第百六十五話「二人では決められぬ」
徳川家康からの使者が林道の陣を訪れた翌日。
景継は供を必要最小限に絞り、家康との会談の場へ向かった。
場所は尾張と近江を結ぶ街道から少し外れた寺である。
大きな戦は終わった。
羽柴秀吉は死に、その軍勢も散った。各地では旧羽柴方の城が次々と降伏し、官兵衛を通じて旧臣たちの処遇も進み始めている。
だが、戦が終わったからといって、すべてが終わったわけではない。
むしろ、ここから先の方が難しい。
秀吉という巨大な存在が消えたことで、その下にあった土地、人、城、そして権利が宙に浮いている。
誰がどこを治めるのか。
誰がどれほどの恩賞を受けるのか。
そして、織田家を今後どうするのか。
それを間違えれば、せっかく終わった戦が形を変えて始まるだけだった。
寺の一室へ入ると、家康はすでに座っていた。
「林道殿」
「徳川様。お待たせいたしました」
「いや、こちらが急に呼び立てたのだ。座られよ」
景継が向かいに腰を下ろす。
互いの供は離れた場所に控えていた。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
以前会った時とは、状況がまるで違う。
あの時、家康は景継に一つだけ求めた。
徳川の邪魔をしないこと。
景継も、それを受け入れた。
その後、家康は自ら兵を動かし、長久手で羽柴軍を破った。
そして景継は秀吉を追い詰め、最後には自ら軍を率いてその命を奪った。
先に口を開いたのは家康だった。
「まずは礼を申しておきたい」
「礼、ですか」
「林道殿は約束を違えなかった」
景継はわずかに目を細める。
「徳川の邪魔をしない、と申した件ですか」
「そうだ」
「途中からは、随分と好き勝手に動きましたが」
「それは承知している」
家康の表情は変わらない。
「だが、長久手で我らが羽柴勢と戦っている最中、林道殿の兵が我らの背を突くことはなかった。それで十分よ」
「それならば、こちらも礼を申し上げるべきでしょう」
「ほう」
「徳川様が長久手で勝ってくださらなければ、秀吉様をあそこまで追い込むには、もう少し時間がかかっていました」
家康が景継を見る。
「……やはり、あの時から先を見ておったか」
「さて」
「そこでとぼけるか」
家康の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
だが、それもすぐに消える。
「秀吉殿が死んだ」
「はい」
「これで終わり、とはいかぬな」
「むしろ、ここからでしょう」
家康が小さく頷いた。
「旧羽柴領だけでも広い。そこに羽柴の家臣が治めていた土地まで加わる。誰が何を引き継ぐかで、これからの勢力は大きく変わる」
「旧臣の処遇もあります」
「うむ」
「城を預かっていた者。土地を治めていた者。秀吉様個人に仕えていた者。もとは織田家の家臣だった者。それぞれ事情が違います」
「黒田官兵衛も、その一人か」
景継は家康を見た。
やはり、もう耳に入っている。
「官兵衛殿は、今は私のところにおります」
「仕えたのか?」
「そこまで綺麗な関係ではありませんよ」
家康の眉がわずかに動く。
「では、何だ」
「互いに利用しております」
一瞬の沈黙の後、家康が低く笑った。
「林道殿らしい」
「官兵衛殿も同じことを思っているでしょう」
「危険な男ではないのか」
「危険ですよ」
「ならば、なぜ近くに置く」
「危険だからです」
家康の目が細くなる。
景継はそれ以上説明しなかった。
家康も追及しない。
「ともあれ、旧羽柴家臣の処遇は必要だ。しかし、それ以上に問題となるのは土地であろう」
「徳川様も、当然お考えがありますね」
「ある」
家康は即答した。
「我らも兵を出した。信雄殿とともに戦い、長久手では羽柴勢を破った。何も求めぬというわけにはいかぬ」
「当然でしょう」
景継があっさり答えると、家康がわずかに目を細めた。
「異論はないのか」
「ありません。戦功を挙げた者には、それに見合うものが必要です」
「では、旧羽柴領から徳川に?」
「それが最善とは思いません」
「ほう」
家康の声がわずかに低くなる。
「理由を聞こう」
「領地は、広ければよいというものではありません」
景継は静かに続けた。
「三河や遠江を基盤とする徳川家に、播磨や但馬の土地を与えたところで、間に他家の領地を挟むことになります。兵を送るにも、年貢を運ぶにも余計な手間がかかる。何か起きるたびに他家の道を借りねばならぬ土地では、恩賞がかえって重荷になりかねません」
「ならば、徳川には何を与える」
「徳川様の本領に近い土地がよろしいでしょう」
家康はしばらく景継を見つめた。
やがて、その意図に気づいたように口を開く。
「……尾張か」
「候補にはなるでしょう」
「尾張は信雄殿の国だぞ」
「ええ。ですから、私が勝手に徳川様へ差し出すことはできません」
「では、どうする」
「信雄様に損をしていただく必要もありません」
景継はそう言って、二人の間に置かれた地図へ視線を落とした。
「もし信雄様が尾張の一部を徳川様へ譲るのであれば、その分は旧羽柴領から補えばよい。徳川様は本領に接する土地を得る。信雄様も、失った以上の加増を受ける」
家康も地図へ目を落とす。
「土地を一つずつ分けるのではなく、組み替えるということか」
「その方が、後々まで治めやすいでしょう」
「なるほどな」
家康はしばらく地図を眺めていたが、やがて顔を上げた。
「林道殿は、それを徳川だけに使うつもりか?」
「いいえ」
景継は首を振った。
「上杉にも、同じことができます」
「上杉?」
「景勝様も今回、実際に兵を動かしています。恩賞なしでは済ませられません。しかし上杉家に畿内や西国の土地を与えても、徳川様と同じ問題が起こる」
「では、どこを動かす」
「越中です」
家康の目がわずかに動いた。
「佐々成政の領地か」
「ええ。越中の一部を上杉へ譲っていただき、その分を佐々殿、あるいは柴田様の側へ旧羽柴領から補う。そうすれば上杉は越後に接する土地を得られ、佐々殿も一方的に領地を失うことにはなりません」
「勝家殿が簡単に認めるとは思えぬがな」
「ですから、柴田様にも来ていただく必要があります」
「北条はどうする」
「北条には、北条の望むものがあります」
「上野か」
景継は家康を見た。
「西上野や南上野では、すでに北条の力が強い。そこを改めて北条の領分として認めるだけでも意味があります」
「沼田は?」
「そこまで簡単には決められません」
家康の表情が少しだけ変わった。
沼田となれば、真田が絡む。
「北条は欲しがるぞ」
「でしょうね。だからこそ、北条にも話を聞かなければなりません。沼田について一定の権利を認めることはできても、ここで全てを北条領と決めれば、別の争いを生むだけです」
「吾妻もある」
「そこまで一度に動かす必要はないでしょう」
家康は腕を組んだ。
「なるほど。林道殿は、旧羽柴領をただ分けるつもりではないのだな」
「せっかく大きな土地が空いたのです。分けるだけでは勿体ないでしょう」
「その言い方をするか」
「使えるものは使わなければ」
家康が小さく息を吐いた。
旧羽柴領を恩賞として配る。
それだけなら簡単だった。
だが景継が考えているのは、その土地を原資として各地の領地そのものを組み替えることだった。
徳川には本領に近い土地を。
上杉にも越後に接する土地を。
そのために領地を譲った者には、旧羽柴領から補う。
北条には遠い土地ではなく、関東での権益を認める。
戦功に報いながら、治めにくい飛び地をできる限り作らない。
「だが、林道殿」
家康が言った。
「今の話を、我ら二人だけで決めるわけにはいくまい」
「ええ」
景継も同じことを考えていた。
徳川には徳川の戦功がある。
勝家にもある。
信雄にも、信孝にもある。
上杉も兵を出した。
北条も動いた。
丹羽長秀、滝川一益、池田恒興も、それぞれの場所で働いている。
ここで景継と家康だけが線を引けば、たとえ内容が公平でも禍根が残る。
「柴田殿は黙っておらぬだろうな」
「でしょうね」
「信雄殿も、自らの尾張が動く話ならば、なおさらだ」
「信孝様にも来ていただかなければなりません」
「上杉と北条は?」
「本人が来る必要はないでしょう。信頼できる者を送っていただけばよいかと」
家康が頷く。
「ならば、皆を集めるしかあるまい」
「そうですね」
「どこへ集める」
景継は少しだけ考えた。
畿内では、今回の戦後処理を話す場所として景継の影響が強すぎる。
北陸なら勝家。
三河なら家康。
どこか一人の本拠へ集まれば、それだけで余計な意味が生まれる。
そして織田家の今後も話し合うのなら、場所は限られていた。
「清洲がよろしいでしょう」
家康が景継を見る。
「清洲城か」
「はい。信雄様の本拠ではありますが、織田家の話をする場所としては申し分ありません」
「分かった。信雄殿には私からも話そう」
「では、私は柴田様、信孝様たちへ」
「上杉と北条にも使者を?」
「出します」
家康がゆっくり立ち上がった。
会談は終わった。
だが、景継はその背を見ながら思う。
秀吉を倒すまで、家康とは同じ敵を見ていた。
だからこそ、互いに利用できた。
これからは違う。
共通の敵はいない。
家康が何を望むのか。
どこまで力を伸ばそうとしているのか。
まだ分からない。
「林道殿」
退出しかけた家康が振り返った。
「はい」
「一つだけ聞いておきたい」
「何でしょう」
「林道殿は、どれほど取るつもりだ」
景継は一瞬、黙った。
旧羽柴領は広い。
その気になれば、秀吉を討った最大の功を理由に、かなりの土地を要求することもできる。
だが――。
「必要なだけです」
「その必要が、どれほどなのかを聞いている」
「それは清洲でお話しいたしましょう」
家康が景継をじっと見た。
やがて、小さく笑う。
「そうか」
「徳川様こそ」
「何だ」
「尾張のどこまでが欲しいのか、よく考えておいてください」
「……まだ信雄殿が渡すと決まったわけではないぞ」
「ええ。ですから、考えるだけです」
「相変わらず食えぬ男だ」
そう言い残し、家康は部屋を出ていった。
景継も立ち上がる。
外では弥兵衛が待っていた。
「殿。いかがでしたか」
「清洲へ行くことになりそうです」
「清洲……でございますか」
「ええ」
弥兵衛は少し考えてから、景継の顔を見る。
「以前も、あの城で大きな話し合いがございましたな」
「ありましたね」
信長が死んだ後。
織田家の行く末と、領地の配分を決めるため、諸将が清洲へ集まった。
そして今度は、秀吉が死んだ。
また、空いた土地と力を巡って諸将が集まろうとしている。
景継は寺の外へ出た。
「弥兵衛」
「はっ」
「官兵衛殿を呼んでください。それから、三成殿にも」
「三成殿も?」
「旧羽柴領が、実際にどれほどあるのか。城、村、街道、石高。まず全部並べてもらいます」
「承知いたしました」
「それと、上杉と北条へ使者を」
弥兵衛が頷く。
景継は歩き始めた。
秀吉を倒すための戦は終わった。
次に決めるのは、誰がどれだけの土地を得るかだけではない。
その土地を誰に持たせれば、次の争いを減らせるのか。
誰にどの道を任せ、どの国とどの国をつなぐのか。
そして、自分はどこを取るのか。
それによって、これからの天下の形そのものが変わる。
数日後。
林道家から各地へ、清洲への参集を求める書状が放たれた。
柴田勝家。
織田信雄。
織田信孝。
そして上杉、北条をはじめ、今回の戦に関わった者たちへ。
場所は――清洲城。
羽柴秀吉の死によって空いた巨大な穴を、誰が、どのように埋めるのか。
その答えを決めるため、再び諸将が尾張へ集まろうとしていた。




