第百六十三話 残された者たち
黒田官兵衛の指が、帳面に並ぶ名前の上をゆっくりと動いていた。
羽柴秀吉の下に集まった者たち。
戦場で名を上げた者もいれば、表には出ず、政や兵糧を支えてきた者もいる。
秀吉は死んだ。
だが、秀吉が集めた人材まで消えたわけではない。
「まず、この三人でしょうな」
官兵衛の指が止まった。
景継が名前を見る。
「石田三成、大谷吉継、片桐且元」
「はい」
「武将ではない?」
「戦えぬわけではございません。ただ、この者たちを槍働きだけで使うのは勿体ない」
「また勿体ないですか」
「林道様に似てきたのでしょう」
「それは困りましたね」
官兵衛は構わず話を続けた。
「林道家はこれから急激に大きくなるのでしょう?」
「そのつもりです」
「ならば必要なのは、城を落とす者だけではございませぬ。得た城と領地を林道家の力へ変えられる者が必要です」
景継が頷いた。
土地を取れば、それだけで力になるわけではない。
年貢を集める。
道を整える。
兵糧を蓄える。
兵を数え、武具を揃え、必要な場所へ送る。
新しく従った者たちの所領を整理し、不満が爆発しないよう調整する。
領地が増えれば、それだけ仕事も増える。
「石田三成は?」
「算用、兵糧、差配。その辺りを任せれば働きます」
「随分と高く買っていますね」
「人から好かれることに関しては保証いたしませんが」
「そこは駄目なのですか」
「駄目ですな」
官兵衛が真顔で答えたので、景継が少し笑った。
「ですが、仕事はできます」
「それなら十分です」
「即答なさいますか」
「人から好かれる仕事は、別の方に任せればいいでしょう」
「……なるほど」
官兵衛の指が次へ動いた。
「大谷吉継。この男は三成とは少し違います。まだ若いですが、頭が回る。人を見ることもできます」
「戦も?」
「できます」
「政も?」
「できます」
「欲しいですね」
「まだ何も話しておりませぬぞ」
「官兵衛殿がそこまで言うなら欲しいです」
「本当に人を集めることに躊躇がありませんな」
「足りないのですから仕方ないでしょう」
景継は帳面を見る。
「片桐且元は?」
「実直です。派手さはありませんが、政や折衝を任せられる。これから大きくなる家には、こういう者が必要になります」
「では、この三人には声をかけましょう」
「よろしいかと」
「他には?」
官兵衛の指が少し下へ動いた。
「戦場ならば、この男」
「平野長泰」
「賤ヶ岳でも働いた者です。前へ出して使える」
「では、長泰殿にも」
「この者は三人より話が難しくなるかもしれませぬ」
「秀吉様への思いですか」
「ええ。ただ――」
官兵衛は少し考えた。
「話を聞かぬほどではないでしょう」
「ならば私から話します」
「林道様ご自身が?」
「家臣になってほしいのは私ですから」
官兵衛は景継を見たが、止めなかった。
そして次の名前へ指を動かした。
その瞬間、官兵衛の動きが止まる。
景継が覗き込んだ。
「加藤清正」
「……」
「この方は?」
「使えます」
「では――」
「今はおやめください」
景継が官兵衛を見る。
「なぜです?」
「林道様もお分かりでしょう」
官兵衛は、さらにもう一つの名前を指した。
福島正則。
「この二人は別です」
「秀吉様への忠義が強い?」
「忠義という一言では足りませぬな」
官兵衛の声音が少し変わった。
「二人にとって秀吉様は、ただ仕えた主君ではございません」
景継は黙って聞く。
「幼い頃から秀吉様のそばにいた者たちです。親類でもあり、育ててもらった恩もある。秀吉様がまだここまで大きな力を持つ以前から、ずっとそばにいた」
「……なるほど」
「そして、その秀吉様を討ったのが林道様です」
「嫌われていますね」
「嫌われている程度で済めばよろしいのですが」
官兵衛は帳面を閉じた。
「今、林道様が二人の前へ行って『家臣になれ』などと仰れば、斬りかかってくるやもしれませぬ」
弥兵衛の眉が動いた。
「ならば会わせるわけにはいかんな」
「弥兵衛」
「何です」
「会わないとは言っていませんよ」
「殿」
「ただ、今はやめます」
弥兵衛が安堵したような、まだ不安なような顔をする。
官兵衛が尋ねた。
「諦めるのでは?」
「なぜです?」
「……」
「使えるのでしょう?」
「使えます」
「ならば欲しいです」
官兵衛は少し呆れたように景継を見た。
「林道様」
「はい」
「人の心というものがございます」
「知っていますよ」
「本当に?」
「だから待つのです」
景継は清正と正則の名前を見る。
「今は何を言っても届かない。ならば、届くようになるまで待てばいい」
「届かなければ?」
「その時に諦めます」
「……そう簡単にいきますかな」
「簡単だとは思っていません」
景継は帳面を閉じた。
「秀吉様を討ったのは私です。そのことまでなかったことにはできませんから」
それから数日。
旧羽柴家中の整理が進む中、何人かの者が景継のもとへ呼ばれた。
最初に姿を見せたのは、石田三成だった。
まだ若い。
景継の前へ座った三成の表情は硬かった。
「石田三成殿ですね」
「……はい」
「来ていただいてありがとうございます」
「黒田様から、林道様がお呼びだと聞きましたので」
「官兵衛殿から聞きました。随分と仕事のできる方だそうですね」
三成が官兵衛を見る。
官兵衛は何も言わない。
「買い被りにございます」
「官兵衛殿も同じことを言いました」
「……官兵衛様が?」
「優秀な方は皆そう言うのでしょうか」
三成は返答に困った。
景継は話を進める。
「単刀直入に言います。私のところで働いていただきたい」
三成の顔が強張った。
「……秀吉様を討たれた林道様に、でございますか」
「ええ」
景継は否定しなかった。
「無理にとは言いません」
「では、断れば?」
「それまでです」
三成が景継を見る。
「処罰は?」
「しません」
「所領は?」
「私に仕えないという理由だけで、何もかも取り上げるつもりもありません。ただし、戦後の領地整理は別ですよ」
「……なぜです」
「何がでしょう」
「なぜ、そこまでして我らを」
景継は少し考えた。
「秀吉様が亡くなったからといって、あなた方までいなくなる必要はないでしょう」
三成の表情が僅かに変わった。
「それに、これから領地が増えます」
「……」
「困っているのです」
「困っている?」
「人が足りません」
三成が目を瞬いた。
「戦に勝つ者だけいても、国は動きません。領地を整理し、兵糧を集め、必要なところへ銭を回し、人を配置する。その仕事ができる方が必要です」
「それを……私に?」
「官兵衛殿が、三成殿ならできると言っています」
三成は再び官兵衛を見た。
「私はそこまで――」
「できます」
今度は官兵衛が遮った。
三成が黙る。
「三成」
「……はい」
「秀吉様はもうおられぬ」
官兵衛の声は静かだった。
「だからといって、お前まで自分の才を捨てる必要はない」
三成は俯いた。
すぐに返事はしなかった。
景継も急かさない。
しばらくして、三成が尋ねた。
「考える時間をいただけますか」
「もちろん」
景継は頷いた。
「良い返事を期待しています」
三成が退出すると、次に大谷吉継、そして片桐且元とも話した。
二人もすぐには答えなかった。
当然だった。
昨日まで自分たちが仕えていた秀吉を討った男である。
勝ったから今日から従えと言われて、簡単に頭を下げられるはずがない。
それでも三人とも、話そのものを拒絶することはなかった。
黒田官兵衛が景継のもとにいる。
黒田家も潰されていない。
旧羽柴家臣だからというだけで処罰されることもない。
その事実は、少しずつ彼らの間に広がっていった。
数日後。
最初に答えを出したのは片桐且元だった。
「お受けいたします」
景継が顔を上げる。
「よろしいのですか」
「秀吉様への御恩を忘れたわけではございません」
「ええ」
「ですが、私にも家があり、守る者がおります。それに……」
「それに?」
「何もせずにいるより、働いていた方が性に合います」
「助かります」
その後、大谷吉継も条件付きながら景継の下で働くことを受けた。
三成は最後まで迷った。
だが、新しく林道家の管理下へ入ることになった領地の帳面を見せられると、黙って頁をめくり始めた。
一枚。
二枚。
三枚。
やがて眉間に皺が寄る。
「……これは誰がまとめたのです」
「弥兵衛たちですが」
「村ごとの収穫と負担が混ざっています。それに兵糧の集積場所も、このままでは無駄が出ます」
景継が官兵衛を見る。
官兵衛は僅かに笑っていた。
「直せますか?」
景継が尋ねる。
三成は帳面を見たまま答えた。
「直せます」
「では、お願いします」
「まだお仕えするとは――」
三成が顔を上げる。
景継は何も言わず、返事を待っている。
三成は何か言おうとして、結局やめた。
「……分かりました」
その日から、三成も林道家の政務に加わった。
そして平野長泰もまた、官兵衛の仲介によって景継と面会した。
長泰は三成たちとは違った。
「俺に政はできませぬぞ」
「求めていません」
「算用も得意ではない」
「それも別の方にお願いします」
「では、何を?」
「戦ってください」
長泰が景継を見る。
「それだけで?」
「得意なことをしていただくのが一番でしょう」
長泰はしばらく黙った後、豪快に笑った。
「分かりやすい」
秀吉への恩が消えたわけではない。
それでも武士として生きる以上、戦場を捨てるつもりもなかった。
長泰もまた、林道家へ加わることになった。
こうして、主を失った羽柴家臣たちの一部が、新たな居場所を見つけ始めた。
だが、全員がそうだったわけではない。
◇
「断る!」
官兵衛から届いた書状を、福島正則は床へ叩きつけた。
「何が林道家だ!」
その顔には激しい怒りが浮かんでいる。
「秀吉様を殺した男に仕えろだと!? ふざけるな!」
傍らでは加藤清正が黙って書状を見ていた。
「清正。お前はどうする」
「決まっている」
清正が書状を畳む。
破りはしなかった。
だが、返事を書く様子もない。
「俺も行かぬ」
「だろうな」
「官兵衛様が何を考えておられるのかは知らぬ」
清正の声は低かった。
「だが、俺にはできぬ」
正則が拳を強く握る。
「林道景継……!」
その名を口にするだけで、秀吉様を失ったという現実が胸の奥から込み上げてくる。
戦だった。
秀吉様自身も景継を討とうとした。
敗れれば命を失うこともある。
そんなことは正則とて分かっている。
分かっているからといって、納得できるかは別だった。
「絶対に許さぬ」
正則が吐き捨てる。
清正は何も言わなかった。
だが、その表情は正則と大きく変わらない。
清正にとっても秀吉様は、ただ仕えた大名ではなかった。
幼い頃からそばに置いてくれた。
育ててもらった。
戦う場所を与えてもらった。
その人が、もういない。
そして討った男は生きている。
その男の下へ行けと言われて、頭を下げられるはずがなかった。
「正則」
「何だ」
「官兵衛様を責めるな」
「……何?」
「官兵衛様には官兵衛様のお考えがある」
「だからって!」
「分かっている」
清正の声にも怒りが混じった。
「俺だって、分かっている!」
正則が黙る。
清正は手にした書状へ視線を落とした。
「だが――俺は行かぬ」
「ああ」
「今は、それだけだ」
正則も大きく頷いた。
許す。
許さない。
そんなものを簡単に整理できるほど、秀吉様の死から時間は経っていない。
今の二人にとって林道景継は、新しい主君の候補などではなかった。
大切な主を討った男だった。
◇
二人からの返事を受け取った景継は、怒りもしなかった。
「やはり駄目でしたか」
「だから申し上げたでしょう」
官兵衛が答える。
「正則に至っては、使者へ斬りかからなかっただけ良かったと思うべきです」
「そこまでですか」
「そこまでです」
景継は二人の名が書かれた帳面を見る。
「では、しばらく置いておきましょう」
「まだ諦めませぬか」
「ええ」
「林道様を許さぬと申しておりますぞ」
「許していただく必要はありません」
官兵衛が景継を見る。
「……何?」
「私が欲しいのは、私を好きな方ではありません」
景継は清正と正則の名前に指を置いた。
「働いてくださる方です」
「その働くこと自体を拒んでいるのですが」
「だから今は待ちます」
景継は帳面を閉じた。
「秀吉様を失ったばかりです。今、私が何を言っても無駄でしょう」
「では、いつまで?」
「二人が自分たちのこれからを考えられるようになるまで」
「それでも拒まれたら?」
「その時は仕方ありません」
官兵衛が僅かに眉を上げる。
「無理に従わせぬと?」
「無理に頭を下げさせても、戦場で背中を預けられないでしょう」
景継は二人の名前をもう一度見た。
「ただ、欲しいことに変わりはありません」
「随分と気に入られましたな」
「官兵衛殿が使えると言ったのでしょう」
「私のせいにされますか」
「責任は取ってください」
「どのように?」
「いつか連れてきてください」
「……無茶を仰る」
官兵衛は呆れながらも、どこか僅かに笑っていた。
景継は次の頁を開く。
「それで、官兵衛殿」
「何でしょう」
「まだいますよね?」
「……何がです」
「使える方です」
官兵衛は一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。
「おりますとも」
「では、次をお願いします」
「休ませる気はございませぬか」
「ありません」
「やはり、仕える相手を間違えたかもしれませぬな」
「今ならまだやめます?」
「黒田家を大きくする前にやめてどうするのです」
景継が笑う。
官兵衛も僅かに口元を緩めた。
秀吉という巨大な柱を失ったことで、多くの者が行き先を失った。
その者たちを誰が得るのか。
どの城を取るか。
どれだけ土地を得るか。
それだけが、戦後の争いではない。
誰を得るか。
誰に何を任せるか。
そして、得た人材をどれほど生かせるか。
景継はすでに、その争いへ踏み込んでいた。
官兵衛の知識を使い、秀吉が残した人材を一人ずつ見定めていく。
官兵衛もまた、その景継を利用して黒田家の先を見据えている。
戦は終わった。
だが、天下を巡る争いは終わっていない。
むしろ秀吉という一人の男が消えたことで、その形は大きく変わり始めていた。




