第百六十六話 第二次清須会議
清洲城の門をくぐった景継は、馬上から城を見上げた。
信長と信忠が死に、織田家の行く末を決めるために諸将が集まった場所。
あの時とは、状況も立場も大きく変わっている。
――また、ここですか。
景継はそれだけを思い、馬を降りた。
今回、清洲へ集まったのは林道景継、徳川家康、柴田勝家、織田信雄、織田信孝、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興。
さらに上杉景勝の名代として直江兼続、北条からは板部岡江雪斎が姿を見せていた。
景継の後ろには黒田官兵衛もいる。
正式な主従というには、まだ二人の関係は奇妙だった。
景継は官兵衛を利用する。
官兵衛も景継を利用する。
ただ、旧羽柴領と旧羽柴家臣について、この男以上に詳しい者がいないことだけは確かだった。
「遠路、ご苦労でした」
景継が江雪斎へ声をかける。
「氏政様より、よく話を聞いて参れと申しつけられております」
「それは怖いですね」
「林道様がおっしゃいますか」
江雪斎はわずかに笑い、頭を下げた。
やがて一同が広間へ入り、それぞれの席につく。
中央には大きな地図が広げられていた。
旧羽柴方の城、街道、領地。
さらに周辺諸国との境まで細かく書き込まれている。
景継の命を受け、三成たちが整理したものだった。
最初に口を開いたのは長秀である。
「皆、揃いましたな」
「ああ」
勝家が地図を見下ろした。
「始めよう。秀吉が死んだ以上、宙に浮いた土地をいつまでも放っておくわけにはいかん」
「その通りです」
景継が答える。
「ただし、ここで村一つ、城一つまで決めるつもりはありません。まず大枠を決めましょう。細かな境については、その後で詰めればよい」
「それがよかろう」
家康が頷いた。
信雄も信孝も異論はない。
景継は地図へ手を伸ばした。
「まず、徳川様への恩賞から決めたいと思います」
家康が静かに景継を見る。
「徳川様には長久手で大きな働きがありました。その後も信雄様と共に羽柴方を攻め、秀吉様の兵を縛っていただいた。当然、相応の恩賞が必要です」
「旧羽柴領をもらうつもりはないぞ」
「遠すぎますからね」
「先日の話と同じか」
「はい」
景継の指が尾張へ移った。
「三河や遠江を基盤とする徳川家に、遠く離れた土地を与えても治めにくいだけです。そこで、信雄様から尾張東南部の一部を徳川様へ譲っていただきたい」
信雄が眉を寄せる。
「やはり、そこか」
「はい」
「尾張は織田の土地だぞ」
「承知しております。ですから、その分は別の土地で補います」
景継の指が畿内へ移った。
「河内。それに和泉の旧羽柴方所領を中心に、信雄様へ加える」
「尾張の一部を渡す代わりに、か」
「はい。尾張の大部分は信雄様のままです。伊勢、伊賀についても変えません」
信雄はしばらく地図を見つめた。
「家康殿」
「何でしょう」
「尾張東南部と言っても、どこまで渡すかは別の話だ」
「無論です。そこは後ほど双方で話し合いましょう」
「ならばよい」
信雄が頷く。
家康も異論を唱えなかった。
景継の指が北へ動いた。
「次に上杉です」
直江兼続が姿勢を正す。
「上杉様にも今回、大きく動いていただきました。しかし越後から離れた畿内の土地を渡しても、恩賞がかえって負担になりかねません」
「もっともにございます」
「そこで、越中東部の一部を上杉へ移したいと考えています」
「待て」
勝家が口を挟んだ。
「越中には成政がおる」
「存じています」
「佐々から取り上げるということか」
「一方的には取り上げません」
景継の指が丹波と但馬へ移る。
「越中で上杉へ譲った分は、旧羽柴方所領から柴田方へ補います。佐々殿にも、その中から相応の知行を与えていただきたい」
勝家が地図を見る。
「つまり、越中東部の一部を上杉へ渡す代わりに、こちらは丹波、但馬へ伸びる」
「はい。柴田様にはこれまでの越前、加賀方面を基盤としていただき、丹波と但馬の旧羽柴方所領を加える形がよいかと」
直江兼続が口を開く。
「越後に接する越中であれば、上杉としてもありがたい話にございます。ただ、どこまでを上杉領とするかについては、景勝様へ持ち帰らせていただきたい」
「もちろんです」
勝家も頷いた。
「こちらも成政と話す必要がある。大枠については異論ない」
「では、その方向で」
柴田方は従来の越前、加賀方面に加え、丹波、但馬方面へ勢力を伸ばす。
佐々成政らを含めれば、戦後も最大級の勢力となるだろう。
景継はそれを削ろうとはしなかった。
勝家が働いた。
ならば報いる。
それだけのことだった。
「次に、信孝様」
「俺か」
景継の指が西へ動く。
「播磨の旧羽柴方所領を、信孝様へ」
「播磨を?」
「はい」
「俺には美濃がある。かなり離れるぞ」
「承知しています」
「先ほど飛び地は治めにくいと言っていたではないか」
「ですから、徳川様や上杉様ほど綺麗な形ではありません。ただ、播磨は秀吉様が長く足場としてきた土地です」
景継は播磨を指した。
「羽柴家がなくなったからといって、誰にでも任せられる場所ではありません。織田の名を持ち、相応の兵を動かせる方が治めた方がよい」
「俺なら抑えられると?」
「そう考えています」
信孝は地図を見つめた。
美濃を持ちながら、西にも大きな足場を得る。
離れているという難点はある。
それでも、得られるものは大きい。
「……分かった。受けよう」
「随分とあっさりお決めになりましたな」
勝家が横から口を挟んだ。
信孝が勝家を見る。
「丹波と但馬を受ける勝家に言われたくはない」
「それだけ信孝様にとって、播磨が魅力的だったということでございましょう」
「当然だ。これほどの土地を差し出されて、いつまでも渋っている理由もない」
信孝はもう一度、地図へ視線を落とした。
「ただし、治めるのは簡単ではなさそうだな」
「そこは私も手を貸します」
景継が答える。
その後ろで、官兵衛がわずかに目を細めた。
旧羽柴家臣や播磨の事情を考えれば、官兵衛の力も必要になる。
それを分かった上での配置だった。
そして――。
「林道殿」
家康が口を開いた。
「はい」
「皆の取り分は分かった」
家康の視線が地図の中央へ落ちる。
「お主はどうする」
広間が静かになった。
勝家も、信雄も、信孝も景継を見る。
秀吉を討ち取ったのは林道軍。
今回の戦で最大の功を挙げた者が誰かと問われれば、景継の名を外すことはできない。
「近江です」
景継が答えた。
「今ある林道領に加え、近江の旧羽柴方所領をいただきます」
指を西へ動かす。
「そして山城の旧羽柴方所領」
さらに摂津へ。
「摂津については、池田殿をはじめ既存の領主の土地には手をつけません。旧羽柴方所領と大坂周辺の要地をいただきたい」
恒興が頷く。
「それならば異存はない」
「ありがとうございます」
最後に景継の指が海へ伸びた。
「それと、淡路の旧羽柴方所領を」
「それだけか?」
勝家が聞いた。
「十分でしょう」
「……お前なら、もっと取ると思っておったが」
「必要ありません」
「秀吉を討った最大の功は、お前にある。それでもか」
「ええ」
景継は地図へ視線を落とした。
「今回分けることができるのは、秀吉様が亡くなったことで処遇を決め直す必要が生じた土地です。それ以上まで手を伸ばせば、論功行賞ではなく新たな戦になります」
勝家が腕を組んだ。
「なるほどな」
「それに、領地は広ければよいというものではありません」
景継は近江から山城、摂津、淡路へと視線を移した。
「私は、必要な場所をいただきます」
その言葉を聞き、勝家が改めて地図を見た。
しばらく何も言わない。
やがて太い指が、近江から西へ動いた。
「……石高ではなく、場所を取ったか」
景継は答えなかった。
「近江を押さえれば京へ出られる。山城から摂津へ入り、大坂へ出る。その先には海がある」
信孝も地図へ目を落とした。
「なるほど。林道家だけ、領地の意味が違うな」
「石高だけなら、柴田殿の方が上でしょう」
長秀が静かに言った。
「ですが、天下の中央を押さえているのは景継殿になる」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
柴田方は百二十万石を超えるほどの勢力。
信雄も尾張、伊勢、伊賀を基盤として河内、和泉方面を加え、百余万石規模。
信孝は美濃に播磨を加え、九十万から百万石ほど。
林道家もまた、九十万から百万石ほど。
数字だけなら、景継が一人抜け出したわけではない。
むしろ勝家の方が大きい。
だが、近江、山城、摂津、大坂、淡路。
並べてみれば、その意味は明らかだった。
京へ続く道。
大坂へ続く道。
琵琶湖。
そして海。
天下の中央を、人と物が流れる道ごと押さえる。
家康は何も言わなかった。
ただ、地図を見つめる目だけが先ほどまでとは違っている。
景継が何を欲し、何を捨てたのか。
おそらく家康は、すでに理解している。
景継も説明するつもりはなかった。
分かる者には、地図を見れば分かる。
「では」
長秀が一同を見渡した。
「大枠としては、この形を基に詰めていくことでよろしいか」
「俺は構わん」
勝家が答える。
「ただし、成政への補償は確実にしてもらうぞ」
「もちろんです」
信雄も頷く。
「尾張東南部については家康殿と改めて話す。それ以外は異論ない」
「私もそれで」
家康が応じる。
信孝も続いた。
「播磨については受ける。ただ、旧羽柴方の者をまとめるには手を借りたい」
「そのために官兵衛殿がいます」
景継が後ろを見る。
官兵衛が小さく頭を下げた。
「早速、使われることになりそうでございますな」
「働いていただいた分は、黒田家にも返しますよ」
「それならば、せいぜい高く働いたことにしていただきましょう」
景継は返事をせず、地図へ視線を戻した。
大きな枠組みは見えた。
これで全てが終わったわけではない。
丹羽、滝川、池田ら今回の戦で働いた者への加増。
旧羽柴家臣の処遇。
城や村ごとの細かな境。
決めるべきことはいくらでも残っている。
それでも、天下の形は少しずつ変わり始めていた。
秀吉という巨大な存在が消えた場所へ、別の勢力が入り込んでいく。
その時だった。
「一つ、よろしいでしょうか」
板部岡江雪斎が口を開いた。
広間の視線が北条の使者へ集まる。
「どうぞ」
景継が答えた。
「皆様への恩賞については、よく分かりました」
江雪斎は落ち着いた声で続ける。
「では、北条への恩賞について、改めてお聞かせ願いたい」
景継の指が関東へ移った。
「西上野、南上野については、北条がすでに強く支配している地域の領有を、ここにいる諸家が正式に認める形で考えています」
「沼田は?」
「北条の権利を一定程度認めます。ただし、最終的な帰属については先送りします」
「吾妻は?」
「現状を維持するのがよいでしょう」
江雪斎は黙った。
直江兼続も何も言わない。
上野をめぐる問題には、北条だけではなく上杉、徳川、真田も関わっている。
ここで一方に全てを与えれば、秀吉との戦が終わったばかりだというのに、新たな争いの種を蒔くことになる。
やがて江雪斎が口を開いた。
「つまり、西上野と南上野について北条の領有を認め、沼田については一定の権利を認めながら決着を先送りする」
「はい」
「それが、今回の北条への恩賞であると?」
「それだけではありません。今後の関東についても――」
「足りぬな」
低い声が、広間に響いた。
景継の言葉が止まった。
江雪斎ではない。
「誰だ」
勝家が眉を寄せる。
広間にいた者たちの視線が、一斉に北条の一行へ向いた。
「西上野と南上野を認める。沼田については先送り。それで北条の働きに報いたつもりか」
一人の男が、ゆっくりと前へ出た。
「何者だ」
信孝が鋭く問う。
男は答えない。
代わりに江雪斎が、その男へ深く頭を下げた。
「……殿」
広間の空気が変わった。
「殿……?」
信雄が男を見る。
男は江雪斎の横まで進むと、景継を真正面から見据えた。
「久しいな、景継」
その声を聞いた瞬間、景継の目がわずかに見開かれた。
「……氏政様」
「北条氏政!?」
信雄が声を上げた。
勝家も長秀も驚きを隠さない。
家康だけは声を上げず、氏政と景継を交互に見ている。
北条氏政。
関東に巨大な勢力を築く北条家の当主が、自ら清洲まで来ていた。
「なぜ御自ら……」
家康が静かに問う。
氏政は家康を一瞥した後、再び景継へ視線を戻した。
「見ておきたかったのだ」
「何をです?」
「秀吉を倒した後、お前が何をするのかをな」
景継は黙って氏政を見返した。
氏政が一歩前へ出る。
「景継。一つ聞こう」
「何でしょう」
「我ら北条が動かなければ――秀吉はどうなっていた?」
広間が静まり返った。
氏政は景継から目を逸らさない。
上杉が北から動いた。
北条が東から動いた。
その二つが同時に起きたことで、秀吉は兵も道も時間も奪われ、立て直す余地を失った。
そして、その形を作ろうとしていた者が誰なのか。
氏政は知っている。
秀吉がまだ生きていた頃、小田原で景継自身の口から聞いていたのだから。
だが、それをこの場で知る者はほとんどいない。
氏政が低い声で続けた。
「景継」
家康の視線が、ゆっくりと二人へ向く。
「北条が今回働いた価値を――お前の口から聞かせてもらおうか」




