなかった。
だが、その短いやり取りだけで十分だった。
家康の中で、林道景継という存在の見え方が変わり始めている。
以前ならば、秀吉を倒すために共に動ける相手だった。
今は違う。
秀吉はいない。
景継自身が、天下の行方を左右する大名になった。
さらに北条という巨大な勢力まで、その景継と結ばれた。
景継もまた、家康の視線が変わったことに気づいていた。
だが、それでよい。
いつまでも同じ敵だけを見ていることなどできない。
秀吉を倒した時点で、次の争いは始まっている。
それが明日なのか。
一年後なのか。
もっと先なのか。
まだ分からない。
ただ、天下を目指す者が複数いる以上、いずれ道は交わる。
景継は再び地図を見た。
柴田。
織田。
徳川。
上杉。
北条。
そして林道。
秀吉という巨大な存在が消えたことで、天下が一つになったわけではない。
むしろ、それぞれの力が以前より鮮明に見えるようになった。
その中で林道家は、ようやく大名たちと肩を並べるところまで来た。
だが、景継にとってはまだ途中にすぎない。
氏政に言った言葉は、強がりではなかった。
林道家は、まだ大きくなる。
いずれ今日の同盟を振り返った時、北条にとっても「あの時に結んでおいてよかった」と思わせるほどに。
そのつもりだった。




